第七幕 それはただ、己の深き海の底に
――彩花は、海を見ていた。
ナニガシや美月、氷鶴が海の旅を楽しみ、燥いでいる。
船上に揺られつつその様を、傍らから微笑み見ながらも。
彼女は船べりに寄りかかり、遠く、ただ、水平線を眺めていた。
視線の先。
東の遥かから昇っていた朝日はすっかりと、寝ぼけ顔から目を覚ましたかの様に高く、燦々と光る。
いつの間にか、先程までぼんやりと白んでいた朝焼けを真っ青な色に変え、同時に、その明るく暖かい光を海面へと降らせていた。
水面は夜明けより一層その光を映しだし、周囲の見渡す限りの青い海の上、全ての波が、眩く煌いているのだった。
楽しく賑わしい船の上。
眩しく照らす陽光。
広く青い海。
……だがそれらとは正反対に、彩花のその表情は物憂げで、そしてどこか淋しさや心細さを滲ませたその眼差しは、ただ、眼前の大海を見つめていた。
その横顔を見て取ると、美月がそっと声をかける。
「……彩花さん。どうしたの?……大丈夫?」
その声に気が付くと、彩花は彼女に、笑みを向けた。
「あ……美月ちゃん。……はい、私は平気です。……なんだかこの景色が、心のどこかでとても懐かしく思え、そしてほっと安心する様な気がして、眺めていたのです。……ふと、何かを思い出しそうな感覚なのですが……」
そう言ったが、だが、彩花の眼差しはなおも変わらず……
そして眼下の水面に、その視線を落とす。
「……でも見ていると、それと同時に自分の奥底に眠る……得体の知れない焦燥感や恐怖の様なものが燻る感じがして……。……それがなんとも、もどかしいのです」
美月がその彩花の顔を見ると、そこには眉間を僅かに寄せ、彼女には滅多に見ない険しい色の表情があった。
向けられた微笑みはどこか不安げで、そしてその微かな険しさによって、霞んで隠れてしまっていたのだった。
「彩花さん……あの……」
美月は言葉をかけようとした。
……だが……
彼女は彩花のその表情を見て……何も言えなかった。
……
記憶の無い彩花の事を気にかけてはいるが、しかし。
美月は、彼女の過去を何一つとして、知りはしなかった。
彩花の生まれ故郷や、生い立ち。
過去において、彼女の身に何が起きたのか。
何故、記憶を失くすに至ってしまったのか。
……そして何故、彼女は微かながらもその顔に、険しさを見せたのか……
……彩花は自分の中を必死に、探している。
自らの失った過去を取り戻す為に必死に、もがいている。
仲間はいつも、その傍に居るが……しかし彼女はやはり、1人、苦悩しているのだろう。
記憶を失くした苦しみは、その者にしか分からない。
「自分の一部」を無くしたかの様な痛みは、決して他人と分かち合う事は出来ない。
……失ったものの価値は、その者自身にしか、分かり得ないからだ。
自らの行くべき場所も帰る場所も知らず、己の存在すら不確かな、その感覚。
それは波間にたゆたい翻弄され、そして流されるまま最後に行き着く所さえ知らぬ、大海の真ん中に浮かぶ脆い小船の様なもの。
……それは、恐怖と呼ぶべきものだ。
美月は彩花のその心中を想っただけで……それだけで、背筋がぞっとした。
だからこそそんな彩花に、美月は言葉をかける事が出来なかった。
……たったのささやかな慰めの言葉さえも、出てこなかった。
だから。
今の美月に、彩花へしてやれる事は、ただ1つだけだった。
……彼女の隣に、居る事だけ。
……それで、精一杯だった。
……
返事の言葉の代わりに美月は彩花の横に、そっと、座った。
せめて彼女が、一人ぼっちで淋しく、怖く無い様に。
――
「……ん?……何だ、アレ?」
……その時、反対の船べりから景色を眺めていたナニガシが、訝しげに声を上げた。
「え?どうしたの?ナニガシさん」
「いやあ。……アレは何かなーって思ってさ」
眼の良いナニガシが、波の間の水面に何かを発見した様であった。
その隣に居た氷鶴が彼女の指差す方へと、船べりから身を乗り出し見つめる。
しかし。
「……え、何も無いけど?」
絶え間無く立っている小波によって、その海面に何が在るのか、氷鶴には視認出来ていないらしい。
だがナニガシは、その波の間に見つけた「それ」をじっと、暫く見つめている。
……
しかし直後、彼女は息を呑み、小さく呻いた。
「……うっ!?……な、なんだ……アレ……!?」
「どうしたの?何か見つけたの?」
「……な、な、何か……『黒いモン』が……こ、こっち、見てないか……?」
「……え……?」
船の上の一同はその言葉に、ぎょっとする。
櫂を漕いでいた間牛が、慌ててナニガシの指す水面を凝視した。
すると。
「……お、おいおいおい!な、なんだ、ありゃあ!?」
途端、驚きと共に、同じく声を上げる。
彩花と美月も、そちらを見ると……
……穏やかな波間。
なんとそこから、「黒い坊主頭」の様なモノが、彼女たちを見つめていたのである。
水面から黒くつやつやと光る禿頭のみをぬっと、突き出している。
その黒い顔貌に、白目の無い漆黒の大きな両の目を持った「それ」は、船上の5人からじっとその視線を外さず……
青い水面にぽつんと浮かび、漂っていたのだ。
……その目鼻立ちや、墨染の如く黒い外見は、明らかに人間のそれではない。
そもそも、大海原のこのど真ん中に、船も無しに人間など居よう筈があろうか。
まさに「それ」は幽霊の如く、ものも言わず静かにその波間に漂い動かず、ただ黒い目を見開き、見つめてきていたのであった。
「ま……まさか……。ア、アイツが噂の、『黒い坊主』ってヤツか!?」
その人ならざる黒い容貌に恐怖し顔面蒼白となり、震える声で、ナニガシは叫ぶ。
……
漁師たちの間で怖れられていた海の幽霊……「黒い坊主」が今まさに、眼前に出現した。
……「噂は噂であろう」。
内心ではその存在に半信半疑であり、まさか本当に出くわすとは、彼女たちは思ってもいなかったのだ。
そんなものに出会う筈が無いとタカをくくっていたがゆえに……この不意の遭遇に、船内は激しく動揺した。
……
ナニガシの横に居た筈の氷鶴はいつの間にか客室の隅に隠れており、震えつつ、小さく縮こまっていた。
「うわーん!お、お化けだあ!ま、間牛さん!あなたの筋肉でなんとかしてください!」
「お、おいおい!む、無茶言うな!」
筋肉は万能ではない。
筋肉で幽霊を退治出来ようか。
そして氷鶴に無茶振りされたその間牛も、動揺を隠せない。
手に持っている櫂を投げ出さんばかりに慌てふためき狼狽し、その日焼けした顔は、同じく蒼白となっていたのだった。
……幽霊嫌いのナニガシは恐怖のあまりとうに気絶し、白目を剥き、大の字になってひっくり返っている。
……
3人が大騒ぎする、その傍ら。
一方、美月と彩花は海面から覗き込んできているその「黒い坊主」の顔を、じっと見ていた。
……直後。
彩花は何かを思い出したかの様に、微かにはっと、息を呑んだ。
そして、2人揃って小さく、声を上げた。
「「あ。……あれって、もしかして……」」
……
言葉が重なり、彼女たちは、顔を見合わせる。
そして互いに袖で口元を隠し、くすくすと笑った。
……
隣を見ると、相変わらず大騒ぎの有様。
氷鶴は、客室に敷かれた茣蓙の下に頭を隠したまま尻隠さずで、震え続ける。
間牛は船のへりに陣取りつつ櫂を振りかざし、「黒い坊主」を追い払おうと、必死に大声で何ごとかを捲し立てている。
……ナニガシに至っては気絶し倒れたまま先程からピクリとも動かず、まるで死んだかの様に、船の隅で波に転がされるがままとなっていた。
……
そんな3人を見て。
彩花は美月に笑って、そして、言った。
「……ふふ。……もうちょっとだけ、様子を見ていましょうか。美月ちゃん」
その彩花の顔は、憂いていた先程までの沈痛な暗い面持ちとは、うって変わっていた。
……それは明るく、楽しげなものとなっていたのだ。
普段、落ち着き払った性格で、大人びた雰囲気の彼女であるが。
……しかしこの時ばかりは、まるで子供の様な悪戯っぽい笑みを浮かべ、白い歯をみせ、笑っていたのである。
「……うん。……そうしようか、彩花さん。……ふふふ」
その表情に眼を丸くしつつも。
美月も、同じく頷く。
……すると。
「ふふ……。……あはは、……あはははっ!」
……
彩花が、声を上げて、笑ったのだ。
その笑い声に、美月は驚いた。
……彩花が声を上げて笑う事など、今まで一度たりと、無かったからだ。
いつもは口元を袖で隠し、さながら風鈴が風に揺れ、微かに鳴るかの様に静かに笑う、彩花。
……
しかし今。
彼女は、声を上げて笑っている。
包み隠さぬその笑い声は、年齢相応の少女の無邪気で明るいものであり、それはまるで蕾がほころび花が咲くかの様な、楽しげなものであった。
「……ははは。……あははっ!」
その笑い声につられ、美月も思わず声を上げ、笑う。
……
「黒い坊主」。
……実はその正体とは、「アシカ」であったのだ。
妖怪でも化け物でも、ましてや実体の無い幽霊でも何でもない。
海に棲む、れっきとした動物である。
餌を求めて泳ぎ回っていたところ、ナニガシたちの船とたまたま出くわしただけだったのである。
美月と彩花はアシカを見知っていたため、「黒い坊主」を見た瞬間、すぐにその正体が分かったのだ。
だが一方、アシカを知らぬ他の3人は初めて見たその姿に、幽霊か化け物かと勘違いし今なおうろたえ、船の上でどたばたと、大騒ぎとなっているのだった。
……
ふとしたきっかけで、忘れていた何かを思い出すという事は、多い。
どうしても思い出せないと思っていても、ある日突然、頭の中にそれがひょっこりと、顔を出す。
……今、彩花はアシカを見た瞬間。
過去にその姿を見た記憶を。
過去のその一部分を、はっきりと、思い出した。
つまりそれは……
彼女は決して記憶を「失い無くした」わけではなく、ただ、「一時的に手放してしまった」だけなのであると言える。
彩花の過去は、彼女の中から消え去ってはいない。
それはいつも、彼女と共に在るのである。
……きっと必ず、それは再び彩花の記憶の中へと、戻って来る。
そしてその時。
迷い無く彼女を、在るべき場所へと導いてくれる筈だ。
……
美月はそう信じ、花の様に明るく笑う彩花のその横顔を、見つめていたのだった。
【第十一話 了】




