第七幕 儚き者、雪に彷徨う
やがて陽が落ち、外は暗闇に包まれ始めた。
冬の陽は短い。
朝遅く昇ってきたかと思えば、夕早くに沈んでいく。
東は連峰に、西は高峰に。
高山に挟まれたこの狭隘な盆地に於いては尚更、太陽の出ている束の間の時が恋しく感じられた。
陽の温かさと眩さはすぐに雪雲に阻まれ、そして冷たさだけが夜の闇に残された。
この狭く寒々しい北の地に於いて、陽光の儚さと尊さを知る。
雪里の夜は静寂であった。
外から聞こえてくるものといえば、みぞれ混じりの雪の結晶が半ば剥がれかかった軒先に、ぽつりぽつりと1つ1つ落ちてくる音のみである。
その他、囲炉裏の火が小さくぱちぱちと焼けていく音。
奥の部屋からは氷鶴が薬の素材を刻んでいるのか、とんとんと、包丁がまな板を叩く音。
それらだけである。
他は何も聞こえない。
ただ、静かな夜であった。
美月と彩花は囲炉裏の傍らに座り、ここまでの道中の疲れを火の暖かさで癒していた。
天井から吊るされた鉄瓶の湯を啜る。
かじかんでいた手足の冷たさはとうに無くなり、代わりに、湯の温かさが腹に沁みていた。
彩花はその間、ジッと考えていた。
この家に訪れた時から心の内に抱いていた疑問を……
何故『北の里』は無くなってしまったのだろうか。
住人たちは何処へ行ってしまったのか。
何故薬師は亡くなってしまったのか。
そして……
……今はもう誰も住まわぬ土地で、何故氷鶴は1人、この家に居続けているのか……?
問いかけたい事は数多い。
しかし今は、その氷鶴だけが頼りである。
氷鶴が作っている薬を一刻も早く持ち帰り、ナニガシを治してやらなければならないのだ。
焦り、逸る気持ちを抑えて、囲炉裏の前に座る。
今はただ、ジッと待つのみ……
そうしていると、氷鶴が奥の調薬室から出てきた。
「とりあえず、素材の生薬の下ごしらえは終わったよ。今夜一晩、準備した材料を乾燥させてから、早朝に調薬を始めるよ」
と言って囲炉裏の傍らにすとんと座る。
「……ふー。やっぱり火は良いね。生き返るよ……」
氷鶴はその華奢な身体を丸めて、炎に手をかざし嬉しそうにニコニコと笑っている。
そんな氷鶴に美月が尋ねる。
「そういえば、氷鶴さんはどうしてこの里に1人で暮らしているんですか?里の人たちがもう居なくなったのに、氷鶴さんはまだここに残ってるなんて……」
彩花と同じ疑問を、やはり美月も持っていた様だった。
彩花も氷鶴に眼をやると……
氷鶴は淋しそうに、微笑んでいた。
そして、静かに燃える火に視線を落とし、ぽつりと呟く。
「……ボクは……待っていたんだよ……」
「え?」
その返答の言葉に美月は不思議そうに首を傾げた。
直後に、氷鶴はその美月の表情に気が付きはっとした様子となる。
そして慌てた様に言う。
「あ、いやあ、そうじゃなくて……ええと。……ほら!やっぱり、故郷って離れ難いものじゃないかい?住み慣れた場所が落ち着くって言うか……あはは」
その笑みは、まるで取り繕うかに見えた。
今度は彩花が問いかける。
「立ち入った質問なのですが、何故この里は無くなってしまったのでしょうか?住人の方々は、他の土地へと移られたのでしょうか?」
その問いを聞くや、氷鶴は俯いてしまう。
そして呟きの様に、答えた。
「この里の住人たちは、……皆死んでしまったんだよ」
「え!?亡くなった……?一体何故……」
居なくなった里の住人達は別の場所に移り住んでいったのでは無い。
すでに皆、死んでいたのだ。
氷鶴の口から出たその言葉に、彩花とその傍らの美月は顔を見合わせた。
氷鶴は囲炉裏の中に火箸を入れると、そして、静かに語りだした。
「……知っての通り、この土地は雪が多くてね。……あれはある年の冬の出来事だった。猛吹雪が何週間も続いた事があってさ。その積もった雪で、里が一変しちゃったんだ」
火箸で炭を突きながら続ける。
「その雪はこれまで見た事も無いぐらいに、まるで山の様に深く積もったんだ。ある家は雪に完全に埋まって中に閉じ込められたり、またある家は屋根に積もったその雪の重さで、家が住人ごと押し潰してしまったり……。そして、被害はそれだけじゃなかった。里の周り全部も雪が覆い尽くしてしまったから、この土地から脱出出来なくなっちゃったんだよ。余所の土地から孤立してしまって、燃料や食料の補給も出来なくなったんだ」
火箸を置く。
「そんな状況が冬の間ずっと続いて、里の人たちは凍えたり飢えたりして、……1人、また1人と亡くなっていったのさ……」
「……そんな……」
美月は悲しげに俯く。
里の実情を今ここに知り、彼女たちは愕然とした。
集落の村長はこの里の消息が掴めずにいたのだが、その理由がようやく理解出来た。
顛末を語る氷鶴の口が次第に重々しくなり、そして、沈黙してしまう。
その中、囲炉裏の炭が小さくぱちっと弾け、3人の間に響いた。
だがしばしの静けさののち、氷鶴の震える声と共に言葉が出たのだった。
「……ボクの先生、つまり君たちの言う『腕の良い薬師』もその1人だったよ」
「……」
聞いている2人は押し黙る。
「ボクは先生が亡くなった時、今まで先生や自分がしてきた事は無意味だったんじゃないかって思い悩んだんだ。いくら頑張って薬を作って、里の皆の病気や怪我を治しても……結局、皆死んでしまった……。あの時、ボクは何も出来なかった。指を咥えてただ皆が死んでいく様を……一体、ボクの存在は何なんだろうって、……ボクは……何の為に……」
氷鶴は俯いたまま話すうち、その声は次第に涙に濡れていった。
里に1人残った氷鶴。
孤独の中……自分以外誰も居なかったその時間を埋めるかの様に、言葉と感情が溢れたようだった。
里で起きた過去の惨状。
その出来事は氷鶴の裡に洞として残り、そして鉛の様に深く沈み込み、その心を虚で満たしていたのだった。
師である薬師を始め、里の者達が次々と倒れいなくなっていく中、氷鶴は薬師として何も手を打つ事が出来なかった。
その事によって報われぬ想いと不甲斐無さ、そしてあるいは自己否定の感情さえ持ち、己を責め続けていたのかもしれない。
普段は明るく振舞ってはいる氷鶴だが……
その心の裏には別の感情を秘め、ただひたすら、1人きりで耐えていたのだ。
……
暫くの沈黙……
……その時、美月が口を開いた。
「私は……氷鶴さんに感謝しています」
「……え……?」
氷鶴は泣き顔を隠そうと、俯いたまま彼女を見た。
美月はにこりと笑って言う。
「見ず知らずの私たちにこんなに親切にしてくれて、そしてお姉ちゃんを助けようとしてくれてます。だから、氷鶴さんに感謝してます。……氷鶴さんが薬を作ってくれるお陰で、これからも助かる人が居るんです。私は、それが全てなんじゃないかって思います」
美月の言葉。
氷鶴は何かに気付いたかの様に、はっと吐息を漏らした。
そして、顔を上げる。
潤んだその眼で前を見ると……
そこには、美月と彩花の優しい笑顔があった。
「美月ちゃん……彩花さん……」
涙を湛えた瞳で2人を見つめる。
……そして、がばっと飛びついたのだった。
「……うわーん!!ありがとー!!」
鼻を垂らしながら、美月に抱きついた氷鶴。
顔を赤らめ、それをぐいぐいと引き剥がそうとする美月。
「ちょ、ちょっと氷鶴さん、急にどうしたんですか!?は、放してくださいよー!」
そんなじゃれ合う様な2人を、彩花は傍らでニコニコと微笑みながら眺めている。
何気無く言った美月の言葉。
彼女は、ただ自分の感謝の念を素直な心のままに伝えただけであったが、しかしそれは、氷鶴にとっては何物にも代え難い言葉であった。
……
大事なのは、己の信ずる事を成そうとするその心、ただひとつだけなのだ。
氷鶴は、それまで霧の如く眼の前を覆い隠し、わだかまっていた心中がすっかりと晴れたかの様な気持ちだった。
笑いながらばたばたと燥ぐ美月たち。
囲炉裏の中で揺らめく炎によって、家の中は暖かさで包まれていた。




