第五章 かくされしもの
一人きりの部屋に、三日ぶりの電話が鳴り響いた。
沙希から連絡を受けたあと、電話線を引き抜いたままにしていたのに。
圭介が鳴るはずのない電話の受話器を掴むと、ずしりと重く感じた。
「私だ」
起こり得ない現象を起こすものは、やはりこの世ならざるものに違いない。電話の向こうの不吉な声の主は、紛れもなくペイルライダーであった。
絶句する圭介を無視して、一拍置くと話を続けた。
「これよりルールを一部改定する」
冷ややかで一方的な通告に、いままで溜まりに溜まっていた圭介の怒りが噴出する。
「ふざけるな! なにをいまさら!」
「待て。なにも倒すべき『敵』の規定数を増やすわけではない。よく聞くがいい」
激高する圭介を制したペイルライダーは厳かに宣言した。
「まず、第一に、名乗りあう必要はない。すでにお前は、罪科の剣を出すと同時に、影引かれた真の世界へ自由に出入り可能だからだ。第二に、この街の全域を戦場とする。どこでどう戦おうが構わん。相手をおびき出して罠に嵌めるなり、なんなりと好きにするがいい。そして最後、第三に、深夜零時まで『敵』の手から逃げおおせた場合、これもお前の勝利とする」
逃げおおせた場合。
これまでの経緯からは予想もつかない、意表を突いた言葉が圭介の頭の中で何度も鈍く反響する。どういうつもりなのか。まるで理解不能だった。
「残すは一人。そう、今日で全てが終わるのだ。用意をして、すぐに外へと出るがいい。『敵』にこの場へ踏み込まれたくないのならな」
声が途切れ、無音になった受話器を置くと、すぐに、あちこち破れそうなジーンズと何語かもわからない横文字がプリントされた黒いTシャツに着替えた。念のためにポケットに財布を入れる。開いていた窓を閉めて錠を下ろし、薄汚れたスニーカーの緩んだ靴紐を締め直して、部屋を出た。ドアに差し込んだ鍵を捻る音が、日常への別れを告げた。
周辺に気を配りながら、二階の階段を足早に下りる。
左手のわずかな軽さから腕時計をしていないことに気付いた。
まだ、正午までにはかなり時間があったはずだ。
仮に現在を十時過ぎとするなら、深夜零時まで十三時間強。
闘争でなく逃走を選択するにしても長過ぎる。
それに、ペイルライダーが突然に勝利条件を変更してくる以上、かならずなにかが裏にあるとみたほうがいい。奇蹟を餌に、退屈しのぎの娯楽として人間同士を殺し合わせるようなものが、安全な方法での勝ち越しなど許すはずがない。
なんにせよ、時間を確認出来ないのは不利だ。
腕時計を取りに部屋へ戻ろうとしたそのとき、圭介の背後で強烈な気配が出現した。
逆立つ首筋の皮膚を冷たい汗が撫でるように伝う。寒気にも似たなにかに肩を押され、圭介はゆっくりと振り返る。
十歩以上も離れたそこに、全身黒尽くめの青年が立っていた。
真夏の日射しが照りつけ陽炎が立ち上るなか、長袖の上衣を着ているが、暑苦しさよりも逆に寒気を感じさせる。男は影の具現そのものなのか、揺らぐ陽炎すらさえも凍気に思えてくる。
ぼさぼさしたクセのある長髪の下、氷の輝きを秘めた眼が鈍く光った。
「名乗る必要は無い」
男の声は重く、鋼鉄を打つ響きを持っていた。
……あと一人。
……最後の一人。
言葉にならないものに衝き動かされ、罪科の剣を手にした圭介は、かつてないほどの速度で斬撃を見舞う。
白と黒に変わった世界で、剣は静止した。
必殺の決意のこもる刃を止めたもの、それは同じ罪科の剣ですらなかった。
間合いに深く踏み込んだ『敵』の左手が、振り下ろすはずの圭介の片肘を掴んでいた。
男の右手に黒い剣があった。
鋭い突きが圭介の眼前に迫る。
無理矢理に首を捻って躱す。
黒風に斬り飛ばされた数条の前髪が、灰色の空中へと躍った。
そのとき、自分を衝き動かしたものの正体を圭介は知った。
――恐怖。
手を振り払い、自由になると同時に、脇目も振らず逆方向へ駆け出した。
違う。いままでの相手とは根本的になにかが違う。
死中に活を求めるでもなく、相打ち狙いですらもない。
あれは死を怖れぬ者の戦い方だ。
相手への殺意だけがあり、それ以外はなにも無い。
罪科の剣を影に戻し、色彩を取り戻した世界に全速力で逃げながら圭介は気付いていた。
手を振り解いたのではない。相手が自ら手を離しただけに過ぎないという事実に。
木造アパートの二階、とある一室の前で眼鏡の少女が立ち尽くしていた。
その左手は水色の長いスカートの太腿のあたりで握り締められ、右手の人差し指をドア横にある来客用ブザーのボタンへ伸ばしては、また引っ込める。
それの繰り返しで、すでに五分が経っていた。
いくら電話しても繋がらない状態が三日も続いたため、心配になって圭介の住まいまでやってきた沙希だったが、いざとなると気後れしてしまい、ブザーを鳴らそうとするたびに、汗ばんだ手が震えて止まる。
突然、がちゃりという音とともにドアが開いた。
隣室のドアから顔を覗かせたおじいさんと目が合うと、沙希は驚きつつも、ブザーに伸ばしっぱなしの手を下ろして挨拶をする。
「こ、こんにちは」
「……。隣に住んでる子なら、ちょっと前に外出したとこだよ」
「あ、そうなんですか。あの、おしえていただいてありがとうございます」
かすかに頷いた圭介のお隣さんは、閉めたドアの向こうに消えた。どうやら、外をうろつく怪しい気配を感じて、確かめに出たらしい。不審者ととられかねない自分の怪行動を思い返して、沙希の顔が紅く染まる。
それでも来てよかった。
少なくとも圭介の無事だけは知ることが出来たのだから。
電話が繋がらなかったのは、きっと、なにかの拍子でコードが抜けたのに気付いてないだけなのだろう。
本当は圭介と会って話をしたかった沙希だったが、ひとまずは胸を撫で下ろした。
普通に会っていた友達が、翌日にはもう二度と会えなくなるという、信じたくない残酷な現実と直に触れたばかりであった。
話したいことがいっぱいある。
訪ねていった病室の前で、貸していた小説を白鳥汀のお母さんから返してもらい、同時に告げられた汀の死。
そして、実は、その小説は、汀の実家の本棚に全巻並んでいる――と。
この日が来るのを覚悟していたのか、汀の母親は、どこか無理を感じさせながらも落ち着いた様子をみせていた。
目に涙を浮かべて、沙希の手を両手で握ってこう言った。
ありがとう。あの子に会いに来てくれて。
沙希は涙を零しながら葬儀に出席したいと話したが、故人のかねてからの遺言で家族だけでの密葬にすると教えられた。落ち着いたら、せめて線香だけでもあげに行くと約束して、病室をあとにしたのだった。
あのとき、氏家さんの姿が見当たらなかったが、きっとどこかで人知れず、一人悲しみに暮れていたのだろう。それを思うと沙希はまた涙ぐんだ。
どれほど待っても開かれることのない部屋のドアに背を向け、沙希は階段を下りた。
一度だけ振り返ると、黒髪が微かに揺れた。
見上げた先には、誰もいない圭介の部屋があった。
明日、もう一度来てみよう。
そう考えながら、沙希は帰っていった。
道行く人を避けながら走り続けた圭介は、『敵』の不在を確認すると、荒い呼吸を整えるために一度立ち止まった。
深夜零時まで、つまり、明日まで逃走しても構わないと告げたペイルライダーの真意を、やっと理解した。
最後の『敵』が、あまりにも強過ぎるからだ。
相手はこちらの斬撃を見たあとで動いた。それなのに振り下ろされる剣の間合いへ、左腕を突っ込んできたのだ。一歩誤れば、片腕を失いかねない状況に、なんの躊躇もせずに。もし、あの左手に罪科の剣があれば、間違いなく圭介の命は無かっただろう。
掴まれた肘には、まだ軽い痺れが残っていた。
自分の内に慢心があったのかもしれない。
そう考えながら圭介は早足で歩き出した。
あと一人ですべてが終わる。
あと、たった一人を倒せば。
どこかにそんな思いがあったのかもしれない。
たった一人。
だが、誰もがたった一人で戦っていたのだ。
振り返るまでもなく、相対したどの一人とて楽な戦いなどなかった。
ただ消されていくだけの名も無き一人などいない。
落ち着いて周りを見渡せば、おそらく昼近い時刻であろう市街地の道路は、激しく自動車が行き交っていた。
その流れを追うように歩道を進んでいくと、一部の車列は見覚えのある駐車場へと次々に吸い込まれていく。
スーパーマーケットを中心に、レンタルビデオ店とドラッグストアのあるここは、前回、氏家京四郎と戦った場所に他ならなかった。
あのときは早朝だったため、駐車場もがら空きだったが、いまは色とりどり多種多様なデザインの自家用車がひしめき合い、横柄にクラクションで不平を漏らす。消えかけた白線に区切られる狭い枠の奪い合いに、どの車も夢中に見えた。
この暑さの中、走り回った圭介の咽喉は乾き、激しくひりついていた。流した汗はほぼ蒸発したが、Tシャツの背と首周りがやや湿っている。
このままでは水分不足でさらに体力を消耗し、戦うことも逃げることも不可能になる。
自転車置き場からはみだした自転車に囲まれて誰一人座れなくなったベンチを横目に、圭介はソフトドリンクの自動販売機へと向かった。
硬貨を投入してボタンに指を伸ばすと、チョコレート色をしたココアのダミー缶が目に留まった。伏せるように視線を逸らし、スポーツドリンクを買う。
腰に左手を当てて、一気に飲み干した。
全身に染み入るような清涼感に一息吐くと、ふとベンチに目を落とす。
そこにはもう氏家京四郎の置いた空き缶は無かった。
徐行運転と呼ぶには速い乗用車たちが擦れ違う駐車場の端に、三日前に塵となって消えた人物の黒い軽自動車がそのまま留め置かれていた。
空の缶を手にした圭介の足は、引き寄せられるようにその場へと向かう。
歩行者を見ても止まりもしない自動車を避けながら歩く背中に、引き攣るような冷たい悪寒が走った。
「ジュース片手に休憩か。ずいぶんと余裕があるな」
重く響く声から、圭介は自分との距離を測った。
――近い。
振り向くより先に、突き殺されかねない間合い。
胃の中の水分が凍りついたかのように腹が重く感じる。声が出ない。
「忘れたのか。俺に追われているのを」
名も知らぬ敵の近付く気配が、甲高いクラクションで一瞬停止した。
二人の間を貧相な男の乗る高級車が通り抜ける。
圭介は罪科の剣を振り向きざまに引き抜いた。と、同時に『敵』へめがけて空き缶を投げる。
白と黒の世界で投じられた物体は、顔の前で男の左手に受け止められていた。
今だ、とばかりに踏み込んだ圭介の目に迫る飛影。
それが、さっき投げた空き缶だと気付いた瞬間、千載一遇の好機は絶体絶命の危機へと変わった。
防御も回避も間に合わない。
思った刹那、反射的に飛翔物を額で受けて跳ね飛ばす。痛みを無視して構えた剣を黒い暴風が襲った。 男の剣圧をなんとかこらえて踏み留まる。
「小細工ならもっと上手くやれ」
不意に相手が力を抜いたため、圭介の剣が前方に泳いだ。
続けて激しい掌底が肩を打ち、身体ごと三メートル後方に吹き飛ばされた。
「まだまだ時間はたっぷりある。ペイルライダーほどじゃないがな」
言外に『敵』は逃走を勧めていた。慈悲などではない。いつでも始末出来るという自信からか。事実、殺す気であれば、さっきの一瞬で決着は着いていたはずだ。
屈辱を噛み殺して、圭介はよろめく足で逃げに移った。
恥や外聞よりも大切なものを、酉蕗沙希の過去と現在を失わないために、いまは時間が必要だった。
後ろを気にしながら走っては少し休む。
いままで何度振り向いたのか、圭介自身も覚えていない。
罪科の剣を再び戻した圭介は、昼の光に照らされた当たり前の日常を生きる人々を、あるいは躱し、あるいは追い越し、進んでいく。
行き先の当ては無い。
繁華街中心へアクセスする幹線道路に沿って来たため、歩道にも道行く人の姿が溢れてきた。歩行者の間を縫うように足を速める。聞こえよがしに鳴らされる舌打ちを、いちいち気にする暇は無い。
工事中の囲いにほぼ全体を覆われた大きな建築物の横を通り過ぎようとして、ふと圭介は立ち止まった。ここは郷田奏司と戦ったあのデパートだった。
放火による火災、そして罪科の剣によって破壊された壁や床を補修しているのか、薄緑色の金属壁の向こうから電動工具の音が遠く響いてくる。
工事中につき、ご迷惑をおかけしております。と、看板に描かれた作業員のイラストが深々と頭を垂れていた。その迷惑の張本人である圭介は、罪悪感に俯くばかりだ。
溜息をひとつ吐いて、屋上を見上げると、中天の太陽光線が鋭く目に突き刺さった。反射的に目を瞑り、また顔を背ける。
「そういやさー、ここってこの前、スッゲー火事になってたじゃん」
「そうそう! オレ、そんときここの近くにいてさあ。ダッシュで観に行ったんだよ」
「マジで? いいなー。超うらやましー」
通りがかりの同年代の少年たちが思い思いに勝手なことを話していた。
「でもよー、あんだけ火ィ出て爆発とかしてたのに、誰もケガしなかったんだってよ」
「ホントは死んでんだけど、隠してんじゃねーの?」
「ンなわけねーだろ!」
ぎゃははと遠ざかる馬鹿笑いがぴたりと止んだ。
逆方向からゆっくりと男が一人歩いてきた。
男の持つ鋭い雰囲気に圧され、小さくなった少年たちは左右に別れて道を譲る。
「馬鹿だけが真実を知る、か……」
そう呟く男は全身黒ずくめだった。
逃げていたはずがいつの間にか先回りされていた。
目の前の事実が、圭介の体温を急激に奪っていく。
『敵』は歩みを止めなかった。その視線はすでに圭介の姿を捉えている。
どうする? どうすればいい?
血の気が失せた圭介の耳に鼓動の音が木霊する。
自分の剣の間合いまで、あと一歩。
その瞬間、圭介は右手一本で罪科の剣を横へ薙ぐ。
黒い刃が影を引く。無人と化した黒白の世界に雌雄を決せんとして。
払う剣を握った拳を、さらに内へと踏み入った男の平手が受け止めた。
「お前も懲りない馬鹿だな」
囁くとともに男は、右手に出現させた罪科の剣を叩き込む。
それは先刻の圭介の動き全くそのままに、速度が倍化していた。
ごちり。
嫌な音が鳴り、『敵』の死の刃は止まった。
圭介の右手は男に掴まれていた。
だが、残った左手は。
己の剣を掴んだ男の、剣を握ったその手を、殴って止めた左の拳。
剣の間合いを潰す超近接戦ならば、同じくイン・ファイトで潰すしかない。
相手の指を叩き折る。圭介はそのつもりだった。
だが、しかし――。
熱を持った鈍痛が中指と薬指へじわりと広がっていく。
拳がぶつかる一瞬、男は自分の拳をずらし、中手骨の尖端で迎え撃ったのだ。
「悪くない手だ。やっと面白くなってきた」
にやりと笑った男は勢いよく両手を突き放す。
押し返された力も利用して、圭介はまた全速力で逃走に移った。
指は折れていないが、痛む左手を庇いつつ戦える相手とは到底思えない。
「忘れるな。その殺気だ」
罪科の剣を戻し、雑踏を盾にして逃げる圭介の後ろで『敵』の声が遠のいていく。
どれほど走ったのか、人でごった返す駅前広場に辿り着いた。
人波を掻き分けるように噴水まで進んだ圭介は、屈みこむと波打つ水を両手で掬って飲んだ。そのまま続けて顔を洗う。腫れている左手の指二本に冷水が心地良い。
「なに、あれー? だっさー」
笑う少女たちの声が耳に届いたが、人目を気にする余裕など、もうどこにもありはしなかった。
追われる身の緊張でなんとか維持はしているものの、肉体の疲労はすでに限界に近い。
何の打つ手もなく逃げ惑い、ただただ追い詰められていく。
いったい『敵』はどうやって正確に追跡しているのか。
追うどころか、先刻は先回りまでされていたのだ。
思い出せば、汗みずくの圭介に対し、黒い男は汗どころか息ひとつ乱れていなかった。
両手に湛えた水鏡に映る揺らいだ自分の顔を圭介はじっと見詰めた。
『敵』の移動の早さには、なにか秘密がある。だが、そのなにかが予想もつかない。
いっそ、罪科の剣で影を引き、無人と化したモノクロームの街を逃げたほうが速いだろうか。
そうも考えたが、あの世界では時間の流れがこちらとは違う気がする。計ったわけではないが、著しく遅いか、あるいは全く時が動いていないような印象がある。
逃げ切れる可能性も考慮するならば、時間は減らず、体力を消耗するばかりなので、かならずしも得策とはいえない。
いまの時刻を知ろうと、圭介は立ち上がり、駅舎入口の壁に掲げられた大時計を見た。
午後三時まで、あと数分。明日の午前零時まで、まだ九時間もある。
「時間の他にも気にすることがあるんじゃないのか」
聞き覚えのある声は噴水を挟んだ向こう側から聞こえた。
突然、水が空へと噴き上がり、水柱と水滴で死角を作る。
罪科の剣を手に白と黒の領域を圭介は疾走した。噴水に沿って反時計回りに。
声のした場所に黒い男の姿は無い。
水の幕は落ち、水面が波打った。
戸惑う間もなく、背後に死の影を感じた。
振り向きざまに胴を薙ぐ。
互いの斬撃はほぼ同時、追いすがった男の袈裟斬りを間一髪で黒い刃が止めていた。
圭介が向かってくる気配を読み、その後に同じ左方向へと疾駆し、『敵』は背後へ追い着いたのか。追い着けない力量差に圭介は歯軋りした。
押し退けようとする力は切り伏せようとする力に対抗出来ず、ぎりぎりと『敵』の剣が眼前へと迫る。
緊張が頂点に達したそのとき、黒い男が半歩だけ退いた。
突然の後退に、軸足の重心がわずかに前へずれる。勢い、圭介は剣を振り切った。
だが、黒い風に乗るかのように『敵』は後ろへ跳んだ。
置き土産とばかりに膝の横を蹴り飛ばされ、バランスを崩した圭介は、大きな水柱を上げて水の中に倒れこむ。
「忘れるなと言ったはずだ。顔でも洗って目を覚ませ」
打ち身の痛みに耐えながら噴水池から這い上がり、同時に剣で水を巻き上げた。
とどめを刺す気もなかったのか、『敵』は元の位置からさらに一歩下がると、飛沫の軌道を見切って避けた。
身体に張り付くびしょ濡れの服から点々と水を滴らせながら、わずかな活路を求めて圭介はまた逃走に移る。
やはり時計が必要だ。
息も絶え絶えな圭介は、腕時計を着けてこなかったことを改めて後悔した。
ジーンズとTシャツはすでに乾きつつあるが、まだ湿っているスニーカーの中で酷使された足の裏が擦れてずきずきと痛む。筋肉痛だろうか、痛み以上に全身が熱い。
確か、どこかのホームセンターで、安い腕時計を売っていたような記憶がある。あの手の安物は内蔵電池がいつまで保つのかあやしいが、今日一日だけでも動けばそれで事足りる。いまの圭介の持ち合わせでも十分に買える金額のはずだ。
しかし、現在地からそこへ行くには遠すぎる。
逡巡している暇はない。
圭介は即座に駆け出した。自分の住む部屋に向かって。
直線距離で考えればホームセンターよりも遥かに近いのだ。
まさか『敵』もスタート地点に戻るとは思うまい、と圭介は踏んだ。
疲れた身体を引き摺るように住宅街を進み続けると、やがて児童公園が見えてきた。
片方が鎖ごと撤去されているため、横に不自然な隙間のあるブランコを、子供が漕いでいた。公園の一部にぽっかりと空白の場所があるが、そこにはかつて滑り台があったことを圭介は忘れていない。
霞崎洸との戦いで圭介が利用し、その結果、大破したのだ。
修理するより撤去したほうが遥かに安上がりだったのだろうか。
公園で遊ぶ子供たちには、消えた滑り台を気にしている様子はない。無いものを思い、気遣うのは、思い出を引き摺り、過去に囚われる者だけなのかも知れない。
「家に帰るにはまだ早い」
背後から男が呼び掛ける。それまで誰かが近付く気配は全く感じなかった。
子供たちの高い笑い声を追うように、きいきいとブランコが甲高く鳴る。
「それとも、なにか忘れ物でもしたか」
行動を読まれているのか。
よぎる疑問を心の片隅に置き、振り向いた圭介は地を這うように走り、間合いを狭めた。
握り締めた両手の内に、罪科の剣が黒く輝く。
色を失くした世界で、乗り手の姿が消え失せたブランコが揺れていた。
下方からの斬り上げを、『敵』は右手の剣で難なく打ち払う。
崩れた姿勢から、さらに踏み込み、無理矢理に横へ払った圭介の黒刃が、またしても打ち返された。よろける身体を踏み留め、圭介は何度も全力で斬撃を叩き込む。
しかし、その全てが、止められ、受け流され、あるいは打ち込んだ以上の重さで弾き返された。
おれは敵わないのか。この男に。
胸にこみあげてくる昏く苦い想いが圭介を絶望の淵へと招く。
剣で敵わなければ、願いは叶わず水泡と帰す。
圭介の知り得ない尊い時間――この町で沙希が暮らした十年間。
次の瞬間、放たれた圭介の突きは神速すらも超えていた。
目にも止まらぬ鋭い刺突が、同じく超速の黒い切尖と激突した。
剣を通した衝撃に両手が痺れ、圭介は後ろへ吹き飛ばされる。
あの速度の突きを、しかも切尖で押し返すなど、到底人間業とは思えない。
吹き飛んで開いた距離も利用して、圭介は脱兎の如く逃げ出した。
まだ勝てない。だが――。
たとえ、どんな手を使ってでも最後に勝たなければ……。
忘れてはならないことはそれだけだった。
いつの間にか、空が曇り、灰色の雲が太陽を遮っていた。
あたりが暗くなってきているのはそのせいだけでなく、夜が近付いているからだろう。
橋を渡った圭介は、全てが始まったあの川の土手を歩いていた。
ここで最初の『敵』、相沢稜は死んだ。
そしてここは、五年前に二人が溺れ、一人が死んだ川でもあった。
すでに圭介の疲労は限界に達している。
もしも、いま立ち止まれば、座り込んだきり立てなくなるような気がした。蓄積されたダメージが全身に重くのしかかるが、目だけは逆に冴えてくる。
まだ、身体は動く、はず。
鉄柵の向こう、ヘドロが底に流れる川面へと視線を落とせば、不法投棄の冷蔵庫がまず目に入る。黄ばんだ扉がわずかに開いていた。その内側に、風雨に晒された骨かと見紛う汚れた網棚があることを圭介は知っている。
川を挟んだ向こう岸で幼馴染を失い、こちらの岸で『敵』である少年を殺したのだ。
誰も通らない土手をゆっくりと歩く。
遠くの街灯に明かりが点り、迫り来る夜の暗さを予感させる。
川の水と、離れた鉄橋を通る車の流れだけが、静かな音を立てていた。
物音ひとつ立てず忽然と背後に現れる人の気配。
「何故、逃げても追い着かれるか、わかったか?」
どうやっても振り切れない『敵』、黒ずくめの男。
剣も抜かず即座に圭介が後ろを向くと、そこには誰の影も無かった。
「その様子だと、まだわかってないらしいな」
男の声はまた後ろから聞こえた。
もう一度、振り返る。
その目に認めた瞬間、『敵』の姿は掻き消えた。
圭介の影の中へ。
再び影から姿を現した黒ずくめの男は、冷たく言い放った。
「ずっと、お前の影に潜んでたのさ。バレないように人混みで交差した他の影に移って、先回りのフリもしたが……。そんな凝った真似は必要なかったか。お前の影に入るのは簡単だったよ。俺に背中を向けて、脇目も振らずに逃げてくれたおかげでな」
恐怖に追われ、逃げ惑い、どうすればこの強敵を倒せるのか、あるいは逃げ切れるのかと考えていたとき、『敵』はその自分の影の内に隠れ潜んで待っていたのか。
「だが、隠れるのはもう終わりだ。夜は影の時間だからな」
深まりつつある夜の闇。その全てが影だった。
闇に潜り、影を移動する者を相手に、どうして真夜中の零時まで逃走することなど出来得るだろうか。
いや、不可能だからこそ、ペイルライダーはこの条件を追加したのだ。そう圭介は確信する。希望を餌に泳がせられた圭介が、力尽きて絶望の闇に溺れ死ぬ、その惨めな結末を観賞し、愉悦に浸るために。
『敵』が消え、左斜め後ろに殺気が走る。
圭介は瞬時に左後方へ罪科の剣を振り被った。
影引かれた真の世界で、夜の黒は白に反転する。
一刀両断された残像が消え、声はまた背後を取った。
「景色の色こそ違うが、どっちの世界も時間は同じ。いまは夜だ」
振り向きざまの斬撃を半歩引いて躱した『敵』は、不敵な笑みを残し、白い影の中に身を消した。
左へ現れた男の刃をなんとか弾き返す。瞬く暇もなく、真後ろに立つ殺気へ逆手の剣で脇の下から突きを送れば、瞬間移動した黒い気配は右から斬りつけてくる。全方向からの目にも止まらぬ時間差攻撃を、わずか一歩ほどの範囲でかろうじて弾き、受け、防ぐ。
たった一人を相手に圭介は完全に包囲されていた。
死の囲みはさらに速度を増し、黒い剣が描く軌跡の束は、まるで墨で刷いたかのように白い夜との境を示す。
防戦一方のまま、閉じ込められた黒い刃の檻。
高速で影への出入りを繰り返す『敵』に対して打つ手は無い。
わずかに守りが薄くなった圭介の真正面から黒い風が吹いた。
男の手にした罪科の剣が貫いていた。
圭介の左胸を。
脳に走った感覚は苦痛より、喪失感に近かった。
さらさらと流れる音が、耳の奥で、いや、もっと深いところから聞こえてくる。割れた砂時計から零れ落ちる砂粒にも似たその音は、戻らない時間を嘆く追悼の囁きか。
抜けていく力を振り絞り、圭介は己の胸を貫き通した黒い刀身を左手で握り締めた。
『敵』が剣を引くより速く、右手の剣は相手の左胸を突き抜ける。
互いに互いの胸を刺し貫き、支え合うかのように二人の男は身動きを止めた。
「相打ちなら、お前の負けだ……」
黒尽くめの男が言葉とともに吐いた血は落ちる途中で灰塵へと変わる。
「相打ちなんて無い。……おれとあんた、どっちが先に死ぬか、だ」
答えた圭介のむせた咽喉から砂塵が零れた。
ありったけの力をこめ、『敵』を刺し貫いた罪科の剣を捩じり上げる。
噴き出した額の汗が冷たく流れ、血の気が失せていくのを圭介は実感した。
忍び寄るように死は近付いてくる。
沈黙を破り、圭介が口を開いた。
「おれの名は近衛圭介。あんたの名前は?」
黒ずくめの男はにやりと笑った。
「……もう、忘れちまったよ」
前のめりに倒れた男の胸に、さらに罪科の剣が深々と刺さる。
「気をつけろ。ヤツは確かに『願い』を叶える。ただし、お前の望まない形でだ」
男は謎めいた台詞を言い残すと、灰色の地面に塵と砂を舞い散らせた。
どれほど過去のことなのか。
擦り切れそうな映画のようなフィルムじみた傷だらけの記憶が見える。
「よくぞ、五人の『敵』を倒した。いまこそ、お前の望みを叶えよう」
捩れた布の黒い人影は銀の仮面の下で笑った。
「だが、あの女は、お前と出会ったからこそ死んだのだ。私はこれより影を辿り、過去へと向かう。出会う以前に、お前自身の存在そのものを消し去る以外に、彼女の生命と未来を救う手立ては無い」
黙って男は頷いた。
「私と契約を交わした以上、過去に何が起ころうとも、お前は消え去る事は無い。私との契約は絶対だ。これより、お前は、お前自身の契約を証明するために、因果を逆転させた矛盾したものとして存在し続けるのだ。だが、そんなものが生きられる場所など、この世の何処にも在りはしない。影の中でいつまでも待ち続けるがいい。いつの日か、私が切り札としてお前を呼ぶ、そのときまでな」
誰も来ない影引かれた真の世界に、男は一人残された。
名乗る必要は無い。
そう言っていたあの男は名乗るべき名前すら無くしていたのだ。
五人の『敵』と戦い抜き、勝利し、願いを叶え、そして全てを失った。
圭介の胸に残る痛みは、刺し貫かれたためばかりではなかった。
戦いで受けた胸の傷は、はじめから何事も無かったかのように塞がっていたが、生死の間際を行き来したせいか、生命力の根源的ななにかを持っていかれた気がする。
全てを出し尽くし、身体を支える足がふらついたが、罪科の剣を地面に突き立て、杖代わりにしてどうにか堪えた。
白と黒が反転したまま戻らない世界にペイルライダーの不吉な声が響く。
「よくぞ、五人の『敵』を倒した。近衛圭介よ」
いつの間に現れたのか、川の中央に捨てられた冷蔵庫の上に、黒く波打つ布人形がフードのしたの銀仮面に変わらぬ嘲笑を湛えて立っていた。
「まさか、あの男まで倒すとは全くの予想外だった。いままでは、あの男を切り札として出せば、それで全て片付いていたからな。私がこの遊びを思いついてから永い年月が過ぎたが、五戦全てを戦い抜き、最後まで勝ち残ったのは、これで二人目となる」
待ち続け、呼び出されては、かつての自分と同じく奇蹟を求めて戦う者をその手で倒してきた最初の一人。全てを失った男は、矛盾した存在と成り果ててなお、自分自身を奪われ続けていたのか。
そのあまりに過酷な境遇を想うと圭介は眩暈に襲われた。
目を上げると川の中の冷蔵庫とペイルライダーは背中を見せていた。
なにをどうされたのか、自分が向こう岸の土手に瞬間移動させられていた事実に気付く。
「奇蹟には相応しい場所が必要だ。それが、他者の目にはどれほどに詰まらないものだとしても。そこまで下りてくるがいい」
ペイルライダーが指し示した場所は、かつて沙希から聞いた幼い二人が川へと転げ落ちた地点に他ならない。
コンクリートの階段を一歩また一歩と重い足を引き摺って川辺へ向かう。
ペイルライダーは冷蔵庫の上から宙を浮いて川を渡り、錆びた鉄柵を影のように突き抜けた。死闘の果てに疲労困憊の極致にある者のあまりの歩みの遅さに、退屈を隠しきれぬ様子で腕を組むと、錆びが浮く鉄柵に背を凭せ掛ける。
やっとのことで圭介はペイルライダーの前へと辿り着いた。
「もう一度だけ確認するとしよう。近衛圭介よ。お前の望みは、酉蕗沙希を救う事……。そうだったな?」
「……そうだ」
笑顔で迎える銀仮面に、渇ききった擦れ声で答えた。
淡く青白い光を閉じ込めたガラスの小瓶が、差し出された黒い手の平に浮き上がる。
あの日、死ぬはずだった沙希の魂、その失われた残り半分は、消え入りそうに揺らめいていた。
「ならば、これを飲み干すがいい」
一瞬、鼓動が止まった。
津波のように押し寄せた疑問に思考が追いつかず、問いは言葉とならぬまま、逆巻く奔流へと呑み込まれていく。
「そうすれば、魂の欠如に拠る彼女の運命の不安定さは消える。お前の魂に取り込まれ同化する事でな」
青ざめた顔で圭介は、青く瞬く小瓶を見詰めた。
だが、それは、もしや――。
「なに、酉蕗沙希の運命を握る相手が、私からお前に変わるだけの話だ。支配してやるがいい。たとえ半分とはいえ魂を喰われた者は決して裏切らない、逆らいもしない。まさに永遠の恋人だ。それとも、魂の伴侶とでも言うべきかな」
違う。それは奴隷だ。
奇蹟に釣られ、殺し合いを演じてきた自分たちと同じだ。
圭介の心の叫びは暗い絶望に掻き消される。
名も無き男が語ったように、提示された救いは、望まない形で現れた。歪で醜悪なおぞましい形で。
「過去の悲劇を改竄し、彼女との思い出を失いたくはあるまい。いいや、それどころか、近衛圭介よ。お前は望んだ全てを手に入れるのだ。ずっと、酉蕗沙希が欲しかったのだろう? 五人もの人間を殺しても構わないほどに」
暗く膨れ上がる絶望の底へ沈みこんでいく心に、沙希の青い面影がよぎった。
「十年前のおれは『たすけて』と言ったはずだ」
「その通り。そして私は『助けてやろうか』と言った」
「おれは誰を助けてと言った?」
「ほう。その様子、どうやら私が用意してやった奇蹟が気に入らないものとみえる」
影引かれた真白の夜に、黒の化身が睨み合う。
「よかろう。それならば――」
目の前からペイルライダーの姿は消え、声は土手の上から聞こえた。
振り向く圭介の目に、黒い手が空に掲げた小瓶が輝く。
危機を察知した圭介は疲れを忘れて土手を駆け上がる。
青い軌跡を描いた小瓶は、地面に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
「忘れてはならない正しい現実を見せてやろう」
その言葉と共に、圭介の肉体に途轍もない重さがのしかかった。
罪科の剣を地に突き立ててなおその身を支えきれず、すがりつくように膝をついた。見えない巨人の足で踏み潰されるかの如き力は、背中に激痛を走らせ、視界までも霞ませる。
「その重さは、お前が過ごしてきた十年という時間そのものだ。重かろう、人生という歳月は。生きとし生けるものは全て、自分の歴史を背負い込む。過去と向き合う前に、命あるものは皆、過去に押し潰されてしまうのだ。――見よ、近衛圭介よ」
銀仮面の顎で示した向こう、小さな影が二つ、こちらへ走って来る。
まだ幼さの残る男の子の手を女の子が引っ張っていた。
圭介は二人を知っている。
忘れたことなどなかった。
「そう、ここは過去。影を辿りし十年前のあの日だ」
コンクリートで固められていた川岸は、いまや灰色の雑草に覆われていた。事故を防ぐための鉄柵も無かった。前日まで山間部で降った雨で増水し、濁った川の水は薄い墨の色だった。だが、影引かれた世界の激しい水流は一切の音を立てない。
「よく見るがいい。ここで何が起こったのかを」
遠い日の沙希と圭介がだんだん近付いてくる。
川へと転げ落ちていき、水に呑まれるこの場所へ。
「さて、私は、お前たちが打ち上げられる岸に行くとするかな。どう足掻こうとも、人間に過去は変えられん」
くつくつと嘲笑うペイルライダーは背を向けて土手を斜めに降りていく。
残った力を掻き集め、圭介は黒く波打つ背中へ向け、罪科の剣を突き込んだ。
瞬間、ペイルライダーは消えた。
そこには小さな二人が川を見下ろしていた。
寸前で止めた切尖がわずかに触れ、幼い自分の背中を押した。
「こう思ったことはないか、近衛圭介。まるで誰かに背を押されるかのように、運命は坂を転げ落ちていくと」
声はすぐ後ろから聞こえた。
子供たちが坂を駆け下りていく。
握った手を離さないまま、その勢いは止まらない。
やがて、大きななにかが水に落ちる音がした。真の世界ではしないはずの大きな音が。
「これでまた振り出しだ。だが、奇蹟を望んでおきながら、私を疑い、契約を軽んじる者には思い知らせねばなるまい」
落ちたはずの二人が、また、土手の向こうから駆けてくる。
「私には無限の時間がある。近衛圭介よ、何度でも繰り返してやろう。お前の心がへし折れ、気が狂ってしまうまで。何度でも何度でも何度でもな」
百回か、千回か、あるいはそれ以上なのか。
目の前で再現され続ける死への転落劇は、どうやっても止められなかった。
たとえ、圭介が罪科の剣で触れなくとも、十年前の二人は絶対に川へと落ちていくのだ。
背中にのしかかる時の重さに耐えながら、何度も道を塞ごうとしても、手遅れだった。
やっと間に合ったと思った瞬間、過去の二人は立ちはだかった圭介の身体をすり抜ける。
死の定めに向かって駆け下り、水柱を上げて濁流に消えた。
それがまるで当然であるかのように。
些細な抵抗で過程を少し変えようとも、過去に起きた結末は変わらないのか。
休みなく続く拷問にも等しい過去の再現。
もはや、圭介の精神は綻びかけ、身体は疲労で擦り切れかけていた。
それでもまだ圭介は屈していなかった。
「つくづく諦めの悪い男だ。私の申し出をのめばいいだけの事を」
傾斜した灰色の草の上に浮くペイルライダーが小さく溜息を吐く。
「しかし、いくら退屈な見世物だとはいえ、これではあまりに観客が少ない。ここでゲストでも呼ぶとしようか」
捩れた黒い手が向こう岸を指す。
そこには、眼鏡をかけた長い黒髪の少女が、水玉模様のパジャマ姿で立っていた。
十年前のではない、いま現在の酉蕗沙希が。
それ相応の川幅を挟んで、圭介にははっきりと沙希の姿が見えた。
愕然とする圭介の横を、あの日の二人がまた転げ落ちていく。
「やめろ! 酉蕗には見せるな!」
絶叫する圭、介にペイルライダーは仮面の顎をひと撫でしただけだ。
「ここは……? なにが、どうなってるの……? どうして、近衛くんがここに――」
激しく波打つ水面に助けを求める小さな白い手が伸びる。宙を掴んで手は沈み、激流の中に消えた。
「わたし……。わたし、思い出した……。どうして忘れてたんだろう……」
呟いた沙希の声は自分自身への問いかけか。
死にも等しい失われた記憶がいま息を吹き返そうとしていた。
「そうだ……。わたし、まだ小さくて、けいくんが引っ越すのが嫌で……。けいくんが川に落ちたら、きっと、引っ越さねくても済むと思って……。それで、『おさかなをみにいこう』って……」
腰が砕けたように沙希は草の上に座り込んだ。
「おさかななんて、いるわけないのに――」
両手で顔を覆い、忘れていた残酷な真実から目を背ける。指の間から涙が溢れ出した。
いま明かされたもうひとつの真実に顔を伏せる圭介へ、ペイルライダーは罵声を浴びせた。
「愚か者ども! 人生など知らずにおいたほうが良い事ばかりだろう? 近衛圭介、お前が全存在を賭して守ろうとした、この小娘こそが全ての原因だったのだ! お前を殺そうとした娘のために、お前はいまのいままで殺人を繰り返してきたのだ!」
それを聞いた沙希は涙でぐしゃぐしゃの顔で抗議の声を張り上げた。
「ちがう……! わたし、けいくんを殺そうだなんて!」
不快さを隠そうともせずペイルライダーは吐き捨てる。
「思わなかったら、それで済むとでも? 何もかもがもう手遅れなのだ。過去の傷は拭えはしない。酉蕗沙希よ、幼いお前がついた詰まらない嘘の為に、多くの者が殺され、望みを奪われたのだ。この近衛圭介の手によってな」
よせ!
圭介の叫びは、言葉にすらならなかった。
もう限界だった。
繰り返された時の重さに押さえつけられ、灰色の草が生い茂る岸に圭介は倒れこんだ。
「何もかも全て、お前の所為なのだ、酉蕗沙希。いままさに、近衛圭介が死に瀕している事すらもな」
沙希の嗚咽は苦悶に震え、白と黒の世界に響き渡る。
「だが――。酉蕗沙希よ。近衛圭介を救う方法がひとつだけある」
まさか、と耳を疑った。
嫌な予感に、我が身にかかる強力な重力に逆らい、圭介は顔を上げる。
こちらに一瞥をくれた銀仮面は改めて、川を挟んだ沙希に向き直ると厳かな口調で言い放った。
「私と契約し『敵』である五人の人間を殺すのだ。彼――近衛圭介がそうしたように」
しばしの沈黙は脅えに変わる。
「そ、そんな、わたし、人殺しなんて……」
「だが、近衛圭介はやってのけた。酉蕗沙希、お前の為に」
静まる空気を通して沙希の迷いが伝わってくる。
這いつくばったまま、どうすることも出来ず、圭介は奥歯を噛み締めた。
「そしていま、彼は死にかけている。嘘つきのお前を守った為に」
言葉が緊張を加速させ、沙希が口を開こうとした、そのとき。
「――魚は、いた」
時間の罪にねじ伏せられた圭介が、右手の黒い剣を支えに立ち上がろうとしていた。
十年前のあの川に、魚などはいなかった。
川から揚がったものはといえば、自分の他にもう一人。
しかし、その肌は魚の腹より青白く、川の水より冷たくて――。
「おれたちは魚を見に川に行ったんだ。川は濁ってたけど、おれはあのとき、ちゃんと魚をみつけたよ。流れに逆らって泳いでたほんの小さな魚だった」
嘘をつきたくなかった。
なるべくなら。
出来得る限り。
しかし、ここに辿り着くまでに、圭介は多くの嘘をつき通してきた。
「うそ……」
真実を告げる涙声に。
「本当だ」
最後の嘘をついた。
「濁った川に小魚一匹居ようが居まいが関係ない。言ったはずだ。影引かれた真の世界に嘘の付け入る隙など無いと」
精神力だけで立っている圭介にペイルライダーは振り返った。
黒く輝く人ならざるものに、罪科の剣は静かに狙いを定め、圭介が言った。
「おれの願いはまだ叶っていない。ペイルライダー、契約は絶対だと言いながら、あんたは契約を守らなかったな」
「契約不履行はお前がそれを望んだからだ、近衛圭介よ。まさか、私が与えてやったその武器で、私を傷付けられるなどと本気で思ってはいまいな」
なんの恐れも見せず余裕を見せつける相手に圭介が答える。
「これは、おれが五人と戦って鍛え上げたおれだけの剣だ」
倒れそうになりながら、土手の傾斜を前のめりに走り、五つの希望を打ち砕いてきた黒い刃を振り上げた。
黒く波打つ人型が解け、膨張した闇が圭介を覆い尽くすべく広がる。
ペイルライダーの身体は輝く黒い布などではない。
影、いいや、闇そのものだった。
包み込む内側、その中心で銀の仮面が冷たく笑う。
闇が圭介を世界から隔離した刹那、罪科の剣が仮面に触れた。
全身全霊の力で銀仮面に斬りつける。
その瞬間、覆った影を突き抜けて、剣は仮面を地に打ちつけた。
ぴしり。
仮面に小さなひびが走る。割れた口の隙間からペイルライダーの声が漏れた。
「誰もが取り返しのつかぬ昨日に不平をこぼしながら、今日という日を生きているというのに……。唯一無二の、やり直しの機会をみすみす棒に振るとは……。なんという愚か者なのだ、お前は」
「名前なら何度も名乗ったはずだ」
「ふざけた事を……。だが、まだ終わりではない」
仮面だけに成り果てたペイルライダーの宣言とともに、再び幼い頃の圭介と沙希が土手の向こうから駆けてきた。
「過去を変えられはしないのだ。過去を背負った人間である限り」
嘲笑した仮面の眉間に黒い剣が深く突き刺さる。
そのまま、圭介は立ち尽くしていた。
振り返ると土手の上の子供たちと視線が交差する。
まだ彼らの知らない悲劇の運命。
その前に立ちはだかる者――それは、疲れ果て、肩で激しく息をする満身創痍の人殺し。
あの日の二人の目に、いまの圭介はどう映っているのだろうか。
だが、圭介にはそんな傷だらけの人物を見た記憶はなかった。
いまにも泣き出しそうな小さな沙希の手を引っ張ると、あの日の幼い圭介は、もと来た道を走り去っていく。いまここに立つ圭介の知らない別の道を。
駆け足で遠ざかっていく子供たちを見送りながら、向こう岸の沙希が訊ねた。
「近衛くん。これから、わたし、どうなっちゃうのかな」
圭介は首を横に振った。
「わからない。でも――。これからは、もしこれからがあるのなら、誰のものでもない自分自身の人生を生きてくれ」
返事は無かった。
向こう岸にはもう誰もいなかった。
「己の過去を変えてしまったお前は、もう元のお前ではない」
蜘蛛の巣状のひびに覆われた銀の仮面が地面から擦れ声で囁いた。
「運命という名の青ざめた馬に乗り、私のように彷徨い続けるがいい」
縦横に走る亀裂がさらに大きくなり、仮面は粉々に割れた。
気の遠くなるほど遥かな昔、この世のものならぬ強大な力は、この世に召喚された。
力を望む人間は奇蹟を求め、力はそれに応えた。
あるときは悪魔と呼ばれ、あるときは天使と呼ばれ、またあるときには神とも呼ばれた異界の力は、招かれるたびに、望む者に奇蹟を振る舞い続けた。
心のどこかで世界の終わりを望みながらそれを否定する、ある敬虔な男の強迫観念的な妄想が、本来、形を持たない力を終焉の騎士へと変えた。男は無自覚だったが、その実在を強く望んだいたからだ。
終焉の騎士と化し、姿を得た力は、北へ、南へ、西へ、東へと、かつてのように奇蹟を望む者を探して回った。
生命持たぬものの永遠に続く旅。
騎士は、訪れない終焉を待ち続けて、与えられた意味や目的を失っていった。
呼びつけておきながら、勝手に死に、この世を去っていく人間たちに、いいしれぬ感情――嫉妬を覚えながら。
頭の中を駆け抜けたペイルライダーの膨大な歴史。
罪科の剣を通して伝わるそれを垣間見ただけで、圭介の脳は灼ききれそうだった。
永遠に存在し続ける運命だったものは、自己の消滅をこそ望んでいたのかもしれない。
己自身、その願いに全く気付かずに。
白と黒と灰色の岸辺に、一人残された圭介は重い足を引き摺りながら、黒い流れへと近寄った。
消え失せた沙希が立っていたはずの向こう岸をみつめて、静かに立ち尽くす。
おれは酉蕗を助けてなんかいないよ。
夏休み前、沙希に告げたその言葉だけが、長い遠回りを経て辿り着いた真実だったのか。
がくりと膝が折れ、倒れた身体は半回転し、黒々とした濁流へ落ちる。罪科の剣を岸へ残して。
背中が水を打つのを感じ、落ちる涙の代わりに空へと上る水飛沫を見た。
酸素を求めて吐いた息が水泡となり、どんどん遠のく水面へ向かう途中で消えた。
激流にもまれながら圭介は流されていく。
ここではない別の何処かへ。