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第三章 くずれゆくもの

 毎週木曜定休日。

 そんなデパートも、世の若者たちが夏の長期休暇中とあれば、もちろん休日返上だ。

 色落ちしたジーンズのポケットから手を出し、圭介はシャツの襟元に滴る汗を拭う。

 入り口前で見上げれば、八階建ての白亜の外観が威容を誇っていた。大きさのわりに主張が小さく感じるのは、親しみ易さを意図した建築デザインの妙なのだろうか。

 この場所を圭介が訪れたのには、それ相応の理由がある。

 雨に降られたあの日の夜、遠藤から電話があったのだ。

 話によれば、お調子者の林戸が、酉蕗と小野田に、近衛家の内情を勝手に喋ってしまった云々という内容だった。

「まあ、別にいいさ。事実だしな」

 そう電話口で答えた圭介だが、この場合、そもそも詫びを入れるのは林戸であって、遠藤ではないんじゃないだろうかとそればかり考えていた。

 その場は済んだのだが、後日、また遠藤から連絡があり、大手百貨店グループの書店に用事があるので、付き合うのなら昼食を奢ってくれるという。

 一人暮らしの身にとって、タダ飯ほど魅力的な響きはない。

即決で乗った。人間には遠慮よりもカロリーのほうが大事なときもある。

 安物の腕時計の針が、十一時の五分前を指していた。

 圭介は緩やかな人の波に乗って入口の自動ドアを通った。

「よう、近衛。あいかわらず時間に正確だな」

 圭介の姿を目に留めた遠藤は、コインロッカー横のベンチでペットボトルを持っていた。中身の烏龍茶はすでにもう残り少ない。

「メシ喰わせてもらう身で遅刻するわけにいかないだろ」

「ああ、そりゃそうか」

 笑った遠藤は、残りを一気に飲み干して席を立つと、空の容器をリサイクル用ゴミ箱に捨てる。黒いTシャツの背中には白抜きで「空」と書いてあった。

「それじゃあ、まず、本屋から行くか」

 圭介は頷き、二人は並んで歩き出した。

 さらにもう一度、自動ドアを抜け、遮光ガラスの天井から柔らかい光の射すエントランスホールを通り過ぎる。

 新型軽乗用車の室内展示の前で、いかにも胡散臭い乾燥した健康食品の販売員がセールスをしている。圭介の目には色褪せたきくらげとしか映らないそれは、ガンの予防に効くらしい。販売員が話すたびに、聞いていた老婦人がいちいち唸る。

 一階は、靴だ鞄だアクセサリーだと、圭介の人生にさして用の無い物がずらりと並んでいる。そこここのショーケースの前にカップルの姿がちらほら見受けられるが、楽しそうな女たちの表情に対して、男どもの顔は皆どこか険しい。ブランド名を耳にしてもカタカナだなという以外、まるでわからない圭介は、ほんのすこしだけ同情する。

 二人はエレベーターの前に着くと、老若男女取り混ぜた待ち人の群れが陣取っていた。

 いま、七階のランプが消えて、最上階、つまり屋上が点灯したところだ。

「遠藤。本屋は何階だ?」

「五階だな。エスカレーターのほうが早いかもな」


 ゆっくりと、だが確実に、エスカレーターは上の階へと人を運んでいく。

 先を急ぐ小学生くらいの子供たちが圭介の横を駆け上がる。二段上に居た遠藤は、若さゆえの無軌道な暴走行為に眉をしかめた。

 二階は若者向けファッションのフロアなだけあって、全身アクセサリーだらけの過剰装飾な娘たちが右往左往している。しかし、エスカレーターの前で話し込むのだけはやめて欲しい。躱しながら、そう切に願う圭介であった。

 三階の特選女性服売り場と、四階の紳士服売り場を何事もなく通り過ぎた二人は、ようやく五階へと辿り着いた。

 この階にあるのは書籍と文房具、玩具、家電、それに食器。なんとも混沌としたフロアだが、異様な盛況をみせていた。母親が買い物をするために邪魔な子供を放置しておくには、もってこいの場所だからだろうか。

 かなり広いスペースの書店には、夏休みとはいえ平日のせいか、大人の姿は少なかった。

 あきれるほど大きな陣形を本で構えた今月話題の新刊コーナー近くまで来たところで、圭介は遠藤に訊いた。

「ところで何を買いに来たんだ? グラビアアイドルの写真集か?」

「それは林戸だろ。参考書だよ、参考書。物理のヤツな」

「道理で林戸を呼ばないわけだ」

 わりと混んでいる週刊誌コーナーを抜け、文庫本、ハードカバーの棚を進んでいくと、どんどん人影がまばらになっていく。

 壁側の棚に陳列された参考書コーナーに着くと、たった一人の先客がそそくさと去っていくところだった。

 分厚い一冊を抜き取ってぺらぺらとめくる遠藤の後ろから、ずらりと並んだ背表紙を見た。実につまらないタイトルばかりで溜め息が出る。

「おれ、ちょっと他の本ながめてくるよ」

「わかった。俺はしばらくこの辺にいるから」

 実用的だがユーモアに欠ける書物と格闘する友人に背を向け、圭介は本で出来た壁の間を渡り歩いた。

 コミックスのコーナーは、一冊ずつパッキングされて立ち読み不可能だが、それでもやはり客が多い。もっとも、この本屋はあまりマンガに力をいれていないようで、マイナーなものは無い。だが、映像化されている人気作品は、余裕で既刊三十巻を超えているので、棚を圧迫することこの上ない。

 思い返せば、圭介は少年マンガの単行本を完結まで集めきった例がなかった。もっとも、そのうち半分は、さまざまな事情で連載打ち切りとなり、最終巻の発行部数があまりにも少なかったからなのだが。

 オレたちの戦いはこれからだ!

 それこそが断末魔の叫びだった。

 表紙は色とりどりだが存在感が薄いハードカバー一般書のコーナーは、立ち読みには向かない。理由はただ単純、本が重いからだ。これだけ厚ければ枕代わりになるかなと買う気もないのに、平積みされた一冊を手に取った。

 タイトルは「誰もがみんな疲れている ストレス過多の時代」。

 読むだけで疲れそうだ。

 棚の向こうのあちこちから人の頭が覗く文庫本のコーナーは遠慮して、壁側の棚を目指す。参考書コーナーに目をやると、微動だにしない遠藤の後ろ姿があった。まだ、時間がかかりそうだ。視線を戻して、棚を追う。

 日本史。世界史。社会。政治。思想。宗教。オカルト。

 右へずれるごとに、どんどん胡散臭くなっていくコーナー名を眺めていく。

 何気なく泳がせていた圭介の目線が、ふと止まった。

 黒い背表紙には銀の文字で「予言と預言 幻視される終焉」とある。

 見たことも聞いたこともない出版社名と著者名、そして訳者名。

 手を伸ばして本棚から取り、それなりの厚さの重苦しいハードカバーを開いてみる。

 どうやら、占い師たちが予言した大災害について考察した内容らしい。

 予言者は占い師で、預言者は神の言葉を預かる者だというのは圭介も知らなかった。

 しかし、さして興味があるわけでもない。めくられる頁は、ただ弱い風を起こすだけだ。

 ふと指が頁を止めた。一瞬、呼吸も同時に止まった。

 予想もしない名前がそこにあった。

 まさかと疑い、何度も確認してみたが、印刷された活字は変わらない。

 頁を戻して読み始める。


 ……。ほとんどの場合において、彼らは天使であり、神の名において異端や背教の廉で罪人を罰する。それは酷薄な死、もしくは死後にも継続される永劫の責め苦である。

 しかし、新約聖書のヨハネの黙示録に登場する四人の騎士は、天使というより悪魔や死神に近い。ここには初期キリスト教が、それより以前の放逐された神々から受けた影響が垣間みられる。かつて神は「許すもの」ではなく「罰するもの」だったからだ。

 第一の白馬の騎士は、冠を被り手に弓を持つ。冠は神の代行者を表し、弓は正義の意思を示すと云われる。これ以降の大虐殺は天の裁きであると告げる旗振り役といったところだろうか。

 第二の赤馬の騎士は、剣を手にしている。これは平和を奪い、人々を殺し合わせる権限を示す。内戦と流血の象徴でもある。

 第三の黒馬の騎士は、天秤を捧げ持つ。秤は飢饉の暗喩であり、馬の色の黒は云うまでもなく闇そのものである。

 第四の蒼白い馬の騎士は、太刀を携え、その後ろに黄泉の主を従えている。蒼白い色で連想されるのは病人の顔であるように、この騎士は伝染病を伝播させる。太刀は、魂を麦穂のように刈る死神の大鎌と同じ役割なのかもしれない。

 この後に出現し、生き残った人々へさらなる攻撃を加える七大天使たちは、それぞれに神より授かった名前を持つが、対して四騎士には固有の名称が存在しない。

 だが、便宜上の理由から、研究者たちの間で「終焉の四騎士」「黙示録の四騎士」などと呼称されている。英語圏では単に騎手という意味で「ホースメン」、または「ライダーズ」。それぞれの騎馬の色から「ホワイトライダー」、「クリムゾンライダー」、「ブラックライダー」、「ペイルライダー」とも呼ばれる。……。


 もう一度、圭介はその箇所を人差し指でなぞった。


「ペイルライダー」とも呼ばれる。


 鼓動が速くなる。

 血管を走る血の音が耳の奥で轟々と響いている。

 何の冗談なのかと誰かを問い詰めたくなる。

 ふざけるなと声を荒げたくなる。

 終わりの始まりに現れる騎士ペイルライダー。

 しかし、奴は騎士ではない。馬に乗ってなどいない。

 嫌らしく輝くあの黒い姿は、王冠も弓も、剣も、天秤も、それに太刀も持ってはいない。

 持っているのは、瓶の中で青白く光る、死にゆくはずだった魂の半分。

 いや、だがそれは、圭介一人を動かす為の持ち物だ。もっと多くの物をペイルライダーは掴んでいるはずだ。生命に代えても手にしたいと願う、それぞれの大事ななにかを。

 奇蹟を求めて戦い、敗けて全てを失う。

 おれたちこそが馬なのか。

 奴を悦ばせるため、誰かに終焉を運ぶ目隠しされた競走馬なのか。

 圭介は首を横に振る。口の中に言いしれぬ苦い味があった。

 だとしても、このレースを途中で降りるわけにはいかない。

 選んだのは自分自身だ。どんな手を使ってでも勝ち抜くと誓ったのも、また自分。

 酉蕗沙希の死そのものを嘘にしてしまうために。

「おいおい、どうした近衛。そんな難しい顔して」

 いつの間にか参考書選びを終えていた遠藤に声を掛けられて、我に返った。

「いいや。別に。なんでもない」

 圭介が本棚に戻した背表紙を見て、遠藤が笑った。

「なんだ。今日の運勢でも載ってるのか」

「まあな。大凶だとさ」

 腕時計を見ると午前十一時二十一分。

「そろそろランチタイムだけど、どうする? メシ行くか?」

 しかし、圭介は胸に鉛の棒でも呑んだかのような重さを感じていた。

「まだそんなに腹も減ってないかな」

「それじゃあ、小腹が空くまで、もうちょっとブラブラするか」


 二人は、たまたま来ていた上に向かう無人のエレベーターに乗った。

 上昇時のふわりとした妙な感覚には、いつまでたっても馴染めない。

 電子レンジ風の音とともに扉が開いた。

 九階、屋上へのドアがゆるやかなスロープの先で開け放たれている。

 うっかり二人が踏み出すと、背後でエレベーターの扉が閉まった。振り向けば、頭上の赤い表示は猛スピードで左へと移っていく。8F、7F、6F……。

「まあ、別に行くあてもないしな。階段で降りるか」

 遠藤の指差す斜め下に視線を落とせば、踊り場のベンチが見える。

「いや。せっかくだから、屋上もちょっとのぞいてみよう」

 言って屋上に出た圭介に、真夏の直射日光が情け容赦なく照りつける。

 見渡せば、屋上は広いばかりで何も無い。

 ここまで来るエレベーターに誰も乗ってこなかったのも当然か。

 見晴らしの良さは背の高い鉄製のフェンスに阻まれていた。その辺は学校と大差ないな、と圭介は思った。

 右手には小さなステージがある。昔はヒーローショーでも演っていたのかも知れない。

 関係者以外は入れないように、鎖が巻かれて鍵が掛けてある金網のドア。その向こうで青いビニールシートに覆われた塊があるが、もちろん中身は正体不明だ。後ろに控えるタンクは貯水槽か防火水槽だろうか。

「見事になんにもないな。昔は、小銭で動く乗り物なんかがあった気もするんだけどな」

 遠藤の呟きにも似た思い出話に、圭介が頷いて応えた。

「すげえ音出して前後に動くヤツだろ。パトカーとかさ」

「そうそう。他にも消防車とかヘリコプターとかな。あと、特撮ヒーローやアニメキャラなんかも子供を乗せてたはずだ。背中とか膝に」

「ヒーローは辛いな」

 まったくだな、と遠藤が笑った。

 階段を降りる前に、圭介は屋上を振り返った。

 全ての敵を倒した後、役目を終え、用済みになったヒーローは、いったい何処へ行ってしまうのだろう。


 踊り場まで来ると、下の階の雑多な喧騒がもう耳に届く。

 八階はアミューズメントフロアだった。

 ワンフロアをまるまる使用しているので、ありとあらゆるゲーム機が、かなりデタラメに置いてある。

 欲しい物を取るか余計に金を取られるかのプライズ系マシンが、スタッフの詰めるカウンター周辺を固めていた。そこから両側の壁に、写真をシールにする例の機械とビデオゲームが真っ二つに別れる。

 いまでは歌まで入っていることもあるビデオゲームのBGMだが、この店の音量設定は高すぎて、もはや騒音の域だ。

 デパートという場所柄もあってか、中央には、モグラたたき風のエレメカやエアホッケー、メダルゲームや、パチンコ屋から払い下げられたスロットもそれなりにあった。

 賑やかな画面と、それに向かう連中の背中を見ながら、圭介と遠藤は歩いた。

 以前、圭介の好きだったゲームはもうこの店には置いていない。流行り廃りの激しい業界だ。無くなれば忘れ去られる。たとえ一人一人はおぼえていても。

 極彩色の敵弾が縦長の画面を埋め尽くすシューティングゲームに硬貨を投じた遠藤をその場に置いて、圭介は大型筐体のコーナーへと向かう。

 なんでもかんでもすぐ家庭用ゲーム機に移植されてしまうものだが、自動車やロボットのコクピットまではそうそう家には持ち込めない。ゲームそのものはコントローラで遊べるようにアレンジされても、やはり操作環境の差は大きい。一味も二味も違う。

 圭介はガンシューティングゲームに金を落とした。

 画面上に現れる、いかにも悪そうな男を撃つ。人質は撃たない。ゲームは緩急をつけて、これを繰り返す。

 一面目のボスを倒した時点で腕がだるくなってきたので、次の面の開始直後、わざと敵弾をくらい続けた。悲鳴。そしてゲームオーバー。

 隣のゲーム機からも悲鳴が上がった。ミスしたらしい。

 野太い声は敵のもの。だが、すぐにまた絹を裂くような黄色い悲鳴が。

 何気ない風を装って、圭介は隣の誰彼構わず発砲しまくる狂気のガンファイターを見た。

「おかしいなぁ……。なんでだろ」

 長い黒髪と眼鏡を掛けたその横顔。夏なのに、スカート丈が膝下まである青いワンピース。その腰のバックルは、小柄な彼女の身体に対して、ちょっと大きすぎる気もする。

「酉蕗。なんでもなにも、お前、普通の人まで撃ってるだろ」

 不意に呼ばれて横を向き、沙希はぽかんと口を開けた。

「こ、近衛くん? ……どうして? なんで?」

「あのな、手を上げてる人を撃つとペナルティでミスになるんだ。そこの説明にも書いてあるだろ」

「いや、あの! そうじゃなくて! ……なんで、ここに?」

 説明は面倒だなと圭介が思っていたところに、上手い具合に遠藤がやって来た。浮かない表情からすると、納得いかない結末、惨敗だったらしい。

「最近のは難しいよな、やっぱり。……おや、酉蕗じゃないか。珍しいところで会うね」

 そこへ、メダルぎっしりのドル箱を抱えた小野田がほくほく顔で現れた。

「いや~、これ全部、換金できればいいのにね、沙希……。って、ナニよ、アンタたち!」

 説明は不要になった。


 七階は特別催事場で、雑然と並べられた中古の音楽CDや映像ソフトなどを販売していた。DVDに混じって、さりげなくレーザーディスクやアナログレコードまである。

 順不同にも程があるワゴンセールを通り過ぎると、大食堂がでんと店を構えている。

 食堂というと、いまだに食券を発行しているようなイメージが頭をよぎるが、このデパートの食堂は、大手ファミリーレストランがテナントとして営業しているためか、レトロな古臭さは無い。もちろん、お子様ランチはある。

 ひょんなことから出会った、近衛圭介と遠藤隆一、酉蕗沙希と小野田良美の四人はいま、ボックス席に向かい合って座っていた。

 すでに時間は正午を過ぎている。食堂、もといレストランはかなりの盛況だった。

 圭介と遠藤はランチセットを頼んだ。日替わりメニューらしく、ショーケースの見本には「本日は和風ハンバーグです」と注意書きがあった。気になるセット内容は、ライス、和風ハンバーグ、ミニサラダ、それとコーヒーまたはコンソメスープ。ご馳走になる身の圭介には、いささかの不平不満もない。

 小野田はサンドウィッチを注文し、付属のドリンクはアイスコーヒーを選ぶ。

 かなりウェイトレスを待たせた沙希が、最後にもりそばを頼んだ。

 途端に小野田が横からツッコミを入れた。

「沙希~。ちょっと、オトコの前でもりそばはないんじゃないの? どうせ、コイツらが払うんだから、もっと高くて可愛いモノ食べなさいよ」

「おいおい。ちょっと待ってくれ、小野田。おれは近衛におごる約束してて、そこまで金持ってないぞ」

「じゃあさ、近衛の分は遠藤が払って、アタシらの分は近衛が払うってのは、どう?」

 どうもこうもない理論展開に、圭介は軽い頭痛をおぼえた。

「なんでおれが、お前らの分を払わなきゃならないんだよ?」

「なんでアタシらの分を、アンタは払ってくれないワケ?」

「自分のメシ代は自分で都合しろ」

「そのセリフ、そっくりそのままアンタに返すわ」

 圭介は思った。この女はキライだ。

「だ、駄目だよ、良美。そんなの勝手に決めちゃ」

 結局、おろおろしながら沙希が仲介に入って、小野田良美の陰謀はあえなく潰えた。

 水の入ったコップの汗が、コースターの染みを広げていく。

 さすがに安いだけあってランチセットは出来上がるのが早い。

 ウェイトレスが男二人の前に湯気の立つ和風ハンバーグの皿を置いた。焼いた挽肉の塊の上には大根おろしの小さな山。醤油ベースのソースが熱した鉄板で焦げる匂いが、なんとも香ばしい。セットの品も次々と並ぶ。

「それじゃあ遠慮なく食わせてもらうぞ、遠藤」

「ああ、まあ、その、なんだ」

 歯切れの悪い遠藤の返事に、圭介は怪訝な表情で顔を上げた。

 差し向かいの沙希は水のコップに一口付けたところだった。目が合うと、きょとんとした顔を見せる。

 視線をその隣に移すと、小野田がこれ以上ないくらいに不満気な表情を浮かべていた。

 確かに、食い辛い雰囲気では、ある。

「アンタらさあ……。アタシらの分が来るまで、ちょっとは待とうとか思わないの?」

 これみよがしに肩をすくめると、小野田は大袈裟に嘆息してみせた。

「冷めるだろ」

「冷めちゃうよね」

 圭介の冷めきった言葉を沙希が温かくフォローした。

 それから五秒も経たないうちにサンドウィッチが来た。ウェイトレスが取って返してもりそばを持ってくる。これで、四人の前にそれぞれの昼食が並んだ。

 遠藤は器用にも、ナイフは右、フォークは左の、正しいテーブルマナーで皿に盛られたほかほかライスを口に運ぶ。

 一方、圭介はといえば、右手には割箸を持ち、左手で必要なときにナイフを握る。

 挟む。切る。突く。これだけの万能性を誇る食器は、古今東西探したところで、箸以外には見当たらない。次点は先割れスプーンだ。

 肉、野菜、そしてメシ。黙々と食らい続ける男が二人。

「アンタらさあ……。退屈だから、なんかしゃべりなさいよ」

 言われた男二人は口に食べ物を頬張ったまま、モゴモゴと何事かを語りだした。

「いい! もういいから! しゃべんな、オマエら!」

 小野田には真意が伝わったらしい。なんでもやってみるもんだな、と圭介は一人頷き、咀嚼した物を飲み込んだ。

 ずるずると蕎麦を啜っていた沙希がおもむろに口を開いた。

「もりそばとざるそばって、どこが違うのかな……?」

 付け合せのミニトマトを飲み込んで小野田が答える。

「容器とかじゃないの?」

 確かに違う。メニューの写真を見る限りは。

「あと、最初から海苔がのってるかどうかじゃないか? それと、ざるのほうがちょっと量が多いような気もするな」

 水を飲み、一息ついた遠藤は、改めてメニューの写真を眺めながら指摘した。小さな写真のざるそばには、なるほど、きざみ海苔がのっている。

「でもさあ、それだけで二百円も差があるワケ?」

 小野田がメニューの金額をトントンと指で軽く叩いた。

 圭介は沙希の前にある蕎麦の盛られた蒸篭をちらりと見た。小皿の薬味はそのまま手付かずだった。沙希は葱も入れない派らしい。

「ずいぶん昔は、ざるそばのつゆのほうが、モノが良かったんだそうだ。今は、つゆはどれも一緒で、それこそ海苔と器くらいしか差の無いところが多いらしい」

 話し終えた圭介はサラダのパセリを口に放り込んだ。

「へえ~。そうなんだ~」

「おいおい、妙に詳しいな」

「なによ、近衛。アンタ、そばマニアなの?」

 三者三様のリアクションを前に、圭介はパセリの青臭さを水で胃に流し落とす。

「父親の再婚相手の実家が蕎麦屋なんだよ。だから、世間話のついでに、すこし教えてもらったんだ」

 皆が黙りこくると、この店がどれだけ賑わっているのか改めてよくわかる。ちびっ子の奇声が聞こえないところをみると、親子連れはそれほど多くないのだろうか。

「じゃ、じゃあ! 近衛くんも、おそば打てるの?」

 誰がみても強引な話題のすり替えだったが、沙希の表情は必死だった。

「いや。それは無理だな」

 サラダに入っていたキャベツの千切りを口に運びつつ圭介が応えた。他の二人の同席者も「そりゃムリだろう」と首を縦に振る。

 なにをどうしても無理なものも世の中にはある。

 圭介は両親の離婚からそれだけを学んだ。

 対話を試みては用件からずれてしまう父、それに苛立って罵声を浴びせるだけの母。二人の声はただ大きくなるだけで、それはもう言葉ですらなかった。互いに、まるで意味を為していなかったのだから。

去っていった母親とは、それきり会っていない。

 ふと、十年前の川縁の光景が胸をよぎった。

 なにをどうしても失われていくしかないもの。

 違う。これは違う。

 川辺の、そして児童公園での死闘を思い出す。

 口の中でもうキャベツの味がしなくなっていた。

「じゃ、じゃあ! うどんは?」

 ぶはっ。

 沙希以外の三人が同時に咳き込んだ。

 圭介はキャベツ、遠藤はライス、小野田はアイスコーヒー。回復が早かったのは固形物でないのが幸いした小野田だった。

「……アンタねー。そば屋だっていってんでしょーが」

 皆のあまりに激しいリアクションに、沙希は逆にたじろいでいた。

「で、でも、ほら! 『うどんもできます』っていうおそば屋さんもあるし」

 確かにあるにはある。

「う……、うう、うどんも無理だ……」

 苦しみながら答えるも、無理が祟って、また圭介はむせた。

 なんだか涙が滲んできた。

 殺人者のものには程遠い、あたりまえの日常。その空気の暖かさに。


 偶然に出会っただけの一組と一組でしかないのだから、一緒に昼食を済ませたら即おひらきとなった。

「なんで、アンタたち、ついてくんのよ! アタマおかしいんじゃないの!」

「いやいや。おれたちもトイレに急用なんだ」

 入力した次は出力されるのが正常。そういえなくもない。

 二組は階段の両側にある、それぞれのトイレに消えた。

 先に小用を済ませた圭介が、濡れた手をジーンズの腿辺りで拭いながら出てくると、すでに沙希が下の踊り場のベンチにちょこんと座っていた。

 階段を下りた圭介がベンチの横に立ち、壁に背を凭せ掛ける。クリーム色の壁はひんやりと冷たい。

「酉蕗」

「――っ! はいっ!」

 突然、名を呼ばれ、驚いた沙希の眼鏡がちょっとズレた。

「留守電、聞いたぞ」

「えっ! ああ、あの、……うん」

「面白かったか? プール」

 尋ねながら圭介は、沙希の頭上の壁を何気なく見た。

 七階と六階の間を示す簡素化された表記。7/6。

 意味もなく約分すれば、1と1/6。

「うん、すごく楽しかったよ! 学校の体育館ぐらい広いのに、人がぜんぜんいなくて、貸し切りみたいな雰囲気だったし! 近衛くんも来られれば良かったのにね」

 返事を遮るかのように、独特な抑揚のある高い声の店内放送が迷子のお報せをしていた。

「ああ、ちょっと用事があってさ」

 その用事こそが沙希の楽しい時間を守ったのだった。

 店内放送をよくよく聞くと、見当たらなくなったのは男の子で、母親がサービスカウンターで待っているらしい。迷子というと子供が店員に泣きついて、母親が急いで迎えに来る印象があるが、現実のトラブルは多種多様だ。

「ちっちゃい子って、なんでも思いつきで行動しちゃうから、走り出したら止まらないもんね。すぐにみつかるといいけど」

 駆け出して、転げ落ちるように進む現在を、圭介は一瞬だけ省みた。

「犯罪なんかに巻き込まれてなきゃいいけどな」

「さいきん物騒だもんね。でも、大丈夫だよ、きっと。すぐみつかるよ。きっと」

 何の根拠もない沙希の「きっと」が今はすこし心強い。

「そうだといいな」

 そうだといい。

 待っていてくれる誰かの元へ、誰かが探して見付けてくれて、連れて行ってくれるといい。

「ちっちゃい子が困ってるのに、ほっとくような人ばっかりじゃないよ。わたし、優しい人って結構いると思うんだ。他の人に無関心な人が増えてるって、よくテレビとかでいってるけど、あんなのウソだよ。優しい人は、絶対いなくなったりしないよ」

 圭介は視線を落とした。微かに上げた沙希の視線とぶつかる。

 とぼけた「?」の表情に、出掛かる疑問が咽喉に詰まって胸へと落ちた。

 まさか、気付いているのか?

「なーに、いいフンイキになってんのよ、アンタたちは」

 声を追えば用を終えた小野田良美の姿があった。

「トイレのあとのクサい仲とか言ったら、殴るよ。アタシ」

「ええっ!」

 何故か、その言葉に怯んだのは小野田より遅れて来た遠藤だった。まさか、言うつもりだったのか。


 エスカレーターで下へと向かう人の流れは、ゆるやかな川に似ていた。

 行き先は、外界か外海か。広いことだけは間違いない。

 四人は口数少なく、一階へ着くと、ホールに通りかかった。

 天井の曇りガラスに和らげられた陽光が射している。

 一瞬、それが暗く翳った。

 大きくなった頭上の影は、確かな質量を持っていた。

 叫ぶよりも速く、沙希を抱えて横へと跳んだ圭介の上に、ガラスの破片が振り注ぐ。

 とっさに覆い被さる圭介のシャツの襟口から、欠片が数粒、背中へ転がり込んだ。

「酉蕗! 大丈夫か!」

 腕の中の沙希は突然の異常事態に震えるばかりだ。

「な、……なに? なにが、起きたの?」

 どうやら怪我は無いらしい。それだけでも幸いだった。

「ナニよ、これ! なんでこんなのが降ってくんのよ!」

 塵や埃が舞って視界を遮り、混乱状態と化したホールで、ヒステリー気味に叫ぶ小野田を遠藤がなだめている。

 圭介は改めて状況を確認した。

 そこには落下してきたデパートの外壁らしきものがあった。

 この厚さ、それに大きさ、もしも頭上に直撃を受けていたら、ひとたまりもなくあの世行きだ。

 そして、この不自然なほど鋭利な切断面。

 あたりの人々も小さな破片がぶつかったりはしたようだが、動けないほどの重傷者はいない。むしろパニック状態から、泣き出す者が、叫んでいる者が、あるいは泣き叫び続ける者が一気に出口へと殺到し、阿鼻叫喚の様相を帯びてきた。もしも、いま、誤ってここで転びでもしたら、逃げる群衆に踏み殺されかねない。

「近衛! 酉蕗も早く外に!」

 遠藤の叫び声を聞きつつも、圭介はガラスの欠片がまだ降る、破られた天井の穴から上を見上げた。

 五階。あるいは六階か。

 壁を一部失って出来た大穴で、ちらりと人影が動いた。

 影の右手が異様に長い。

 いや、違う。

 黒い剣を手にしているのだ。

 けたたましいサイレンが鳴り、店内放送が響き渡る。

「ただいま、六階にて、火災事故が、発生致しました。お客様は、係員の指示に従って、すみやかに、避難して下さい。繰り返します」

 人影が消えたと同時に、爆音と炎の塊が六階外壁の穴から噴き出した。

 昇る黒煙に、あちこちで絶叫が上がる。

「小野田!」

 圭介は、ふらつく足でなんとか立つ沙希を、その友人へと押し付けた。

「頼む」

 呼び止める声が誰のものかも確かめず、圭介は駆け出した。

 上の階を目指して。


 まだ火の気のない二階だが、すでに人影は無い。

 カラフルに着飾ったマネキンだけが立ち尽くすフロアに、けたたましいサイレンと緊急を告げる機械的な放送だけが反響する。

 互いに名乗りを上げ、影を引き、閉じられた世界で戦う。

 それがルールだと圭介は思っていた。

 しかし、今、その前提が崩れ去ろうとしている。

 どんな手を使ってでも勝つ。

 だが、圭介が己に科した誓いに、無関係な他人を巻き込むという選択肢は無かった。

 勝利への執念か、それとも覚悟なのか。

 どんな犠牲をも厭わないのなら、敵は間違いなく強い。

 ぴしり。

 天井に走った線が一瞬で円を描いた。

 後ろに跳ぼうとして跳べない自分に気が付いた。

 ここは影引かれた真の世界ではない。持ち前の身体能力以上には動けないのだ。

 刳り貫かれて落ちてくる円形の天井の下を走り抜け、圭介はかろうじて身を躱した。

 振り返れば、二階と三階を繋ぐ穴、そこから一人の少年がこちらを見下ろしていた。

 黒い革製らしき上下に身を包み、チェーンがそこここからぶら下がっている。左手はポケットに突っ込んだまま。そして、右手には黒く艶やかな一振りの剣。

「いままで三人ほど殺ってきたが、前払いのヤツなんてのは、はじめて見たぜ」

 擦れた声には敵意が漲っていた。

「なんだって?」

 圭介の奥底で、なにかが蠢くような感覚があった。

「あのメガネの女。あれがあんたの望みだろ」

 なにかが胸の奥からこみ上げてくる。

「それがどうした」

 答えを聞いた少年は、片頬を歪に吊り上げて嘲笑った。

「だから、二人まとめて仲良くブッ潰してやろうと思ったのさ。血も肉も混じり合って、しっぽりひとつになれるようにな。おおっと、砂になるんだったか」

 なにかが激しく胸を衝く。即座にその正体を圭介は知った。

怒りだ。

 こいつは酉蕗沙希を直接その手で殺そうとした。

 すでに一度死んだ少女を、もう一度殺すつもりでいた。

 力強く振った圭介の右手の内に、罪科の剣が黒く輝く。

「おれは近衛圭介だ」

「誰が名乗るかよ、このバカ野郎が!」

 少年が言い捨てたそのとき、圭介の背後で小規模の爆発が起こった。

 突然の熱風と火勢に押され、天井からの瓦礫が敷き詰められた床へ叩きつけられた。

 炎の海が床の上に広がり、感知したスプリンクラーから雨が降る。

 化学繊維の燃える臭いと上がる煙が視界を覆った。

「そこで焼け死ねや、近衛圭介! オレの剣で斬り刻まれるよりは、まだマシかもしれねえぜ!」

 遠ざかる哄笑を咳き込みながら聞いた。

 迂闊だった。

 左手を見せなかったのは起爆装置、おそらくは携帯電話を持っていたからか。

 この様子から考えて、おそらく『敵』は全ての階に爆発物で罠を仕掛けているのだろう。このまま上階へ行けば行くほどに、火と煙で退路を塞がれていくはず。

 立ち上がり、階段へと向かう痛む身体にスプリンクラーがぬるい水を浴びせた。

 だが、退路などはじめから無い。

 圭介は振り向かず、黒煙の中を再び走り出した。


 いち早く災害現場へと到着した警官たちが、騒ぎ立てる野次馬たちを遠ざける。

 パトカーとは違うサイレンが近づいてきて、救急車が止まった。

 さらに別のサイレンが追ってくる。不安にさせる輪唱のエコーは三台の消防車のものだ。

 銀色の耐火服に身を包んだ消防隊員たちは、警察官とすこし言葉を交わすと、消化栓からポンプ車を経由したホースを持って、正面から突っ込んでいく。

 さきほど、警官に友達がまだ店内に残っている事実を告げた沙希は、なかば呆然とその光景を見ていた。

 ほんの十分ほど前のことが、まるで嘘のようだった。

 みんなで食事をしながら楽しく話をしていたのは、現実だったんだろうか。

 本当は夢を見ているだけで、目覚めた途端に忘れてしまうんじゃないだろうか。

 新たな轟音が二階の窓を突き破った。

 飛んだガラス片が見物に集まった群衆へと降りかかり、たちまち悲鳴と歓声が上がる。

「沙希! ちょっと、沙希!」

 腕を引っ張られて振り向くと良美がいた。すこし顔が青ざめている。

「沙希、アンタ、大丈夫なの? ボーッとしちゃって……。どこも痛くない? ケガとかしてない?」

 そうだ。

 学校の階段でつまずいて転んで、良美に助けてもらって。

 そしたら、近衛くんが。

 沙希は一度うつむいて、それからゆっくり視線を上げた。

 白い大きな建物の壁を伝い、這うように昇っていく黒い煙。

「近衛……」

 遠藤くんの声。

 夢じゃない。

 夢なんかじゃないんだ。

「子供が! ウチの子が、まだ、中に居るんです!」

 若い母親は、一人の警官にすがりついてそう訴えると、堪えきれずに泣き崩れた。

 がやがやと雑音のような声が群集から漏れる。

「かわいそー」「でも、この火の勢いじゃあ、もう死んでんじゃねーのー?」「あれって、さっきの放送の迷子の親かよ?」「お気の毒だよねー」

 くすくす笑いを間に挟んで、当事者以外の無責任な言葉が聞こえる。火の粉もかからない安全な場所で。

 私は、優しい人って結構いると思うんだ。

 そう言ったら、ちょっとだけ微笑んでくれた相手は今ここにいない。

 いつまでも続く母親の嗚咽と、止まらないざわめきと小さな笑い声。

 いない。いないよ。優しい人なんて。

 沙希は良美の胸に顔を埋めると、声を殺して泣いた。


 煙は上へ上へと昇る。

 階段とエスカレーターの吹き抜けは、そのまま煙の通り道になる。

 左手で口を押さえ、右手に剣を握った圭介が三階へと辿り着くと、スプリンクラーの水が二階からの煙を攪拌している最中で、かなり視界が悪い。

 水の跳ねる床で、倒れた高級婦人服が濡れそぼり、雑巾のようになっていた。

 まだ、このフロアに火の手は上がっていない。

 だが、それすらも、油断を誘う罠の可能性がある。

 火に追われ、煙に捲かれながら、一刻も早く『敵』を追い詰め、倒さなければならない。

 もしも自分が罠を仕掛けるならば何処を狙うか。と、圭介は考えた。

 エレベーターが緊急停止している現在、上階への移動経路は、外周に近いそれぞれ四ヶ所の階段と、フロア中央でいまやただの階段と化したエスカレーターしかない。

 先刻の階段は大丈夫だった。しかし、このまま上がっていって安全だろうか。

 フロアを横切り、反対方向にある別の階段を使うべきか。

 迷っていても埒があかない。

 危険を承知で、エスカレーターまで向かった。

「ちっとは根性あるみてえだな、近衛」

 背後からの呼び声に驚きながら、圭介は振り向きざまに身構える。

 瞬間、煙を引き裂いて黒い剣が襲う。

 真横から、首を狙って。

 弾こうとした罪科の剣もろとも圭介は吹っ飛ばされ、倒れた床で水飛沫を上げた。

 打った身体の痛みを堪え、素早く立って態勢を整える。

 目だけで周辺を窺うも、立ち込めた煙がヴェールのように『敵』を隠していた。

 それにしても、あの斬撃の重さは何だったのか。『敵』の武器は長刀なのか。

 すくなくとも、圭介の攻撃が届く間合いには他人の気配は無かった。しかし、もしかすると、影を引かないままのこちら側では、殺気にすら気付けないのかもしれない。

 不意に、水浸しの床の上を別の異臭が這い寄ってくる。

 この臭い。まさか、油――。

「煙ばかりじゃ見辛えだろう? いま、灯りを点けてやるよ」

 水面に踊る油膜を追って炎が走った。

 瞬く間に火は勢いを増し、全てを舐め尽くすかのように燃え広がる。

「来れるもんなら来てみやがれ! どの道、てめえは死ぬしかねえんだ!」

 フロアのどこかでまたなにかが爆発した。

 焼け焦げる化学繊維の悪臭と黒い煙の向こうへと、嘲笑は遠ざかっていく。

 直接には戦わず、爆発で、あるいは炎と煙で燻り殺すつもりなのか。

 咳き込みながらも霞む目で道を探す圭介の口で歯軋りが鳴る。

 やることは決まっている。

 逃げ回るのなら、追い詰めるまでだ。


 炎が舞い踊り、天井から水が降り注ぐ四階と五階を、交互に違う階段を使い分けながら、辛くも走り抜けた。

 ここは六階。家具・インテリア売り場、中央エスカレーター付近。

 最初に出火したこのフロアは、すでに鎮火し、スプリンクラーも止まっている。

 だが、ありとあらゆる物が焼け焦げて炭化し、あるいは煤に塗れていた。テーブルや箪笥、棚などが炭になり、焼け崩れている様は、なまじ生活感があるだけに一層生々しい。

 キナ臭い風を感じて目をやれば、焼失被害が特に酷い外壁の穴周辺部から、町並みが遠望出来た。

 影を引かずとも、鉄骨もろとも壁を斬る罪科の剣の威力。

 厚さ一〇センチメートルを越す鉄筋コンクリートの壁は丸く刳り抜かれ、一階ロビーへと身を投げた。あれで死者が出なかったのは奇蹟に近い。

 穴の遥か下から、サイレンや人々のざわめき声が聞こえる。

 命懸けの人間より面白い物など無い。

 それを言葉にするかしないかの違いだけで、ペイルライダーと人間の下卑た悪趣味は、そう大差ないのかもしれない。

 他人の不幸は蜜の味、か。

 溜息は疲労を思い出させ、手にした剣を重くする。

 同時に『敵』の斬撃の重さとリーチの長さを思い返した。

 壁の大穴には下手に近付くべきではない。仮に攻撃を防げたとしても、その反動で地上へ真っ逆さまだ。落ちた壁の後を追うなど、圭介は御免だった。

 二階ではなんらかの爆発物を使い、三階では水の上に油を走らせ着火した。その後に爆発させたのは、圭介がその地点に行かなかったため、不要になった爆弾か。四階、五階はすでに火が燃え盛っていたが、煙の臭いからして三階で用いた油と同じものだろう。灯油か、それともガソリンか。または、混合した可燃性液体なのか。わかったところで打つ手は無い。

 炭化した元ソファや元ベッドが、スプリンクラーに浴びせられた水を吸って、ぶすぶすと不吉な音を立てていた。

 ごそり。

 目の端、離れた床で何かが動いた。圭介は胸前に剣を構える。

 そこには、うずくまる小さな男の子の姿があった。

 ダブルベッドの横で煤だらけの男の子は倒れたきり動かない。

 罠だ。

 頭の中でそう囁く声に、それがどうした、と即答して駆け出した。

 しゃがみこんだ圭介の腕の中で、五歳かそこらの子供は軽く身じろぎをした。

 呼吸はある。目立つ大きな外傷はない。その事実は圭介にとっても大きな救いだった。

「おい! しっかりしろ!」

 声を掛けてみたが、小さく呻くばかりだ。素人目では容態の判断など不可能だ。

 下に来ている救命隊員に、この子を引き渡さなければならない。

 中央のエスカレーター付近は火勢が強く、一人ならともかく、人事不省に陥った子供を背負って突破するには、あまりにリスクが大き過ぎる。だとすれば、階段か。確かにこれまで階段には火の手が及んでいない。逆にいままでが安全過ぎたくらいだ。『敵』が脱出路を塞ぐ手段を隠していないという保障は、どこにも無い。

 疑いはじめると際限なく全てが罠に思えてくる。

 疑心暗鬼が自らの行動を制限してしまう。いいや、これこそが罠なのか。

 だが、それでも行くしかない。

 一気に駆け下りれば罠があったとしても、あるいは――。

 そのとき、目指そうとした最も近い階段から、かつかつと下りてくる足音があった。

 圭介は水と煤で汚れた床にそっと子供を横たえると、庇うように前に立つ。右手の剣を両手で構え直した。

 足音は止まり、『敵』の姿となった。

 剣の長さは圭介のそれと変わらない。黒い剣の峰を肩に乗せると、圭介を睨み付けて吐き捨てた。

「しぶてえ野郎だな」

 距離がある。まだ剣の間合いではない。

「おれ一人殺すために、デパートひとつ火の海か」

「ああ。ひいきにされてる奴が相手だからな。こっちも万全でいかねえとよ」

 聞き流せない台詞を耳にして、圭介は訊き返した。

「ひいき、だって?」

「いままで殺してきた三人、そいつら全員とも望んだものは後払いだぜ。オレも含めてな。ちゃっかり先にご褒美もらって、イチャついてんのはてめえだけだ。これがひいきでなくてなんだってんだ? ああ?」

 圭介の頬が引き攣った。

 目の前にぶら下げられた人質が、ご褒美だと?

 しかも、その人質は、自分の生死が他人の手の上で弄ばれていることにすら気付いていないというのに。

「まあ、いい。それもここで終わりだ、近衛圭介。てめえを殺せば、あと一人。なにがどうあっても、オレが勝つ!」

 届くはずのないこの間合い、肩口から振り下ろされた一閃は、うねる黒い線となり、圭介の首を狙う。

 鞭。奴の罪科の剣は形状を変えられるのか。

 一歩踏み込み、危ういところで打ち返す。手に走った重い痺れに圭介は顔をしかめた。

「どうあっても、か……。大したもんだ。こんな子供まで利用するとはな」

 瞬く間に引き戻された黒い鞭が、焦げたベッドを撥ね上げる。

「……! 勝ちゃあいいんだよ! 勝ちゃあな!」

 視界を覆ったベッドを反射的に両断した圭介の足許を黒い線が走った。

 ぴしり。

 その瞬間、圭介と男の子は六階の床ごと五階へと落ちていった。


 新たな空気の出入り口に殺到する煙の中、男の子を背負った圭介は、本棚ごと倒れ、燃えさかる本の山を踏み越えた。

 何故かは不明だが、スプリンクラーは停止している。

 うっすらと床を覆う水面で油と炎が波打っていた。崩れ落ちた書籍がダムと化して、水を堰き止めるが、次々と火が燃え移り、ささやかな抵抗を灰へと変えていく。

 火の粉を剣で払いながら、最短距離で行ける階段に走る。

 圭介には確信があった。

 奴はまだ仕掛けてこない。

 ベッドを斬ったあの刹那、圭介は死を覚悟した。

 もしも、あの瞬間を狙われていたら間違いなく敗北していた。

 おそらく、奴にとっても、この子の存在は不測の事態だったのだ。

 だから、あえて見逃した。

 煙が逆巻く踊り場の途中、横目でちらりと目を閉じたままの男の子を見た。

 生命の恩人を死なせるわけにはいかない。

 三階まで一気に駆け下りると、慌ただしい足音と断続的な放水の音がする。

 消防隊員が近い。

 踊り場で足を止めて大声で叫んだ。

「階段まで来てくれ! こっちに子供がいるんだ!」

 その拍子に煙を吸い込んでしまって激しい咳が出たが、遠くから頼もしい返事があった。

「わかった! すぐに行く! そこでじっとしていなさい!」

 これで大丈夫だ。

 煙がすこし薄い壁際にしゃがむと、ゆっくり男の子を背中から降ろした。同時に男の子は咳き込んで目を覚ます。

「もう大丈夫だ。すぐに消防のおじさんが助けてくれるからな」

 圭介の言葉に男の子はきょとんした。何が起きているのか理解出来ていないらしい。

「あれ、ママ……。ママはどこ?」

「すぐに会えるよ。だから、ここで待ってるんだ。いいね?」

 諭しながら、自分のポケットを探ると、ポケットティッシュを持っていたことにいまさら気付いた。

「これで口を押さえるといい。煙を吸うとのどが痛くなるから」

 ティッシュを持っていて良かったと生まれてはじめて圭介は思った。

「おにいちゃん、どこいくの?」

 立ち上がった圭介に、男の子は不安そうに訊いた。

「上の階に、もう一人いるんだ」

 そう、倒さなければならない相手が。

「たすけにいくの?」

 答えずに走り出した。右手には罪科の剣を握り締め、ただ上を目指す。

「がんばってね、おにいちゃん」

 続く「ありがとう」を背中に受けて、圭介は一人呟いた。

「礼を言うのはこっちのほうさ」


 火災の惨事を遠巻きに愉しんでいる群衆から、大きな歓声が上がった。

 消防士が幼い男の子を抱えて戻ってきたのだ。

 男の子の名前を呼びながら力強く抱き寄せた母親ともども、待機していた救急車に乗せられた。

「あのね、ママ! ぼく、おにいちゃんに、たすけてもらったんだよ!」

 元気な声を閉まる救急車のドアが遮ると、代わりとばかりにサイレンが鳴り響き、赤いランプが回転する。

 それを耳にした沙希は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

 おにいちゃんって、まさか、近衛くんのことじゃ……?

 走り去る救急車を野次馬たちの声が送った。

「まったく、あのコ、無事でよかったよねー」「ホント、ホント」「奇跡の再会ってカンジだよな」「おれ、ちょっと感動しちゃったよー」

 いままで他人の不幸を喜んで見物していたくせに、他人の幸運の分け前まで貰ったつもりでいる、この人たちはいったいなんなんだろう。

 わからない。

 そして、もうひとつの疑問が沙希の脳裏をかすめた。

 どうして近衛くんは建物の中に戻ったんだろう? なんのために?


 焦げた苦い匂いが漂う階段を、鼻だけで呼吸しつつ駆け上がる。

 目的の場所は九階、屋上だ。

 踊り場で足を止め、一旦、息を整える。

 ここは六階と七階の間。

 六階の外壁が破られているおかげで換気がいいせいだろうか、他の階よりも空気の質がマシだった。

 こん……。こん……。こん……。

 上の階から聞こえてくる軽い音に圭介は顔を上げた。

蓋が外された五〇〇ミリリットルのペットボトルが、無色透明な液体を撒き散らしながら、階段を跳ね下りてくる。

 続けて、二本三本と次々と後を追ってきた。油の臭いとともに。

 床に残った油の軌跡をなぞって炎が駆け下りてくる。

 爆ぜて舞う踊り場の火の中を圭介は走る。

 ただ、上へ。

 髪が、服が、焼け焦げていく。

 それがどうした、と、炎を踏み越え、ひたすら進む。

 新たに転がり落ちてきたペットボトルを罪科の剣で跳ね上げる。

 火の粉で引火したそれが膨張し、爆風と炎が圭介を呑もうとした。

 ――斬れる。

 確信を剣の峰に乗せ、黒刃が走った。

 斬線に沿って割れた火炎の挟間を一気に駆け抜けた。

 さっきまではまるで炎を斬れる気がしなかった。

 しかし、今はもう違う。

 斬る。

 斬って進むと選んだ道だ。

 水に攫われた望みを、炎ごときで諦められるか。

 八階の踊り場を曲がると、火と煙の向こうに、わずかな空が見えた。

 屋上への扉は開けっ放しだった。

 止まらず、屋上へと踏み出した一歩が水を跳ね上げる。

 圭介は舞台の後ろにある青いビニールシートの塊と、フェンスで囲まれたタンクに目をやった。タンクの下部が切断され、大きく口を開けている。水の流出はほとんど止んでいたが、屋上を水浸しにした水源は、まさにそこだ。スプリンクラーの停止はこの事態と関わりがあるのかもしれない。

『敵』は屋上の中央で、こちらに背を向けて立っていた。水面に映した姿が波紋に揺れる。まだ遠い。だが、おそらくは鞭の間合い。

「消防隊がすぐそこまで来てるぞ」

 圭介は『敵』へと告げた。自分と邪魔者の到来を。

「さすがに早えな。やっぱりプロは違うぜ」

『敵』は答えた。

 照り返す夏の陽射しが屋上の水分を気化させていく。

「下にテレビカメラも来てやがる。観られなくて、さぞ残念だろうよ」

 突如、一陣の風がビニールシートを吹き飛ばした。青い幕は空中で煙と踊りながら、集まった群衆の頭上へと覆い被さるように落ちていく。下界から悲鳴が上がった。

「観客は私以外に必要ない」

 この忌々しい不吉な声。

 黒い布を捻りながら全身を形作ったペイルライダーは静かに着地した。

 ビニールシートの下に隠されていた、赤茶色い錆に覆われた機械仕掛けの仔馬の背中に。

 銀の仮面は表情通りに嘲笑う。

「さあ、殺し合うがいい。汝らが希望と、我が享楽の為に」

 煙が空へ昇るように、水蒸気もまた空へと昇る。

 罪科の剣を手にした二人もまた、それぞれに上を目指していた。

「オレの名は」

 振り向きざまに鞭と変じた先端は、世界を灰色に変える。

郷田奏司ごうだそうじだ!」

 迎える圭介の刃もまた、灰色の世界を背負っていた。

「近衛圭介だ」

 名乗り終えた二人を除いて、影引く世界から全ての色彩が失せていく。

 襲い来る鞭を弾き返すと同時、水飛沫を上げ、間合いを詰める。

 郷田奏司の引く手より速く、自分の攻撃に持ち込まなければ、と。

 あと三歩。

 その瞬間、伸びきった黒鞭は音も無く剣へと姿を変え、郷田奏司の手許へ戻った。

「踏み込めば勝てると思ったか? 甘えんだよ!」

 右からの一閃を、左の一刀が迎え撃つ。

 踏みしめた足が水を跳ね上げ、薄い水面に波紋を投げる。

 剣を合わせた力点をずらし、離れた刃が、再び流れる軌跡を描き、圭介を狙う。

 二合、三合、四合、五合。

 防戦一方に追いやられた圭介は奥歯をぎりりと噛み締める。

 強い。

 郷田奏司は卑怯な策など用いなくとも、いや、使う必要がないほど十分に強い。

 鋭利な横薙ぎが腹に食い込む刹那、圭介は危うく握る柄の底面を叩きつけて止めた。

 その隙に飛び退く郷田奏司の、去り際の蹴りが腹の左に炸裂する。

 痛みに呼吸が詰まり、咳を咽喉へと押し上げた。

 咳にむせぶ圭介へと、容赦なく黒い鞭が見舞う。

 真上から迫り来る黒い曲線。

 ふらつく足で左に跳んだ。力が入らない。

 辛くも躱したものの、足がもつれて水の上に転んだ。

 まだ、咳が止まらない。

「オレの勝ちだ!」

 とどめとばかりに再び振り下ろされる鞭。

 一際高く水飛沫が上がった。

 立ち上がっていた圭介の黒い切尖が、黒い鞭を床に叩き伏せていた。

 げほ。

 咳ひとつ残し、罪科の剣は鞭を押さえつけながら、その上を走る。

 郷田奏司の手に剣の形態として鞭が戻るより速く、間合いに入った。

 その左拳が剣から離れ、郷田奏司の顔を殴り飛ばした。

 斬撃を予想していた郷田奏司は、文字通り面喰って倒れる。

 仰向けに倒れた無防備な腹の上に、どすんと圭介が馬乗りになった。

 痛みに咳き込んで見上げれば、振り上げられた圭介の右手に黒い剣のシルエット。

 この状況下でありながら、郷田奏司は不敵に笑った。

 鞭に変化した罪科の剣は、実は意のままに動きを操れるのだ。普通の鞭であるかのように戦い、普通の鞭だと思い込ませていたことこそ、正真正銘、最後の罠。

 奥の手の自在鞭の鋭い先端が、圭介の死角から後頭部を射抜くべく迫る。

 ぎん。

 寸前、左手に持ち替えた圭介の剣が、迫り来る鞭を弾き飛ばした。

 全く背後も見ぬままに。

 止まらず、剣は黒い弧を描き、『敵』の首筋へとめり込んだ。

 郷田奏司の吐いた血が空中で砂へと変わる。

 圭介は立ち上がり、首の半ばに埋まった自分の剣を引き抜いた。

 背を向けて数歩進み、朽ち果てかけた仔馬の乗り物に立つペイルライダーを睨む。

 笑顔を刻みつけた銀仮面は顎を撫でると、感心よりも侮蔑の色が濃い声で「ほう」とだけ言った。

「まだだ!」

 擦れた叫びに振り向けば、郷田奏司が立っていた。

 首の傷口を押さえた片手の下から、灰色の砂塵がとめどなく零れ落ちていく。残るもう一方の手には黒い剣を引っ提げている。

「まだオレは負けちゃいねえぞ!」

 言葉に込めた力と対象的に、身体の動作は精彩を欠いていた。

 ふらりと前に進んだ一歩を突き立てた罪科の剣で支えている。

 再び、圭介は自分の剣を構え直した。

 勝利への執念か。

 そう、賭したものは諦めきれるような価値ではないのだ。

「見苦しいぞ、郷田奏司。お前はすでに敗北したのだ」

 ペイルライダーの冷徹な宣言に、郷田奏司の足が止まった。

「負けてねえ! オレはまだ戦える!」

 搾り出すような絶叫は、ただ聞く者にさえも辛苦を与える。

「いいや、お前の負けだ。完璧な不意打ちを仕掛けながら、読まれたと自覚した瞬間、お前の魂は敗北を認めたのだ」

 不意に町の遠くで大きな爆発音がした。

 音の出所を目で追った圭介は、かなり離れた住宅地から立ち昇る黒い煙に気が付いた。

 郷田奏司は背後を振り向いた。フェンスの向こう、遥か遠く空へ拡散していく煙を見ると、がくりと膝をつく。と、同時に灰燼に帰し、水を張った床の上に崩れ去った。

 その様子から目を背けた圭介を頭痛が襲う。


 息が詰まるような家だった。

 いつからそうなったのかはわからない。気付いたときにはそうだった。

 厳格な父と教育熱心な母、そして自分と、弟と。

 年齢の離れた弟は、小学校を受験するためだけに生まれてきたかのように両親に扱われていた。

「お兄ちゃんのように人生を失敗しちゃダメよ」

「お前は兄さんのようにならないように頑張るんだ」

 反吐の出るような暮らし。

 皆、死ねばいい。そう思った。

 いつも通りに飛び出したある夜、家はガス爆発で吹き飛んだ。

 黒く焦げた三人はもう人間の原形を留めてすらいなかった。

 居場所の無い家だった。

 自分を嫌い、蔑んだ家族だった。

 それでも――。

「君は、何を望む?」

 黒い影のような姿、フードのような窪みの内には銀色の仮面が笑っていた。

 この世のものではない力によって、その家の時間は悲劇の直前で止まった。


 頭痛を振り払って、圭介は理解した。郷田奏司の願いを。

「どんな手段も辞さぬなどと大口を叩いたところで、それを貫き通せぬならば、全くの無意味だったな。――郷田奏司は」

 吐き捨てたペイルライダーは錆びた仔馬に腰を下ろした。ギイギイと悲鳴に似た音を出して、かつて子供に愛されたであろう乗り物は揺れる。

「お前がベッドを斬ったあのとき、躊躇なく、鞭で刺し貫けば勝利出来たものを。逃げ遅れた子供ごと殺してしまえば良かったのだ。にも関らず、彼はそうしなかった。子供を逃がそうとするお前が、火に捲かれて死ぬのを期待したのだ。安易な勝利の可能性に縋ったのだ」

 違う。圭介は胸の内で呟いた。

 だが、ペイルライダーには決して理解することは出来まい。

 郷田は死なせたくなかったのだ。自分の弟と同じ年頃の子供を。

「揺るがぬと己自身思い込んでいたとして、そんな偽りの想いなど、紙片一枚ほどの価値も重さもあるものか。殺せ。殺し続けろ。五人殺し終えるまで、安住の時は無いと識れ」

 貫くような圭介の視線を平然と銀色の仮面に受け、ペイルライダーはくつくつと嘲る。

「近衛圭介。そういえば、書物を読んでいたな。なにか面白い収穫でもあったかね?」

 そう言うとペイルライダーの黒い身体は、まるで嫌味のように内側から青白く光り始めた。再び立った 足の下で、機械の仔馬がまたギイと鳴いた。

「天使も悪魔も人間には判別不能なのだ。せいぜい、背中に羽の生えた鳥の出来損ないを崇めているのが、お前たちにはお似合いなのだよ。理解可能な範囲まで引き摺り降ろせば、聖性も魔性も容易く瓦解してしまう。知ったつもりの積み重ねでな」

 ペイルライダーは宙に消え、大きな音を立てて仔馬は台座ごと倒れた。

「他者よりもまず己を知れ、近衛圭介。戦う己の心の在処を。あと二人だ」

 言葉だけを残して気配は去った。

 再び世界は色彩を取り戻していた。

 郷田奏司だった塵は、青空を映す薄い水の表面でばらばらに拡がっていった。


 屋上まで救助に来てくれた消防隊員に連れられて、惨状の外に出ると周囲の野次馬たちが拍手喝采した。

 マイクを突き出し、何か大声で喚きながら近付いてくるテレビ局の連中を、警察官が抑えている間に、救急車へと向かう。

「近衛!」

 遠藤の声に振り向くと同時に、胸に飛び込んできた人影があった。

「近衛くん! どうして? どうして、あんなあぶないことするの?」

 黒く汚れた沙希の泣き顔を見て、はじめて圭介は自分が煤まみれだということに気付く。

 周囲を取り巻く混乱の中、何故か、圭介と沙希は二人まとめて救急車へ押し込まれた。

 泣き止まない沙希の声をけたたましいサイレンの音が掻き消す。

 誰にも聞かれぬ心の中で、圭介は「どうして」の問いに答えた。

 どうしても、だ。


 あと二人。

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