終章 とどまるもの
昼日中、鉄橋の下の影で中学生が殴り合っていた。
一対三。数の差はそのまま怪我へと比例する。
三人相手に戦った少年は、ついに力及ばず、地に倒れた。
なおも袋叩きにしようとする少年たちの動きが止まる。突然、凍りついたように。
手足を縮めて我が身を守る少年の後ろに、いつの間にか見知らぬ誰かが立っていた。
立ちはだかる者の目は、三人の少年たちが生きてきたこれまでの生涯で、まだ一度も見たことのない強靭な意思を秘めていた。
小走りで逃げ去っていく少年たちに気付き、亀のように丸まっていた少年は不審げに顔を上げた。
その頬に、いきなり冷たい物が触れ、驚いた少年は思わず小さな悲鳴を上げる。
謎の感触の正体は、よく冷えた缶コーヒーだった。
「ナイスファイト」
訳がわからぬまま、賛辞と清涼飲料を受け取ると、相手は背を向けて去っていった。
残された相沢稜は、あれはいったい誰だったのかと首を捻りながら、開けたコーヒーに口を付けた。
児童公園には近所の子供たちとその母親が集っていた。
少し離れたベンチで世間話をする母親たちは、ときどき思い出したかのように、遊具や砂場で遊んでいる我が子の姿を確認する。
砂の山にスコップで穴を掘っていた女の子が何かに気付いて立ち上がった。
「パパ!」
若い母親が視線を追うと、公園の入口に笑顔の夫が立っていた。
駆け寄る我が子を抱き上げた父親は、妻の元に歩いてきた。
「早いじゃない。どうかしたの?」
「出先から近かったからさ。ちょっと寄ってみただけ」
「もう。具合でも悪くなって早退してきたかと思ったじゃないの」
笑いながら女の子を降ろすと、妻の隣に座る婦人に会釈をした。
仕事へと戻ろうとした父親はふと気付いた。
愛娘が手を振っている相手が自分でないことに。
振り向いてみたが、道を歩いている者は特に見当たらない。
「いま、誰にバイバイしてたの?」
「しらないおにいちゃん」
誰だろうかと訝しみつつ、霞崎洸は仕事に戻るべく、愛する妻子がいる公園を後にした。
デパートの八階にあるゲームセンターは、なかなかの客入りで混雑していた。
銀のチェーンをぶら下げた少年が、銃型コントローラを片手に画面内の怪物へと何度も見えない銃弾を撃ち込んでいる。
鞭に似た黒い触手で攻撃してくるこのステージボスはかなり手強い。たちまち、ライフが残りひとつというところまで減った。
少年が舌打ちをした瞬間、気付かぬうちに隣に立っていた誰かが、2プレイヤー側へ勝手にコインを投入する。
おいコラ、と文句を言おうとしたが、触手野郎の攻撃があまりにも激しく、画面から目が離せない。
乱入者がしなる触手を撃って防いだ。
怯んだその隙を狙い、少年は触手の大元にダメージを与える。
やがて、野太い悲鳴とともにボスはあえなく崩れ去った。
次のステージデモの合間に、乱入者は少年に自分の銃を差し出した。
「あと、よろしく」
「あ! おい! ちょっと待てよ! コラ!」
止める声も聞かず去っていく、見たこともない後ろ姿。
ゲームの続きが始まり、郷田奏司はやむなく二丁拳銃スタイルで構えた。
スーパーの駐車場に停まる車の数はすこし疎らにこそなったものの、それでも行き来はまだ多い。
買い物袋いっぱいにスナック菓子を抱えた青年が、手ぶらの少女の後を追って、よちよちと店から出てきた。
「こんなにお菓子ばっかり買わせてどうするんだ、汀ちゃん」
「退院祝いに、欲しいものなんでも買ってくれるって言ってたじゃない」
「そりゃあ、まあ、確かに言ったけどさ……」
「だったら、グズグズ言わないで、キリキリ歩く! だいたい、なんであんな遠くにクルマ停めるのよ? 結構、空いてたのに」
「一言で言えば、クセかな?」
「他人に遠慮ばかりしてると人生損するわよ。――あら?」
急に立ち止まる少女に気付いて、青年もまた歩みを止めた。
「どうかしたの?」
「さっき、男の子がこっちを見てたんだけど……。いなくなっちゃった」
「知ってる子かい?」
「ううん。しらない」
氏家京四郎は買い物袋を傾けた隙間から周辺を見回したが、それらしき人物はいない。
「まあ、私に見惚れてただけかもしれないけどね」
白鳥汀がそう言った途端、傾いた袋から激辛スナック菓子が、アスファルトにどさりと落ちた。
時刻は夜だが、夏の空はまだ夕暮れだった。
一日中、あちこち歩き回った近衛圭介は、塗装も真新しい鉄の柵に頬杖を突いて、川の流れをただ眺めていた。対岸の護岸工事はまだ途中で、川から引き揚げた粗大ゴミが岸に固めて置いてあった。
車輪もサドルもない錆びた自転車が寄りかかる黄ばんだ冷蔵庫に、ふと目が留まる。
昨日までの過去を変えてしまった圭介は、今日一日を、まるで記憶にない過去を確認する作業に費やした。圭介が歩んできた時間とは違う流れで進んだ現在までを。
部屋はそのままだだったが、父親と母親は離婚しておらず、通学に便利なので一人暮らしをしていることになっていた。
そして、元いた世界、父と再婚した若い義母の胎内で育まれていたはずの弟か妹を思うと、圭介の胸に言葉にならない哀しみが広がった。
この手に掛けた相手の安否を求め、街を彷徨ったが、名も無き男だけはどうしても見付けられなかった。もしかすると、圭介と戦う以前に己の願いを叶えていたからかもしれない。あの男が守った誰かは、いまもどこかで生きているのだろうか。
それとも、改変された世界では、その存在自体すらも――。
圭介は頭を振り、暗澹たる思考の闇から離れた。
なにもかもが変わってしまっていた。
繋がらない昨日と今日の挟間に置き去りにされる――それが奇蹟に挑んだ者の払う代償なのか。
「おーい! けーすけー!」
後ろの土手の上から聞き覚えのある声が呼んだ。
圭介は振り向いた。
髪を短く切った活発そうな少女が、赤い自転車に跨って待っている。
眼鏡はかけていなかった。
けれど、たとえ変わったとしても、変わる以前の形跡を何処かに残している。ほんの微かでも。
「なに、ぼけーっと川なんか見てんだよ。不景気そうな顔して」
動揺を気取られぬよう、静かに圭介は答えた。
「魚でもいないかなと思ってな」
一瞬、間があった。
「そんなのいるわけないだろ! もう、ずいぶん汚れちまったからなー、この川も」
そう言って酉蕗沙希は屈託なく大声で笑い、近くまで来た圭介の肩や背中をばんばん叩いた。
時間は人を変える。どうでもいいことも、また、そうでないことも。
「いいや、それでも魚はいたのさ」
圭介の呟きに驚いて笑い声は止んだ。
「……ウソだろ?」
問う声に微笑で答え、圭介は黒い剣のように伸びた影を引き摺って、夕日に向かって歩き出した。
この世に生きとし生ける誰もがそうであるように、まだ見ぬ知らない明日へと。