第6皿 タヌキのロースト
今回はタイトル詐欺です。
ボクの名は『志摩』、化狸の子です。
え、化けタヌキをご存じない? ああ、大陸では珍しい種族かも知れませんね。
もとは皆さんが諸島連合と呼んでいる【神州飛鳥之國】の出身で、大陸では『霊獣』とか『幻獣』などと呼ばれているようです。
あちらでは狸自体割とお馴染の種族なのですが、大陸にはいないみたいで、ちょくちょく犬や穴熊、ハクビシンなどに間違えられ、いささかプライドが傷ついています。
なにしろボクの一族は化狸といっても、由緒正しい神様の御使い……神獣なのですから。そこいらの魔物とは格が違いますよ、格が。えっへん!
まあ、そうはいっても国津神様の信仰が皆無に近いこの大陸では霊力も思うように使えず、せいぜい妖怪に毛が生えた程度の術しか使えませんが……。
なんでそんな不便な場所にいるのかと言われれば、いまから二十年ほど前に国津神様のお一柱である〈常葉〉様の分霊が、【神州飛鳥之國】からこの大陸にあるママリア公国の港町に奉じられたことに端を発します。
〈常葉〉様の勧請に伴い、もともとその御遣いであったボクたちの母狸である神獣正三位・式部太夫もまた従者としてこの地まで同行することになったというわけです。
で、この地に根を下ろして眷属を産み育てたということで、つまりボク自身は【神州飛鳥之國】を知らない二世ということになりますが、懸けまくも畏き〈常葉〉大御神様に対する崇敬の念は、遠き御祖の産土にいるであろう同族にも決して劣らないと自負しています。
まあそんなわけで、普通の化狸なら百年単位で修行をしないと一人前になりませんが、幸いボクらの母狸式部太夫は神前に拝謁賜ることができるほどの高位神獣ですので、直系のボクも生まれながらに霊力が高く、十年ほどの修行でまあ一人前と認められる程度の術を修めることができました。
さて化狸は母狸を中心にして群れを作る場合と、離れて暮らす場合があるのですが、ボクは迷わず離れて暮らす方を選びました。
この広大な大陸を自分の目で確かめてみたい。
我が一族の名を隅々まで広げてみたいという、男ならでは――基本的に霊獣に雄雌の区別はなく、割とフィーリングで性別を変えるのですが、そこはノリで――の青雲の志を抱いてのひとり立ちです。
行き先は決めていませんでしたけれど、足の向くまま気の向くまま……とりあえず母や兄弟たちのいる海から離れようと、どんどんと内陸の方面へ進んで行きました。
と、見送る母や兄弟たちと別れて十日目。
深い森の隣にある人間の気配のない山道……というか獣道よりちょっとマシな位の細い道を、荷物を風呂敷に包んで背中にしょって、人目もないので二本足でテクテク歩いていた時のことです。
不意に前方から人の気配がふたり分近づいてくるのに気付いて、僕は慌てて傍らの森に――なにか、本能的に忌避していた場所――入ってすぐの茂みに身を隠しました。
そうして息を潜めてさらには『石化け』の術を使って気配を遮断して様子を窺っていると、意外なほど早く、商人風の格好をした青年と、剣術使い風の仕度をした中年男が歩いてくるのが目にはいりました。
危ない危ない。ずっと通行人がいないので油断していたみたいです。
僕は改めて彼らの動向に注目しました。
見ていると青年の方がにこやかに中年男に話しかけています。
「……いや~、実に良い旅であったなウィルヘルム! 森の中のあんなところで、あれほどの美食を味わえるとは!」
「殿下、人気がないとはいえ、どこに聞いている者がいるやも知れませんので、王宮に戻るまではビルと――」
「わかったわかった、ビル。私もガストン殿と同じキルクルスの町にあるチリメン問屋の若旦那で、王都に留学中の遊び人……それでいいのだろう?」
「それでお願いいたします。それにしても、今回のファン・レイン王国への訪問はハズレでしたな。東の帝国が圧力を強めてきたこの時期に、どいつもこいつも目先のことしか考えていない」
忌々しげに顔をしかめる中年男に対して、どこまでも青年の方はにこやかです。
「なにを言ってるんだ、大当たりじゃないか! 食事は美味かったし、しかも今回は噂のアルストロメリア娘子軍の騎士まで隣のテーブルで見ることができたんだぞ! まったく……せっかく楽しみにしていたのに、王都では遠目にしか見ることができず、代わりにむさ苦しい近衛騎士なんぞを儀仗兵に並べおって」
「確かに。あれならあの女騎士たちの方が遥かに腕は上でしょうな」
「ああ、おまけに噂通り美人揃いだったしな。どうせ警護をするならあの者たちに任せれば良いものを……つけられたのは、やたら馴れ馴れしい若造だぞ!?」
「この国の軍務卿の嫡男だそうですから、そのコネでしょうな」
「どこも同じか……だが、彼女たちはあの食事処の常連のようであったし、次に行った時に同席をお願いしても良いかも知れんぞ」
ちなみに聞いた話ではそこいらの食堂では、テーブルでの見知らぬ者同士の相席が一般的だとか。
とにかく客を入れるだけ入れ、一つのテーブルに大皿で料理を出して、勝手に食べてもらいたい店側の意向と、他の連中を押しのけて食えるだけ食いたい客側のニーズが合致した結果だそうです(ちなみに料金は先払い)。
なんか大好物の果物が並べられた時の、兄弟姉妹での苛烈な取り合いを思い出すな~。全員、野生に返ってたもん。
「がっついて歯の浮くような口説き文句を並べて、三人全員から白い目で見られたのは忘れたんですか? 私などリーダーらしい娘に本気の殺気を向けられ、思わず剣を抜きかけまし――んっ?」
軽く肩をすくめた中年男が、次の瞬間、立ち止まって身構えると、ボクが隠れている茂みに鋭い視線を向けました。
まさか、この距離でなおかつ術越しにボクの居場所を察知したの!?
思わず息を止めて、その場で文字通り石になるボク。玉があったらキュと縮み上がったところでしょう。
「どうしたビル?」
「この気配は……? ――いえ、単なる小動物のようです。隠れている気配と視線を感じたもので」
そんなことを話しながら、緊張を解いた中年男は、青年とともに再び歩みを進めてこの場を後にしました。
遠くなっていくその後姿を眺めながら、ボクはガクブル震えながら脂汗を流します。
この距離で、さらにはあっさりと隠蔽の術を看破してボクの気配を察知する剣士が、そのへんの商人の護衛とか……どんだけ剛の者がひしめいているんだろう、この道の先の国には!?
さらに盗み聞きした限りでは、あの中年男性も一目置くような女騎士とかがゴロゴロいるみたいだし……。
な、なんかえらい場所に向かってしまったあぁぁぁっ!!!
港町を出発して十日目。ボクは早くも世界の大きさに震撼しました。
か、帰ろうかな。
思わず弱気の虫に取り憑かれかけたボクですが、親兄弟(姉妹も兼ねてます)に大見得を切って出立して十日で戻るとか、さすがに会わせる顔がありません。
それに僕は由緒ある国津神様の御遣い、神獣正三位・式部太夫の血を引く化狸っ。
この程度の苦難に挫けるわけにはいきません! ……でも、この道を通るのは怖いので、人気のない森の中を通ることにしましょう。
なんか妙な雰囲気のある森だけど、さっき聞こえた話だと森の中に食事処があるくらいだから平気だよね? なんかいたとしても、狼や小鬼くらいなら〈火遁〉とかで倒せるし、いざとなれば得意の幻術で煙に巻いて逃げるのは得意だから。
ということでボクは山道を背にして、森の中を突っ切ることにしました。
だいたいの方位は野生の勘でわかるから、どーにかなるだろう。
三十分後――。
ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!
なんだなんだ、なんなんだこの森は!?
いきなり三丈(約五・四メートル)もある真っ赤な鬣のある熊に襲われたぞ!
ぎえええっ!?! その熊がバカでっかい大蛇に飲まれた!!
どわああああっ! その蛇が一つ目の巨人に一撃で脳天をかち割られて……。
ほげえええええええっ、蛇を食っている巨人がいきなり黒焦げに――!?
ぶひゃあああああああああっ、角と翼の生えたでっけートカゲの親分――って、もしかしてあれがドラゴン!?! あ、巨人まだ生きてる。掴みかかって……ぐほおおおおおおおっ!! 激突の余波で体が飛ぶ――っ!!!!
その場からゴミ屑みたいに吹き飛ばされたボクは、くるくるくるくる森の上を舞って、やがて地面に激突する――ああ、これでお陀仏かと観念した――直前に、大木同士の間に張り巡らされていた、やたら弾力のある絹糸みたいな網に搦めとられて、ボクは奇跡的に怪我ひとつなく着地することができた。
「――た、助かった……? 助かったーっ!!」
信じられないほどの幸運に、ボクは思わず信奉する〈常葉〉様へ感謝の祈りを捧げた。
「まさに一陽来復(悪いことが続いた後に幸運が来ること)! ああ、ありがとうございます〈常葉〉様っ!!」
ひとしきり感謝の念を送った後、さて、こんな物騒な場所からは離れよう。そう思って身を起こそうとしたけれど、ボクの命を救ってくれた網が膠かトリモチのようにビッタリ張り付いて取れない。
てゆーか、物凄い粘着力で一歩も動けない。
あれ……? なんかこの状態の生き物に既視感があるような……。
非常に嫌な予感を覚えていたところ、近くの藪を掻き分けて、長い黒髪に黒いドレスを纏った十八か十九歳くらいと思える、やたら綺麗な女性が顔を出した。
いままで見た女性では〈常葉〉様が文句なしに綺麗だったけれど、この女性も負けないくらい美人だった。
この大陸では珍しい黒髪は、もしかすると【神州飛鳥之國】の血筋なのかも知れない。
雪のように白い肌に琥珀色の瞳がとても良く似合っていた。
「……騒がしいと思うたら随分と可愛らしい獲物じゃのぉ」
ボクに気付いた女性が目を細める。
「毛色の変わった穴熊……いや、もしや狸か? 三百年ほど前に諸島連合で喰ろうたことがあったが、この森で見たのは初めてじゃな」
なにやら不穏なことを口走る女性。
咄嗟に助けを求めようとしたボクだけど、その台詞で頭が冷え、そもそもこんな森の中にこんな女性がいる不自然さに疑問を抱いた。
怪しい……怪しすぎる。
「微かに霊気を感じるところからして、ただの狸ではのうて狐狸妖怪の類いか? どうなのじゃ?」
そう言いながら女性はガサ藪から身の乗り出した。
途端、女性の腰から下……八畳間くらいある蜘蛛の胴体と丸太のような四対の脚があらわになった。
どへええええええええええええええええええええええええええッ!!!???
やっぱ人間じゃなかった、蜘蛛だ。土蜘蛛だああああああっ!!!
咄嗟にガクッと項垂れて死んだふりをするボク。
「これ、返事をせぬか。あからさまな狸寝入りなんぞするでないぞ、これ!」
つんつんと指の先で突かれたけど、ボクは一世一代の死んだふりでそれを無視する。
確か土蜘蛛って、旧い女神様の血を引く大妖怪で、平気でドラゴンでも捕まえて食うとか。
触らぬ神に祟りなし。
ボクみたいな子狸にかまけてないで、さっきのドラゴンでも狩ってください。
と、真摯に祈っていたところ、土蜘蛛はいい加減焦れた口調で、聞こえよがしに言い放った。
「ふ~~む……返事がない。ただの屍のようじゃの。であるなら儂の糸に掛かった獲物じゃ。煮るなり焼くなり好きにしてよいということじゃな?」
「…………」
ボクはすでに死んでいる。だから返事はしない。
「では、せっかくなので儂の良人に腕を振るって貰おうかの。――ああ、そうじゃ。そろそろ夏物の料理服を贈る時期でもあったのぉ」
ポンと手を叩いて、なにやら勝手に納得した土蜘蛛は、いともたやすくボクを糸から外すと、続いてどこからともなく――お尻のあたりからなんだろうな――取り出した、別の糸で僕を雁字搦めに縛ると、そのまま片手で僕を吊り下げて、鼻歌を歌いながらどこへともなく歩き出した。
❖ ❖ ❖ ❖ ❖
「……ということでのぉ。この狸を料理してたもれ、我が背の君よ」
どのくらい歩いただろうか。途中で恐怖のあまり気絶していたボクだけど、なにやら聞き流せない発言に一瞬で目が覚める。
ここはどこだろう? ぶらぶら吊るされたままなのは変わりないけど、日差しが外じゃないな。室内の気配がするし、周囲に何人かの気配もする。
もしかして土蜘蛛の巣に連れ込まれたの?!
「いまの話を聞いた話では、何やら普通の狸ではないような気がするんですけど、よろしいんで?」
「腹に入れば皆同じじゃ」
若い男性の声がしてボクを食うことに懸念を示したけど、さっきの土蜘蛛がそれを一蹴する。
同じじゃなーい! ボクはその名も高き【神州飛鳥之國】の神獣だぞ! 食ったら祟りがあるぞ! 化けて出るぞ!
「う~~ん……」
困惑した男性の声に、ボクは死んだふりを続行させながら心の中でエールを送る。
断れーっ! 止めさせろ!
「……まあ、お嬢がそう言うのなら」
あっさりと前言を翻す男性。
うわああああああっ、役に立たない弁護士だった!!
どんなトンチキだと思いながら、薄目を開けて見た僕の視界に懐かしい……というか、神州飛鳥之國ではお馴染みの黒髪黒瞳、独特の肌の色をした二十代前半だと思える妙な白い服を着こんだ青年の姿が映った。
「――同郷人っ!?」
反射的にそう驚きの声が出たけれど、いまだ自分が危機的状況にあるのを思い出して、ボクは慌てて白目を剥いて断末魔の痙攣を演じる。
「いま、動きませんでしたか、この子?」
背後から土蜘蛛とは違う、柔らかな少女の声が聞こえてきたけれど、もう絶対に動かない。この背後にいるのもきっと首から先が蠅女とか、魚人とかに違いないんだから。
「死後硬直であろう。活きが悪くなる前に料理してたもれ、愛しき君よ」
相変わらずブレずに畳みかける土蜘蛛。
なんでそんな執拗に食べたがるわけ!? ボクなんてあなたの体躯からしてオヤツにもならないよねぇ!
「ま、確かに。狸って奴は肉質が猪に似てるんで、〆てから早めに食った方がいいですし、それに素人が下手に熱を加えるとカチコチに硬くなって食えないので、うちに持ってきたのは正解でしょうね」
「ほほほぅ、そうであるのか。さすがは儂の夫たる者、博識であるのぉ」
うっとりした土蜘蛛の言葉を、背後からの少女の声が遮る。
「ちょ、ちょっと待ってください! さっきからマスターを『我が背の君』とか『愛しき君』とか『夫』とか、事実無根の話をしないでください!」
「儂がそう決めたのじゃ。じゃからそう決まっておる」
「そんなの理由になりません! マスターも何か言ってください!」
「狸ってのは食い物によってガラリと肉の味が変わるからなぁ。特に春先はミミズや虫を食ってるから臭いんだよなぁ。穴熊とかハクビシンなら安定して美味いんだが……」
「ああっ、もう料理の事しか頭にない!」
背後で誰かが頭を抱えた気配がしたけれど、人生……狸生にリーチがかかっているボクはそれどころじゃなかった。
「ほほほほほっ。嫉妬であるか、見苦しいのぉ。じゃがまあ、我が夫の君はこれほどの美男子であるから、惚れるのもやむなしであろう」
「そんなんじゃありません! ……それは、確かにマスターがハンサムなのを認めるのは、やぶかさではないですけど」
そーかな、割と平凡な顔立ちだと思うけど……。と、胸中でツッコミを入れた。
「では、頼んだぞよ」
「了解……まあ、持ち込みですし、お客様のご要望とあれば料理するのが料理人ですから」
ミノムシみたいにブラブラ揺れながら、空中で土蜘蛛の手から青年の手へと渡されるボク。
「そういえば以前、儂が喰ろうた時は“タヌキ汁”とかにしたのぉ。ちょいと臭みがあったが、あの料理なら臭いをある程度中和できてなかなか美味であったぞよ」
余計なリクエストをする土蜘蛛。つーか、臭いの前提にするな! ボクはそのへんの野良の狸と違うわ~~っ!!
「へー、タヌキ汁なんてものがあるんですか?」
「うむっ。諸島連合では狸と言えばタヌキ汁というくらいじゃぞ。――愛しき夫君よ、タヌキ汁はできぬのかえ?」
奥に行きかけていた青年が立ち止まって困惑したような唸りを発する。
「あれは味噌がないと絶対に無理ですからね」
やった! 〈常葉〉様の采配だ。味噌は【神州飛鳥之國】では醤油に並んでポピュラーな調味料だけど、この大陸には存在しない。
まだしも魚から作った醤油に近い調味料ならあるみたいだけど、味噌をいまから準備するのは無理に決まっている。
内心小踊りするボク。けれど、次の瞬間、ボクの心境はまさに天国から地獄の底へと叩き落された。
「“ミソ”か、あるぞよ」
あっさりと言い切る土蜘蛛。
「二十年ほど前からママリア公国の港町に諸島連合からきた亜神が越してきてのぉ。儂もあながち知らぬ仲ではないので、たまに季節の便りとともに贈り物をやり取りするのじゃが、その中にミソがあったはずじゃ。ちょっと待っておれ、持ってくる」
そう言って土蜘蛛が席を外し、ちょっと間をおいて扉を開閉する音がした。
「「…………」」
なんとなく料理人という青年ともうひとりの誰かが無言で顔を見合わせる気配がする。
「えーと……作るんですか?」
「さすがに味噌は俺の料理とは別物だからなぁ。とはいえ、お嬢にはコック服やら給仕服を一式作って貰っている恩があるんで、無下にするわけにもいかないし……だが、違う分野の料理は、まあやれと言われればやるけど、正直あんまり気が進まない」
「じゃあタヌキ汁は作らないんですね?」
頷く気配に、少しだけ希望が見えた。
「とりあえず、さばいて軽く焼いてみれば肉質がわかるだろう。普通だったらバターを塗ってフライパンで焼いて、オーブンで軽く焼くのを何度か繰り返すのが良いだろうな。ソースは赤ワインとミルポアで……フォンは肉を取った骨で、あと付け合せにジャガイモをあしらえば『タヌキのロースト』の出来上がりだ。なんとかなるだろう」
「なるほど、美味しそうですね~」
うええええええええんっ! やっぱり駄目だったよぉ! 喰う気満々だよ~~っ! おかあちゃん~~~~~~~~っ!!
我慢ならず、人目もはばからずに慟哭するボクの下半身から、知らずにお漏らしがほとばしっていた。
❖ ❖ ❖ ❖ ❖
「ねえねえ、あの娘だれ?」
夕方になり、夕食を摂りにやってきたメイアたち三人の女騎士たちは、はじめて見る娘がせっせと床を雑巾で拭いている様子に揃って首を傾げ、すぐに注文を取りに来たミュゼットに尋ねた。
「臨時の下働きみたいなものです」
なぜか苦笑した彼女からそんな答えが返ってくる。
「へえー。耳と……スカートの下からぶら下がっているのは尻尾よね? 見た感じ獣人族みたいだけど、南方の出身かしら?」
この世界、人間と獣を足して割ったような『獣人族』という種族がいて、大抵が人とは違う特徴を持っている。
一般的な特徴は人族にはあり得ない獣の耳と尻尾であるが(100%見た目が直立した狼とか熊、虎などの部族もいる)、その生活圏は主に大陸南方であるが、大きな町にいけばちらほら見ることができる程度は人の間に浸透していた。
「え~と、獣人族というか……もともとの親の出身は諸島連合らしいんですけど。旅の途中でちょっと、その店内で粗相をしたために、その始末と生存のために働くよう、とある常連さんから勧められて使っているところです」
あの時は大変だったわね、と。ほんの数時間前の騒ぎを思い出してミュゼットは苦笑する。
もっともそれが意外な方向に転がって、
「あ、こりゃ駄目だわ。小便の臭いで肉の臭みがだいたいわかるけど、こりゃ食えたもんじゃないな。火を通したら店中に悪臭が充満するレベルですな」
「う~~む。敬愛する所天がかように言うなら諦めるしかないのぉ。しかたない、後日別の獲物をもって参ろう。で、この狼藉者だが……」
「ま、この場の後始末はしてもらわんと商売にならないんで……」
「承知した。では、御亭主が納得するまでこやつはここで働かせよう。逃げんように、いちおう契約の魔法を施しておく――ふむ、真名は『少初位下令史・志摩』であるか。では、シマよ。よいか、我が愛する夫が命じることは絶対服従。また、この場所から勝手に逃げた場合は即座にタヌキ汁になるよう強制服従を施しておいた。努々忘れるでないぞ」
土下座の姿勢を取る豆狸の額に、アラウネが指先を触れただけだが、一瞬でそこに膨大な魔力がほとばしったのを、ミュゼットは即座に感知した。
同時に豆狸も理解したみたいで、ぶるぶる震えて歯の根も合わないようである。
「とりあえず、しばらくはミュゼットの手伝いをしてもらおうか」
「ふむ。おい、狸。おぬし妖怪変化であるなら人に化けることもできるであろう? なら女給に化けて奉仕するのじゃ、よいな?」
無言で何度も何度も頷く豆狸。
「なんで男性給仕じゃなくて女給なんですか?」
ミュゼットの当然の疑問にあっけらかんと答えるアラウネ。
「予備の女給服なら一式すぐに用意できるからのぉ。それに儂は一途なのじゃ。他の男のための服など織わんわ」
そんな一件を経て、現在、人間に化けて必死に働いているところであった。
「「「へ~~っ。諸島連合!」」」
説明を聞いた三人娘の好奇の視線が、彼女……というか、女給服を着た十五歳ほどの黒髪で、ちょっとボーイッシュな娘に向かう。
なぜかさめざめと泣きながら床を拭いている彼女。
「名前はなんていうの?」
「シマちゃんです」
メイアの質問ににこやかに答えるミュゼット。
「そっか、大変だと思うけど頑張ってね。シマちゃん!」
「このお店は店員もお客さんも皆さん良い人ばかりですから、シマちゃんは幸運ですわよ」
「シマちゃんメイド服が似合って可愛いわよ!」
口々に“シマちゃん”にエールを送る三人娘。
その無邪気な声援になおさら惨めな気持ちで涙を流す志摩。
「じゃあミュゼット、あとシマちゃん。三人前……いつものお任せで!」
「それと、お酒はまずは冷えたエールで、次にドワーフ酒の果実水割でお願いします」
メイアの後に続いて部下のシャルロットが注文をする。
「あ、じゃああたしもエールで!」
「貴女は駄目よ、エミリィ。正式に成人するあと一年は滓っ子か果実水で我慢なさい」
最年少のエミリィが尻馬に乗ってお酒を注文しようとするのを、シャルロットがやんわりと制止する。ちなみにファン・レイン王国では十三歳を仮の成人として、さらに十六歳で一人前扱いされるのが通例であった。
「ぶー、ぶーっ!」
「ぶひぶひっ!」
ペットのウリ坊と一緒になってブーブー言うエミリィを微笑ましく眺めながら、ミュゼットは注文を繰り返す。
「承りました。シェフのお勧め、そしてエールふたつに果実水ひとつですね?」
「あと、ウーちゃんのご飯もお願いします」
「わかりました。マスターに話しておきます。手伝ってください、シマちゃん」
エミリィの要請にふたつ返事で答えて、厨房へと戻るミュゼット。
「うい……」
その後をノロノロとした足取りで志摩が続く。
ご感想や評価ポイントをいただくと作者のやる気がもりもりわいてきますので、よろしくお願いいたします。
※中世ヨーロッパでは旅をする場合、街道を通る決まりがあり、それ以外の道なき道を突き進む……などとやった場合は、盗賊か他領や他国の密偵としてその場で処刑されても文句は言えませんでした。
街道と河川は国王の所有物となっていますが、道や橋の管理は領主が行うので当然のように通行税を取られました。
※狸は東アジア中国・朝鮮半島・日本・シベリアの一部と樺太に生息しています。
最近は北ヨーロッパのかなりの広範囲で確認されていますが、これは人間が持ち込んだものが外来種として繁殖したもの。
基本的に狸は日本にはホンドタヌキと北海道にエゾタヌキがいます。
エゾタヌキはなぜかヒグマに喰われないので(アイヌの伝承では狸は羆のパシリだから)、ヒグマの巣穴のすぐ隣に巣を作ったりします。
※なお、この作品はあくまで異世界を舞台にしたものであり、現実の世界における鳥獣の捕獲等に関しましては、狩猟免許等の取得が必須です。
《一口メモ》
一般的にタヌキは内臓の処理が悪いと腸や膀胱が破けてとてつもない悪臭を放ちます。
当然の事ながらフランス料理では使用しません……が、本場のフランスでも使う野獣の肉はかなり処理が杜撰で臭うものがあるということですので、料理しようと思えばできます。
また、タヌキ汁にする場合、3つのパターンがあり。
①本物の狸を大根や牛蒡、人参と一緒に味噌で煮る。
②アナグマやハクビシンを狸と言って食べる。ちなみにアナグマもハクビシンもジャコウネコの仲間で、主食が果実と花なのでかなり臭いが少なく、肉質も柔らかで犬科の狸とは比較にならないとか。まあ、狸の猛烈な臭いがいいというコアなファンもいますが。
③蒟蒻をゴマ油で炒めて代用品にする。精進料理における『タヌキ汁』です。鬼○犯科帳で食べたタヌキ汁はこちらで、江戸時代に一般的に食べられていたのはこっちのほうです。
本文にも書いてありますが、臭いがかなりきついので、好き嫌いが別れるところ(女性は確実に耐えられないでしょう)のお肉です。