第一幕 水平線の影
……再び、船は海を往く。
沖から滑る静かな風が海面に小波を立て、船を心地良く揺りかごの様に揺らし、そしてこの穏やかな海は、その行く手を遮る事はしない。
太陽は未だ空の真上にまで届いておらず、なおも燦々と、船の旅を照らしている。
冬の海上であるにも関わらず、その暖かい陽光によって、肌寒さは感じられない。
雲ひとつ無い快晴の空と相まって、まるで、一足早いうららかな春の陽気の様であった。
荒らぐ事の無い水面に細く白い澪を引いて残しつつ、一行が乗った船は、港町を目指して進んでいた。
……
だが。
「……」
……そんな快適で心地良い船旅とは裏腹に、その船上は重く、静まり返っていた。
船頭の間牛が漕ぐ櫂の、ギコギコという、木が擦れる音が聞こえてくる。
その他に耳に入ってくるものは、ぱしゃりぱしゃりと、波が船の腹を叩く、微かな水音。
それらに聞き入るかの様に、5人は……じっと、押し黙っていたのだった。
……
一体何故、この様に静かなのか……
「……ふっ。……『アシカ』ってヤツになんかビビッてないぜ?……アタシは……あの、その……ち、ちょっとだけ……びっくりした、だけだし……」
「そ、そうだよねー!ちょっと驚いただけだよね!ボクもそうだよ、うん!……。うん……」
と、ナニガシと氷鶴は胸を張り、声も高げに言う。
……だが、本人たちのそんな強気で自信げな調子とは正反対に、その声音と語尾は、若干弱々しく、小さなものであった。
……
「黒い坊主」こと、アシカが巻き起こした、先程のひと騒動。
おかげで船の中は大騒ぎとなり、ナニガシと氷鶴は恐怖に慌てふためき、泡を食う羽目となった。
……2人はその時の自身の狼狽ぶりが気恥ずかしくなり、そのせいか、先程からめっきりと口数が減ってしまっていたのだ。
あれ程怖れていた「海の幽霊」も、蓋を開けてみれば、いたいけな動物。
腹を空かせて寄って来ただけの、可愛らしい生き物である。
そんなただの水棲生物に恐れ慄き、茣蓙の下で震え上がり……
……ましてや、白目を剥いて気絶するなど。
その滑稽さたるや、本人たちの心中やいかに。
……
そしてそれと同じく、心穏やかならぬ者は、もう1人。
「……」
船頭の霊長類……もとい、間牛である。
今は船の艫で、櫂を漕ぐのみ。
最早、何も語りはしなかった。
彼もまた「海の幽霊(笑)」に平常心を失い、必死にアシカへ向かって、延々と大声で威嚇をしていた。
だが当のアシカはぽかんとそれを眺めていたのみで、途中で飽きて、海の中へと帰っていってしまったのだった。
……そんな一幕を繰り広げた間牛も、ナニガシたちと同じ様に、やはり気恥ずかしいのか。
若干背が丸まり、その厳つく大きな体は、今は肩身狭げに縮こまっている様に見えていた。
その一方で。
美月と彩花は身を寄せ合い、そんな3人を横目にしながら、互いに顔を見合わせる。
……そして、くすくすと小声で、笑っているのであった。
――
……そんな騒動ののち、数刻経った頃だった。
放心したかの様に、ぽかーんと口を開けた間抜け面で遠く海面を見つめていた、ナニガシ。
その遥か彼方、昼の太陽が照らす水平線の上に、何かを発見した様であった。
「……あー……?……なんじゃ、ありゃ?」
彼女は先程と同じく、またしても訝しげに声を上げる。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
美月が尋ねる。
「いや、アレは何かなーって……」
「えー?またお化け?もういいよぉ」
ナニガシは発見したそれから眼を離さずに、言う。
「違う、違うって!……水平線のあたりに、なんか沢山、船が並んでるぞ?」
そのナニガシの言葉に、全員がそちらの方向へと眼を向けた。
……
見ると、遥か遠く空と海の境、キラキラと陽の光を反射するその水平線上に、黒い小さな点の様な影がいくつか、浮かんでいる。
……確かに、何かが在る。
しかし眼の良いナニガシは船と言うが、だが美月たち3人にはそれはただの黒い点にしか見えず、その形までは認識出来なかった。
「……沢山の船が並んでるだと……?……まさか!」
そんな中で、間牛が突然大声を上げ、血相を変えた。
そしてナニガシの指す水平線を、慌てて注視する。
見た途端。
彼は叫んだ。
「……しまった!賊の船団だ!海賊が居やがる!!」
それを聞き、ナニガシたち4人は、ぽかんとする。
「え?海賊?」
間牛は言う。
「……この海には、一昔前まで海賊が出る事があったのよ。そいつらは随分と幅を利かせて暴れ回ってたもんだが、しかしこの国の水軍によって、叩き潰されてな。それ以来出てこなかったんで、俺たち漁師は安心して、漁や客渡しをしてたんだが……。だがまさか今になって、また出てきやがるとは……」
――
海賊。
それは海の上の、賊たち。
海上を狼の如く彷徨い、そして他の航行する船を襲い略奪してゆく、海のならず者たちである。
多くの場合、彼らは船足が速く、大筒と装甲によって武装した船を用いる。
その戦力ゆえに、彼らに海上で捕捉されれば並の民間船では逃げ切る事は難しく、そして、太刀打ちも敵わなかった。
特に多くの乗客や積荷を乗せた、鈍足な客船や商船はひとたまりも無く拿捕され、無抵抗のまま、蹂躙されるに任せるのみであったのだ。
そして彼ら海賊の標的は、それだけではない。
食料や交易品など、国の経済にとり重要なそれら多くの物資を積載した貿易船にまで、及んでいたのである。
特に、前述したようにここ『鯨の口』は、『中原の国』へと出入りする貿易船の、その通過地点となっている。
……過去。
それら船を狙い、何隻かの海賊船が徒党を組みこの海域に居座り、その貿易の為の海路を占拠した事件が起きたのだ。
つまり、海上封鎖である。
それは言わずもがな侵略行動であり、国を脅かす一大事である。
当然、『中原の国』側はその状況を黙って見過ごす筈も無かった。
結果、水軍対海賊の海戦となり、その末にその賊たちは、武力鎮圧されたのである。
……
だが。
のちに発覚した事であるが、この海上封鎖を行った、海賊船たち。
実は、敵国である隣国『東の国』から送られてきた、私掠船(君主により敵国船への襲撃略奪を公的に認められた海賊船)であったのだ。
しかし、ともかくも。
この『鯨の口』は賊たちから無事開放され、そして、現在にまで至ってきたのであるが……
……だが。
今また、この海に、海賊船が出現した。
現在『中原の国』は、来航する貿易船の減少によって、本来それによってもたらされる筈であった他国からの食料輸入が途絶えたため、困窮に喘いでいる状況である。
……しかしおそらくそれは、過去と同じ様に、こうして賊たちによって再び海路を塞がれている事が、主たる原因と思われる。
……そして賊に、「情け」などという言葉は無い。
例え、相手がちっぽけな手漕ぎ船であろうとも、それに漏れる事は無い。
そんな慈悲無き彼らならず者共に捕捉されれば為す術も無く、そして容赦無く蹂躙されるであろう事は、火を見るより明らかであった。
……間牛は歯を噛んだ。
そして櫂を握り締め、再び水面へと、ザブンと下ろす。
そして、ナニガシたち4人に叫んだ。
「このまま進むと奴らに発見されちまう。とりあえず、連中に見つからねえよう、一旦近くの小島に身を隠すしかねえ!お客さんら、しっかり掴まってな!!」
そう言い終わらぬうち、間牛は船を漕ぎだした。
それはその太い樫の櫂ですらへし折れるのでは、と思われる程に力一杯目一杯、今まで以上の勢いで、漕ぎ始めたのだ。
船が海面を旋回しぐるりと舳先は進路を変え、その後、徐々に速度が増していく。
だんだんと船は勢いづいてゆき、水面をぐんぐんと、加速していく。
次第に波を割り飛沫が飛び、とうとう、走りだしていく。
そしてついには、その船速は本当に手漕ぎ船なのかと疑う程の速さで、波の上を駆けていくまでとなったのである。
そのあまりの速度に、前方から風が強く、ぶつかってくる。
……見ると舳先が若干水面から浮き上がり、波を叩き、蹴りながら進んでいるではないか。
ともすれば、船ごと後ろへとひっくり返るかと思われんばかりの勢いである。
それはさながら現代で言うところ、「自動小型舟艇」が疾走するかの如き様であった。
もはや手漕ぎ船ではありえない。
これが火事場の霊長類の底力であろうか。
船上に在る氷鶴は、眼をキラキラと輝かせている。
「うわあー!すごいすごい!船って、こんなに速いんだね!!」
船が速いというよりも、間牛が尋常ではない、人間離れした速さで漕いでいるためだ。
舳先が波を叩き割りながら、船は奔る。
激しく白い波飛沫が飛び散り、その船の先端に身を乗り出す氷鶴の顔はそれによって、最早びしょ濡れとなっていた。
その一方、美月と彩花は怯えて船室に閉じ篭り、暢気に表の様子を覗くどころでは無い。
「……いやあの、これ流石に速すぎない?大丈夫?船壊れないよね?」
木造の船体や船室がギシギシと激しく軋む様を見て、乗客のナニガシは不安の色を隠せず、苦笑いしている。
……確かに、この恐ろしいまでの速さ。
木で造られた船には、相当の負荷となっているだろう。
ブッ壊れないか、耐えられるかが心配になってくる。
「連中に見つかるよりマシさ!とにかく、今は逃げんのさ!!」
船頭の間牛は、叫んだ。




