第十六幕 叫びの檻
『……ザッ、ザッ、ザッ……』
彩花はゆっくりと、歩を進める。
……彼女の歩む、その行く手。
見据える、その視線の先。
そこに居るは、ただひとり。
海賊の頭領、大友。
ゆっくりと……彩花は彼へと、歩を進めた。
「……ちょ、あの……。あ、彩花……?」
大友は手足を震わせている。
投げかけた彼のその声音もまた、震えていた。
……彩花の、鋭い視線。
いや……見よ、その眼光を。
いつの間にか、先程までの笑みを帯びた、優しげな眼差しとは一転していた。
それはさながら獲物を捉え狙う肉食獣の如く、ギラリと睨みつけてきているではないか。
まるで檻から解き放たれた、飢え猛り、怒れる猛獣のそれであった。
喰い殺すばかりの殺気と共に今まさに、彼女は、大友に向かって歩んできていたのである。
……
彩花の手練ぶりは、大友は見て知っていた。
小島において彼女の戦い振りに見惚れ、目を離さず脳裏に焼き付けんばかりに、じっと、間近に眺めていたからだ。
実際、あれだけ居た大勢の子分たちの大半は、彼女によって薙ぎ倒された。
それ故に彼には、彩花のその実力の程が良く分かっていた。
先程までナニガシを気味良く挑発していた大友。
相手の面前で臆面も無く自信満々と高笑い出来たのは、驕り高ぶる程に誇れるまでの、自身の剣の腕前があるからこそだった。
……だが。
彩花の実力は、彼のその剣の腕を、遥かに凌駕していたのである。
戦ったとして、彼女に勝つ事は出来ない。
大友は、それを良く理解していたのだ。
恐ろしさを知っている。
だからこそ、全身を簀巻きにして彼女の身動きを封じていた。
だからこそ、彼女を岩牢に閉じ込めたというのに。
……その彩花に、今まさに。
狙われている。
その事実に、今や大友は戦慄し、身動きひとつ取れずにいた。
もはや笑う事など出来はしない。
これから起きるであろう「己の運命」にただ足を震わせ、その場に立っている事しか出来ずにいた。
受け入れようが入れまいが、もうすぐそこまで、それは迫って来ているのであった。
……
一方。
歩む彩花は手を、握り締めた。
……己の眼前に立つ男、大友。
海賊の頭たる彼を、その鋭き眼で見据え、心に思う。
――この男は……私の手で、倒さねばならない。
……
彩花は、責を感じていた。
ナニガシ、美月、氷鶴、そして間牛。
大切な、大事な仲間たち。
彼女たちが、攫われた自身を救う為に、大勢の賊が根城にする敵地にまで乗り込む危険を冒し……
……そして、傷つけられてしまった事に。
罪も無い良き仲間たちを、何故その様な窮地に遣らねばならなかったのか。
……その口火となったるは、目の前に居る……この悪党。
この大友を、彩花は許す事が出来なかった。
……
……そして。
そうさせてしまった、己自身をも、また。
怒りが……
心の奥から、ふつふつと湧いてくる。
『……ギリリッ……』
彩花はその固めた拳を更にきつく、そして血が滲む程に、握り締めた。
「ちょ、待てよ……。く、来るな……。こっちへ来るな、彩花……!」
蛇に睨まれた蛙。
恐怖する大友。
向けた刀の切っ先が一層、ガタガタと震えた。
殺気は最早、己の目と鼻の先にまで、迫って来ていた。
その時。
『ザッ!』
彩花が地を蹴った。
「……賊如きにこれ以上、気安く名を口にされたくありません」
大友に向かって跳んでいく。
彼女は彼に向かい、一足跳びに距離を詰めた。
瞬時に、彩花に面前にまで接近された大友はビクリと大きく、体を震わせる。
そして生存本能からか反射的に、応戦する為、刀を振るったのだった。
「う、うわああッ!く、来るなあーっ!」
彼のその刃は彩花の右肩口を狙い、振り下ろされた。
相手の肩、斜め上から腰まで斬り下げる、袈裟斬りである。
それは鋭い太刀筋だった。
刃先が鋭利にびゅんと空気を斬り裂き、唸る。
大友自身、自信満々に豪語するだけあって、彼のその斬撃は鋭かった。
彩花目掛け切っ先が伸び、瞬く内に刃は、彼女へと届かんとする。
……だがすでに、その刃は彩花の眼に、正確に捉えられていた。
太刀筋は読まれ、見切られていたのである。
彼女の強さは、猫科の動物の如き、この優れた動体視力によってこそあったのだ。
『ガイイィンッ!』
彩花は上から振り下ろされてくる刃の刀身真横を狙い、そこへ右拳の甲を内側から叩きつけた。
同時にそのまま外側へと払い、脇へと斬撃を弾き除ける。
「ぐっ!」
激しく除けられ、よろめく大友。
……その時、彼の右脇が、がら空きとなった。
その隙。
「はぁッ!」
彩花は払った右拳を素早く翻すや、無防備となった彼の腹部、その鳩尾を強打した。
『ドズンッ!』
鈍い音。
「ぶはぁあっ!!」
大友は反吐混じりの悲鳴を上げる。
胃袋を直接、太く硬い鉄杭で貫かれたかの様な痛みが走った。
それと共に体の奥へと激しい衝撃が打ち響き、まるで突き上げられる様に、強制的に息と声が咽から吐き出される。
その、次の瞬間。
「ふッ!!」
彩花は気合いと共に息を吐く。
更に一歩踏み込むと同時に体重を乗せ、彼女の左拳が斜め下から掬い上げる様に、鋭く放たれたのである。
……その拳は、よろめく間も無い大友の、そのがら空きの右脇腹へ。
深々と、めり込んだのだった。
『ッズッドオオォンッッ!!』
……
重く大きな音が、響いた。
「ぅうぐえええぇッ!!」
そして同時に大友の低く、潰れひしゃげるかの様な呻き声が、広間中に木霊したのであった。
……
……打たれた瞬間。
彼は全身が痺れたかの様な感覚に、襲われた。
まるで雷が落ち、体中に激しい電撃が走ったかに、手足がビリビリと麻痺した。
同時に目の前が白み、チカチカと視界が明滅する。
途端に力の入らなくなったその手の内から、手放さんとそれまで必死に握り締めていた刀の柄が、ズルリと零れ落ちそうになった。
……
それは、彩花の必殺の左拳。
肝臓打ちであった。
……急所である内臓を強打されれば、如何に屈強の大の男であろうとも、堪える事は出来はしない。
露わとなった軟い臓器など、何者にとっても、弱点に他ならないのだ。
その上、彩花のその細腕細脚から繰り出される攻撃の重さは、彼女のその華奢で可憐な見た目からは想像も出来ない程の、絶大の破壊力を持っているのである。
格闘の達人たる彼女の、その攻撃力。
それに急所をまともに打たれれば、何人たりとも地に伏せるより他は無かった。
『雲呑みの山』山中における忍びの「猿」との戦いと同様、彼女のこの必殺の一撃が決まれば、ほぼ確実に勝敗は決したと言えたのだった。
防御する間も無く、彩花のその拳をまともに食らった大友。
地に突き立てた刀にしがみ付き、杖代わりにガクガクと震える足を支え、ようやく立っている有様となる。
「う……うぐぐ……」
……やがて痺れていた体に、奥底から徐々に、痛みが湧き出してきた。
遅れてやって来た痛覚。
それは次第に激痛となって、大波の様に全身へと広がり、押し寄せてくる。
冷や汗を滴らせながら、歯を食いしばる。
苦しさに耐えかね身を屈め俯くと、その足元の畳に、自身の顔から噴き出た大量の汗が滝の如く、流れ落ちてゆく。
体内中の血液が逆流したかとも思え、体が冷たくなり、手足の感覚は最早、消え失せていた。
大友は血の気の引いた、蒼白となったその顔を上げた。
眼前の彩花を、朦朧とした視界の中再び、見上げた。
見た時。
彼はビクリと身を竦ませる。
彩花は左脚を軸に回転し、身を翻していたのであった。
……それは、大友がひと目見て惚れ込む程に華麗な、彩花の蹴り技。
多くのニラネギたちを薙ぎ倒した、彼女の必殺の、回し蹴りの体勢だったのである。
すでに、その蹴りの動作に入っている。
「ひぃッ」
……止めの一撃が、来る。
大友はそれを瞬時に察すると、戦慄と共に息を呑み込む。
そして同時に、命乞いにも似た声を上げたのだった。
「あ、彩花っ!ま、待て!待ってくれーッ!!」
……だが。
すでに遅かった。
彼のその上ずった叫びは、彩花の耳にはもはや、届いてはいなかった。
高々と、彼女は頭上にまで右脚を振り上げている。
身を回転する彩花の、その右脚。
そこにはすでに、体重と遠心力が乗っている。
足先が空気を切り、ブンと唸る。
その回転は、もう止まる事は無い。
そして。
『ザアアアァッ!!』
……それは容赦無く、満身創痍の大友へと、振り下ろされたのであった。
「たああああぁぁーーッッ!!」
響き渡る、裂帛の気合い。
加減無しの一振り。
美しい舞の様に、彩花のその身体は翻る。
着物の裾が捲れ上がり、岩洞奥底の荒涼に露わとなった彼女の白く、そのしなやかな脚は……
まるで猛然たる飛龍の如く、その冷涼の空を激しく切り裂いた。
……その時。
大友にはそれらの光景がひとつひとつ、不思議とまるで脳内に記憶されていくかの様に、はっきりと見て取れたのである。
……何故であろう。
死を覚悟した彼の、今生の走馬灯だろうか。
この期に及んでもなお、彩花の美しくスラリと伸びた生脚を、その目に焼き付けようとでもいうのだろうか。
大した根性である。
今生だけに。
言わば根性の走馬灯か。
そして。
『ドッガアアァッッ!!』
大友の頭部に激しく、重い衝撃。
彩花のその美しい脚線は威力を十分に乗せた鋭い蹴りとなって、大友へと襲い掛かる。
斜め上から長く伸び迫ったその足の甲は彼の側頭部を正確に捉え、直撃したのだった。
……
……その瞬間。
辛うじて立っていた状態の大友の体から、残っていた力がふっと、全て消え失せた。
不思議と、痛みは感じなかった。
そのまま、彩花の脚が振り抜かれる。
と共に。
薙ぎ払われる様に、大友の体は大きく吹き飛んだ。
自分の身が宙を舞う、浮遊感。
感じるのは、まるで重力に逆らうその感覚のみ。
……彼は遠のく意識の中で、ただそれに、身を任せる事しか出来なかった。
「ぎゃああああああーッ!!」
大友は悲鳴の叫びと共に宙で回転し、もんどり打つ。
『バアアァンッッ!!』
そしてそのまま壁にまで吹っ飛び、そこに立て掛けられた襖へと叩きつけられた。
それまで荒々しく殺風景な岩の間の空間内を彩っていた、華美な襖たちはひしゃげへし折れ、そして残骸となって散らばる。
強かに岩壁に打ちつけられた大友は力無く、畳の上に転げ倒れる。
そして、ついにそのまま意識を失い……
……とうとう、立ち上がる事は出来なかったのだった。
「……あーらら……。かわいそ……」
……
一方、巻き添えを食わないよう遠巻きに、彩花と大友の戦いの始終を見つめていた、ナニガシたち4人。
無残にもボロ雑巾の如く突っ伏すその大友の有様を、ナニガシは苦笑いしながら見守っていた。
その傍らで、氷鶴は彩花の勇ましい戦い振りを、眼を輝かせながら観戦している。
まるで英雄に憧れる少年の様である。
……だがその横では。
とても子供には見せられない悲惨な様相であるためか、間牛は苦い顔をしながら、美月の眼を大きな手で覆い隠していたのであった。




