それの何がいけませんの?
俺は激しく困惑していた。
目の前には自身の兄で第一王子のローガンと、我らがノザランディア王国の国王である父が並んで座っている。二人ともダラダラと汗を掻き、酷く青褪めた表情だ。
「一体どうなさったのです?」
呼び出されてから既に十分。どちらも中々口を開こうとしない。何度も顔を見合わせながら口を噤み、首を横に振るということを繰り返している。
「父上? 一体何が……」
「ジェイデン。実は――――エルビナとローガンの婚約を解消したんだ」
「え?」
思わぬ言葉に目を瞠る。
エルビナは我が国の聖女であり、兄上の婚約者だ。十二歳の時に聖女の力に目覚めて以降六年間、聖女として、未来の王太子妃として、この城で生活をしている。
彼女の力は絶大で、人々の傷や病を自在に癒し、飢えを満たし、大地や運河、天災をも鎮めてしまう。当然、民からの人気や人望も厚く、今やエルビナなしにノザランディア王国は成り立たない。
そんなエルビナとの婚約を解消してしまうだなんて、正直言ってありえない。どうかしているとすら思う。
「今からでも遅くはありません。婚約解消を撤回すべきです。彼女は我が国に――――我が王室に必要な女性ですから」
万が一彼女が力を貸してくれなくなったら――――? 他国に奪われるなんて以ての外だ。
何としても繋ぎ留めなければいけない存在だというのに。
「分かってくれるのか、ジェイデン!? そうだ。エルビナは間違いなく我が王室に必要な女性だ! だが、事情があって…………ローガンと結婚させることはできない。絶対に、できない。
そこでだ、ジェイデン。
私はお前とエルビナを結婚させようと思っている」
「……は? 私、ですか?」
思わぬ話の展開に、俺は思わず身を乗り出す。父上は神妙な面持ちで頷きながら、小さくため息を吐いた。
「しかし、宜しいのですか? エルビナは納得してくれるのでしょうか? 俺はあくまで第二王子ですし……」
「もちろん! このことは既にエルビナも了承済みだ。
いやぁ、良かった。お前ならきっと大丈夫。
そうと決まれば話は早い。エルビナのところに行って、彼女と親交を深めてくれ!」
先程までとは打って変わり、父上は上機嫌に微笑む。
二人はこれ以上の事情を話す気がないらしい。急かすようにしながら、俺を部屋から追い立てる。
(何が何やら分からないが)
俺には拒否権はないらしい。
事の重大性は分かっているし、政略結婚に不満もないが、釈然とはしない。
いつになく口数の少ない兄上を振り返りつつ、俺は静かに部屋を後にした。
***
聖女エルビナは、城にほど近い大聖堂の中で、神に祈りを捧げていた。
光に透ける薄紅の髪、ルビーのように深く神秘的な紅の瞳。未だあどけなさが残るものの、雪のように白く美しい肌に薔薇色の頬、人形のように整った目鼻立ちをしていて、妖精や天使、女神の呼称がよく似合う。
そのあまりの美しさ故、彼女を一目見るだけで寿命が十年伸びると言われており、聖堂は今やちょっとした観光スポットになっている。滅多に人前に姿を現わさない王族の人間よりも余程、彼女の方が人気者だ。今だってそう。お祈りを終えるや否や、たくさんの人に囲まれている。
「ジェイデン様!」
俺の存在に気づいたらしい。エルビナがこちらに駆け寄ってきた。
「殿下に聖堂まで来ていただけるなんて光栄ですわ……! わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
「いや。君の方こそ、いつもご苦労様。本当はもっと足を運びたかったのだけど」
これまで俺は、聖堂にはあまり立ち入らないようにしていた。
公務の棲み分けとでも言おうか――――彼女は兄上の婚約者だから、過度に交流を持ってはならない。
だから、これまでエルビナとは上辺だけの付き合いしかしてこなかった。
「突然のことで驚きましたでしょう? ジェイデン様には申し訳なく思っているのです。わたくし達の事情に巻き込んでしまって……」
「一体、何があったのです? 父上も兄上も、俺には何も話してくれなくて」
民から距離を取りながら、俺は尋ねる。すると、エルビナは大きな瞳を潤ませ、そっと俯いた。体格差のせいで表情が見えないが、泣いているのだろうか? 胸がつぶれるような心地がして、俺は彼女の肩を抱いた。
「何か、辛いことがあったのですね」
エルビナは応えない。静かに肩を震わせ、俯いたままだ。
沈黙は肯定を意味する。
俺は静かにため息を吐いた。
前々から、兄上の素行には問題があった。
婚約者が居ながら、他の令嬢にフラフラするのはもちろんのこと、夜会の際にエルビナのエスコートも碌にせず、時に悪口を吹聴する。
恐らくは、それらの行動がエスカレートしてしまったのだろう。婚約解消に至ったのも無理はない。
「兄上はどうかしています。あなたはこんなにも美しく、優しい人なのに」
「まぁ……! そんな風に思っていただけるのですか?」
「もちろんです。
これからは兄上の分まで、俺があなたを誰よりも大事に――――幸せにしますよ」
これは国のため、政略のための結婚だ。
けれど、彼女は素晴らしい女性だし、婚約者を大切にするのは当然のこと。これまで辛い思いをさせた分、俺がエルビナを甘やかしてやろうと心に決める。
「よろしくお願いいたします」
俺達は微笑みながら、握手を交わした。
***
エルビナは俺の想像以上に素晴らしい女性だった。
婚約者になって以降、出来る限り食事や茶会の機会を作り、交流を持つようにしているのだが、彼女の頭の中はいつも国民のことでいっぱいで。会話の大半は聖堂を訪れる人々や、遠征の時に出会った民、領地の話で埋め尽くされていた。
「――――そうか。それで西部に遠征を希望しているんだね」
「ええ。あちらでは今、例年よりも嵐がたくさん来ておりますでしょう? 水害はなくとも、不作の原因にはなりますし、生態系にまで影響が出ているかもしれませんもの。報告が上がって来ていないだけで、水路や道路に問題が発生している可能性もございますし」
「現時点でエルビナの力が必要か分からないし、はじめは文官や騎士を派遣しても良いんじゃないかな?」
聖女の力は広範囲に及ぶ。けれど、大地に恵みを与えたり、天候を操るためには、直接現地に赴く必要があるらしい。
「わたくし、何事も自分の目で見て確かめたい性質ですの。もちろん限界はございますし、既に影響が生じていると決まったわけではございませんが、あちらの皆さまが困っているのは間違いございませんもの。行って、励まして差し上げたいのですわ」
エルビナはそう言って穏やかに微笑む。
(なんて高潔な女性なんだ……!)
己の目で物事を見て、実際に民に触れ合って、それから苦しみを分かち合おうとする。こんなこと、普通の令嬢には絶対できない。これはきっと、聖女だからこそ持ち得た慈愛の精神なのだろう。
「俺も一緒に行っても良い?」
気づけば俺はそう尋ねていた。
正直言って公務は目白押しだし、王族の遠征は手間がかかる。スケジュールの調整や護衛の手配、側近たちには手間をかけてしまうが、それでも彼女と同じものを見て見たいと思ってしまう。
「もちろん。是非、ご一緒していただきたいです」
あまりにも可憐に微笑むエルビナが愛しくて、俺は彼女を抱き締めた。
***
以降、俺はエルビナの公務に同行することが増えた。
民と触れ合うエルビナは、殊更美しく神々しい。誰とでも気さくに接し、どんなに汚れ垢に塗れた手でも躊躇いなく握り、献身的に働くその姿に俺は大きな感銘を受けた。
これまで俺は、日中の殆どを城で過ごし、実際に民の姿を見ることなく過ごしてきた。それが王族の公務の在り方だと思っていた。
けれど、人伝に聞くのと、実際に見るのとでは全然違う。自分では熱心に公務をこなしてきたつもりだったが、てんでダメだ。
「けれど、ジェイデン様はそうやって変わろうとなさいますもの」
俺の気持ちを察したのだろう。エルビナはそんな風に慰めてくれる。
「あなたはとても素晴らしい人。どうか自信をお持ちになって?」
何故だろう。エルビナに言われると、大丈夫な気がしてくる。
ありがとうと口にして、俺はそっと微笑んだ。
日が経つにつれ、俺はどんどんエルビナに嵌まっていった。
彼女は本当に愛らしく、一緒に居ると癒される。花のような甘い香りに鈴のような声音。羽が生えているのでは? と思う程小さく、軽やかな身体。ついつい触れたくなるし、甘やかしたくなる。
女性というのは、こんなにも柔らかく温かい生き物なのか――――彼女を胸に閉じ込める度に、そんなことを考える。絹のように滑らかな髪を撫でながら、額に唇を押し当てながら、エルビナの甘さを堪能する。
「ジェイデン様」
擦り寄られ、名前を呼ばれるだけで、俺の心は熱く震えた。彼女に名前を呼ばれる唯一の存在になりたい――――そんな風に思う程に。
(兄上はどうして、彼女を大切にしなかったんだろう?)
俺にはエルビナを手放すなんて考えられない。
彼女は誰よりも妃に相応しい女性だ。常に民のことを想い、己の身を呈して彼等を救う。
言葉でどれ程『民を想っている』と口にした所で、その想いを示すことは難しい。けれど、エルビナはきっと聖女の力がなかったとしても、民のために尽力しただろう。泥や汗にまみれながら彼等に寄り添い、身銭を切ってでも食わせようとする。これまで俺に宛がわれた他の婚約者候補たちにそんなことが出来るかと問われれば、答えは否だ。
それだけじゃない。
妃に相応しいかどうかに関わらず、俺はハッキリとエルビナに惹かれている。
彼女の美しさに、優しさに、その全てに。
エルビナが笑うと嬉しくなる。心がポカポカと温かくなる。もっと笑わせてやりたい。たくさん甘やかしてやりたいと思う。
他の女性なんてとても考えられない。それなのに、兄上はどうして――――?
「ジェイデン」
その時だった。兄上が背後から俺を呼び止める。
お互い今は、側近たちが付いていない。きっと二人きりで話がしたかったのだろう。
「兄上、俺に何の御用ですか?」
「その……エルビナのことなんだが」
内心ドキッとしつつ、俺は兄上を見遣る。
兄上ときちんと話をするのは、エルビナとの婚約解消以来はじめてのことだ。兄上がエルビナを傷つけた理由、その経緯については知っておきたい。
「お前は――――――あの女と上手くやれているのか?」
「それは……どういう意味ですか?」
上手くやれている?
言っている意味が分からない。首を捻った俺を、兄上は真剣な表情で見つめた。
「頭痛は? 吐き気は? 大量の虫に襲われたり、見えない壁にぶつかったり、悪夢にうなされることは?」
「なんです、それ? そんなこと、ある筈が無いでしょう?」
あまりにも突拍子のない発言に、俺は困惑を隠せない。兄上は幻覚でも見ていたのだろうか――――そう勘繰りたくなってしまう。
「第一、身体の不調であれば、エルビナが治癒してくれるじゃありませんか。仮にそういった現象があったとして、それを彼女と繋げる理由が俺には分かりません」
「ジェイデン、落ち着いて聞いてくれ。お前はあの女に騙されている。
あの女は――――お前の婚約者は悪魔だ! 絶対、そうに違いない!」
「……なにを言っているのですか?」
駄目だ。怒りで腸が煮えくり返りそうになる。
俺の婚約者――――愛しいエルビナにくだらない因縁を付けられた。
元々彼女は兄上の婚約者で。兄上に悲しい想いをさせられていて。せっかく今は俺の婚約者として、毎日笑って過ごせているのに。
「エルビナは聖女です。高潔で美しい、素晴らしい女性です。悪魔だなんて言われる筋合いはありません」
「本当なんだ! あの女はいつも僕の一挙手一投足を監視しながら、ネチネチと嫌味を言い、蔑み、時に聖女の力を悪用しながら苦しめてきたんだ! それに、僕達の婚約が解消されたのだって、絶対あの女の差し金だ。嵌められたに決まっている」
「そんなこと、俺のエルビナがするはず無いでしょう!」
「信じられないのも無理はない。今は未だ証拠がないからな。だが僕は絶対にあの女の本性を暴いてやる。絶対に、だ」
兄上はそう言って踵を返す。
憤りを抱えつつ、俺もその場を後にした。
***
紅のベルベット地のドレスに身を包み、エルビナが可憐に微笑む。胸元には無数のダイヤが輝き、彼女の真っ白な肌を際立たせている。
エルビナと婚約をしてはじめて迎える夜会。彼女をエスコートできる機会を俺はとても楽しみにしていた。
令嬢にドレスや宝石を贈るのだってはじめてのこと。職人を城に呼び、彼女に似合うものを仕立てて貰うのは、とても楽しいひと時だった。
「如何でしょう? おかしい所はありませんか?」
「まさか! 綺麗だ。本当に、この世界の誰よりも美しいと思う」
心からの賛辞を述べれば、エルビナは頬を染め恥ずかしそうに顔を背ける。そんな仕草まで意地らしく、愛おしいと思うのだから末期だ。
夜会会場でも、エルビナは貴族達の注目の的だった。
兄上と彼女の婚約が解消され、俺と婚約を結んだことは既に周知の事実。好奇の視線もいくら混じっているが、大半はエルビナの美しさに対する称賛の視線だ。
「いやはや、とてもお美しい」
普段は飾り気の少ない純白のドレスに身を包んでいるためか、大分イメージが違って見えるらしい。
欲に塗れた男どもの視線を遮りつつ、俺はエルビナを抱き寄せる。
見せびらかしたい――――けれど誰にも見せたくない。全く相反する気持ちが共存することもあるのだと、俺は身を以て知った。
「まぁ……! ジェイデン様は、案外独占欲の強いお方なのですね?」
「そうだよ。知らなかった?」
ほの黒い感情を乗せて微笑めば、エルビナは目を丸くして笑う。
「ええ。けれど、嬉しいです」
ぴっとりと、寄り添いながら囁かれ、胸がグッと熱くなる。
可愛い。
彼女の頭に手を伸ばそうとしたその時だった。
「ジェイデン、その女から離れるんだ!」
煌びやかな夜会会場に響き渡る声。
人波を掻き分けながら、兄上が俺達の前へと歩み出た。
「兄上……このような場で、一体なにを言いだすんです?」
今や、会場の注目は完全に俺達へと集まってしまっている。皆に楽しんでもらうために開かれた夜会。王家が主催とはいえ、このような形で私物化して良い筈がない。
「話があるなら別室で。ひとまずこの場を離れましょう」
「駄目だ! 今から話すことは、ここに居る皆が知るべきだ。清らかと謳われる聖女エルビナの――――この女の恐るべき本性を! その女は聖女の皮を被った悪魔だ!」
勝ち誇ったように笑いながら、兄上は俺達への距離を詰める。俺はエルビナを庇いつつ、兄上へと向き直った。
「兄上は勘違いをなさっています。本性……数日前にもそんなことを仰っていましたが、エルビナは美しい心を持つ女性です。兄上が仰るようなことは何も――――」
「いいや、ある。証拠だって確保した。今からお前に、この女の本性を一つずつ暴いていってやる」
兄上はそう口にし、険しい表情でこちらを睨みつける。対するエルビナは穏やかな微笑みを浮かべつつ、俺の隣に佇んでいた。
「六年前――――この女が聖女に就任した頃からだ。僕は原因不明の頭痛に悩まされるようになった。治癒をするように指示しても、エルビナは『もうしています』と口にするばかり。ちっとも痛みが治まらない。その内、頭痛だけじゃなく腹痛や眩暈まで現れ始めた。僕の婚約者は聖女なのに――――聖女の筈なのに! 良くなるどころか悪化する一方だ。この女は聖女なんかじゃない! 本当は人々を癒す力などないのだ!」
「兄上……それ、本気で言ってます?」
開いた口が塞がらない。彼女が聖堂で、街で、人々を癒している姿を俺は見ている。頭痛や腹痛と言った見えない部分はさておき、実際に傷が癒える様子だって見ているのだ。エルビナの能力は疑いようがない。この場に居る誰もが――兄上以外の皆が――そう思っていた。
「それだけじゃない。この女は王太子である僕に対し『もっと民を見ろ』『浪費をするな、倹約をしろ』『勤勉であれ』『誠実であれ』などと口を出し、社交や夜会の邪魔をした。この女のせいで潰された話がいくつもある。本当に腹立たしいことだ」
兄上はそう言って悔し気に顔を歪める。
が、正気だろうか?
エルビナは当たり前のことしか言っていない。兄上のサボり癖については、側近達に泣きつかれたこともあるし、容易に想像がつく。もちろん、一般人よりは働いているかもしれないが、俺達は王族。常に他の手本となり、皆を率いていく責務がある。
普通じゃダメだ。もっと先へと進まなければいけないというのに。
「驚いただろう、ジェイデン? だが、最後はもっとすごいぞ?
この女はな、僕との婚約を破棄するために、令嬢たちを差し向けたんだ」
「……なに?」
勝ち誇ったような表情の兄上に、俺は思わずエルビナを見遣る。
(嘘だろう?)
俺のエルビナが。慈悲深く、心優しいエルビナが、そんなことをする筈がない。
チラリと隣を見れば、エルビナは眉一つ動かさぬまま兄上のことを見つめていた。
ほら、違う。
絶対違う。
俺は首を横に振りつつ、兄上の方に向き直った。
「エルビナは王太子であるこの僕が気に食わなかったらしい。金で人を雇い、僕の気持ちを弄び、挙句の果てにお前との婚約を迫って来た。
その女が何て言ったか知っているか? 『これ以上ローガン様と婚約を続けたくはありません。絶対に嫌です。
けれど、王家としてはわたくしを手放すわけには参りませんでしょう? そんなことをすれば神の怒りを買い、この国は災厄に見舞われますもの。だったら、わたくしとジェイデン様とを結婚させてください』と、そう言って父上と僕を脅迫してきたんだぞ?」
まさか、と思いつつも反射的に父上を見遣る。
父上はあの日と同じ、真っ青な顔をしながら呆然と立ち尽くしていた。
(本当に?)
エルビナが? 俺の可憐なエルビナが?
そんな、悪女のような真似事をしたというのだろうか?
「まだ信じられないようだな。だが、僕はエルビナが彼女達と密会していた証拠を押さえた。それから、この女の金の動き! エルビナは僕が浮気をする直前に大金を動かしている。突き詰めたら、令嬢たちも白状したよ。この女の依頼で僕を誘惑したと」
兄上の後ろには三人の令嬢が立ち並ぶ。一様に気の毒そうな表情を浮かべ、こちらをそっと見つめていた。
「エルビナ……」
本当なのか?
本当に、エルビナが兄上を嵌めたのか?
エルビナは微笑む。いつもと同じ、優美で可憐な表情で。
ああ、そうだ。やはり違う。
彼女は聖女で、優しい心の持ち主で――――
「何がいけませんの?」
けれど、エルビナの口から飛び出したのは、予想だにしない言葉だった。
「わたくし、何も悪いことはしておりませんもの」
エルビナのセリフはそんな風に続く。俺は言葉を失った。
「悪女め、ようやく本性を表したな! 悪いことはしていない等と、よくそんなことが言えるものだ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ。だってそうでしょう? あなたが王太子として相応しい方なら、苦言を呈すことも、策を弄する必要も無かったのですもの。悪いのはローガン様の方。わたくしは何も悪くありませんわ」
聖堂で民を導く時のように、エルビナは淡々と言葉を紡ぐ。その表情は気高く、可憐で美しく、いつもとちっとも変わらない。
俺の心は混乱していた。何が本当で、何が嘘なんだろう? そんな風に尋ねたくなってしまう。
「僕の何が悪いっていうんだ!」
「全てが。
あなたは民に寄り添うこともなければ、己に割り振られた公務すら熱心にこなしてこなかった。怠惰で、能力的にも劣るローガン様が王太子でいらっしゃるなんて、神に対する冒涜ですわ。そう思って、わたくしはあなたを変えるための努力をしてきましたけれど、全く効果がありませんでしたの。
それに、殿下だって元々わたくしのことを気に入っていらっしゃらなかったでしょう? あなたのタイプじゃございませんものね。
ですから、あなたとの婚約を穏便に解消できるよう、取り計らっただけなのですわ」
睨み合う二人を前に、心臓がドキドキと鳴り響く。
だけど、これは。
この胸の高鳴りは。
幻滅しているというより、寧ろ――――興奮している?
「何が穏便に、だ! 散々僕と父上を脅しておいて、よくそんなことが言える!」
「穏便でしょう? 身分的に、こちらから婚約破棄を申し出ることは出来ませんし、出来る限り事を荒立てずに済むよう、しっかりと状況を整えましたのよ? そもそも、これまでだってあなたは浮気を繰り返しておりましたし、これでも耐えた方だと思いますわ」
「だ、大体! 他人を買収するなんて、あってはならないことだろう! こんな女が聖女だなんてあり得ない! 絶対、違う!
父上! この女を断罪したところで、神の怒りを買うはずがありません! 然るべき処罰をご検討ください!」
「兄上、エルビナは間違いなく聖女ですよ」
気づいたらそう口走っていた。
これまでずっと黙って来たが、それだけは断言できる。
エルビナは聖女だ。
悪女の如く兄上を嵌めたとしても、俺が心から尊敬し、愛する女性。
彼女が民のために尽力し、たくさんの人を救ってきたのは紛れもない事実だし、元はと言えば兄上が悪い。そんな彼女を断罪など、出来よう筈がない。
「あのぅ……そもそも私達、買収なんてされてませんよ?」
その時、兄上の後ろに控えていた令嬢たちが、そっと口を挟んだ。
「何!? だが、お前達はこの女に協力したと……! 依頼を受けたと言ったではないか!」
「確かに、エルビナ様のご依頼を受け、私達は殿下に声をお掛けしました。けれど、私達はエルビナ様を敬愛しておりますし、お金など戴く必要がございません。それに、誘惑と呼ばれるようなことは何も。殿下は自然に口説いていらっしゃいましたもの」
キッパリとそう言い放つ令嬢たちに、兄上は目を白黒させる。
エルビナを見つめると、彼女はそっと目を細めた。
「実は最近、お困りの方が多くいらっしゃる領地3か所に、寄付をしましたの。民の救済に役立てていただきたいと。それの何がいけませんの?」
首を傾げ微笑むエルビナの姿に、俺は思わず笑ってしまう。
つまり、買収については、完全に兄上の言いがかりということだ。
「けれど、困りましたわ。こんな風に大衆の面前でわたくしを貶められてしまうだなんて、神がお怒りになるかもしれません。
陛下――――如何思われます?」
たっぷりと含みを持たせ、エルビナがゆっくりと父上を見る。
父上はハッとした表情で、兄上の方へ向き直った。兄上は血の気を失い、今や土気色になっていて、見ていてあまりにも痛々しい。
(しかし、自業自得だな)
いや、相手が悪かったと言うべきか。
俺は誰にもバレないよう、静かに笑った。
***
「驚きました?」
平穏を取り戻した夜会会場。
美しいワルツが流れる中、俺とエルビナは身を寄せ合う。
「ああ。本当に驚いた。完敗だ」
問い掛けに応えつつ、俺は苦笑を漏らす。
エルビナの完璧すぎる聖女の仮面に、見事に騙されてしまった。ここまで来ると、寧ろ清々しい。エルビナも人間だったんだなぁなんて思ってしまう。
「一つだけ言い訳をさせていただくなら、殿下の体調不良については、わたくしは無関係ですのよ? 治癒も試みましたし、呪ったりしてませんわ」
「わかってるよ」
あれはきっと、神から兄上への警告だったんだろう。全く効果はなかったようだけどね。
「だけど、エルビナ。君の計画は婚約解消までじゃない。今、この時まで続いていたんだろう?」
尋ねつつ、俺はエルビナを真っ直ぐに見つめる。
それは疑問ではなく確信。
今回の件で、兄上は王太子の地位を失うだろう。
そうすると、俺が次の王太子になる。
エルビナは兄上との婚約を解消したかっただけじゃない。
俺を王太子にしたかった。
だからこそ、令嬢たちを抱き込み、不自然な金の動きを作り上げ、兄上が彼女を断罪するよう仕向けたのだろう。
「さあ、どうでしょう? けれど、それの何がいけませんの?」
とびきりの笑みを浮かべつつ、エルビナが尋ねる。
参った。
本性を知る前より、今の方が余程目が離せない。
きっとエルビナには、俺のこの反応までお見通しだったのだろう。
「いいや。君は悪くないよ」
どうあっても俺は、彼女が好きで堪らないらしい。
俺達は身を寄せ合いながら、声を上げて笑うのだった。
沢山の方にお読みいただき、大変嬉しく思っております。ありがとうございます!
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