第十幕 水縹の片鱗
――彩花。俺と、婚姻してくれ。
……
……唐突な、思いもかけぬ、その言葉。
彩花を攫った張本人。
海賊の親玉である、大友。
その男の口から出たのは。
……
突然の、求婚の言葉であった。
……
頭の中が混乱し、彩花はぽかんと、口を開ける。
――何故、賊が私に……求婚を……?
その事実に訳が分からず、暫く、言葉が出なかった。
まるで白昼夢でも見ているかの心持ちであったが、しかし目の前に現実として在るのは、真剣な眼差しの男、大友の顔。
若干キメ顔である。
その顔を見ながら、彩花は考える。
……
一体何故、突如としてこの男は、私に婚姻を申し込んできたのか?
この様な得体の知れない場所に力づくで連れて来られ、そしてそこで見ず知らずの男、しかも賊の頭に……
……何故私が、婚姻を迫られているのか……?
……
全てが分からないままで、だが考えようとも一寸たりと、思考が進まず。
そしてそのまままるで、時が止まったかの様に、ただ……
彼女は、呆然とする事しか、出来なかった。
……
……
だが、すぐ後。
彩花の表情が、動く。
彼女はその唇をぐっと、固く、真一文字に結んだ。
……
その様子の彩花に、大友が続けた。
「彩花。……突然で、驚かせてしまったな」
「……」
彩花は眼を瞑り、何も言わない。
「だが、もう一度言う」
大友は息を、ひとつ吸う。
そして。
刻み付ける様に、言葉を吐き出した。
「……俺と、婚い」
「お断りいたします」
……
……だが、それを撥ね退けるかに彩花は、きっぱりと返事をしたのだった。
「……え……」
動揺する大友。
……まるで拒絶されるかの様に、言葉を言い終わらぬうち食い気味に、求婚を断られてしまったのである。
目が泳ぐ。
「……え、ちょ……あ、あの……」
「お話はそれで終わりでしょうか。ならば、私を帰して頂けますか」
……
……大友にとって、渾身の求愛であった。
勇気を振り絞り、だが同時に自信満々として、その言葉を彩花へと告げたのだ。
おまけにキメ顔付きである。
だが……
それをあっさりと一蹴するかに、毅然と拒まれたのである。
彼は慌て、うろたえた。
……
狼狽する彼のその様を見下ろしながら、彩花はこの場から去ろうと、立ち上がる。
だが大友は食い下がり引き止める様に、彼女のその足元に身を乗り出した。
「ちょ、待てよ。ま、ま、待て彩花!聞いてくれ!」
「……」
「……俺は、お前に惚れたのだ。あの小島での戦いの時、お前が手下どもと戦うその様を、俺は船の上からずっと眺めていたのだ。……あのまさに可憐に、そして優雅に舞うかの様なお前の美しい姿に、ひと目見て釘付けとなってしまった。大勢の敵を前にしても強く、そして屈しようとしないその心根に、俺は惹かれたのだ。そしてだから、手下どもにお前を連れて来いと命じたのだ」
「……」
大友の、必死の言葉。
……だがそれに何も言わないまま、彩花は彼を、鋭く見下ろしている。
そんな彼女のその眼を見ながら、だが大友は続ける。
「……俺はどうしても、お前にずっと傍らに居てほしいと、心から願った。故に、この場に来てもらったのだ。手荒な事をしてすまないと思っている。気を悪くしたことだろう。しかし……」
「もう一度言います。お断りいたします」
……
必死に縋る彼に、しかし彩花はそれを言葉で強く突き放す様に、そして吐き捨てるかの様に、言うのだった。
「……う……な、何故だ……。何故、そこまで拒絶するのだ……?」
頑なに、決して大友の言葉を受け入れようとしない、彩花。
大友は声を震わせ、問いかける。
……
彩花は語気を荒らげ、それに答えた。
「大勢の手下を使い、私の大切な方々に襲い掛かり、危険に晒したからです。……貴方は、漁師の無力ないち小船に卑しくも大挙して襲撃し、そして、彼から奪わんとしました。その上あまつさえ、女性に対し寄ってたかって大人数の男たちに囲ませ、更に武器を持ち合わせて襲い掛かるなど、あまりにも卑劣。言語道断の行いでしょう」
「……はい……」
……唐突に怒られ、声が小さくなる大友。
彩花は怒りと共に、足元の彼へと、言葉を叩きつける。
……
彩花にとって、最も許せない事。
自身が軽んじられ、蔑ろに扱われた事……などではない。
それは。
ナニガシや美月、そして氷鶴や間牛たちを、危機的な状況へ追い込んだ事に対しての、怒りであった。
……
小島での一戦。
万一にも、ナニガシたちが凶刃によって、傷つけられ……
そしてともすれば、斃れる事になり得たかもしれない戦いであった。
……大事な仲間、友人たち。
彼女たちをその様な危険な目に遭わせたこの賊共を、彩花は決して、許す事が出来なかったのである。
「……あの様なろくでなしの手下たちと共に見るに、貴方は賊として過去から今に至るまで、数多くの罪の無い人々を襲ってきた、外道の輩ではありませんか。……その様な者に、誰が心を許すと思うのです。貴方は自らの行いを省みる事さえしないのですか。恥を知りなさい」
「……う、うぅ……。す、すみません……。グスッ……」
……いよいよもって本格的に叱られ始め、大友は声どころか、身まで小さくなる。
頭上から叱咤を受けて、まるで飼い主に叱られている小犬の様に、彼はいつの間にか縮こまっていた。
……
求婚をあっさりと切り捨てるかに断られるどころか、しかもその場でその相手に叱られるなど、何とも無様な姿であろうか。
相当堪えたらしく、大友は涙目になりベソまでかいている始末である。
最初の自信満々の高々とした鼻は根元からへし折られ、その先程までのキメ顔(笑)の面影は、もはやどこにも無かった。
……おまけに、首から下全身を筵で簀巻きの状態になっている女性に説教されるその様が、傍から見て何とも滑稽で間抜けな光景なのであった。
「……ご用件は以上でしょうか。ならば、私を解放して頂けると嬉しいのですが」
「……グスッ……。……あ、ま、待て待て!ではこれ、これを、お前に差し出そうではないか!」
涙を拭い、鼻をすする大友。
だが。
ならば、と立ち上がり、急いで背後の箪笥から何かを取り出すと、それをこの場から立ち去ろうとする彩花の眼前に、どすんと置いた。
……
置かれたそれは。
手の平程の大きさの、薄青く、そして半透明な、『珠』であった。
……それは磨き込まれた硝子玉の様に、表面は滑らかで濁り無く、透き通っている。
そしてまるで宝玉の如く煌びやかに光を反射させているその様は、それ自体が輝いているかに見えた。
青く美しく煌き、まるで滴り落ちた一粒の水玉が、そのまま形を留めているかの様である。
一見しただけで只の硝子玉や宝石では無いと見て取れる、それは神秘的な、不思議な雰囲気を帯びた珠であった。
……
目を奪われるかの様に、美しい……
……
だがしかし。
その珠を見た瞬間だった。
「……!これは……!」
彩花は大きく息を呑むや、驚きと共に、眼を見開いた。
だが。
次には「うっ」と呻き声を上げ、苦しむかにその眼を、固く閉じた。
そして突然、その場に倒れ込む様に足元の畳に両膝を突き、悶えるかに、身を捩りだしたのである。
閉じた瞼で視界を塞ぎ、そして顔を逸らす。
それは、眼前のその珠を見る事を、拒んでいるかの様だった。
「……うぅっ!……あ、頭が……痛い……」
「お、おい、どうした彩花?大丈夫か?」
呻き続ける彩花の、ただ事では無いその様子に大友は訝しみ、彼女のその苦悶する顔を覗き込む。
彩花は、うわ言の様に呟く。
「……何か……何かが頭の中に、突然……。奥底から……感情が一瞬のうちに……込み上げて……くる……」
「何?……一体何を言ってるんだ、彩花?」
……
その時。
彼女の見る、自身の奥底。
その中に……「何か」が、映り込み始めたのである。
「………逃げ惑う大勢の、人々……。……悲鳴……叫び……。……炎……?」
「え?」
「……そし、て……」
……その時。
息が、止まりかける。
「……目の前を包む……青白く……激しい、閃光……」
……
……脳裏に、瞼裏に、「何か」が駆け巡る。
激しく、入り乱れる様に、次々に通り過ぎてゆく。
それは鮮明であり、そして今まさに、「それ」を目の当たりにしているかの様に……
……
だがほんの、瞬き程の出来事。
……次第に、「それ」は頭の中や瞼の裏からうっすらと、まるで淡雪が溶けて無くなっていくかの如く、消え去っていったのであった。
……
その途端に、締め付けられていた呼吸が、解かれる。
「かはッ!……はっ、はっ……はあッ……ううっ」
呻く様に息を大きく吸い込み、吐く。
吸い込んでは、吐く。
「はっ……はっ……」
止まりかけ、詰まっていた息を大きく、喘ぐ様に整える。
「い、今の、は……一体……?」
そして、彩花は固く閉じていた眼をそっと、おそるおそると開けた。
……
面前には、青い珠。
……
それを、じっと見つめる。
しばし黙り込み、ただ、じっと見据える。
そして、口を開いた。
「……この珠……。……私はどこかで、この珠を見た事が……あるような……。……どこかで……」
放心したかに、言葉を千切りながら、彼女は呟く。
すると大友がそれに応える様に、言った。
「この珠か?これは数ヶ月前、この島の岸辺に流れ着いていたものだ。あまりにも不思議な美しさゆえ、俺が拾ったのだ。見るにおそらく、どこぞから漂着した、何らかの財宝であろう。……俺自身も、この様な見事な造りの宝玉は、見た事も無いのだ」
「……」
なおも彩花は、珠を見つめる。
……
だが。
それきりそれ以上、何かを自身の中に感じる事は無かった。
……
……彩花が呆然と、珠を眺め続ける一方……
彼女のその様子を見て、大友は気を良くしたかに突如、ニヤニヤと笑みを浮かべだしたのである。
「……ふふふ……。そうかそうか、彩花よ。この珠がそんなに欲しいんだな?ん?ん?」
俄かにしたり顔となった大友。
得意満面のニヤリ顔で、両膝を突いて畳の上に蹲る彩花を見下ろす。
……
この男。
……珠をじっと見続ける彩花のその眼が物欲しげなものと見て取り、故にこの珠をダシにもう一押しすれば、彼女は求婚に応じるだろうと考えたのである。
必死すぎる。
――今こそ、求婚だ。
この瞬間が、その最大の好機と捉えた大友。
これを逃す手は無い。
彩花と夫婦に、俺はなる。
くわっと目を見開くや。
彼はここぞとばかりに、押し黙る彩花を見下ろしながら、
「よし、ならば!」
「……」
声を、上げる。
「この珠をくれてやる代わりにぃい!」
「……」
そして再び渾身の気合いを込め、
「彩花!!」
「……」
高らかに、叫ぶ。
「俺と!!!」
「……」
「こ」
「嫌です」
……
……「俺と婚姻しろ」と言い終わるどころか言わぬうちに、またも食い気味に、きっぱりと断られた。
哀れである。
「……言った筈です。貴方の如き卑怯者と、誰が一生を共になりたいと願いますか?縛り上げ、自由を奪った女相手にしか強気になれない様な軟弱な男などに、誰が心惹かれましょう。……対等な間柄となりたいならば……まず、この縄を解いてからにしなさい!!」
彩花は言い放つと、見下ろす大友を、下から睨みつけたのだった。
……身体中をぐるぐると縄で巻かれ、手足の動きが取れぬにも関わらず、なおも毅然と、大友を拒む。
その上この様な、賊共の胃袋の中とも言えるべきその棲家の只中において、なおも気丈に振舞う。
いつ何時彼らに噛み潰され溶かされるとも知れぬ身でありながら、彼女はじっと、大友を睨みつけたのであった。
「ぐっ……ぐううぅ……!」
無念の大友。
……歯を噛み、唸り、手の平をぎりりと握り締める。
「な、ならば……」
そして、叫んだ。
「……ならば!一生、嫌でも俺の傍に居てもらう!牢の中でな!!」
外で待機していたニラネギたちを呼びつける。
「おい!この女を連れていって、牢にぶち込んでおけ!!」
彩花はやって来たニラネギらにより無理矢理、乱暴に立たされる。
そして、広間の隣に掘り造られた小部屋へと、連れ出されていった。
……そこは、狭く暗い、岩牢であった。
牢の堅く頑丈に造られた木の格子扉が開かれるや、彩花は投げ込まれる様に、その中へと入れられる。
「ううっ!」
簀巻き姿のまま放り入れられ、彼女は受身を取れないままに、苔むす岩の床へと転げた。
そして、重くぎぎっと軋む音と共に、ぶ厚い木製の格子が閉じられると。
……大きな鉄の錠が、下ろされたのだった。
……
悲しき愛憎かな。
それとも、賊として生きる者の性なのか。
欲するものは引き寄せ、手繰り寄せ……そして奪い取ってでも、手に入れる。
……例え拒絶されたとしても、強引であっても。
拒まれた大友は、拒んだ彩花を岩牢の中へと、閉じ込めた。
固く冷たく、じめじめとした、暗い小さな岩の箱であっても……
……彼にはそれしか、愛する者を入れる器を持ち得ないのである。
そしてそれは決して、華やかで、煌びやかな宝物箱に成りはしない。
大友自身がそれを一番よく、理解していたのだった。
……
愛する者に愛を受け入れられなかった男の、悲しさであった。
(……ナニガシさん、美月ちゃん……氷鶴さん……)
……そんな牢の中で彩花は、仲間……友を想う。
かくして、彩花は海賊たちの棲家、奥深く。
ついに、囚われの身となってしまったのであった。




