第八幕 襲撃
翌早朝。
盆地の里に燦々と、山の端から現れた朝日がその光を降ろしてきていた。
ここ『北の里』は三方を山々に囲まれた、いわば盆地の袋小路に存在している。
今は誰も訪う事の無いこの忘れられそうな北の果て、その無人の里にさえ、陽は温かい光で以って照らすのだった。
昨日まで空に在った厚く暗い凍った雪雲は、その陽光に払われるかの様にいずこかへと去っていた。
晴天の明るい、雪里の朝である。
氷鶴の家に宿を取っている美月と彩花が寝床から目を覚ました。
晴れたとは言え、しかし吹雪の残滓の如く、僅かに寒風の吹く寒い日であった。
美月は温かい布団の中から抜け出せずにもぞもぞと這い回っている。
寝ぼけ眼のまま部屋の端を見ると、そこでは氷鶴がガタゴトと、何やらすり鉢や天秤を弄っていた。
調薬の為の道具を準備しているところであったのだ。
「やあ、おはよう!良く眠れたかい?寒くなかった?」
氷鶴は明るい表情である。
昨晩の落ち込み様からカラッと一転、美月の目覚めきらない顔を見るや、元の元気な様子で挨拶をしてきたのだった。
「おはようございます。こんな早いのに、もうお薬を作られるんですか?」
「うん!苦しんでいる患者さんを待たせる訳にはいかないからね。すぐに仕上げるよ!」
氷鶴は得意満面の笑みでとんと胸を叩く。
そして調薬室に入ろうとするが直後、思い出したかの様に美月と彩花に言った。
「……あ、そうそう。薬を作ってる最中、部屋の中は覗いちゃダメだよ?」
「え?どうしてですか?」
……部屋を見てはダメ?
氷鶴のその不思議な言葉を訝しむ美月と彩花。
それを見て、はにかむ様に氷鶴がにっと笑う。
「へへ、商売上の秘密ってヤツさ。薬の調合は門外不出と決まっているんだ。……あれだよ、『お蕎麦屋さんの秘伝のつゆ』と同じようなものだよ」
と言い、氷鶴はぱちっと片目瞑をすると、機嫌良さげに揚々と奥の部屋へと引っ込んでいったのだった。
「……ふーん?……そういうものなんだ?」
納得した様な、しない様な美月。
薬の完成を待ちわび、暇そうに囲炉裏の傍でごろごろと美月が転がっている間。
陽が空の真上を通り過ぎていき、そして更に西の『雲呑みの山』に差し掛かり始めた頃となった。
閉じきられていた調薬室の襖がふいに開く。
そしてようやく、そこから氷鶴が姿を現したのだった。
「ふー、できたできた!2人とも、やっと薬が出来上がったよー!」
氷鶴のその言葉を聞くや、美月が待ってましたとばかりに飛び付く。
氷鶴は、眼を輝かせる彼女に小さな麻袋を手渡した。
その袋には大きな文字で、「鶴」と筆書きされている。
……相変わらず、下手クソな字であった。
見紛うこと無く、それは氷鶴の書いた字である。
どうやらこの袋の中に、氷鶴謹製の薬が入っているのであろう。
美月たちはここにようやく、お目当てのナニガシの解毒薬を入手出来たのであった。
「わあ!ありがとうございます!これをお姉ちゃんに飲ませれば良いんですか?」
「そう!朝と晩の1日2回。食後に水かお湯で飲ませてあげてね。用法用量を守って正しく使ってね!」
「はい!ありがとうございます。じゃあ、薬のお代を……」
美月は路銀の入った巾着を懐から取り出した。
すると、
「ああ、そんなの要らないよ。ボクはナニガシさんを助けたい為に、薬を作っただけなんだから」
そう言って、氷鶴は美月が渡そうとした代金を彼女に押し返したのだった。
美月は戸惑う。
「え、でも……タダで貰う訳には……」
「いいからいいから。早く薬をナニガシさんに飲ませてあげてよ。それがボクへの一番のお礼だから。ね?」
その言葉に美月は躊躇った。
困っていた自分たちに親身になり、そして手助けしてくれた氷鶴。
その恩人に、わざわざ拵えてくれた薬の対価を渡せないとは……
少ないながらもせめてもの気持ちをと、美月が硬貨を握り締めたその手を引っ込める事が出来ずに居ると……
それを察してか、氷鶴はニコリと微笑んだのだった。
美月はその笑顔を見ると、そして静かに頷いた。
ここは氷鶴の言に従い、その厚意をありがたく受ける事としたのであった。
「……分かりました。でも!お姉ちゃんが良くなったら、改めてお礼に来ますから!」
氷鶴は笑って大きく頷く。
「うん!また元気な顔を見せに来てよ。何より健康が一番だからね。さ、気をつけてお帰り。風邪ひかないようにね!」
来た時と同じ様に、明るい笑顔に見送られる美月と彩花。
礼と共に氷鶴に別れを言い、早速急いで集落へと戻るため出発しようとする。
家を出ようと、美月は玄関の戸口に手をかけ開けようとした。
その時。
……外が何やら、人の声で騒がしい。
遠く離れているが、多くの男達の話し声が、僅かな風に乗ってふいに聞こえてきたのだ。
戸越しなのでその姿は確認出来ないが、どうやら大人数居る様だ。
……?
……人の声?
それはおかしな事であった。
ここは氷鶴以外、誰も居ない筈の、無人の里であるのに……
それなのに何故、外から大勢の人間の声が、聞こえてくるのか……?
考える間も無く次の瞬間、彩花ははっと息を呑むや、そして咄嗟に2人を戸口の前から下がらせた。
勘の鋭い彼女は何かに感づいたのか。
そして何故か声を潜め、後ろの2人に言った。
「美月ちゃん、ここでじっとしていて下さい。氷鶴さん、家の中の明かりを全て消して下さい。物音を立ててはいけませんよ」
そして彩花は戸をほんの少しだけ開けると、外の様子を窺い始めた。
太陽が山の向こうに落ちており、周囲はすでに薄暗くなっていた。
その消えきらない陽の、黄昏の薄明の暗がりの中、遠くに見えたもの。
……多くの松明の灯りだ。
同時に、その光に照らされちらちらと見える、多くの人影たちが在った。
だがその影たちは、見た彩花を驚嘆させた。
……なんとそれらは、それぞれがその手に武器を携えている様であったからだ。
抜き身の刀の刃が微かに、そして鈍く輝いている。
松明の炎の揺らぎによって、僅かにそれらがギラリと見えていたのだ。
その様を見て、彩花は考えるまでも無く人影たちの正体に気付いた。
この様な辺鄙な無人の里において、大勢で抜き身の武装をして歩く者たちが只者である訳があろうか。
常人である筈が無かった。
……察するにおそらく……いや十中八九、彼らは山賊の類いと見て取れた。
しかもその人影たちは真っ直ぐこの家を目指し、その足並みを揃え足早に、こちらに向かってやって来ていたのだ。
今はもうすでに、彼らの表情が分かる程にまで近づいて来ていた。
それら男達の顔は険しく殺気立ち、そして、それと共に邪な笑みを浮かべているのである。
彩花の表情も険しくなる。
と同時に小声で、警戒を促した。
「何ということ……。お2人とも、外には山賊らしき者たちが居ます。数は10数名以上は居るでしょう……」
賊たちの突然の来訪……いや、襲撃か。
彩花の言葉を聞き美月と氷鶴はぎくりとし、途端に身が硬直した。
「山賊だって……?こんな所に?」
氷鶴が震える声で呟く。
たまたま人家の姿を見つけた彼らが、金目の物か食料を物色をする為にやって来ているのか。
あるいはこの冬の寒さの中、暖を取りに来たのだろうか。
どの様な用件で来るにしても、すでに物々しく武器を携えた賊達が美月たちの様に礼儀正しく、その戸口を叩き突然の訪問の詫びをする事などあろうか……?
そうと分かれば最早この家に隠れ、この場に留まる事は出来なかった。
今すぐにでも脱出し、もう僅かの間に来るであろう賊共から何とか逃れなくてはならなかった。
かの大人数に襲われればひとたまりも無い。
これ以上は一刻の猶予も無い状況である。
……だが……
もう目と鼻の先に居る彼らの目を掻い潜り、それが出来るだろうか……?
彩花は思案する……
しばしのち、後ろで怯える美月と氷鶴に、静かに言うのだった。
「美月ちゃん、氷鶴さん。私が殿となります。裏手からお逃げ下さい。そっと、静かにですよ」
それを聞き、美月の顔が更に強張った。
震える手で彩花の袖を引いた。
「彩花さん、何を言ってるの……?急いで一緒に逃げようよ。は、早くしないと見つかっちゃうよ……!」
怯え、唇を震わせる美月。
これまでにも賊との戦いは幾度かあったが、この様に大挙しての襲撃は初めて経験する事である。
幼い彼女でなくとも誰であれ、この様な事態には恐れを抱き、身の危機を感じるものだ。
その上、相手はもれなく武器を持っている。
その彼らを相手にするなど命を投げるに等しい。
だがその危険を承知の上で、彩花が自分たちを逃がそうとしている事を美月は当然理解している。
いくら手練の彩花とは言え、どう考えてもこの人数を相手に防ぎきれる筈が無かった。
彩花はしがみ付く美月の頭を撫でる。
「相手は大人数で松明を持っています。しかももう、すぐそこまで迫って来ています。今全員で逃げれば見つかる可能性が高く、囲まれて逃げ場を失いましょう。私が囮となれば、美月ちゃんと氷鶴さんは安全な場所まで逃げ切れる筈です」
美月はなおも袖を離さない。
「だ……駄目だよそんな事!彩花さんを囮にするなんて!」
彩花は諭す様に、優しく言う。
「美月ちゃんは、そのお薬でナニガシさんを助けなければなりません。今ここで美月ちゃんが賊たちに捕まれば、ナニガシさんも死んでしまうのです。お薬を届けるのは、貴女の大切な役目なのですよ。さあ、お早く。……氷鶴さん、美月ちゃんをお願いいたします」
彼女は美月の小さな背中を押し、氷鶴に託した。
「あ……彩花さん!駄目!」
「さあ美月ちゃん、早く外へ!あいつらが来ちゃうよ。行かないと!」
美月は留まろうとするが、氷鶴にぐいぐいと背中を押される。
そして連れ出され、躓きながら、氷鶴と共に裏口から外へと出たのだった。
外は、雪が静かに降り始めていた。
見上げると夜空には薄絹の様な雪雲が、僅かな風に乗って流れて来ている。
そしてそれを通してうっすらと淡く、高く満月が輝いていた。




