第八幕 氷の翼
村長の家は集落の中でも比較的に広い。
内部に広間が設けられており、普段は住人たちの集会所となる事もあり多くの人間を収容出来た。
平穏な時であれば、この広間は専ら宴会や婚姻の式に用いられ、人々の笑顔で溢れる場であったのだが……
それは今や救護所となり、傷ついた者やそれを搬送してくる者、手当てを行う者らでごった返し、騒然とした中に血生臭さが漂う有様となっていた。
そんな中に入ると血に塗れた負傷者が10数名程、茣蓙を敷いた畳の上で横になっていた。
その周囲では女性たちが水汲みや湯沸し、包帯となる布の用意などで忙しく右往左往している。
その中に、怪我人の処置を施している氷鶴の姿が、村長と共にあった。
……見ると、村長自身も肩口から出血していた様で、羽織った厚手の半纏のその部分が切り裂かれ、血が滲んでいる。
彼も賊に斬りつけられたのか、だがすでにそこには止血の布が巻かれていた。
しかし本人はそれを気にも留めていない様子であり、氷鶴の補助として怪我人の手当てに集中している。
「氷鶴さん、アタシたちにも手伝える事はあるか?」
彼らの邪魔をしない様、ナニガシが脇から問いかけると、氷鶴がその手を止める事無く答えた。
「わあ、助かります。それなら、『蒲の穂』を採ってきてもらえますか?止血薬を作る材料として必要なんですが、手持ちの量じゃ全然足りなくて。これだけの怪我人の数なので、とにかく沢山採ってきて下さい。近くを流れてる小川の傍で見つかる筈です」
「分かった、『蒲の穂』だな。すぐに行ってくる」
氷鶴の言葉に頷き、ナニガシら3人は、盆地に流れ込んできている集落近くの川辺や沼を漁りにかかる。
明るい月が出ているとはいえ、夜の闇の中では視界が利き辛い。
探している途中、ナニガシが足を滑らせ川の中に頭から落ち、ずぶ濡れとなった。
だがその他は何事も無く、無事に目的の蒲を採取し、持ち帰る事が出来たのだった。
思いがけず冬の寒中水泳をする羽目になったナニガシ。
がちがちと震え鼻を垂らしながら、彼女は編み笠いっぱいの蒲を氷鶴に差し出した。
「は、はっくしょん!……あの、氷鶴さん。蒲を持ってきたよ……さ、寒い……」
「……何があったんですか?ずぶ濡れになってますけど……あ、それと次は……」
その後も氷鶴は3人に指示を出しつつ、その手を借りながら、負傷者たちの手当てを夜通しこなしていったのだった。
……
やがて空が白みだし、そして太陽が昇り始めてきた。
夜が明けたのだ。
その頃になると、辺りのそれまでの慌しさと騒がしさはすっかりと無くなっていた。
ようやく一息ついたかの様に住人たちは平静となりつつあり、集落は元の落ち着きを取り戻し始めていたのであった。
「……これで何とかなったかなー……ああ、疲れた。一休み一休みっと」
怪我人らの手当てが一段落し、氷鶴が広間から出てきた。
負傷者の中には重傷の者も居たが、どうにか皆その峠を越え、今はその身を休めているのだった。
濡れ縁に立ち、明るい陽の光を浴びながら氷鶴は大きく伸びをした。
すとんと座り、ふぅと白い溜め息をつく。
「氷鶴さん、お疲れ様です。お湯でもどうぞ」
横から彩花に湯飲みを差し出される。
「あっ、ありがとう彩花さん。手伝ってもらって、助かったよ!」
氷鶴は彼女に礼を言いつつ、それを盆から受け取った。
……手の中のその湯飲みから立ち昇る、温かい白い湯気。
すっかりと冷えてしまっていた掌にその温もりがじんわりと伝わってきて、氷鶴はそれに安心したかの様に、思わず笑みをこぼした。
……そこへ、眠そうな顔をしたナニガシがふらりと、後ろからやって来た。
「やあ、お疲れ様ぁ……。いやいや、ようやっと一息つけるなあ……」
彼女は、騒ぎのうちに逃げ出してしまっていた大量の鶏やヒヨコなどの家畜を追いかけ集め回り、そしてそれらを飼育小屋へと、先程ようやく収容し終わったばかりであった。
氷鶴の横にどかっと腰を下ろす。
「……昨夜の『アイツ』は何だったんだろうな。住人たちの言うように、本当に『神さま』だったのかな……?」
……そしてナニガシはポツリと、朝日を眺めながら呟いた。
……
山賊の襲撃。
そして正体不明の、『獣』の出現……
一夜明けた今。
……思い返せば、悪夢の様な夜でもあり、そして幻の様な夜でもあった。
非日常的な出来事が次々と、夜の闇の中の眼前で繰り広げられたのだ。
明るい太陽の光を浴びる今。
いつもの日常の光景と静けさが戻った今。
……冷静な頭で顧みれば、尚更あれらが、現実であったとは思えなかった。
暖かく昇る冬の朝日の光が、それらを全て幻想として払い除けたと思えた程に、その太陽は現実の世界を明るく照らし出していたのだった。
「……そういえば、氷鶴さんはこの後どうするんだ?この集落にしばらく居るのかい?」
ふと、ナニガシが尋ねる。
「うん。もうちょっとここの怪我の人たちを診てあげないといけないから。命に関わりそうな深手の人もいっぱい居たし、これから薬ももっと必要になるだろうからね」
そう言い、氷鶴は熱そうに湯飲みに口をつけ、啜る。
それにナニガシが頷く。
「そうか。村長と相談したんだが、アタシたちももうしばらくここに滞在する事にしたんだ。ごろつきの残党共や、あのデカい『獣』がまた現れないか心配だし、捕まえた忍び崩れや賊の頭を国の役人に引き渡さないといけないからね」
その言葉の横で彩花が微笑む。
「それに、もうすぐ年越しですしね」
ナニガシが笑う。
「そうそう。幾ら何でも、寒い野っ原で正月を過ごすなんて御免だぜ」
……
それを聞くと氷鶴は思案する様子でしばしの間、口を閉じ、眼を伏せた。
……暫くし、ナニガシと彩花に向き直って座ると、そして言った。
「……ねえナニガシさん、彩花さん。美月ちゃんから聞いたけど、3人はこの国中を旅してるんだってね。……お願いなんだけど、ボクも連れていってくれないかな……?」
その申し出に、ナニガシは驚きと共に意外そうな顔をした。
「え?しかし、君は『行かなきゃいけない所がある』って言ってなかったかい?そっちは良いのか?」
その言葉に氷鶴は少しはにかみながら、だが明るい表情で頷き、答えた。
「……うん。『それ』は、もう少し先にする事にしたよ。……今は、皆に付いていきたいんだ。一緒に旅をして色んな所に行ければ、ボクの求めるものが見つかるかもしれないから……」
「求めるもの?何だいそれは?」
ナニガシが首を捻る。
それに、氷鶴は微笑んだ。
「ふふ。ただ皆に『恩返し』がしたいだけさ。……特に、彩花さん。……それに美月ちゃんにね」
……そう言って、ぱちりと彩花に片目瞑する。
それに彩花は、きょとんとした。
……しかしその後、何かを思い出したかの様子ではっとし、そしてくすくすと笑い始めた。
「ねえ、付いていっちゃダメかい……?」
氷鶴は、2人を見つめる。
……
それにナニガシは大きく頷くと、応えるのだった。
「ああ。君に付いてきてもらえば大助かりだよ。こちらこそ是非、よろしく頼むよ!」
その返事を聞くや、氷鶴の顔がぱっと明るくなり、そして満面の笑顔となった。
「本当!?ありがとう!ボク、頑張るよ!」
手に持った湯気立つ湯飲みを一気に飲み干すと、そして立ち上がる。
「採ってきてもらった蒲の穂を乾燥させてあるんだ。怪我の人たちに止血の薬をもっと沢山作らなきゃ!行ってくるね!」
嬉しそうに張り切った様子でそう言うと、氷鶴は調薬室として間借りしている奥の部屋へと、揚々と入っていったのだった。
それを見て、彩花がくすくすと笑う。
「ふふ。賑やかになりますね、ナニガシさん」
ナニガシもニコニコと笑いながら頷いた。
「ああ。氷鶴さんも良い奴だな」
そして、部屋の隅に眼をやる。
そこには布団の上で猫の様に丸くなり、小さな寝息を立てて眠っている美月の姿があった。
夜遅くまで怪我人の手当ての手伝いをしていたのだが、途中で疲れてそのまま眠ってしまったのだ。
彩花が彼女に、そっと毛布を掛けてやる。
……
家の外から、集落の住人たちの笑い声が、遠くより聞こえてくる。
負傷者たちは氷鶴の懸命な処置と、そして薬により、その命を救われた。
彼ら住人たちはお互いの無事を見て安堵し、そして緊張が解かれたかの様に、笑い合っていた。
まるで祭りの後の余韻の様に、集落はその日一日中、笑い声で満ちていたのであった。




