第四章 とどかぬもの
すでに陽射しも強い朝、バス停留所に向かった圭介を待っていたのは、バスではなくて沙希だった。
腕時計の文字盤を覆うプラスチックを、青いTシャツの腹で拭って時間を確かめる。
八時五〇分。
二人の他にバスを待つ人影は見当たらない。
「おはよう、近衛くん」
軽く挨拶した沙希の服装は白いワンピース。プールへ行ったときに着ていた物だが、圭介は知る由も無い。細い肩に小さなショルダーバッグを提げている。
「ホントに来たのか……酉蕗」
五日前、デパート火災から救出された圭介は、沙希とともに救急車で病院へと搬送され、ありとあらゆる検査を受けた。
だが、どこにも異状は見つからない。せいぜい軽度の火傷と擦過傷くらいのものだ。
念のために後日また再検査を、という話になり、その後日こそが今日だった。
デパート側からは検査費用はもちろんのこと、病院への送迎もする申し出もあったのだが、圭介は丁重に断った。
あの一件に関していえば、被害者というより、むしろ加害者に近い。もしも、このオカルトじみた事情を理解出来たとしたなら、共犯呼ばわりされても本来おかしくはないのだ。罪悪感は当然ある。
しかし、デパート側から見れば、最後まで店内に残り、逃げ遅れた小さなお客様の救助に一役買ってくれた恩人だ。
結果、死者は一人も出さずに済んだ。
だが、それが真実ではないと知る人間は、圭介ただ一人だった。
結局、デパート側の信用と沽券に関わるため、医療費負担ばかりは断りきれず、この拳の担当者となった井上某氏とは、病院で落ち合うことにした。
ここまではいい。
その場に居合わせた沙希が、何故か鼻息も荒く、
「わたしが責任をもって、近衛くんを病院へ連れていきます」
と、宣言して、本人の意見そっちのけで関係者一同を納得させてしまったのだ。
無論、こちらも圭介は丁重にお断りしたのだが、まるで聞く耳を持たなかった。
それどころか、勢いに乗じて圭介の住むアパートの住所を聞き出した挙句、迎えにくるつもりだったところを、なんとか妥協させてバス停での待ち合わせと相成った。
「だって、約束したからね。連れてくって」
バス停の横で、さも当然のように言う沙希に、嘆息する圭介であった。
まもなく、自動車の流れに押されるようにのろのろとやってきたバスが停車した。後ろの軽自動車が、クラクションを鳴らして急ハンドルを切り、追い越すとさらにスピードを上げて走り去った。
開いた扉から降りる客はゼロ。二人を乗せて自動ドアは閉まる。
バスの車内には、ほんの数人しか利用者の姿がない。
誰もいない最後部の座席に、すこし距離を置いて二人が腰掛けると、路線バスはゆっくりと走り出した。
「近衛くん、ちょっと聞いてもいい?」
問う沙希に圭介は軽く頷いた。
「どうして、あのとき、お店の中に戻ったの?」
いままで沙希がこの質問をしなかった事実に今更ながら気付いた。
「中学のときに、転校して引っ越していったやつをみかけたんだ」
圭介は警察に訊かれたときと全く同じ嘘をついた。
火災事件後、自宅に訪ねてきた警察官を前にしたそのとき、かつて転校していった同級生男子の名前が不意に浮かび、あとはスラスラとそれらしい台詞を並べ立てた。間違いなく第一容疑者であろう圭介は、再尋問されることを覚悟していたが、それきり警察は現れず、警察署への任意出頭要請もされなかった。
菓子折りを持ってアパートに訪ねてきたあの男の子の両親によれば、圭介以外のもう一人の少年が六階に爆発物らしき物を設置している場面を、偶然に男の子が目撃していたらしい。爆発の際、飛んできた破片か何かに当たって気絶していたので、その後のことはよく知らないようだとも言っていた。
男の子の証言のおかげか、それとも圭介の知らない新事実をペイルライダーが用意したのか。どちらにせよ、警察の目からは逃れた。
「でも、他には誰もみつからなかったって――」
最後は途切れがちになる沙希の言葉に、圭介は「ああ」と返事をする。
たとえ、どれほど手を尽くして捜したとしても、みつかりはしないだろう。
塵となって散らばった、あの少年――郷田奏司は。
報道でも大きく扱われた放火によるデパート火災に対して、その同日に起こった、とある家庭のガス爆発事故は、家族三人もの死者が出たにも関らず、ほとんど世間の話題にのぼりはしなかった。
そうしていつか忘れ去れてしまうのだろう。
おそらく、ありとあらゆるものが。
前のほうの座席から笑い声が上がった。若い男が携帯電話で話している。
そういえば、担任の教師からも安否を気遣う事務的な電話があった。それよりも前に掛かってきた遠藤からの電話で、怒鳴られた上にこっぴどく説教されたので、ちょうどいいバランスといえなくもない。
父親と身重の新しい母親からも連絡があり、様子を見にきたがっていたが、こちらから頼みこんで止めてもらった。まだどっちかもわからない弟か妹と、初産の母親の身体のほうがよほど心配だ。
実の母親からは何の音沙汰もなかった。こちらからも連絡はしていない。
音声案内がよく通る甲高い声で次の停留所を総合病院前と告げた。
白くて大きな総合病院でバスを降りて、ふと振り返る。
手を繋いだ若い母親と小さな男の子を乗せると、バスの自動扉が静かに閉まった。
病人と怪我人、そしてその関係者たちで賑わうロビーで、デパートの男性社員である井上さんはすでに待っていた。軽い挨拶と社交辞令じみたたわいもない会話を交わして、圭介は予約してあった検査へと向かう。
「酉蕗。どれくらい時間かかるのかわからないから、先に帰ってもいいぞ」
改めて提案してみた圭介に、右手で待ったをかけた沙希は首をぶんぶん横に振る。
「いいえ。待ってます」
毅然とした態度の断言を翻させるべく、さらに帰宅を促すべく圭介は問いかけた。
「二時間以上かかるかもしれないぞ? 今日一日、棒に振るかもしれないんだぞ? やるべきことが他にもあるんじゃないのか、例えば、ほら、宿題とかさ。だいたい、病院のロビーなんて退屈なだけだろ?」
沙希はショルダーバッグから、茶色い紙のカバーに覆われた読みやすそうな厚さの文庫本を一冊取り出した。
「そんなこともあるかと思って、本を持ってきたの。どうぞ、ご心配なく」
圭介の口から漏れた「はあ」の音は返事というより溜息に近い。
居座る気まんまんな沙希を仕方なくロビーに残して、井上さんと並んで廊下を歩き出した。まだ若いデパート社員はさわやかに笑った。
「かわいい彼女だね」
リノリウムの床をキュッキュと擦る靴音は、どうにも背中がむず痒い。
「……はあ」
ビニール張りの長椅子は、堅実かつ実直な硬さだが、背中とお尻に優しくない。
軽い痺れを身体のあちこちに感じた沙希は、カトリック系名門女子高校を舞台にした人気少女小説から顔を上げた。受付の壁掛け時計を見ると、三十分ほど経っていた。
人の顔ぶれは入れ替わっているが、待合ロビーの人の多さは変わらない。名前を呼ばれて支払いを済ませ、去っていく人がいれば、擦れ違うように他の人が来る。ひっきりなしの千客万来といえば聞こえはいいが、ここは総合病院。あまりにも多い傷病人とお年寄りの行き交いに沙希は複雑な表情を浮かべた。
もしも、十年前のあのとき、あの川で、あのまま流されていたら、やはり病院に行かなければならないような目に遭っていたかもしれない。
いや、それどころか、もしかしたら死んでいたかもしれない。
悪い妄想を頭の外へとおっぽり出すと、小説を仕舞ったバッグを片手に提げて、沙希は席を立った。咽喉が渇いたので、なにか飲み物が欲しい。
現に沙希自身はこうして無事に生きているんだから、もしもの過去なんてない。
でも、そんな現在が、ずっと続くわけでもないことを、五日前のデパート火災で思い知らされた。いきなり、空から壁が降ってくるなんて、いったい誰に予想がつくだろう。
日々の暮らしは偶然の事故で簡単に壊されてしまう。
経験したからこその生々しい実感が、沙希を積極的な行動に走らせた。あからさまに迷惑そうな圭介の通院に無理矢理ついてきた。振り返って思い起こしてみると、顔から火が出そうなくらい強引なやりとりだったが、断固として拒否する素振りも見えなかったので、そのままそんな流れで押しきった。
夏休み前から比べると、圭介の前にあった自分へ対する拒絶の壁が、だんだん薄くなってきているように感じる沙希であった。
あのデパートみたいに壁に穴が空いたとか。
その壁が落ちてきて潰されかけたのも忘れて、沙希は一人微笑んだ。
白い廊下を曲がった先にある小さな売店には、三人のパジャマ姿のご老人がすでに先客として陣取っていた。退屈なのか、写真週刊誌の頁をめくり、ぱらぱらと眺めている。
敷地こそ狭いが、ちょっとしたコンビニくらいにさまざまな品物がある。レジの後ろに並べられたフルーツ缶詰ギフトセットは、もしかしてお見舞い用だろうか。
小さめの冷蔵庫のガラス戸を覗く沙希だったが、いまいち飲みたくないラインナップにちょっと首を傾げた。病院で栄養ドリンクを飲むのは、いったい誰なんだろう。
やっぱり自動販売機にしたほうがよかったかな、と思ったそのとき。
「あの……。酉蕗、さん?」
不意に後ろから名前を呼ばれた。
なんだか自信のなさそうな声に沙希は振り返る。
そこには、ピンクのパジャマに薄いガウンを羽織り、長い黒髪とは対照的に色白な少女が立っていた。
「え。もしかして……。白鳥さん?」
一年振りに会う中学時代の同級生、白鳥汀だった。
渡り廊下から出られる中庭は、白い敷石の上だけ歩けば履物もあまり汚れない。緑の芝生を四つに区分する石の十字路はそれぞれが出入口へと繋がっている。その中央で、慎ましやかな噴水が小さい人工池を波立たせていた。
池を囲む木製のベンチのひとつに、二人の少女の姿があった。
「じゃあ、白鳥さんは、あれからずっと?」
「うん。たまーに、良くなれば家に帰れるけど。もうどっちに帰ってるんだかわかんないくらい」
中学三年の夏休み直前、心臓発作で倒れた白鳥汀はそのまま入院し、それきり学校へは戻らなかった。先生とクラス委員がお見舞いに行った話は、まだ沙希の記憶にもある。
「あの……。わたし、お見舞いとか行かないで、ごめんなさい」
神妙に謝る沙希に、汀は笑って手を振った。
「いいよ、そんなの。別に気にしてないし。確かに同じクラスだったけど、あんまり私たちって話したことなかったじゃない?」
だからこそ沙希は、あえてお見舞いに行かなかったのだ。クラス委員だけだと寂しいからと担任がクラスの女子たちに声を掛けてまわったとき、親友の良美にもどうしようかと尋ねられた。
沙希は断った。
心配しているのは本当だけれど、人数合わせでお見舞いに行くだなんて、相手に対して失礼だと思ったからだ。もし、自分がそうされたら絶対に嬉しくなんてない。
「大体、私って、昔から人付き合い苦手だったの。身体が弱かったから、ずっとクラスのみんなに迷惑かけてるんじゃないかって思ってて」
「そう、だったんだ……」
クラスで目立たなかった線の細い少女。その涼しい切れ長の目は一年前にはとても鋭く感じられた。どこか超然としていて、まるで他人を撥ね付けるかのように。
沙希は内心、そんな大人びた汀の雰囲気に、ちょっとだけ憧れていた。
「ところで、酉蕗さんはどうして病院なんかに来たの? どこかケガでもした?」
「ううん。わたしじゃなくって、実はね――」
興味津々な様子の汀に、デパートでの一件を話して聞かせた。
いきなりガラスの天井を破り、外壁の一部が落ちてきて、間一髪で助かったこと。助けてくれた当人が、何故かみんなが逃げるのとは逆方向へ、つまり火事の店内へと駆け戻って行ったこと。
「えーっ! 酉蕗さん、あの現場にいたの? 私、ロビーのテレビで中継見てたよ。じゃあ、あの日に、ここへ救急車で運ばれてきたのって……」
「うん。近衛くんとわたし。今日は、その近衛くんが再検査だっていうから、付き添い」
「なんか凄いねー。でも、その……近衛君? どうしてお店の中に戻ったの? テレビではガス爆発してるかもしれないっていってたよ。煙もひどかったし」
「今日、聞いてみたら、中学のときの友達をみつけたから、追いかけたんだって」
「それで、近衛君はその友達を助けたんだ?」
「ううん。見間違いだったって言ってた。でも、途中で会った小さい男の子を助けたみたい。はっきりとは言わないけど」
感心したのか、聞いていた汀のほうが溜息を吐いた。沙希も合わせて一息ついた。
「カッコいい話だね。でも……」
言葉を切った白い横顔を沙希は見た。哀しげな微笑にも似た複雑な表情に、かかる数条の後れ毛が妙に色っぽくて、どきりとした。
「その友達って、近衛君にとって、そんなに大事な人なのかな。自分が死ぬかもしれないような目に遭うかもしれないのに、それでも助けたいと思えるような、そんな相手だったのかな」
呟くように言った汀の視線を追うと、人工池の中央から、ちょぼちょぼと噴水が水柱を上げた。水の力が弱いのか、柱というよりは水面に出来た瘤のようだ。
言葉に詰まった沙希だったが、これはどうしてもなにか答えなければいけないと、後先考えず咄嗟に喋り出す。
「でも、ほら! そういうときって、きっと身体が勝手に動いちゃうんじゃないかな? よく、わからないけど」
水面の瘤はすぐに治り、波紋だけが広がっていく。池の縁に当たり、小さく打ち返す波は、ぶつかり合って消えていく。
「でも、もしも誰かがいたとして、近衛君が犠牲になった上で自分が助かったって知ったら、素直には喜べないよね。私が助けられる側だったら、絶対嬉しくない。その先ずっと、自分のせいで近衛君が死んだんだって悩むんじゃないかな。酉蕗さん、どう思う?」
「そ、それはそうだけど……」
「だって、二人とも無事に戻ってこられるかどうかわからないのよ。もしかしたら、行き違いになって、助けに行った人のほうだけが助からないかもしれないし。それに」
「それに?」
「助けようとした相手が、もう手遅れだったらどうするの。それまで頑張ってた気力の糸が切れちゃうわ、きっと。そうなったら、もう自分だって助からない。残された人たちはどうなるの? 近衛君を止められなかった人たちは? 忘れられるはずないわ」
正論だ。沙希も確かにそう思う。
煙を上げるデパートの外で、混乱して泣きじゃくっていた自分の心情を無理に言葉にしようとすれば、汀の意見に似たものになるのかもしれない。
でも、今は。現在なら、理解出来る。
「ただ、助けたかっただけなんじゃないかな」
沙希は膝の上の小さな自分の手に視線を落とした。横顔に汀からの視線を感じる。
「自分が助けたいから、ただ助けたかったから。相手が死んでるかもしれないとか、自分が死ぬかもしれないとか、もうどうでもよくって、良いとか悪いとか、そういうのじゃなくって……。なんだか、あんまり上手く言えないけど」
池の真ん中で、今度はちゃんと水柱が上がった。周期性があるらしい。
「近衛君が助けようとしてたのって、もしかして女の子?」
「ううん。男の子だって言ってたよ」
「酉蕗さんを助けに行くっていうんなら納得出来るんだけどなぁ」
思わず沙希が笑い、つられて汀も笑い出した。
笑いながら沙希は胸の内で呟いた。
でも、もう、わたしはたすけてもらったから。
圭介が予想したよりも早く検査は終わった。
ほとんど無傷なのだから、当然といえば当然だ。
付き添いの井上さんは診断書の写しと領収書を受け取ると、体調不良があったらすぐに連絡出来るようにと名刺を渡して去っていった。初対面のときにも貰っていたが、黙って礼を言い、圭介は二枚目の名刺を財布に入れた。
ロビーは相変わらず嫌な活気に満ちているが、沙希の姿は見当たらない。
十分ほど待ってみた。
しかし、戻る気配はまるで無い。
嫌な予感に胸がざわめく。
前回戦った郷田奏司は、なんの躊躇もなく、沙希もろとも圭介を亡き者にしようとした。次の相手がそうしないという保障はどこにもない。
ほどよく冷房の効いたロビーで、圭介は額に汗が浮かぶのを感じた。
受付カウンターに並んで、背が低くてメガネでワンピースを着た自分の連れを見なかったかどうか尋ねてみる。受付嬢は丁寧な接客態度で「わかりかねます」とだけ答えた。
それでも一応、院内放送での呼び出しを頼んだ圭介は、自分でも院内を捜索する旨を告げて、受付を後にした。
事と次第によっては一刻を争う。
大人しく待っているわけにはいかない。
前から廊下を歩いて来る、ふんぞり返った白衣の集団は偉いお医者様とその取り巻きか。悠長に歩く連中と、早足で擦れ違う。踏みしめる一歩には誰かの生命が懸かっていた。
「酉蕗沙希さま。酉蕗沙希さま。一階、受付カウンターまでお越し下さい」
同じアナウンスが二度続けて流れた。音が籠もっていて、非常に聞き取りにくい。
白い廊下を急ぎ足で進みながら、圭介はあたりに目を配る。
品揃えのいい売店では、パジャマ姿の太った男がバニラのアイスクリームを大量に買い込み、年老いた性別不明の入院患者が、震える手で栄養ドリンクのキャップを捻っていた。
どこだ。どこにいる?
圭介が沙希を捜して見回すと、老人が手にしたドリンクのキャップが、小気味いい音を立てて開いた。
ふと入院患者の病棟へと続く渡り廊下に目をやった。
窓から池が見える。その池を中心にベンチが並べられているが、ひとつはちょうど死角になっていて、こちらからでは様子がよくわからない。
小走りで中庭に出られるガラス張りのドアへと向かう。
池へ伸びる白い敷石を視線で辿ると、ベンチに腰掛けた人影で止まる。
一人は沙希だ。
だが、その隣に、もう一人。
ドアを開けようとして手が滑り、先走った膝が厚いガラスにぶつかった。鈍い痛みを無視して押したドアがおそろしく重く感じる。踏み出した途端バランスを崩し、転びそうになったと圭介は、やっと隣にいるのが沙希と同じ年頃の少女だと気が付いた。
しかし、戦う相手が必ずしも男であるとは限らない。
ルールはひとつしかない。
主催者であるペイルライダーが愉しめるかどうか、ただそれだけだ。
沙希を呼ぼうとする圭介の声を遮って、再び院内放送が流れた。
「酉蕗沙希さま。酉蕗沙希さま。一階、受付カウンターまでお越しください」
どこかの窓から漏れ聞こえるスピーカー越しの声は、病院内で反響しているせいか、余計に曖昧な音になる。
「あ! いけない! わたし、呼ばれてる!」
それでもどうにか気付いたのか、驚いて立った沙希の後ろ姿に、圭介は声をかけようと口を開いた。
そのとき、池を挟んだ真正面のガラスのドアから、もう一人の若い男が中庭へと足を踏み入れた。
線の細い色白の男で、年の頃は二十代の前半くらいか。
長袖のワイシャツは全てのボタンをきちんと留めてあり、濃紺のスラックスとの組み合わせは、ネクタイこそないものの、どことなく教師めいた印象がある。
「あ……、京ちゃん」
沙希の隣で座ったままの少女が声を上げた。
男は優しげな微笑を浮かべ、少女のほうを見た。隣で立ったままの沙希に軽く会釈をすると、視線をそのまま圭介へと向ける。
きょとんとした沙希が男の目線を追って振り向いた。
「こ、近衛くん!」
跳び上がりそうな勢いで驚いた沙希がしどろもどろに話した白鳥汀とのいきさつに、軽く頷きながら、圭介はゆっくりと近付いていく。その速度と合わせるように、京ちゃんと呼ばれた男も静かに歩み寄ってくる。
前と後ろからベンチを挟んで二人は立ち止まった。
「――それで、こちらが、いま説明した白鳥汀さん。白鳥さん、この人がさっき話した近衛圭介くん」
いつの間にか紹介されていた汀がぺこりと頭を下げる。
面食らった圭介は「どうも」とだけ言った。
「え、え~と、こちらが氏家京四郎さん。私の従兄弟、兼、家庭教師みたいな感じ」
ついでというか場の流れというか、汀も京四郎を紹介した。
「はじめまして」
氏家京四郎の柔らかい物腰に対して必要以上にぺこぺこする沙希を尻目に、圭介はまたさっきと同じように「どうも」と言った。
お互いに自ら名乗り合いはしない。
それだけで全てを理解した。
次に戦う相手、すなわち自分の『敵』であると。
同時に、相手の望みを知り、また自分の望みを知られたことも。
京四郎はふと目を落とすと、まだ座っている汀を眺めて、すこしだけ眉をしかめる。
「駄目じゃないか、汀ちゃん。黙って病室から居なくなったりしたら。おばさんが心配するだろ」
苦笑混じりの声は、苦言に反して安堵の色が濃い。
「だってママったら、トイレに行ったきり戻ってこないんだもん。ちょっと退屈だったから、売店のぞいてただけよ。なにか新しい本とかないかなって思って」
唇を尖らせる汀に、京四郎は困惑顔だ。
「本のタイトルを言ってくれれば、僕がいくらでも探してきてあげるのに」
「読む本ぐらいは自分で探したいの!」
どうしてだか汀の機嫌はどんどん悪くなっていく。険悪な雰囲気に耐え切れなくなったのか、沙希が二人の間に割って入った。
「あ、あの! それだったら! 白鳥さん、この本、読む?」
それも、かなり唐突に。
言い争う二人どころか圭介すらも絶句に近い状況で、ショルダーバッグをごそごそとやる沙希だったが、焦るとなかなか目的の物は出てこない。
これだ! とばかりに取り出せば、一緒に財布が飛び出して、白い敷石の上へぽとりと落ちた。
ベンチから離れた汀が屈み込んで財布を拾う。財布に付いていた小さな銀の鈴が小さく、りり、と鳴った。
沙希に財布を差し出しながら、汀は差し出されている文庫本を見た。
「……いいの?」
俯いた汀の消え入りそうな声に、沙希は当然のように応えた。
「うん。この本で良ければだけど。ウチに続きもあるから、読み終わったら電話して。また持ってくるから」
手から手へ、行き交う文庫本と財布。
メモ帳を出した沙希は小さなペンで自宅の電話番号と携帯電話の番号を書いた。が、急いで書いたために、まるで読めない字だったらしく、上から線を引いて消し、また書き直した。
メモを手に笑い合う二人の少女を、圭介はただ黙って見守っていた。
帰りのバスの中で沙希とした世間話の内容は、すでに記憶の彼方へと消え去った。
一旦、帰宅するふりをして沙希と別れると、圭介は違うバスに乗り、先刻までいた総合病院へと取って返す。
時間と金銭の両面で非効率極まりないが、これ以上、沙希に勘繰られる危険を冒すわけにはいかない。 デパートの一件では、かなり不審に思われている。
それでなくても、圭介たちが戦うたびに、謎の失踪者が増加し続けているはずだ。自分以外の誰かもまた、他の誰かを手に掛けて望みを叶えようとしている。一体、何人が参加しているのか。そして、何人が果たされぬ願いとともに消え失せてしまったのか。
また、影引かれた真の世界で破壊された物は、現実世界に戻るとほぼ同時に、異常な損壊を起こす。
さらに、罪科の剣は結界の外でも使用可能な強力な武器となることがわかった。望むのならば、どこでも、誰でも殺せる凶器なのだ。
不可解な連続失踪と、常識では不可能なほどの建造物破壊の痕跡。
いくら奇妙過ぎる二つの事象とはいえ、当局や他の誰かが関連付けて考えないとも限らない。真実には辿り着けなくても、真実を求めて調査を開始するかもしれない。
戦うルール自体、あって無いようなものだと前回の件で学んだ。
第三者を巻き込むのだけは避けたい。
しかし、それすらもペイルライダーの胸先三寸か。
はじめから危ない橋だと知りながら渡ったはずだが、進めば進むほど、改めて脆さに気付かされる。崩れ去るのは、橋そのものか、それとも己自身なのか。
進むか、落ちるか。最初から選択肢は無い。
思案に暮れる圭介が、ふと目を上げると、窓の外を流れる風景が行きのときとは全然違う。次の停留所を告げる車内アナウンスを聞いて、電光掲示板の料金表を確認すると、乗るはずだったバスとは路線が一本違っていた。やや遅れてきた別の路線バスに、気付かず乗ってしまったらしい。自分の焦りを自覚する圭介であった。
とりあえず、病院へ最短距離で向かえそうなバス停で降りた。
車内の冷房と外気温の温度差に軽い眩暈を覚えたが、灼けたアスファルトの歩道を早足で進む。
全開にした窓から大音量の音楽を垂れ流す自動車が行き交う国道の沿道は、シャッターを閉じたままの店舗も多く、閑古鳥が鳴くどころか、そもそも人の気配が無い。
か細いながらも空に青葉を広げた街路樹。その根元にある「イスのフソを捨てないで下さい」と書かれた小さな看板の傍には、白く干からびた犬の糞が転がっていた。
広大な駐車場を確保した豪華な外観のパチンコ店がそのまま閉店し、冗談めいた敷地が丸々放置されている。鎖で封鎖された入口の前に、萎れた花と安酒の空き缶が供えられていたが、かつてここでなにがあったのか圭介は知らない。
コンビニから軽自動車が急発進で出て行くと、駐車スペースに空のペットボトルが残されていた。車の ドアを開けてすぐ下とおぼしき位置で、ご丁寧に二本整列している。
置き去りのペットボトルから、店舗前に設置された分別プラスチック用ゴミ箱までの距離は、圭介の足でわずか五歩分ほどしかない。
仕方なくゴミを拾おうと近付いて手を伸ばすと、アスファルトの反射熱が顔を撫で、同時に背中を日射しが炙る。店内から電子レンジのチンが聞こえたのは気のせいだろうか。
なんともいえない疲労感を感じながらゴミを捨てると、ガラスのドアが内側から開いた。店員の気だるい「ありがとうございましたー」の声に、圭介はふと顔を上げる。コンビニ袋を右手に提げて出てきたばかりの客と目が合った。
「君は……」
「あんたは……」
同じ意味の言葉が同時に漏れる。
同じ理由で戦う二人、氏家京四郎と近衛圭介の再会であった。
「どこで戦る?」
口火を切ったのは圭介だった。
しかし、決意を秘めたその視線に、相手は戸惑いの表情を浮かべる。
「どこで――って、ペイルライダーから連絡を受けてないのかい?」
今度は圭介が困惑する番だった。
「ペイルライダーからの連絡……?」
「ああ。いつ、どこで戦うのか、事前に伝えてくるだろう?」
記憶を辿るまでもなく、そんな覚えはまるでない。
「いいや。いままで一度もない」
「そんな馬鹿な! じゃあ、どうやって出会うんだ。街を歩いたって、戦う相手と偶然に出くわす確立なんてゼロに近いじゃないか……」
その通りだ。
思い返せば過去の三度の戦い全て、どこかおかしい。
あの川で。あの公園で。あのデパートで。
まるで圭介が来るのを知っていたかのように『敵』は待ち構えていた。
「まさか、待ち伏せされてたのか、君は。いままで、ずっと」
そう言われた自分がどんな表情をしているのか、圭介自身知る由もない。
「僕もあのデパートの一件はおかしいと思ってたんだ。僕たちは日常社会の裏側で、誰にも知られず戦っていくものだと、そう思ってた。勝とうが負けようが誰にも顧みられずに。だけど、あれはテレビで中継までされてたんだ。普通の人なら気付かなくても、僕たちにはわかる。罪科の剣での戦いを。もしかしたら、ペイルライダーは僕たちにこそ見せたかったのかもしれない。もっと困難な戦いで、生き残っている誰かがいることを」
その厳しさや険しさを誰がどうして測れるだろう。
ペイルライダーと契約した者が、それぞれになにを願い、何を望んで『敵』をその手に掛けるのか。それは相手を倒すそのときまでわからなかったのだ。
そう、いままでは。
「近衛君。僕と君が戦うのは、今日から三日後だ。ペイルライダーの指示に従うならの話だけどね。時間と場所は――」
告げる氏家京四郎の鋭い視線の内に、信ずるに足りるなにかがあった。
「わかった。それと」
「うん?」
「おれは待ち伏せも不意打ちもする気はないよ。氏家さん」
「ああ。わかってる」
数歩進んで、擦れ違うと、思い出したかのように氏家京四郎は片手を上げた。
「じゃあ、三日後にまた会おう」
その拍子に手にぶら提げたままの袋の中身を思い出したらしい。
「しまった! アイスを買ったんだった!」
軽く手を振ると、三日後の対戦相手は炎天下の中を猛スピードで走り去る。姿が見えなくなるまで見送ると、飲み物でも買おうと思い、圭介はコンビニのドアを開けた。冷房が効いた店内から吹く爽やかな涼風が、圭介の顔をそっと撫でた。
二日後の午後、沙希と汀は病院のロビーで再会した。
午前中の内に、汀から遠慮がちな様子の電話が掛かってきたからだ。
「ありがとう、酉蕗さん。あの本、すごく面白かった。……あの、良かったら」
か細い声が口ごもる前に、沙希は勢いよく返事をしていた。
「でしょ? 気になるでしょ、続き? 白鳥さんの都合がよければ、いますぐにでも続きを持ってくよ!」
そんなわけで、訪ねてきた沙希を、汀が迎え出た形で落ち合った場所が、ここだった。
あいかわらずロビーには、不安や失望感を抱えた人々でいっぱいだったが、そんな雰囲気などどこ吹く風とばかり、二人の少女は笑顔を交わす。歩きながらおしゃべりを続け、二階にある汀の病室に着く前に、読んだ小説の感想をあれやこれやと語り尽くしてしまっていた。
「ここが私の病室。今日、ママは仕事だからいないよ」
ドアを開けた汀に沙希は小さくお辞儀をする。
「おじゃましまーす」
「どうぞ、ようこそいらっしゃいませ」
必要以上に丁寧な応対をして汀がまた笑った。つられて沙希も笑う。
ドラマなどでよく目にするが、入院患者用の個室を、実際に見るのは初めてだった。それほど広くはないが、外の景色が見渡せる窓、白いベッド、小さな整理箪笥と、その上の花瓶に生けられた薄紫色の花が落ち着いた調和を見せている。それは沙希が汀に対して抱いていたイメージそのものだった。
「まあ、立ち話もなんですから、こちらにおかけになって下さいな」
と、丸椅子を引っ張り出して沙希に勧めると本人はベッドに腰掛けた。
「これはごていねいにどうもありがとうございます。……って、白鳥さん、いつまでやるの? これ」
「いや、まさか、酉蕗さんがノッてくれると思わなかったから」
ごめんごめんと謝りながら、柔らかく微笑む汀は、神秘的な印象などどこからも感じない年相応の普通の少女だった。けれど、予想外だったからといって、必ずしも幻滅や失望を味わうとは限らない。話せば話すほど汀に柔らかい親近感を覚える沙希だった。
「ああ、そうだ! 酉蕗さん、アイス食べよう。抹茶とチョコしかないけど、どっちがいい?」
答えを聞くよりも先にベッドから立つと、部屋の角にある冷蔵庫から小さなカップを二つ取り出してきた。ふたの上に薄い紙袋に入ったスプーン代わりの木のへらが添えてある。
「白鳥さん、それってもしかして高いアイスクリームじゃないの?」
沙希の記憶が確かなら、それは一部のコンビニのみで販売されている期間限定ブランドのはず。
「えへへ。京ちゃんに頼んで買ってきて貰ったんだ。これが俗に言う『パシリ』ってやつなのかな。――で、どっちにする?」
「白鳥さんはどっちが好きなの?」
「いえいえ、お客様。どうぞ、ご遠慮なく選んでくださいな」
迷っているうちに、アイスクリームの上に置かれたバンドエイド似のへらが入った紙袋には、どんどん結露した水が染みていく。
「え、えーと、白鳥さんのオススメは?」
訊かれた汀はベッドに再び座ると腕組して「う~む」と唸った。
「そうだねー。好みにもよるだろうけど……。一言でいえば、抹茶は渋くて、チョコは苦いかな」
「えっ! 苦いの? チョコなのに?」
「カカオ多めのチョコだから、ほろ苦いよ。ちゃんと甘みもあるけど」
ほろ苦い甘さ。そのカッコいいフレーズが沙希の心をがっちり掴んだ。
「じゃあ、チョコでお願いします」
「どうぞ、どうぞ。せっかくだから、先にこっちの抹茶も一口食べてみて。見た目はワサビっぽいけど、別にツンときたりしないから」
それじゃ遠慮なく、と、汀の手の中から沙希は一口パクリと頂いた。濃厚な抹茶の香りが広がり、飲み込んだ後にも爽やかさが口に残る。苦過ぎず、かといってまた甘過ぎず。それらをまとめて言うとしたら、この一語に尽きる。
「美味しい」
沙希の様子を窺っていた汀はその言葉を耳にして満足そうに頷いた。
「意外にイケるでしょ? 抹茶ってイメージでちょっと損してるんだよね」
確かに抹茶と聞くと、茶道で飲む、ウグイス色した苦いインスタント飲料――のような先入観がある。もちろん、茶の湯の席に招ばれたことなど一度もない沙希だった。
「そうだ。お返しに、白鳥さんもチョコどうぞ」
何気なく差し出すと、汀の顔に困惑の表情が浮かんだ。
「実は、チョコレート味って苦手なんだよね」
「えーっ! 意外! じゃあ、さっき、わたしが抹茶を選んでたら、どうする気だったの?」
「チョコはしまって、もう一個抹茶を出そうかなと思ってた」
そうか、予備があったのか。
これも先入観からか、それぞれひとつしかないと勝手に思い込んでいた。
「それじゃあチョコは誰用なの? 白鳥さんのお母さんのとか?」
抹茶アイスを口に運ぶとにんまり笑って汀が小声で応えた。
「あれは京ちゃん用。澄ました顔してるけど、ああ見えて無類のチョコ好きなのよ」
汀の話によれば……。
一時期、一世を風靡したオマケ付きのチョコレートがあった。やたら種類がいっぱいあるオマケのフィギュアはコレクション性が非常に高く、子供そっちのけで大人の間で大ブレイク。誰もかれもがフィギュア目当てで買っていて、逆にチョコレートのほうが余計な付属物扱いされる始末。しかし、氏家京四郎だけは違ったのだ。目的はチョコレートであり、オマケはあくまでもオマケ。美味しいチョコを食べているうちに、いつしか全種類揃ってしまったコレクター垂涎のそれらを、その手の専門店に惜しげもなく売り払い、結構な金額を手に入れると、こう言ったという。
よし。このお金でまたチョコを買おう。
「ビョーキみたいなものなのよ。……でも、この頃、食べてるのを見かけなくなったけどね。たぶん、ダイエットでもしてるんでしょ。そういえば、最近ちょっと痩せてきてるみたいだし」
「よく見てるんだね。氏家さんのこと」
「そりゃあ、もう。従兄弟だし、長い付き合いですから」
ふと訪れた会話の途切れに、二人は静かにアイスクリームの続きを食べた。
「でもね」
心地よい静寂を破り、汀はぽつりと言葉を投げた。
「一緒の時間が長くなるとわからなくなってくるの。どうして一緒にいてくれるのかが」
木のへらを咥えたまま、沙希は動きを止めた。落ちた言葉が胸の奥で波紋を広げていく。小さな円が徐々に大きくなっていく。
「でも、それは」
沙希がなにかを言いかけたが、それからあとに続く言葉がみつからない。
「好きでそうしてくれてるのか、それとも同情からなのかな。病気になった相手から離れるのって罪悪感とか感じそうだし。でも、可哀想だから好きだなんて思われるくらいなら、死んだほうがマシだわ」
毅然としてそう言い放つ汀の姿に、勝手に思い描いていた中学時代のイメージを沙希は見た。どこかふわふわした自分たちとは違う、強い意思を秘めた少女。
「同情、じゃないと思う」
答えた沙希が目を落とす。視線の先で食べかけのチョコレートアイスが、手のひらの温かさで溶けつつあった。
「すこしは同情もあったかもしれないけど、でも、いまはきっと同情だけじゃないと思う。ずっと一緒だった理由が罪悪感で離れられなかっただけだなんて、そんなことないよ。絶対」
罪悪感という言葉を自分の口に出すと、沙希はいままでに感じたことのない不思議な小さな痛みを胸の奥に感じた。
「そう、かな?」
「そうだよ」
どこか照れくさそうに目を伏せる汀に、自然な態度で即断する沙希であった。
「強いよね。酉蕗さんって」
「えぇっ? どっ、どどっ、どこが?」
「スーパーの特売で、どんなに安くても、いらないものは買わなそうなところが、かな」
「もう、なにそれー? そういう白鳥さんはつい買っちゃうタイプなの?」
「スーパーなんて小さいときからずっと行ってないからなぁ。でも、きっと買うわよ。絶対食べきれない激辛スナックとか。あ、安い! とか言って」
それから、しばらく談笑して別れ、沙希が小説の続編を貸し忘れていた事実に気付いたのは、家に着いてずいぶん経ってからのことだった。
明日、また行こうかな。
ベッドの上でそう考えながら、沙希は眠りについた。
心なしか色の薄い青空の下。
氏家京四郎と約束した決闘場所を目指して、圭介は歩いていた。
雀たちの鳴き声が遠くから聞こえる。
午前五時を過ぎたばかりの道路を、たまに自動車が通り過ぎていく。歩行者の姿が見当たらないのは、散歩をするにもまだ早いからだろう。
社会が目を覚ます直前のささやかな静寂。
早起きする習慣がない圭介にとって、早朝の空気は新鮮だった。
町の落ち着いた雰囲気の中には生命力が息づいている。
それは、罪科の剣で影を引いた、あの灰色の世界とは真逆の気配であり、死を孕んだ息詰る緊張ではなく、生きるべき今日のための静かな深呼吸のようでもあった。
しかし、一歩進むたびに、圭介はその日常から遠ざかっていく。
近付いてくるのは、ペイルライダーが真の世界と呼ぶ、死の影が覆う非日常。
速くも遅くもない歩調で休みなく歩き続けていると、約束の場所が見えてきた。
全国チェーンのドラッグストア、やはり全国展開しているレンタルビデオ店、そして地元チェーンのスーパーマーケット。それ相応の売り場面積を誇る支店三店舗に囲まれた広い駐車場は、あちこち白線が消えかけているものの、百台以上の乗用車を収容可能だ。
無人の駐車場を一瞥すると、圭介の足はスーパーの前に用意された木製のベンチへと向かう。すぐ横には清涼飲料の自動販売機が設置されていた。
ベンチにガムがくっついていないか確認してから座り、腕時計の時間を見た。
約束は午前六時。
まだ、かなり時間がある。
来るのが早過ぎたかと圭介が胸中で呟いたそのとき、大通りから黒い軽自動車が駐車場に進入してきた。朝の太陽にボディを輝かせているその車は、どの店舗からも遠いフェンス側の一番端のスペースへ停車する。
車から降りてきた男はドアに施錠すると、こちらに気付いて軽く右手を上げた。
氏家京四郎であった。
歩いて圭介の前まで来ると立ち止まる。
「ずいぶん早起きじゃないか、近衛君」
「そっちこそ」
ははは、と笑うと氏家京四郎は自動販売機のほうへ足を向けた。
「なにか飲むかい? 奢るよ」
「いや、いい。身体を動かす前に水分を摂ると、腹が痛くなるから」
「なるほど。その手があったか」
冗談めかして圭介に答えた背中が、不意に問いかけた。
「ところで、近衛君。ココアってのはチョコレートなのかな?」
陳列されている缶のデザインを模した筒状のサンプルをふと見ると、夏場はあまりお目にかからないココアが確かにそこにあった。
「原材料は同じはずだけど、ココアと名乗る以上はココアなんじゃないか」
「やっぱりそうか。チョコと名乗らない限りはチョコじゃないな」
氏家京四郎がボタンを押すと大きな音を立てて自動販売機はスチール缶を落とした。取り出し口から掴み出したそれは、やはり季節はずれのココアドリンクだった。
「実は願掛けしててね。勝ち抜くまで好物のチョコを断ってたんだ。ついこの前も、うっかりしてチョコのアイスクリームを買ってしまったけどね」
そう言いながら開けたココアを口許に運ぶ。
「……いいのか?」
チョコではないと婉曲に言った圭介も思わず聞き返してしまう。
「いいさ。チョコじゃなくて、あくまでもココアだから。元は同じでも違う道を進んだ別の物だ。それに――そもそも負ける気がしない」
一人は背を向けたまま、もう一人は座ったまま。二人の間に清冽な緊張が走る。
互いに敗北を許されぬ戦いの渦中にある同士であった。
「おれだって負けるつもりはないさ」
残りのココアを一気に飲み干し、氏家京四郎は振り向いた。
「なかなか美味いな、これ。……しまった。ゴミ箱が見当たらないな」
かつて自動販売機の横には空き缶回収用のリサイクルボックスが併設されていたものだが、家庭ゴミを大量投棄する輩が増えたため、現在は置かれていないことが多い。そのせいか、周辺には置き捨てられた空き缶がぽつぽつと目に付く。
「生き残ったほうが後で片付ければいいさ」
「なるほどね。そうすることにしようか」
圭介の横に空になった缶が置かれた。
「近衛君。まだ時間には早いが、そろそろ始めようか」
「飲んだばかりなのにいいのか? 腹が痛くなるかもしれないぞ」
それを聞いて氏家京四郎は屈託なく笑った。つられて圭介も少し笑う。
これから殺し合い、一方は滅びる宿命の二人であった。
腰を上げた近衛圭介と笑い終えた氏家京四郎は、肩を並べて無人の駐車場の真ん中へと向かう。二人の手にはそれぞれ黒い剣があった。
遠ざかるベンチには、ぽつんとひとつ空き缶だけが残されていた。
人気のない夜中にでも誰かが暴走行為を繰り返していたのか、不自然なタイヤのスリップ痕が黒々と刻まれたアスファルトの上で、二人は距離を取って足を止める。
向き合った剣士がそれぞれに剣を構えた。黒い剣を。罪科の剣を。
「氏家京四郎」
「近衛圭介」
名乗り終えたと同時に互いが一気に間合いを詰める。切尖に重い影を引き摺って。
刃と刃が打ち合った瞬間、清々しい朝の晴天は白と黒と灰色へと変じた。
押し返そうと圭介は力を込めたが、本能的に危険を感じて後ろに飛び退く。
細く見える氏家京四郎だが、影引かれた真の世界においては、外見から実力を読み取ることは出来ないと、圭介はこれまでの経験で知っていた。
威圧感や殺気を感じさせない相手は逆に怖ろしい。
「これまで僕が倒してきたのは本当にロクな連中じゃなかった」
語り出したその声には温かさも冷たさもなかった。
「地位、名声、金。そんなもの欲しさに見ず知らずの他人を殺そうとする、くだらない奴らばかりだった」
鋭い眼光が圭介を射抜く。しかし、目は逸らさない。逸らすわけにはいかない。
「でも、君は違うようだね。近衛君。やっと、まともな相手に巡り合えたよ。だが、それももう終わりだ。最後の一人、君を殺して、僕は願いを叶える」
冷たい決意を秘めた言葉を浴び、圭介の首筋に鳥肌が立つ。
四人目の『敵』は、すでに四人をその手に掛けていた。
あと一歩というところまで迫った、氏家京四郎の願いの前に立ちはだかった最後の一人――それが圭介だった。
「話は済んだかね、諸君」
金属を打つように響く声を二人は目で追う。
黒く捩れた布が氏家京四郎の車の屋根に立っていた。邪悪に微笑む銀の仮面、ペイルライダー。
「興味のない他人の身の上話など聞かされたところで、ただ欠伸が出るだけだ。以前にも言わなかったかね? 私を退屈させるなと」
二人からかなりの距離があるにもかかわらず、ペイルライダーの声はまるですぐ隣から聞こえるように近い。
「此処に至るまでの道程が、為すべき事を示している。さあ、殺し合うがいい。望みを失いたくないならば」
二人は同時に視線を戻した。互いの相手へ。倒さねばならない『敵』へ。
圭介が刀身を身構えるより速く、氏家京四郎の姿が揺らいだ。
本能的に左へ跳んだ圭介は、一瞬前の自分の鳩尾を貫く黒い残像を見た。
神速の突き。
かろうじて躱し、着地から右に身体を捻り、袈裟懸けに斬りかかる。
突きを外した相手は態勢をすでに整えていた。圭介の残撃は黒い刃に阻まれる。
押し返したのか、あるいは押し戻されたのか。瞬時に間合いを取り、再び相対した。
広い駐車場には利用出来る物も障害物も無い。
自分以外頼れるものはなにひとつない、一対一の戦い。
またしても、先に動いたのは氏家京四郎だった。
姿が霞むほどの速度から横殴りの一閃が圭介を襲う。
ぎん。
手と腕に痺れが走り、握った罪科の剣が反動で上に弾かれた。
いま、あの突きが来たら――死ぬ。
その刹那、逃げようと生きようとする自分の本能を踏み躙るかのように、圭介は死中へ踏み込んだ。
いままさに突きを放つべく、たわめた姿勢の頭上へと、落雷の如く刀身を振り下ろす。
瞬きひとつ出来ぬ時の狭間に、氏家京四郎の不敵な笑みを見た。
雷は下方からの突きに打ち返され、剣が剣を打つ音が雷鳴のように遅れて響く。
最初の突きには、まだ残像があった。
しかし、いまの突きは……。
もしも、攻勢に転じず、再び間合いを取ろうとしていたら、身構える間もなく確実に串刺しにされていただろう。
罪科の剣の長さは、互いにほぼ同じ。
だが、不可視の突きが届く距離は全く読めなかった。浅くとも深くとも、読み間違えば死を招く。
連続攻撃を阻もうと圭介は力任せに斬りつけた。
刃を交えること数合、じりじりと圭介が押していく。
「まさか、あの突きを二度も避けられるとは思わなかったよ」
徐々に後退しながらも別段驚いた様子もなく言う氏家京四郎に、圭介は真顔で答えた。
「実はおれもそう思った」
罪を背負った二振りの剣が黒い暴風をぶつけ合う最中、互いが互いの顔を見た。
そこには死闘を演ずる者には似合わぬ表情が浮かんでいた。
二人は笑っていたのだ。
まるで、ふざけあう友人同士のように。
合わせた剣の力の支点が滑り、斜め前に自分の身体が泳いだ瞬間、圭介は気付いた。
自分が相手を圧倒していたのではなく、巧みに誘いこまれていたことに。
「だが、三度目はどうかな」
しゃがむ氏家京四郎の姿が目に映った。
速すぎる動作の残影がスローモーションで本体を追う。
引いた右手に黒い剣が消える。
回避は間に合わない。
姿どころか音もない突きが貫いた。
圭介がいた空間を。
崩れた体勢から身を低くして前へと進み、間一髪で難を避けた圭介と、またも攻撃を躱された氏家京四郎、両者は互いに擦れ違う。
強引に踏み止まり、振り返りざま、再度、斬撃をぶつけ合う。
「わかったぞ……。罪科の剣を一度、手の影の中に戻してたんだな?」
両者は同時に背後に跳び退り、膠着状態は解かれる。
「バレたか」
十分な間合いを取った氏家京四郎が軽く右手を振ると、黒い剣は掌中に姿を隠し、瞬時にまた現れた。
「踏み込むスピードは自前だけどね。同時に手の影から剣を撃ち出してたんだ。タネ明かしをすれば、そういう手品だよ。がっかりしたかい?」
自分の影から取り出さねばならない罪科の剣の特性を、そのまま攻撃方法へと転化させていたのだ。
「おれは、いままで思い付きもしなかったよ。それに――」
圭介は腰を沈めると、右脇へ地面と水平になるよう罪科の剣を引き寄せる。
突きの構えだった。
「正体を知っても破る方法がわからない」
我ながら短絡的だと圭介自身も思った。
突きには突きを。
より速いほうが勝つ。
どこにも勝算は見当たらないが、それはこれまでもずっと同じだった。
「君はちょっと正々堂々とし過ぎじゃないか、近衛君」
あっさりと手の内の秘技を自ら暴露した男もまた、同じように構える。
「お互い様だろ」
それが合図だった。
影を引き、影そのものが迅り、瞬間、ひとつに重なった。
握り締めた拳から剣が滑り落ち、アスファルトの白線の上で砕け散った。
「やっぱり、あのココアが、マズかったかな……」
圭介に胸を貫かれた氏家京四郎の口から零れた血が、見る間に塵へと変じていく。
「うまいって言ってただろう」
胸に込み上げた苦さを飲んだ勝者は、呟くように去り往く者へ訊ねた。
「そう、だったな……。あれは、なかなか……美味かった」
それだけ言い残して、かつて『敵』だった灰燼は、剣の末期を追い、途切れた白線を覆い隠した。
軽い頭痛を伴い、圭介の心に氏家京四郎の記憶が流れ込んでくる。
卑劣な手段を用いておきながら、最後には号泣し、土下座してまで命乞いをする四人の『敵』を容赦なく突き殺してきた非情さを持つ彼は、その一方で白鳥汀を想いながら、便箋に手紙をしたためていた。
自分はとある事情で遠くへ旅立たねばならないと、丁寧な文字で綴られてあった。
五人を倒し、願いを叶えたあと、白鳥汀の前から去るつもりだったのだ。
だが、何処へ向かおうとしていたのか。
殺人の罪に心を苛まれながら、何処へ辿り着けるというのか。
「氏家京四郎――愚かな男め。あと一人、お前をさえ倒せば、奇蹟を得られたものを」
もう持ち主が戻ることのない軽乗用車の屋根に腰掛けた歪んだ布人形は吐き捨てた。銀色の仮面に浮かぶ笑顔もどこか苦々しい。
「技を見抜かれた程度の事で容易く崩れ去るとは、よくもいままで勝ち残ってこれたものだ。氏家京四郎には、弱い相手ばかりを用意し過ぎたか」
ペイルライダーは立ち尽くす勝者にゆっくりと顔を向けた。
「しかし、近衛圭介よ。お前の成長は予想外だった。まさか、自分と同じように哀れな娘の命を賭けた相手と知りながら、なんの躊躇もなく仕留めるとは。やはり十年もの歳月を掛けて仕込んだものは他とは出来が違うか」
銀の仮面は高らかに笑った。灰色の世界に響き渡る不愉快な声音は、はじまりと同じように突然に止んだ。
「殺人に対する罪の意識がまだ残っているようだな、近衛圭介。だが、それでいい。それでこそ、面白いのだ……」
いつの間にか、ペイルライダーの手中には微かな光を閉じ込めた小瓶があった。
それは沙希の失われるはずだった魂の半分。
「忘れるな。そして、罪を背負うがいい。誰も代わりに担えはしない重責を。いよいよ、残すはあと一人だ」
そして、ペイルライダーは消え失せ、世界はまた色彩溢れる早朝の穏やかな風景を取り戻していた。
突然の強い風にみるみる吹き崩されていく塵の山に、圭介はまだ手に残していた罪科の剣をそっと挿し入れた。
灰燼がアスファルトの上を流れ去ったあとには、白い封筒が残されていた。
黒い刃の切尖が押さえていたそれを、身を屈めて拾う。
表には、切手が貼ってあり、白鳥汀の名前と自宅の住所らしきものが書かれてある。
氏家京四郎は、最後の一撃に、見えざる突きを使わなかった。
何故かはわからない。
圭介にわかるのは、使わなかったという事実だけだ。
ベンチに近付き、約束どおりにココアの空き缶を捨てようと伸ばしかけた手が止まる。
この場に誰かが存在していた確かな証を取り去るのは、どこか忍びなかった
いつか誰かが捨ててしまうだろうとしても。
缶をそのままに、一台の軽自動車だけが停まる駐車場を後にした。
ずいぶん歩いてやっとポストを見付けた。
宛先へ配達されたとしても受取人には届かない手紙に目を落とす。
ポストの投入口がガタンと音を立て、封筒を飲み込んだ。
すぐには帰る気になれず、行く当てもなく街を歩きまわり、昼過ぎに部屋に戻ると留守番電話が一件入っていた。
泣きじゃくる沙希の声は、白鳥汀が心臓発作で急死したことを告げた。
途中で何度も言葉に詰まりながら、今朝早くに、と。
あと一人。