德川家康その1
天文11年12月26日。寅の年寅の刻、三河・松平家の
本貫の城・岡崎でひとりの男児が呱呱の声を上げました。
≪竹千代≫と命名されたこの男児こそ、後の德川家康。
父親は松平次郎三郎広忠、母親は水野忠政の娘・お大の方。
西は織田、東に今川に挟まれた緩衝地帯に位置する、
三河・岡崎。雄沃な濃尾平野に拓けた商業流通の洗礼を受け、
市場経済の果実を戦略に活かしながら、疲れを知らぬ
働きぶりの新興勢力・織田弾正忠信秀。片や足利将軍家の
連枝にして別格の門地を誇る東海の太守:今川治部大輔義元。
帷幕には黒衣の宰相・太原崇孚雪斎、僧形にして軍師。
岡崎城に拠る松平家はこういう状況の下で、立ち位置も
それは難しいものでした。当代の松平家当主の広忠を
阿部、酒井、大久保といった重臣たちは必死で輔弼します。
松平広忠・・・松平家中興の祖≪清康≫や家康の影に隠れて
ピンと来ないひとも多いと思いますが、このひと、実は
たいしたものですよ。今川に恭順の意を示すため、織田方に
付いた水野氏≪正室・お大の方の実家≫と絶交し、竹千代の
生母にして正室のお大も離縁します。この時、竹千代一行は
知多半島の汐見坂で尾張方へ拉致されてしまいますが、
竹千代を楯に織田方は広忠に今川からの誘降を画策します。
≪竹千代は今川屋形へ質として差し出したもの、竹千代は
どうなろうと、織田へ馳走するつもりはない・・・!≫
松平広忠も筋の通った人物でした・・・。