第二幕 廃村の少女
「獣道」の街道を逸れ、ススキや下草が茂る原野を分け入っていく。
腰に差した脇差をナタ代わりにし、腰程まで伸びきった草を払いながら進む。
草鞋を濡らしつつ手こずりながらも、ようやく、地面の開けた場所に出てきた。
ここが廃村の入り口である。
かつてその入り口の目印であった、崩れかかる石灯篭の並びの横を通り過ぎる。
するとやがて竹林に囲まれる、黒く焼け崩れた家々の軒並みが視界に入った。
「……雷はここに落ちたわけではないのか?」
この村から住民が居なくなってからまだ数年しか経っていない。
だが焼けた民家らはその間風雨に晒され続け、もはやかつての面影は失せている。
今はただ、往時を偲ぶのみである。
女は村の中に踏み込む。
黒く煤け、物言わぬその軒先たちは、今でもかつての住民たちの帰りを待ち侘びているかの様に、その暗い戸口を大きく開けていた。
村の中央に立ち、周りを見渡す。
しかし、何とも妙であったのだ。
この村に落ちた筈の、先程の落雷の痕跡がどこにも無い。
あれ程の大雷であったにも関わらず、その煙一つも立ってはいないのだ。
……本当にこの場所に落ちたのだろうか?
果たしてあの雷は何であったのか?
彼女は訝しむ。
気にしつつもだが今はともかくと、今晩の寝床となる家屋を探していく。
「ふむ、ここがうってつけか?」
多くの家は天井や床が腐って抜けており、到底寝場所とはなりそうも無い。
だがその中に、まだ造りがしっかりと立っている小さな家を見つける事が出来た。
開いたままの戸口から、その小屋の様な家の屋内を覗き込む。
明かりが無いゆえ入り口すら暗く、奥は全く何も見えない。
中に先客、主に野盗や野犬の類いが居る可能性がある。
警戒しつつ、腰の刀の柄に手をかけながら、入り口の土間へと一歩進み入る。
……腰帯に差した、反りの無い刀。
真っ直ぐな黒鞘に納まる愛刀。
その柄を、握りながら。
「ジャリッ」と、屋内へ一歩踏み込んだ彼女の足元で、土を踏み締めた音が鳴った。
その時だった。
「だ、誰ですか!?」
突然。
その暗く何も見えない屋内の土間の、更に奥。
全くの闇に包まれた居間の中から、突如、少女の声が響いてきたのである。
声の主の姿は見えないが、その声音は、まだ幼い。
……だが一方。
声が聞こえたその瞬間、女は身体をビクリと大きく震わせ、気の抜けた悲鳴を上げた。
「ぅうっひいいいぃぃッッ!!」
その間の抜けた声は、屋内の闇へと木霊する。
彼女は真っ黒な暗闇の中から飛んできた、その突然の呼びかけに大仰天したのである。
驚きのあまりに、地面から10センチ程飛び上がったかもしれない程だった。
女は怯え、立ち竦んだ。
髪の毛が逆立ち、縮こまった心臓が早鐘を打つ。
全身鳥肌が立ち、足の震えが止まらなくなった。
女はしばし上がる息を吐きながら、土間に片足を突っ込んだ体勢のまま、その場にぴたりと固まってしまった。
……半ば、白目を剥きかけている。
……
……何故そこまで怯え、そして気を失いかける程に驚いたのか……
……実はこの女。
極度の「臆病」なのである。
勇ましく、腰に刀を差してはいるが……
その裏腹に、相当の「怖がり」であったのだ。
それはどの様なものかと言えば。
まず、彼女は幽霊やその類いを苦手としていた。
幼い子供の様に、所謂「お化け」などというものを信じているタチなのだ。
暗闇からの声に過度に仰天し、怯えてしまうのはその所為なのであった。
また、臆病な彼女は、揉め事や争い事を極端に嫌っている。
極力、その様な荒事を避けて生きてきた。
……侍とは本来、戦いとは切っても切れない存在である。
その剣腕を頼りに己の道を切り開く者たちだ。
或る者は国を治める君主に仕え、侍り、大事に於いては命を投げ捨て、その主を護る盾と成る。
また或る者は己の剣の実力を引っ提げ、雇われ者として戦いの場を渡り歩き、終には世に高き名声を馳せる剣客と成りもする。
何れに於いても立身し、身分を得、それ故にその腰に揚々堂々と差す刀は、そんな彼ら侍の象徴として、市井の人々からは畏れと羨望の眼差しで以って容れられている。
戦の多きこの戦乱の渦中である世に於いて、戦いに生きる者、侍たちの存在は大きい。
彼らがこの時勢の流れを動かし、牽引し、創造する。
一方で、この世を乱し、惑わし……破壊しもする。
帯刀するとは、その様な者たちを指すのだ。
……しかし、この女。
彼女は、刀を帯びてこそいるが……
だがこれまで、その腰に差している得物を殆ど、使う事は無かったのである。
荒事に巻き込まれる前に、「とんずら」とばかりに、逃げる。
己の身の安全を第一とし、争いとなる前に、逃げる。
例え万一、立身の道や宝の山が眼の前にあったとしても、「欲の為」に命を投げ打つ事はしない。
それが、彼女の処世と世渡りの術であったのだ。
しかし、その性格は彼女の純粋さと平穏さの顕れとも言えた。
波風立てず、誰も傷つけず。
決して危険を冒さず、欲を出さず。
谷が無ければ、だが山も無い。
そんな生き方。
戦いの絶えないこの時勢。
その世人の目からは確かに臆病ともとられ、謂われる事もある。
だが良くも悪くもか……それが産まれ持った、彼女の性なのであった。
……もっとも、彼女が臆病……いや、戦いを嫌う理由は、相応の『事情』があるのだが……
……
……そんな訳で、女は不意に闇から投げかけられたその声に肝を冷やし、動揺して刀の柄を握る手を、ガタガタと震わせていたのだった。
「お、お、お前こそ誰だ!」
声を詰まらせながらも、何とか威勢を上げて「応戦」する。
だが……彼女のつま先はすでに、横を向いていた。
この場から逃げ出したいという意思の表れである。
犬で言うところ、シッポを巻いている状態であった。
「あ、すみません……。私、ここで雨宿りをさせてもらっていて……」
奥から幼い声が答える。
その口調は、女と対照的に冷静であり、しっかりとしていて落ち着いている。
「あ、そ、そうか。アタシも雨宿りをさせてもらおうと、こ、ここに来たんだ。は、ははは……」
震え声であるが、なんとか平静と大人の体面を保ち、女も応えた。
相手が「お化け」ではなく少女と分かって安心したのか、柄から手を下ろし、ほっと胸も撫で下ろす。
そして土間に入り、居間に上がろうと足を乗せた。
すると。
「あ、待ってください!まだこっちに来ないで!」
狼狽した様子の少女の声。
「え!?ど、どうした!?」
「私、今、ちょっと……」
「何だ?どこに居るんだ?暗くて全然分からんぞ……?」
「ま、待って!」
制止に構わず居間に上がると、手探りで闇の中の少女を探す。
すると突然、見えない先に伸ばしたその手の平に、何かを触った感触があった。
……それは暖かく、そしてすべすべもちもちしている。
……まるで人肌の様な……
「えっ!?なっ、何だこれ!?」
女は驚き、咄嗟に手を引っ込めようとした。
だがそれと同時に。
「きゃーっ!!変な所触らないでください!!」
眼の前から叫び声が屋内中に響くや、その次の瞬間、手前の暗闇の中から平手打ちが飛んできた。
『バチーーーーン!!』
「ぷえっ!!」
暗闇であるにも関わらず、それは狙い良く女の左頬に炸裂した。
またも彼女は気の抜けた悲鳴を上げる。
強烈な、少女からの平手打ちであった。
それも首が180度回転するぐらいの。
「あ痛たた……な、な、何をするか!?」
少女からの良い一撃。
若干顎に入ったらしく、女の膝がガクガクと震えだす。
赤くなった頬を押さえ、痛みに涙目になりながらも抗議し始めた。
「あっ!す、すみません!つい……」
暗闇の中の少女は申し訳なさそうに謝罪してきた。
「私、今ちょっと着る物が無くて……」
「えっ!?きっ、着る物が無いだと!?」
女はぎょっとする。
まさかと思った。
相手は少女だ。
心配となり、暗闇に問いかける。
「まさか、追い剥ぎにでも遭ったのか!?」
「あっ、いえ、違います……。ただ……ちょっと『訳』が有ってこうなってしまっていて……」
「何だと?訳?」
女が首を捻る。
こんな場所で暗闇の中、少女が素っ裸になっている「訳」とは一体何か?
「と、とにかく。今から体に簾を巻きますので、そこで待ってください!」
焦る様な返答の後、手前の暗闇の中からゴソゴソと音がし始める。
「……お待たせしました。すみません……」
再び落ち着いた声音となり、少女が言う。
「しかし、こう暗くてはお互い何も見えんな。濡れて寒いし、火でも熾すとしようか」
そう言うと、女は懐の袋から火打ち石を取り出した。
暗闇の中、土間に落ちている干し草を囲炉裏らしき床の窪みに集め、石を擦ると火を点けた。
床材も少々拝借し、薪としてその中へとくべていく。
時期は中秋の頃である。
雨も外気も冷たくなり始め、濡れた体から体温が奪われていく。
外で降り続くその雨は未だ止まず、崩れかけの屋根に打ちつける雨音が、暗い部屋に響き続けていた。
パチパチと音を立てながら、やがて炎が囲炉裏の中で大きくなっていく。
暗闇だった屋内に、次第に暖かな薄い光が満ちていき……
今まで見えなかった家屋内部の様相が、ぼんやりと見え始めたのだった。
そして暗闇の中の、幼い声の主の姿も。