第一幕 日記
美月がナニガシの家(掘っ立て小屋)に住み始め、おおよそ3週間が経つ。
迷子であった自らを保護してくれた恩人ナニガシと、その日々を過ごしていた。
この家にやって来た当初、美月はその生活に戸惑う事ばかりであった。
何故ならば住み慣れない家だから、というだけでは無い。
ナニガシの家は、実に「気が休まらない」からだ。
建て付けが悪くなかなか開かない戸口。
綿の飛び出た寝床の薄さ。
一歩歩く毎に、悲鳴の様に響き渡る床の軋み。
障子から吹き荒ぶ隙間風。
寝ている間雨が降れば、絶え間無く顔の上に滴り続ける雨漏り。
そして……
毎日の食卓に上る「ご馳走」……
しかし不思議なもので、人間はどの様な環境であっても、やがては適応出来てしまうものであるらしい。
美月ももはやそれらに慣れた様で、今ではまるで茶飯事であるかの様に平然としていたのだった。
楽しく暮らす、そんなある日の晩である。
ナニガシは文机に向かい、毎夜の日課である書き物をしていた。
「『今日の天気は晴れ。今日も仕事は見つからず。美月は何も無い所で躓いて転んでいた。本日の夕餉は……バッタの炙り、コオロギの炒め物、なんかの草のお吸い物。』……と……」
さらさらと気分良さげに筆を走らせている。
なかなかの達筆である様で、白紙の本に勢い良く墨を乗せていた。
「ナニガシさん、毎日日記をつけているんですね」
横から、その様子を興味深げに眺めていた美月が尋ねる。
見るとナニガシが書くその文字は、まるで子供が書いた様な、やたら丸っこく可愛らしい字である。
「そう、アタシの趣味でね。その日の出来事を忘れない様に書いとくんだ。自分が何をしていたのかを後日になって読み返すと、なかなか面白いもんだぞ」
「あー、なるほど……確かに面白そうですね」
ナニガシはその日記をペラペラとめくる。
「……例えば、これは1週間前の日付のものだ。『アタシが道端の地蔵に供えてある団子を食おうとしたら、美月に叱られた。』とか書いてあるな」
「当たり前です」
「あ、こんなのもあるぞ。『畑にイナゴが大量に居たので、食料として片っ端から捕まえていたら、3日間ずっとイナゴで腹いっぱいになる程だった。』とか」
「……延々とイナゴを食べる羽目になるなんて思いませんでした」
「もちろん、君と出会った日の事も記してあるぞ」
「え、そうなんですか?」
「『ススキの原、夜の廃村で美月という名の少女に出会った。暗闇の中で素っ裸を触ったら、ものすごく痛いビンタを食らった。』」
「読んだ人にヘンな誤解されませんかそれ。……というか、一体どのくらい前から趣味として日記をつけているんですか?」
首を傾げ、美月は問う。
日記が趣味とは、ナニガシの意外な面を見た気がした。
普段の大雑把なその性格から、机に向かう心象が全く無いからだ。
「そうだなあ……もう、かれこれ20年ぐらい前からかなあ?」
「え!?そんなに昔からの日課だったんですか?」
更に意外なその答えに驚く。
ナニガシの年齢を考えれば、彼女がかなり幼少の頃からの日課と言えるからだ。
「物心つくぐらいからかな。アタシは小さい頃から筆が達者だった様でね。字を書くのが好きだから、物書きの職に就こうか考えたが……いかんせん、アタシは堅苦しい場所が苦手でなあ」
ナニガシはぽりぽりと頭を掻く。
体系的な教育機関がほぼ無いこの『中原の国』に於いては人々の識字率は低く、文字を読み書き出来る人間は数少なかった。
それは一種の高度な「技術」であり、特別な教育を受けた一部の人間でしか身に付ける事の無い、貴重な「知識」であったのだ。
そしてそれを以ってして初めて、文書や書物が作られる。
それらは時代を超えて後世にまで伝えられる文化文明の礎であり、また、貴重な「知識の庫」でもある。
記される内容など、場合によっては門外不出の宝物ともなり得るのだ。
ゆえに、その貴重な書物らの扱いが許される者は、寺院の高僧や宮に仕える知識人のみであった。
それらを踏まえて考えると……
一体何故ナニガシが、そんな高度な特殊技能たる「読み書き」の技術を体得しているのか……
ちらりと、そんな疑問が美月の頭をよぎった。
「そうだったんですか……それで、ナニガシさんはお侍さんになったんですね」
「いやいやあ、前にも言ったが、アタシは侍なんて大仰なモンじゃないよ。刀なんてろくに使った事も無いんだもん。アタシの得意な事と言えば、字を書く事と、足が速い事と、眼が良い事。……後は、料理の腕かな」
それを聞き、美月が咄嗟に聞き返す。
「え?」
「料理の腕」
「え?」
「……えっ?」
……まるで話が噛み合わない。
味覚に関しては、2人の溝は深い様である。




