第四幕 海の漢と黒い坊主
食後。
暖簾をくぐり、宿の中に男が入ってきた。
見ると、それはナニガシたちをこの宿へと案内し、連れて来た漁師であった。
つまり女将の夫、この宿の主人である。
「おう!今、帰ったぞー!」
その威勢の良いやたらと大きな声と共に、暖簾をもぎ取らんばかり、力任せに勢い良く「バサアッ」と掻き分けながら、彼の日焼けした浅黒い顔と筋肉質な体躯がぬうっと、その間から出てきた。
漁から戻ってきたと見え、彼が中に入ってきた途端に、磯の香りが室内に漂った。
「ああ、お帰り。お客さんらはさっきお食事が済んだとこだよ」
女将が出迎える。
それを見て、美月が彼に挨拶をした。
「あ、漁師さん。お昼は案内して下さって、ありがとうございました」
漁師は日焼けした顔にニヤリと白い歯をみせ笑い、そして彼女に言う。
「よう嬢ちゃん!メシは旨かったか?」
「はい!とってもおいしかったです!ここのお料理って、漁師さんが採ってきたお魚を使ってるんですね」
彼は大口を開け、自慢げに笑う。
「そうともよ!俺が採ってきて、カミさんがそれでメシを作る。まさに採れたてピチピチの新鮮そのものよ!がははは!」
笑い声もやたらとデカい。
美月は尋ねる。
「女将さんから聞いたんですが、この村から、東部行きの船を出して下さるんですよね?私たち、明日それに乗りたいんですが、お願い出来ますか?」
彼女のその申し出に、漁師は霊長類の様に分厚い胸をドスンと叩いて、答えた。
「東部行きに乗りたいんだな?おう、任せときな!4人でいいんだな?」
「はい!お願いします!」
……ところが、ふいに、彼の顔が曇る。
「……あ。……そういやあ……。ただなぁ……」
「どうしたんですか?」
美月が首を捻ると、漁師は何かを思い出したとみえ、ガリガリと頭を掻き眉間を寄せた。
「……いやな。近頃、海で幽霊騒ぎが出てんのよ」
「え……幽霊、ですか……?」
それを聞き、傍でまったりとしながら食後の茶を啜っていたナニガシが、ビクリと大きく、肩を震わせた。
……なんと言っても「お化け嫌い」の彼女である。
手に持つ湯呑みをカタカタと震わせながら、青い顔で漁師を見つめる。
「……ゆ、幽霊……だと……?」
……彼女の事は置いておき、美月は漁師に尋ねる。
「あの……幽霊騒ぎとは一体、何ですか?」
「……どうも聞いた話によるとよ。魚を採りに船で漕ぎ出して沖の方まで行くとな、海の上に、『黒い坊主』みたいなヤツが出るってんだよ。……いや、俺はンなもん見た事ねぇけどさ、漁師仲間の連中が騒いでんのさ」
美月は眉を顰める。
「『黒い坊主』……?海の上でお坊さん……?」
漁師は頷き、続ける。
「ああ。ソイツは海ん中から顔だけ出して、不気味な真っ黒い大きな目ん玉で、こっちをじーっと見つめてくるんだと。……見た事もねえ様なヤツで、明らかに人間じゃねえナリしてるらしくてな。仲間の連中は幽霊みてえなソイツに出くわすたんび、皆、驚いて捕まえた魚を放り出して、逃げ帰ってきてんのさ」
ナニガシとは違い、所謂「オカルト話」は信じない美月。
だがその彼女も、そこまで聞くと、さあっと顔を青くした。
……なにせ、実際に、大勢の目撃者が居るというのだから。
「に、人間じゃない……?あ、あの……。その『黒い坊主』さん、こちらに危害を加えてきたりするのでしょうか……?」
漁師が首を振って答える。
「いんや、なーんにもしてこねえで、ただこっちを見てるだけなんだとよ。人間が逃げる際に放り出した魚を片っ端から捕まえて、ただ帰っていくだけだそうだ」
美月が恐る恐ると訊く。
「あの……ひょっとして……。明日、船に乗ってる途中で現れたりとか……」
漁師は頷く。
「……出るかもしれねえな。ヤツはここんとこ、頻繁に現れるそうだからな」
「ええ……。……だ、大丈夫なのかな……」
彼は美月の怯える顔を見て、ニヤリと笑む。
「んま、そんときゃそんときさ。仲間の連中はいっつも酔っ払ってるからな。大方、ウンコかなんかと見間違えたんだろ!がははは!!」
大口を開けて大笑いする。
笑い声がバカみたいに大きい。
その声があまりにもデカ過ぎて、宿の中に響き渡り、障子がびりびりと振動し、ちゃぶ台の上のナニガシの湯呑みがカタカタと震える。
「さ!明日船に乗るんなら、もうお寝んねした方が良いぜ。東部へは1日がかりの船旅になるからな。朝早く、日の出と共に出航するからよ!」
「分かりました。早朝ですね」
美月が頷く。
「んじゃ、という事で俺はもう寝るぜ!おやすみさん!がははは!!」
そう言って、漁師はドスドスと大きな足音と共に、奥の部屋へと引っ込んでいった。
響き渡るその足音の振動で、ナニガシの湯呑みがひっくり返る。
「……なんだか、豪快な人だね……」
美月は彼の霊長類の様な大きく逞しい背中を見送った後、ひっくり返った湯呑みを片付けながら、苦笑い混じりに言った。
「……頼もしい男だ。……ヤツなら、きっと『黒い坊主』とやらが出てきても、退治してくれるだろう……」
うんうんと頷く、ナニガシ。
「お姉ちゃん、無茶振り多いね」
美月は呆れる様に言った。




