決戦
漆黒の空に覆われた陽の光にさえ見捨てられた大陸“ダルタリアン”の最奥に位置する魔国モルト・フリューゲル。
魔王軍の最後の拠点にして魔王城のあるこの場所に、突如七色の光が降り注いだ。
時空を司る不死鳥の放つその輝きがこの場に舞い降りたということは、既に防衛線は突破され、勇者が魔都に侵入したことを意味する。
「本当に、使えない連中」
魔王と呼ばれる少女は感情のない瞳で七色に光る大空を見上げ呟いた。
戦力の大半は魔都の最終防衛線に投入した。
もはや勇者がこの場所に辿り着くのは時間の問題だろう。
だが、これでいい。
こうなることはわかっていた。
いや、こうなるよう仕組んだのは他ならぬ魔王自身なのだ。
困窮している民の為と銘打って軍備を縮小し、浮いた資金を民に配った。こちらの戦力図、弱点、奇襲を受けたら打撃を受けるであろうタイミング等の情報を流し、あえて勇者がこの地に攻め込むように誘導した。
何故かって、もう終わらせたかったから。
わたしは……好きで魔王になったわけじゃない。魔王になんて、なりたくなかった。
魔王は玉座に腰掛け、物思いに耽るように瞳を閉じた。
先代魔王である父が人と魔族とを隔てる戦争を始めた後、魔国は戦力増強の為に各地から物資を集め、民の生活はその日の食事にもありつけるかわからないほどに困窮した。
ーーだけど、わたしは生活に不自由をした事などなかった。
魔王の娘であるわたしにはだだっ広い部屋と最高級の家具が与えられ、毎日食べきれないほどの料理が食卓を彩った。
欲しいものは望めばなんでも手に入った。
たった一つを除いて……。
幼い頃、わたしは魔王城を抜け出して魔都へと降りた事がある。
理由は単純だ。
来る日も来る日も、時期魔王となる為の訓練と勉学の日々。
そんな日常に嫌気が刺したのだ。
少しの間だけでよかった。普通の子の生活というものに触れてみたかったのだ。
広場でボール遊びをしている同い年くらいの子供達を見つけ、わたしは少し離れたところからそっと、彼らを見つめた。
楽しそうに笑いあいながらボールを蹴るその姿に、わたしは羨ましいと思った。
わたしは……あんな風に笑えたことが、一度でもあるだろうか?
父や周りの期待に答えることばかりを要求され、好きなことなど何一つ出来ない。そんな毎日を頭に思い浮かべて、歯噛みして、拳を握りしめる。
その時、彼らの一人が大きく蹴り上げたボールが宙を舞い、地面を跳ね、転がり、そして、わたしの足元で止まった。
「きみー! 悪いけど、それとってくれるー!?」
その声に、足元のボールへと落としていた視線を上げると一人の少年がこちらに手を振っている姿が見えた。
わたしはボールを拾い上げ、少年の元へと歩み寄り、ボールを手渡す。
「ありがとう!」
少年はボールを受け取ると、にかっと笑い、そして、わたしにこう言った。
「おまえも一緒に遊ぶか?」
誘ってもらえるなんて思っていなかった。
嬉しかった。でも、それ以上に驚きの方が大きかった。
わたしの驚きように少年が首を傾げる。
「……いいの?」
不安混じりの声で返すが、
「あったり前だろ!」
笑顔の少年はわたしの不安を吹き飛ばすかのように即答した。
その顔に、少しだけ緊張がほぐれたわたしは、出来る限りの笑みを返す。
実際に上手く笑えていたかはわからない。笑うことなんて、ほとんどなかったから。
前に笑顔を作ったのはいつだったか、それすらも思い出せないのだ。
「やる。やりたい!」
「おぅ! おまえらー! この子も一緒に遊びたいってよ!」
わたしは、ただボールを拾っただけだ。
彼らが期待するようなことは何一つしていない。けれども、彼らは快くわたしを受け入れてくれた。
それが、とても嬉しかった。
だが、わたしは毎日のように勉学と鍛錬を積んできた身。
少年達よりも身体能力は圧倒的に高いし、体に当たるボールの角度からだいたいのボールの軌道が予測出来てしまう。
それが仇となった。
「くっそ!こいつ女のくせにめちゃくちゃつえーなっ!」
「女のくせにとか言わないの!そーゆーのだんじょさべつって言うんだよ!」
「うっせ!これならどうだ!」
少年ががむしゃらにボールを蹴る。
今までよりも格段に速いボールにわたしは一瞬戸惑い判断が遅れ……、そのボールはわたしの顔面に直撃し、わたしは大きく転倒した。
「……いたたた」
仰向けで顔を抑えるわたしに少年達が駆け寄ってくる。
「おい!大丈夫か!」
「ご、ごめん!ちょっと本気で蹴り過ぎた!」
「もぉ、これだからアンタはぁ」
こんな時、いつもならばどうだろうか。
ーーまだ訓練は終わっていないぞ、さっさと立て。
そう言われるに違いない。
だが、この少年達はわたしを心配して手を差し伸べてくれた。
本当に、嬉しいことばかりだ。
これが普通の生活なんだと、わたしは今普通の女の子なんだと、嬉しさに自然と笑みがこぼれる。
「あはは、大丈夫。わたしも油断してたわ!次はちゃんと止めてやるからね!」
そう言って、差し伸べられた手を、とろうとした。
瞬間ーー、
「お、おまえ達っ! なにをやってるんだ!!」
突然の怒号に全員が声を上げた男の方へ振り返る。
この場にいる誰かの父親だろうか?
青ざめ、震えた声で男は叫ぶ。
「そ、そのお方は、次期魔王ユリリアナ様だぞ!」
そして、慌ててわたしの元へ駆け寄り、膝を折り、
「ユリリアナ様になんということを……! どうか、この子達を許してやってください! 私はどうなっても構いません!ですから、どうか!この子達はっ!」
地面に頭を擦りつけた。
「待って! これは、違くて……!」
わたしは弁解をしようとするが……。
「おまえ達も頭を下げるんだよ!」
男は子供達の頭を鷲掴みにして、彼らに無理矢理頭を下げさせる。
その時、理解した。
歯を食いしばった。
自分の表情が、笑顔が消えていくのがわかった。
わたしは、どこまでいっても魔王の娘なのだ。どこまでいっても、次期魔王なのだと。
きっと、この運命からは逃げることが出来ないのだと。
わたしは立ち上がり、服についた汚れをはたき落とすと、彼等に背を向けた。
「許すわ。頭を上げなさい」
そして、振り返る事なく歩き出す。
「……ごめんなさい」と、それだけを告げて。
背後では「ありがとうございます!ありがとうございますっ!」と男が叫びながら今もなお土下座をしているのがわかる。
振り返る事など、出来なかった。少年達がどんな目でわたしを見ているのか、それを理解するのが怖かったから。
その時わたしが流した涙も、きっと彼らが理解する事はなかっただろう。
そう。たった一つ。
たった一つだけ。わたしは普通の女の子になりたかった。
でも、誰もそれを許してはくれなかった。
この国を統べる者、次期魔王の選択しか、わたしには与えられなかった。
これは、復讐だ。
そんな選択しか与えてくれなかった先代魔王、父が築き上げてきた物を全てぶち壊してやる。
そんな、些細で、しょうもなくて、子供染みた、個人的な復讐だ。
だから、出来る限り犠牲は出ないようには配慮はした。
今も城下町で戦っている部下達にも撤退命令は出してある。
それでも、彼らは最後まで足掻き続けることを選んだらしい。
自分の人望を誇るべきか、馬鹿な奴らと罵るべきか。
大きく溜息を吐いた瞬間、玉座の間の扉が勢いよく開かれる。
「魔王様! 勇者がここまで来るのはもう時間の問題っ! わたしが食い止めるから! 魔王様は逃げて。魔王様が居れば、魔国は再建出来る!」
甲高い叫び声と共に入ってきたのは幹部の一人。植物の蔦のような下半身を持ち、屍術を操るマンドラゴラ種の長、死の荊のアンスリウム。
彼女の必死の訴えを一蹴するかのように魔王は玉座に頬杖をついたまま見下す。
「アンスリウム。わたしは撤退命令を出したはずだけど? さっさと部下を連れてデミナント山まで撤退しなさい。人間の足であの山は簡単には登れないわ」
この子は、魔王ではなくわたしを、ユリリアナという一人の魔族を尊敬してついて来てくれた子だ。
死なせなくはなかった。
だからこそ、あえて冷徹に、冷たい眼差しで、冷たい声で告げる。だが、
「だったら……っ!魔王様も一緒に!」
アンスリウムも引き下がるつもりはないらしい。
「勇者の狙いはわたしだ。わたしが逃げれば、勇者も追ってくる。どんな手段を使ってでも、ね」
「でも……っ!」
「くどいっ!」
アンスリウムの言葉に被せて魔王は怒号を上げる。
同時に振り下ろされた腕から放たれた黒い稲妻がアンスリウムの真横を通り抜け、背後の壁を穿ち爆散させた。
「わたしは魔王だ。魔王としての責任がある。この場所に最後まで残る義務がある。そして、おまえの役目はなんだ? わたしは部下を連れて撤退しろと言ったんだ。おまえは、幹部として、自らの部下をここで無駄死にさせる気か? 魔王なんて民がいなければただの魔族に過ぎない。わたしが死んだなら誰かが代わりをやればいいんだ。魔国を再建するのに必要なのはわたしじゃない。民の力だ。だから、今は一人でも多くの者を生き残らせることが重要だ。わかるでしょ? アンスリウム」
沈黙が玉座の間を支配した。
アンスリウムは自らの思いを押し殺すように歯を食いしばり、拳を握り、今にも泣き出しそうな顔で、魔王を見つめる。
「わかった。魔王様……いや、ユリリアナ。デミナント山で待ってる。約束、だよ? 勇者を倒したら、必ず……」
そんな未来は来ないであろう事は理解している。それでも、アンスリウムはその叶わぬ願いを口に出さずにはいられなかった。
ただの口約束でも、それが僅かな希望になるかもしれないと、そう願わずにはいられなかった。
「あぁ。勇者を倒したら迎えに行くわ。この国を復興させなきゃいけないってのに、アンタが居ないとわたしが困るのよ。途方もない量の仕事をこなしてもらうから、覚悟しときなさい」
僅かに微笑みを向ける。
ごめんなさい、アンスリウム。その約束は守ってやれない。と心の中で呟きながら。
「……その時は、なんでもこなしてみせるから」
アンスリウムは微笑みで答えると、踵を返し、玉座の間を後にする。
再び閉ざされた扉の向こうからは、しばらくの間、アンスリウムの撤退指示の声が聞こえていたが、いずれそれも無くなった。
気づけば、階下で繰り広げられていた激しい争いの音も聞こえなくなっていた。
時が止まったかのような静寂。
報告に来る者がいないということは階下の連中は全滅したと見て間違いないだろう。
アンスリウムは……、あれは賢い子だ。
自分の部下を連れて上手く逃げ果せたに違いない。
あとは、わたしが勇者に討たれれば全てが終わる。
魔国は崩壊し、魔王の血族は途絶える。
あいつが残したものは全てなくなる。
ざまぁみろ。と心の中で呟き、自然と笑みがこぼれた。
その時ーー。
コツ、コツ、と静寂を壊す足音が聞こえた。
足音は玉座の間の前で止まり、ぎぃ、と重い音を立てながら扉が開かれる。
魔王は玉座に頬杖をつき、ゆっくりと開く扉を見つめた。
開いた扉の先には、小柄の、重厚なフルプレートに身を包んだ者が立っていた。
フルフェイスの兜に遮られて顔は窺えない。
ーーこいつが、勇者。
勇者は落ち着いた足取りで、コツ、コツ、と足音を立てながら玉座の間に踏み入ると、じっと魔王を見つめた。
再び、静寂が訪れる。
言葉はない。
約束された勇者と魔王の決戦の時。そこに言葉など不要だ。
勝つつもりなどない。
それでも、これから始まるのは歴史に残る、遠い未来まで語り継がれる伝説となる一戦なのだ。
不甲斐ない魔王だったと後世まで語り継がれるのは御免だ。
ただで負けてやるつもりも毛頭ない。
ーーさぁ、始めようか。
ーー新たな伝説となる戦いを!
魔王の黒い稲妻が勇者の足元を穿ち、それが開戦の合図となった。
後方に飛び退いた勇者に、魔王は追撃を仕掛けるべく複数の魔法陣を展開する。
黒い稲妻を躱した勇者の足はまだ地面についていない。
空中で身動きがとれない勇者に、複数の魔法陣から放たれた魔力の矢が降り注ぐ。
勇者は剣を抜き、魔力の矢を斬り払うが、嵐のように降り注ぐ魔力の矢は剣で薙ぎ払えるような量ではない。
それを理解した勇者は周囲に光弾を展開し、魔力の矢を相殺する。
そして、目にも止まらぬ速さで剣を振り抜き、飛ぶ斬撃を放ち魔法陣を切り裂いた。
魔王の手からすかさず放たれた黒い稲妻も勇者は防護結界を張り、いとも簡単に防いでみせる。
この様子では遠距離では消耗戦にしかならないだろう。
ーーやはり、そうでなくてはな。
消耗戦など、この戦いには相応しくない。
魔王は嬉しそうに口角を吊り上げ、ゆっくりと玉座から立ち上がると、魔法を唱え、両の手に黒い稲妻の剣を生成する。
二刀の黒い稲妻はバチバチと音を立て、その音が一層激しく響いた瞬間、魔王は地面を蹴った。
魔力により強化されている魔王の肉体は矢のような速さで勇者に迫り、一閃。
それをすんでのところで躱した勇者にもう片方の手から放たれる稲妻の剣が襲う。
即座に武器強化魔法を唱え、光り輝く剣でそれを受け止める勇者だが、勢いまでは殺しきれずバランスを崩した。
その隙を逃さず、更なる追撃。
迫る稲妻の刃を紙一重で避け、後方に下がる勇者。
だが、魔王も距離を置かせてやるつもりなどない。
即座に距離を詰め、渾身の力で薙ぎ払う。
光り輝く剣でなんとか受け止める勇者。
しかし、魔力で強化された魔王と人間である勇者の力の差は歴然だ。
小柄な勇者の体は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
ーーおかしい。何故反撃してこない?
先程から勇者はわたしの攻撃を避けたり、防いだりするばかりで、一度も攻撃をしてこない。
やる気がないのか?
だったら、こんなつまらない戦いなどなんの意味もない。
やる気もない勇者になど、殺されてやる価値もない。
なにも、わたしを殺すのは勇者でなくてはいけない理由などないのだ。
ーー興が削がれた。
そんなに死にたいのなら、さっさと死ね!
魔王の両の手に膨大な魔力が宿る。
空間を歪ませるほど凝縮された魔力は黒い球体となり、存在するだけで玉座の間に暴風を巻き起こした。
魔王の持つ最強の一撃。
山をも穿つ暗黒の結晶を手に、魔王は苦しそうに立ち上がる勇者を見下す。
「もうお前に用はない。闇へ還れ。ヴァニッシュ!」
放たれた暗黒の結晶は周囲に甚大な破壊をもたらしながら一直線に勇者へと突き進む。
その瞬間、勇者が強く握りしめた剣が七色に輝いた。
七色に輝く剣を振り下ろされ、暗黒の結晶と衝突し、バチバチと激しい音を上げながら拮抗する。
だが、それも一瞬で。
次の瞬間、暗黒の結晶は砕かれ、振り下ろされた斬撃は七色の波動と化し魔王の胸を貫いた。
「……ぁ。っが!」
魔王の体は大きく吹き飛ばされ、鮮血を撒き散らしながら宙を舞い、そして、地面に叩きつけられた。
ーーあはは……。あれを砕くなんて、やれば、出来る……じゃない。
七色の光の波動は確実に魔王の心臓を貫いていた。
「ーーーーーーーっ!」
勇者はなにかを叫びながら、剣を放り投げ、兜を脱ぎ捨て、魔王へと駆け寄る。
もはや魔王には、勇者がなにを叫んだのかも聞き取ることは出来なかった。
薄れゆく意識の中で、魔王は勇者に抱きかかえられるのを感じた。
ーー最後に、わたしを……殺した、やつの、顔くらい、拝んどこう……かしら。
重い瞼を精一杯開いた。
魔王の目に映ったのは、少女だった。
ぐしゃぐしゃに泣き散らしながら、少女は必死でなにかを叫んでいた。
頬に溢れた温かい涙の感触を最後に、魔王の意識は、そっと閉ざされた。