第八幕 **
必死の抵抗空しく、とうとう縄をかけられ引きずられていくナニガシ。
その身体にはぐるぐると何重にも荒縄が巻かれ、さながら芋虫の様な有様となっていた。
そんな彼女をずるずると運んでいく野盗の男たちの顔面には、くっきりとビンタや草鞋の足跡が残っている。
ナニガシにやられたのであろうか、彼女のその激しい抵抗の様が見て取れた。
「わーっ!このへちま野郎ども!腐ったミカン!お前らみたいな連中は、柱のカドに足の小指ぶつけて死んじまえ!!」
捕らえられた身でありながら、なおも喚き身体を悶えさせる。
だが、身動きが取れないこの状況を変えるに至る筈も無かった。
「……まったくうるさいお嬢さんですねえ……活きが良いのは結構ですが、10日程牢に繋いでおかなければ大人しくならないでしょうねえ。ブフッフ」
成金は呆れ気味に笑い、その様子を、愉快げに眺めていたのだった。
……この屋敷の周囲には、民家どころか人里など、存在しない。
近くを通る街道にも、今この時分に人の姿を見る事など、殆ど無かった。
国同士の戦が激しさを増す近年、それに比例する様に増していく野盗などの無法者を警戒し、町と町を渡り歩く行為は危険視される。
この「成金一味」の様な者たちに、いつ何時その旅路を襲われるか知れないからだ。
その様な時世、ましてや、その盗賊共の動きが活発になる危険な深夜に、誰が夜道を出歩こうか……
つまり、誰かが助けに来る可能性は全く無い状況であった。
いくら喚き散らしたところで、その声は闇の中にただ消えていくのみ。
誰かの耳に届く事は無いのである。
それを知っているがゆえに、成金を始め、手下の男たちは安心しきっていた。
必死に地面でのたうち回るナニガシを、まるで愉快な見世物であるかの様に、ゲラゲラと笑いながら眺めていたのである。
……
そんな中であった。
突然、手下の野盗の1人が、悲鳴を上げるかの如く叫んだ。
「かっ、カシラぁ!!あ、あれは!?」
「ああん?何だぁ?」
叫んだ野盗の指差した方向。
……それは、屋敷の母屋の屋根の上。
その場の全員が、そこを注視した。
その瞬間、彼らは一瞬で凍りついたかの様に、その動きを止めた。
……その屋根の上には巨大な、謎の黒い影。
そこに大きな、『四足獣』の様な何か。
……得体の知れない『モノ』が、そこに居たのである。
しばし雲に隠れていた満月が、再び現れる。
月明かりによって、その影がゆっくりと、払われ始めた。
……照らし出された、その姿は……
『顔は猿、体は虎、尾は蛇』
体長26尺(約8メートル)はあろうか。
誰も今まで見た事も無い様な、巨大な、正体不明の四つ脚の『獣』。
……それが屋根の上から眼下の人間たちを見下ろすかに、金色に光輝く両眼で以って、真っ直ぐに睨んでいたのだ。
「「ぎゃああああッッ!!」」
その姿を目にした瞬間。
人間たちは絶叫した。
彼らのその叫びは、夜の闇の中へと響き渡る。
恐怖に腰を抜かし、一斉に、地へとへたり込んだ。
……突如目の前に出現したその存在は、恐ろしくも、そして神々しく……
へたり込む彼らのその様は、神を前にして、畏敬と共に伏せるかの様であった。
しかし同時に、化け物に対し、己の命を乞うかの様でもあった。
……その間、彼らの脳裏では……
この『獣』が『神』か『化け物』か、どちらであるか……判別を行っていたかもしれない。
一体何が眼前に居るのか、誰にも分からなかった。
その場でただ、皆硬直し、そして息を呑む声すら聞こえなかった。
……だが、やがて。
次には堰を切ったかの様に、クモの子を散らす様に、野盗たちは叫びながら、次々と逃走し始めたのである。
「で、出た!!バ、バケモンだ!!」
「食い殺されるぞ!!逃げろ!!」
「い、いやだ!!死にたくない!!」
喚きながら、逃げゆく彼ら。
どうやら『獣』は、『神』とは思えなかったようだった。
……
未知の存在を、『化け物』として恐れ慄く事は人間の、恐怖への本能であろう。
もはやそれしか、この異形の『獣』を形容する言葉が、見つからなかったのである。
方々へ逃げていく男たち。
成金も同様に逃げようとするが。
だがしかし、彼は腰が抜けたまま地面に座り込み、もはや動けずにいた。
「お、お前たち!ワタクシに手を貸さないか!」
叫び、横を逃げていく手下たちへ手を伸ばす。
しかしその手は、邪魔だと言わんばかりに払いのけられていく。
……そうして見捨てられていき……
とうとう、彼1人のみとなってしまったのだった。
「く、くそおおおお!!」
出口の門を目指し、何とか体を這いずり、逃げようとする。
……
だがその時、背後に気配を感じた。
ぞくっとした感覚を、本能で……捉えた。
……彼はおそるおそる、後ろに視線を移す。
と。
……
いつの間にか巨大な『獣』が、自分のすぐ真後ろに、居るではないか。
「う、うわああああ!!」
肥えた顔面が蒼白となる。
叫び、地べたでもがく。
『獣』はその巨躯であるにも関わらず、足音ひとつせずに、静かに成金へと、近づいて来ていたのだ。
そのうち、音も無く歩み寄って来た『獣』の大きな猿の顔が、ぬうっと彼の前に突き出された。
そしてなんと、『獣』が言葉を発してきたのである。
【……『かんざし』を渡せ……】
「え……え……?」
その『獣』の声は低く唸るかの様な「音」にも聞こえた。
突然の声に、成金は呆気に取られて茫然とする。
もう一度、『獣』が唸る様に語りかけてくる。
【……『かんざし』を渡せ……】
ようやく、「言葉を理解した」成金が応える。
「か、か、『かんざし』ですか……?そ、それなら、こ、ここにあります……」
彼は大きくガタガタと震える手で、『かんざし』を懐から取り出す。
満月の様な金に輝く両眼で、その『かんざし』を見つめる、『獣』。
すると、目の前のその巨大な猿の顔がガバッと、まるで喰らいつかんばかりに、その顔に見合うだけの大きな口を開けたのである。
その瞬間、成金はビクッと体を震わせるが、しかしその『獣』の意思を理解した。
『渡せ』
という事なのだ。
彼は震えながらそっと『かんざし』をその大きな口の中へ、まるで恭しく、「献上」するかの如く差し出す。
目を瞬かせガタガタと震える彼を横目に見て、すると『獣』はぐるりと背を向けた。
……立ち去るのか……?
成金は一瞬、安堵する。
いつ食い殺されるかもしれないという恐怖に必死に耐えていた、その緊張からようやく開放されるかと思えたからだ。
だが……
その次の瞬間、今度は『獣』の尾である蛇が言葉を発してきたのである。
【……畑を農民たちへ返せ……さもなくば……】
今度はまるで女性の様な甲高い声音で、蛇が語りかけてくる。
成金はその声に凍りつき、身動きが取れずにいると、その蛇の口からしゅるしゅると、赤く長い毒々しい舌が伸びてきた。
かと思えば、そのおぞましい舌が巻きつかんばかりに、すぐ眼前にまで迫って来たのだ。
彼は恐怖し、泣き、絶叫する様に乞いた。
「わ、わかりましたぁ!!か、返します!!畑も返します!!だ、だから……だから命だけはぁぁ……!!」
成金もとうとう精神が限界を迎えたのか、その言葉を最後に緊張と恐怖に耐え切れずに気を失い、力無く地に伏せてしまった。
……それを見て、『獣』は静かに、足音も出さず歩み出す。
そして母屋の裏手へ、夜の闇の中へと消えていったのだった。
……
それから程なくして、屋敷の外に居た美月が勝手口から、すっかり人気の無くなった庭の中へ入ってきた。
ナニガシを探しに来たのである。
「……あっ!お姉ちゃん!」
彼女は暫く庭を見回すとナニガシの姿を見つけ、そして大声で呼び駆け寄っていく。
そこには野盗たちに置き去りにされ、彼らの手から開放された彼女が……
しかし……
「お、お姉ちゃん……立ったまま気絶してる……」
なんと、直立したまま白目を剥き、屋根の上を見上げたままの姿勢で気を失っているではないか。
怖がりのナニガシはどうやら腰を抜かすどころか、『獣』を見たその一瞬で気絶したらしい。
「もー、お姉ちゃん!しっかりして!ほら、帰るよ!」
何とかずるずると、直立のまま硬直した彼女を引きずり、美月は屋敷を後にしたのであった。




