第九幕 己克
ナニガシと『御主人』の攻防は続く。
『御主人』は手練の忍びであった。
素早く短刀を繰り出すや、それらは的確に急所を狙ってくる。
息つく間も無く刃を振るい、対峙するナニガシの命を奪わんとしていた。
その切っ先が間断無く次々と繰り出される中、ナニガシはそれらを必死に、そして辛うじて防いでいた。
防戦一方であった。
だがしかし、ここに至るまでその身体に手傷を1つも、付けられてはいなかったのだ。
……彼女は眼前の、卑劣な敵に対する怒りに燃えていた。
「臆病」な筈の彼女が戦いへの恐怖を忘れ、手強い『御主人』とのその打ち合いに、何とか食らい付いていたのである。
……
傍らで、そんな彼女の戦いを、美月はじっと見つめていた。
敵を前にし必死に戦う、ナニガシのその姿を彼女はじっと、見つめていた。
……美月は思い出した。
ナニガシと初めて出会った、雨の廃村での光景を。
……
今まさに、ナニガシの戦うその様は、廃村で見たあの時の彼女の姿、そのものであったのだ。
美月を守ろうと、必死に野盗と戦ったナニガシのあの姿は、美月の記憶に深く刻み込まれていた。
そして美月は、本当のナニガシを知っている。
いつもはひょうきんで戯けた、彼女。
臆病で、争いを嫌い、暗い所もお化けも嫌い、後ろから脅かすとすぐに飛び上がって逃げ出す程気弱な、彼女。
……誰かと戦うなんて、そんな事は絶対にしたくない筈なのに。
そんなナニガシなのに……
今も、何かを「守る為」に怖さを忘れ、敵と真っ向から戦っている。
いや……
本当は怖いのかもしれない。
怖がりの彼女は、今すぐにでも逃げ出したいのかもしれない。
でも、恐怖に耐えながらここに居る。
己の信念と心とで、恐怖に向かい合っているのだ。
……本当の「強さ」とは、本当に「克つ」べきものとは何か……
……
美月は、そこに『侍』の姿を見た気がした。
「……お姉ちゃん……」
彼女は呟いた。
……そんな中。
突如後ろで、大音声が木霊した。
直後、重く鈍い音が響く。
『ズドオォンッッ!!』
美月が驚き、振り返ると見たものは、彩花の膝蹴りが対峙していた小男の懐へと、深く突き刺さる様であった。
彩花が、猿を「仕留めた」のである。
相対しているナニガシの肩越しに、己の手下が声も無く崩れ落ちる様を見て取ると、『御主人』が叫んだ。
「むっ!猿!どうした!?」
そしてナニガシも、自分の後ろでもう1つの勝負の勝敗が決した事を悟った。
彼女は敵から眼を離さずに言う。
「……おやおや、手下のエテ公がやられた様だね。これでお前1人になったが、どうするんだ?まだやるのか?」
それに『御主人』が鼻で笑う。
「……ふん、逃げるとでも?お前たちの口を封じるのに私1人で十分だ」
ナニガシはなおも不敵な彼を睨み付ける。
「そうかい。お前も必死なんだろうが、こっちもクマの汚名を雪いでやらなきゃならないんでね。どのみち、お前を逃すつもりは無いからな」
「……大口を叩きおって。……貴様如きに私を捉えられるか!!」
短刀を握り締め、再び『御主人』が打ちかかって来た。
彼は接近するや、刃を横一文字に素早く薙ぐ。
狙いはナニガシの顔面である。
「うッ!」
『キイィン!』
ナニガシは鉄製の鞘を構え、横から伸び来るその刃先を受ける。
金属音が響く。
弾かれた刃を翻し、『御主人』はすぐさま次の攻撃に移ろうとする。
その時、攻撃に集中する彼の足元が一瞬空いたのだ。
隙有りと見るや、ナニガシは相手のその膝に得意の前蹴りで一撃したのである。
「ちっ!」
手下が倒された事で焦りが出たか。
意識の外にあり防御が疎かになった足元を蹴られ、思わず『御主人』はよろめく。
直後、怯んだその隙を逃すまいと間髪入れず、ナニガシは彼の頭部目掛けて鞘を打ち下ろした。
『ブンッ!』
が、それは咄嗟に後ろに避けられたのだった。
『御主人』は忍びゆえにその身のこなしや体の捌きが素早く、なかなか大きな一撃が届かない。
真っ向からの攻撃は避けられるのみで、思う様に痛打が入れられずにいたのである。
だが膝に前蹴りを受けた今、痛みを庇いその動きが鈍くなっている様だった。
若干ではあるが、それまでの俊敏さは損なわれたかに見て取れた。
ナニガシの鞘での殴打を避けた後。
後ろに下がり距離を離した『御主人』がぐらりと、体勢を僅かに崩したのである。
「むううっ……!」
「……!今だ!!」
それを好機と見る。
止めを刺すべく、ナニガシは刀を振りかぶるや突進し、敵へと一気に迫った。
距離を詰め、敵が刀の間合いに入った。
今こそ振り下ろさんとし、柄を握る手に力を込める。
……だが、その時であった。
『ザクッ』
ふいに、『御主人』が彼女に何かを投げつけた。
そして次の瞬間、ナニガシの左の肩に痛みが走る。
「うっ!!何だ!?」
見ると、その左の肩口に棒状の鉄が突き刺さっていた。
それは忍びの飛び道具、棒手裏剣であった。
すると突如、激しい痛みが全身を駆け巡ったのだ。
神経を直接抉られるかの様な痛み。
手足の先端までそれが響き渡るかの様で、まるで身体中が痺れた感覚に襲われたのである。
その激痛に耐え切れず、彼女はその場に膝を突いてしまう。
「くっ、くそっ!……この野郎!!」
肩から流れ落ちる血が左の手の平に滴り落ちてくる。
彼女は咄嗟に傷口に、手を添えた。
その瞬間を見るや、すかさず『御主人』は短刀の切っ先を、繰り出してきたのである。
「その命、もらった!!」
ナニガシは手足が麻痺した様に力が入らず、身動きが取れずにいた。
もはや防御も回避も出来ず、なす術無しと覚悟し、ぎゅっと眼を瞑った。
『ヒュオオッ!』
彼女の眼前に、刺し殺さんと突き出された刃が迫り来る。
その時。
白い着物の人影が、片膝を突くナニガシの前に割って入ると、それに迫り来る『御主人』の眼前に立ち塞がった。
そして、ナニガシに突き出すその刃を左の手の甲で払い除けると、右の拳で『御主人』の顔面に強烈な殴打を入れたのである。
『ゴキイィッ!』
「ぶふッ!!」
鈍い音が響いた。
手練の忍びである彼にとってもその一撃は不意だったらしく、強かにまともに食らい、そして叩きつけられる様に地に倒れたのだった。
その白い着物の人物。
彩花であった。
猿を仕留めた後、ナニガシの危機を見るや咄嗟に割って来たのである。
「……ナニガシさん。あとはこの私にお任せ下さいませ。この者は、私が相手を致します」
微笑みと共に優しく言うや、倒れ伏す忍びの前に立つ。
そして、静かに拳を構えた。
ナニガシに対する温和な口ぶりとは正反対に、敵に対するその眼差しは刺すかの様に鋭い。
一方、無防備だった顔面にまともに拳を受け、痛みによろめきながら立ち上がる『御主人』。
覆面から僅かに覗くその片目が、青く大きく腫れ上がっている。
「……ぐうぅ……こ……小娘ぇ……。また貴様か……」
恨めしく、呻きの如く呟いた。
最初のナニガシへの不意打ちも、彩花によって阻止されている。
実のところその時から『御主人』にとって、脅威と見なしていたのはナニガシではなく彩花であったのだ。
阻止された直後に、その上反撃をしてきた彼女を只者ではないと判断し、警戒していたのだ。
一遇の好機を悉く潰され、彩花への警戒は無意識の内に恐れへと変わっていた。
その彼女と相対し、更に手負いの今、『御主人』も迂闊に手が出せずじりじりと様子を窺い始める。
一方、敵の及び腰のその様子を感じ取ると、彩花はそれを好機と見て前進したのである。
「……私に対しては向かっては来ないのですか?……ならば、こちらから参りましょう!!」
「うっ!」
機を見て、「先手」で動き間合いを一気に詰め、相手の出方を窺う。
そして、相手が焦って仕掛けてきたところを見極め「後の先」で返す。
これが彩花の基本戦術であった。
負傷した『御主人』は距離を詰められたその圧迫に負け、追い払う様に左手で殴りかかってきた。
だがそれは、彩花の思惑通りの動きであった。
彼女はその攻撃を冷静に捌く。
『御主人』のその拳を上から右の手の平で抑えると、逆の手の甲で彼の鼻先にまず裏拳の一撃。
『パキィッ!』
「ぐはあっ!」
その強打に『御主人』は若干仰け反るが、なおも反撃する為踏み止まる。
今度は右手の短刀を彼女の下腹部へと突き刺すべく、繰り出してきたのだ。
『ヒュオンッ』
だが彩花はそれを身体を横に翻し避けた。
すると同時に、抑えていた相手の左腕を肩に背負い込むと、再び彼を投げたのである。
……
前にも同じ様に背負い投げたが、『御主人』にはまんまとすり抜けられてしまった。
……だが、今回のこの投げは、前回のものとは違っていた。
『御主人』の腕を肩に背負った際、その肘が間接とは逆の方向に曲がる様に、捻ったのである。
その為、以前の様に体を翻して逃れる事は、出来ない状態となっていたのだ。
「ぅぎゃあああぁぁぁッッ!!」
彩花の肩を支点とし、『御主人』の左腕の肘がメキメキと、へし折れんばかりにしなる。
そしてその激痛と共に体が浮き上がるや、縦回転しながら宙を舞った。
『ドカアァッ!』
……もはや、受身は取れない。
次の瞬間背中から激しく地面に叩きつけられ、彼は悶絶し転げ回った。
その直後、咄嗟に駆け寄ったナニガシによって組み付かれ、彼は後ろ手に縛り上げられたのだった。
……彼に抵抗する余力など、残されてはいなかった。
流石に手練の忍びであっても、ここに至り逃げおおすなど、もはや叶わぬ事だった。
……ナニガシたちはようやく「噂」の真犯人、『御主人』を捕らえる事が出来たのである。
「ふうー……やっと捕まえた……。皆、怪我は無いか!?」
ナニガシが安堵と共に、大きく溜め息をつく。
忍びの上に馬乗りになりながら、美月と彩花に眼をやった。
「うん、大丈夫……でも、お姉ちゃん!肩から血が出てるよ!!」
美月が心配しナニガシに駆け寄る。
そして今にも泣き出しそうな顔で、血が滲むその傷に、そっと手を置いた。
「あ痛たた!大丈夫大丈夫。大した事無いって。わはは!」
ナニガシは鼻をすする美月の頭を撫でる。
そして安心させる様に、大きな声で笑ってみせた。
「いやあ、それにしても彩花様のお強さには惚れてしまいそうですなあ。お怪我はございませんか彩花様」
彩花をとうとう「様」付けで呼び始めるナニガシ。
……
彩花はというと、袖の襷掛けを外し、すでにその衿を正し終えていた。
戦いによって肌けた腕や首元を隠し、すっと背筋を伸ばし、そしてナニガシと美月に寄り添うかの様にその傍らに、静かに立っていた。
それは慎ましく、凛とした佇まいであった。
その可憐で気品漂う姿は、先程まで男2人を相手に大立ち回りをしていた少女とは思えない程である。
そんな彼女がいつもの様に優しく微笑みながら、ぽつりと呟いた。
「ふふ……。山の中には、様々な殿方が、いらっしゃるものですね」




