第十九幕 その者たちの、心の洞
「……お姉ちゃん……?どうしたの?『あの時』の『あいつら』って、一体……何の事なの……?」
不安混じりの恐る恐るとした眼差しで、美月はナニガシの顔をそっと、覗き込む。
「……」
しかしその視線に対し、ナニガシは口をつぐんだまま……
何も、言葉を発さなかった。
彼女の唇は固く結ばれ、紅潮したその面は眉根を深く、険しく寄せている。
そして、黒鞘の愛刀を握り締めたその固い拳は、僅かに震えていたのだった。
美月が初めて目の当たりにした、激しく怒りを含んだナニガシの、その様相。
彼女の両眼は、前方を睨んでいる。
が、しかし。
……その眼には、光が無かった。
……
悲しみか。
あるいは……後悔の念か……
暗く曇る様な、その瞳。
そこには、怒りとは違う、別の感情を湛えていたのであった。
それが何なのかは、分からない。
だが、ナニガシの心の底から滲み出ているその感情は、今まさに露わにしている激しい怒りよりもなお、強く彼女を覆い尽くし……
そして隠れきれずに顕わとなり……その眼差しから、溢れ出てきている。
……彼女の瞳を見つめる美月には、その様に思えた。
……普段は快活で人懐っこく、男勝りではあるがその反面、人一倍臆病な性格のナニガシ。
この旅が始まるよりも以前から、彼女の傍らにいつも一緒に居た美月は、そんなナニガシを日常の光景として、当たり前のものとして眺めていた。
だが。
今、目の当たりにしているナニガシは……
美月の知らぬ、ナニガシであった。
……改めて思えば、美月は彼女の「過去」を、殆ど知らなかった。
それを鑑みれば……
彼女には、「見えない部分」が、多すぎる。
近しい存在であるのに、「分からない部分」が、在りすぎていた。
ナニガシの過去に一体、何があったのか?
彼女の言う『大角の家紋』とは……
『あいつら』とは一体、何なのか?
そして。
……今、ナニガシの心は、何処に在るのか……
美月は、ナニガシの顔を見つめながら……
彼女のその胸中を、想っていた。
……黒く隠れた、影の中。
遠く手の届かぬ、暗く深い洞の様な、その心の裡を。
「……お姉ちゃ……」
かけようとした声色は、微かに震えていた。
……だが、そこに。
足元に転がる大友が、そんな美月の言いかけた言葉に差し挟む様に、下からナニガシへと声を投げてきた。
「……ふん。……お前も、国を捨てて他の地へとやって来た、根無し草の流れ者という訳か。そういう意味では、俺と似た者同士という事ではないか」
それは、冷嘲の言葉であった。
それに間牛が、ギロリと睨み付ける。
「……大友。……黙ってろ」
大友は冷笑しつつ続ける。
「争いが嫌いだと?……この戦乱の世において、甘い戯言を。弱き者は、強き者に喰われるだけだ。喰われたくなければ戦い、そして勝利を得るしか、生き残る道は無いのだ」
浴びせるかに大友が投げつけてくる、その言葉。
「……」
ナニガシはそれを受けながら、眼を瞑りただ、黙していた。
「……黙っていろ、と言っている……!」
その隣で間牛が語気を強める。
だが大友は、口を止めようとはしない。
「争いなど否が応でも……望まずとも、向こうからやって来るものだ。避けられぬ戦いなど、この世においては山の様にあろうに」
……
しかし。
そう言った彼のその声音は、低かった。
「……もし戦うべき時に戦わなければ、勝利どころか……最後には、己の元に一切何も、残るものはあるまい。……その時になっても、お前らは甘ったれた事を言い続けるつもりか?」
……それは、己自身に向ける嘲りであるかの様だった。
「大友!!さっきから煩いぞ!黙ってやがれッ!大体、そんな事を盗っ人のお前が言えた事かッ!!」
その彼に、間牛が声を荒げる。
畳の上に倒れ這う大友を熊の手の様な分厚い掌で押さえ込み、上から怒声を叩きつけた。
床上に組み伏せられつつも、しかしその声は届いていないかの様に、大友はなおも、鼻で笑う。
そして、再び嘲るかに言葉を続けるのだった。
「……ひとつ、何も知らんお前らに言っておいてやる。『南の国』は近年、急速にその勢力を増しつつある。国力、兵力ともに、今では周辺の国々を束にしてもなお凌駕する程の、恐ろしいまでの強国となっているのだ。いずれ近い内……この国にも、攻め寄せてくるであろう」
「大友!てめえッ!!」
間牛に襟元を、力任せに掴まれる。
「……そうなれば、この様な脆弱な国など、すぐに我が『東の国』と同じ運命を辿る事になろう。……その時、お前たちも奴らに蹂躙され……そして我々と同じく、芥の如く喰われるのだ。……ククク……ハッハッハッハ!!」
高笑いする大友。
とうとう間牛が、激昂した。
「賊め!!ごちゃごちゃと好き勝手にほざきやがって!てめえの様な悪党の説教なんぞ、誰も頼んじゃあいねえぞ!どうなろうがいずれにしても、てめえは牢にブチ込まれるだけだ!……さあ、何時までも転がってねえで、とっとと立ちやがれッ!!」
間牛に首根っこを鷲掴まれ、そして大友は力ずくで床から引き剥がされ、立たされる。
……それを見て、黙り込んでいたナニガシが、小さく頷く。
「……よし。彩花も助けたし、もうこんな所に用は無い。……皆。さっさと、この辛気臭い穴倉から出るとしよう」
彼女はそう言い、傍らに立つ美月の頭に、ポンと手を置いた。
美月はそのナニガシの顔を、改めて見上げる。
それは先程までの激しい怒りの様相とは違い、普段の彼女の、温和な表情へと戻っていた。
……だが。
その瞳はどこか、未だ僅かに、影を落としている様に見えた。
憂いの様な、晴れないものを微かに抱えた……
……そんな眼差しのままであった。
「……うん……。……お姉ちゃん」
美月は小さく、こくりと頷く。
……ナニガシが僅かに覗かせているその色を見て、彼女は心を残す。
しかしこの場はナニガシの言に従い、来た時と同じく、その後ろに就いたのであった。
……
彼女たち5人は捕らえた大友を引き連れ、広間を出ようと歩き出す。
……その時だった。
彩花の眼の端に、何やら薄く青く、キラリと輝く光が映った。
彼女が眼をやると。
広間の片隅にぽつんと、それが在る。
「……あら……?あれは……?」
よくよく見てみると……
手の平程の大きさの、半透明の、硝子玉らしき球体。
それは。
大友が、彩花に求婚した際に差し出した……
あの、青い『宝珠』であった。
「……あれは……。あの時の、不思議な珠……?」
近づき、ゴミの様に無造作に転がっているその珠を、拾い上げる。
……大友の宝物。
彼の、大切な持ち物であろう筈なのに……
何故この様に、ぞんざいな場所に落ちているのか?
彩花は怪訝に思い僅かに首を傾げながらも、それをまじまじと、改めて眺めた。
……淡く、薄く……
青い光で輝く、珠。
手の上で変わらず美しく、その光輝を映し、煌いている。
……
最初に、これを眼にした時。
途端に頭の奥に、激しい痛みの様なものが走った。
そして脳裏に様々な、「何か」が映り込んだ。
……そしてやがて波が引くかの様に、「それら」は跡形も無く、消え去っていった。
だが今。
珠を見つめていても……
あの時の様な頭痛も感じられず、そしてもう、「何か」が見える事も無かった。
……あれは一体、何であったのだろうか?
……まるで、鐘を撞いたかの如き激しい衝撃に揺すぶられ。
そしてその拍子に、何処かに置き忘れていた自分の大切な「何か」がふと、転がり出てきたかの様に感じられたのだ。
だが、今はもう……
彼女自身にも、「それ」が何であったかは、分からなかった。
……
彩花は手の上のその青い光を、想う様に、眺め続けた。
その時。
「あっ……!彩花さん……!そ、その珠は!?……どうして、ここに……!?」
横から美月が、声を上げた。




