第二章 かけたるもの
木造モルタル二階建て。
築何年だかわからない安アパートの六畳一間に、近衛圭介は住んでいた。
窓を開けて布団をあげたが、風は無く、必要最低限の家具しかない殺風景な部屋には、まだ埃が舞っていた。日の光にきらきら光る細かい埃の粒を、畳に座ってぼんやり眺めているだけのゆとりが夏休みにはある。
不意に備え付けの電話が鳴った。
「はい、もしもし。近衛です」
「ああ、おれ。遠藤だけど。もしかして、まだ寝てたかな?」
すこし気まずそうな友人の声色に、圭介は素直に答えた。
「いや。さすがにもう昼だしな」
「ちょっと待て。まだ十時前だぞ」
言われて畳の上に置いてある目覚まし時計を見る。
十二時近くを指す短針と長針はともかくとして、秒針がぴくりとも動いていない。どうやら、電池切れらしい。
それとも、でかでかと貼られていた特価品の札が為せるワザなのか。
「うちは時差があるんだよ。それより、なんだ? 用でもあるのか?」
「ああ、その、まあ、なんだ、あのな」
いまひとつ歯切れの悪い言葉を、慌ただしい雑音が打ち消した。遠くで遠藤が怒る声が聞こえる。
「よう! 近衛! 林戸だ! グッモーニン!」
「……いたのか、林戸」
「頼む! 今日、昼の一時に駅前広場の噴水前に来てくれ! 海パンで!」
「なんでおれが、そんな罰ゲーム受けなきゃならないんだよ」
「ほんっと、お前、バカ! なんにもわかってねェよ!」
「確かにお前がわからんわ。じゃあな、林戸」
「ちょっ! 待っ……!」
圭介は静かに受話器を置いた。
開け放った窓の外からセミの声が聞こえる。どこか近所のテレビの音だろう。
再び電話が鳴った。
目覚まし時計のアラームにすこし似てるな、と思いながら、圭介はまた受話器を取る。
「はいもしもし近衛です」
「すまん。遠藤だけど。さっき、林戸のやつにケータイをひったくられてな」
奪い返すためにちょっとした乱闘騒ぎでもあったものか、遠藤の呼吸はすこし荒い。
「それで、用件は?」
聞けば、知り合いから高級ホテルのプールに入れるペアのタダ券を貰ったという。しかも、それが三枚あり、使用期限はなんと今日まで。ナンパ防止のためかどうかは知らないが、男女ペアでなければ入場不可能という代物だった。
「しょうがないんで捨てようかとも思ったんだが、林戸にみつかってな。あいつ、いきなり小野田に話つけちまって。あと、浅居と酉蕗も来るらしいんだが、どうだ?」
小野田良美は酉蕗沙希の友人だ。夏休み前、沙希が転倒した階段の踊り場で顔を見たので、圭介も顔をおぼえている。しかし、浅居というのは誰だったか。教師が女子の出席を取るときに聞いたような気もする。それもかなり最初のほうで。
「それにしても……。林戸、よく女の携帯番号なんて知ってたな」
「いや、それがなあ。いきなり怒鳴られてたんだ、これが。なんでアタシの番号知ってんのよーって」
林戸のなかば非合法に近いバイタリティに圭介は頭を抱えたくなった。
だが、行くかどうかと問われれば、選択肢はひとつしかない。
「多分、おれは無理だな。悪いが他を当たってくれ」
「多分ってなんだよ。他に用事でもあるのか」
めずらしく遠藤が食い下がってきた。いつもなら、理由も聞かずに意を汲んで、引き下がってくれるのだが。
「ちょっと、な。急用が入る、かもしれない」
曖昧な物言いだが、圭介の頭には他にいい台詞が浮かばなかった。
「……そうか。うん。でも、まあ、もし都合ついたら、駅前の噴水んとこに昼の一時な。この券、きっと女一人なら入れると思うからさ」
他の人間を呼ぶつもりはないとさりげなく告げる遠藤に、やはりはっきりしない返事を返して電話を切った。
セミの声はもう止んでいた。チャンネルを変えたのか、それともテレビを消したのか。
またしても電話が鳴った。
三度目ともなると、さすがに圭介もうんざりとなったが、かといって無視というわけにもいかない。音がうるさいからだ。
「はいもしもし近衛です。――ん? ああ、なんだ、父さんか。いいや、なんでもないんだ。それよりもさ、義母さんは元気にしてる?」
来るべきではなかったのかもしれない。
眼鏡を通して見た風景は、見渡す限りに、人、人、人。
昼を過ぎた駅前広場の噴水周辺は、夏休み最初の日曜日なせいもあってか、若者たちでごった返していた。
「あー。ゴメンねー。アタシら、待ち合わせしてるからー」
声を掛けてきた何組目かの男の子たちを追い返した親友が、腕時計を見て「あと二十分」と呟いた。ちらりとこっちに視線を投げる。
「あのさあ、沙希。なにも正直に噴水前に立ってなんかないで、日陰のほうに行こうよ。まだ、ずいぶん早いしさ」
「えっ、でも、ほら」
ごもっともな良美の正論に、沙希は返す言葉もない。
「ていうか、アンタ、気合入れすぎ。なによ、その服」
意味不明な英文がプリントされたTシャツにスリムジーンズとラフな格好をした良美は、上から下まで沙希を眺めて、深い溜息を吐いた。
「いや、その、なんだろね? あはははは」
笑って誤魔化そうとした沙希だが、実は、待ち合わせ場所に着いたときから、自分の服のチョイスが微妙に間違っているような気がしていた。
白いワンピース。しかも、あちこちがややフリフリであった。ブランド物のわりにお値ごろ価格だった大きめのトートバッグを肩から提げても、ちょっと不思議な違和感が残る。
例えるなら、まさに、一昔前の夏のお嬢さん。
準備の時間がなくて沙希が焦ったのは事実だ。
でも、それをいうなら、良美から掛かってきた電話の内容もおかしい。
『近衛のスネ毛が見たいんなら、これから一緒にプール行かない?』
動転するのも仕方がない。スネ毛はどうでもいいけれど。
「つーか、沙希がそんなカッコしてるから、楽勝っぽくみられて、バカな男どもが寄ってくんでしょーが」
沙希がなにか言い返そうとしたそのとき、後ろから呼び掛けられた。
「お。早いな、二人とも」
二人が振り向くと、そこには遠藤隆一が立っていた。固太りと筋肉質の違いについて、いまいち沙希はわからない。
「あれー? 遠藤、近衛と一緒じゃないのー?」
「ああ。どうも都合が悪いらしくてさ。ところで浅居は?」
「あのコ、陸上部の朝練で足首ひねっちゃったんだって」
そこまで喋った良美は、沙希からちょっと離れると、遠藤に小声で囁いた。
「ちょっと、遠藤! どうすんのよー? ホラ、沙希のやつ、近衛が来るっていうから、あんなにはりきっちゃってんのに!」
「え。そうなのか」
「かーっ! だからダメなんだよねー、男って」
「まあ、他のやつには声かけないって言っといたから、もしかしたら来るかも」
「あーあ。ホラ、沙希、あんなにガッカリしてるよ」
「え。そうなのか」
そんな二人のやりとりも知らず、きょとんとしている夏のお嬢さん。
「よぉ! みんな、お待たせ!」
大量のシルバーアクセサリーで、照りつける眩しい太陽光を四方八方へと乱反射させながら、林戸明彦は最後にのこのことやってきた。
はじめから行くつもりは無かった。
待ち合わせの時間を過ぎるか過ぎないかという頃、圭介は自宅から一番近いコンビニへと向かっていた。黒いTシャツを選んだことを後悔したくなる日射しにじりじりと灼かれながら、流れる汗も拭かずに歩く。胸の中央に汗の染みが広がるのがわかる。
一人暮らしの身の上に、コンビニの出来合い弁当は、高価な買い物ではある。だが、買い置きしていた食パンが耳まで緑色に覆われているさまを目の当たりにすれば、料理をする気も失せてしまう。もともと大した料理は出来ないのだが。
アスファルトの歩道に落ちた汗の雫が、たちまち蒸発して消えた。
ついでに圭介の腹が鳴った。
前から走ってきた子供たちが笑いながら擦れ違う。声は遠ざかっていく。
心の底に苦い感情が広がる。
人一人をこの手で殺めてしまった。
それなのに、日常はなにも変わっていない。
たとえ、見ず知らずの中学生が一人消え去ったとしても、直接関りのない多くの人たちにとっての今日は、昨日の続きの平穏な一日でしかない。
そして、明日を待つのだろう。今日がそうであったように。
今日こそ帰ってくるかもしれないと、明日も明後日も待ち続ける家族の存在を、どれほどの人が気付いているのだろうか。
だが、剣で貫いたのは誰だ。
殺害者たる自分に、胸を痛める資格があるのか。
圭介の心は暗い闇に沈む。
待ち人が帰らぬ理由を誰よりもよく知る圭介は、ふと立ち止まり、足許にわだかまる己自身の影を見た。強い陽射しにぼやけた黒い輪郭と靴底の裏に隠された、その中心。
誰かが生き、また死んだとしても、他者の日常がそれを呑み込んでいく。理由も意味も価値も問わずに。
かつて何処かの誰かが言った。
時間は全てを解決する――と。
年齢を重ねれば、いつかはそう思えるようになるのだろうか。
過去の罪を背負った自分が、勝ち残る未来を思い描こうとしたが、どうしてもそれをイメージ出来なかった。
では、もしも負けたらと問えば、はっきりと思い浮かぶ。
死んで消え去る自分はまだいい。
誰かの記憶に残るだろう。
いつか日常に呑まれ、忘れ去られてしまうとしても。
だが、沙希はどうなるのか。
ペイルライダーの言葉を信じるならば、いまから十年前、あの日の彼女の死後から現在に至るまでの過去が全て変わってしまうという。
それは、人々の中でいつか忘却の彼方に過ぎ去っていく、在りし日の過去ではない。これまで存在してきた事実そのものが消滅してしまうのだ。文字通りの虚無の彼方へ。
アスファルトの上に立つ陽炎を透かした景色は、頼りなく揺らめいて道の先をあやふやにする。
行くしかない。
だが、この先に道は本当にあるのか。
また、腹が鳴った。
実感できる当座の現実問題を解決するために、圭介は再び歩き出した。
子供たちがこの先にある児童公園から出てくる。
何故だろう。まるで逃げ去るかのように感じるのは。
どの子たちも別におかしな様子はない。むしろ、公園での遊びに飽きただけと思うのが普通だ。それでも、圭介は、どこかいいしれない違和感を抱いた。
野球もサッカーも出来ない中途半端な広さのグラウンドには誰もいない。
隣接する小さな児童公園で、漕ぎ手を失った二つのブランコがまだ揺れていた。元はカラフルだったであろうペンキが剥げ落ちたシーソー。立ち尽くしている鉄棒。いつか飽きてしまうのは、自分が大きくなり、滑り台を小さく感じるからだろうか。なだらかな砂場で子供たちが何を作ろうとしていたのか、いまは窺い知ることも出来ない。
誰もいない。――いや。背を向けて、離れたベンチに腰掛けている男が一人。
着慣れた感じのワイシャツと深い茶色のスラックス。どこかの会社員が、営業仕事の合間に一休みしている風にも見えなくはない。
すっと立ち上がり、男は振り返った。
青い格子模様のネクタイを直すと、眼鏡を左手の人差し指で押し上げた。年齢は二十代の後半ほどか。
「霞崎洸だ」
名乗った男の右手には、黒い剣が握られていた。
予想だにしない光景。この広さ、そしてこの豪華さ。
ハイネックの白い水着に身を包んだ沙希は、胸の前でスポーツタオルを握り締めた。
高級ホテルの高級プール。高級高級と連呼されても、根っからの庶民派には、まるでピンとこなかった。だが、いざその場に立ってみると、眼鏡を外したピントのぼやけた目であろうとも、問答無用によくわかる。
場違いだ、と。
「……うわ。ナニ、これ」
隣で良美も呟いた。黒いセパレートタイプの水着が、スタイルの良い彼女によく似合っている。内心、沙希は、めりはりのきいたそのプロポーションがちょっと羨ましかったりもした。
「人が……少ないな」
森林迷彩柄の水泳パンツをはいた遠藤が口にしたように、自分たちの他には二十代とおぼしいカップルが二組いるだけ。沙希たちの通う高校のプールの三倍以上はある広大な遊泳環境になど目もくれず、デッキチェアで寝そべり、パステルカラーの謎の飲料をやたらに曲がったストローなんかで飲んでいた。しかも、屋内なのにサングラスをかけて。
イモ洗いに例えられるほど混雑する夏場の公共プールも嫌だが、ここまで人がいない高級プールもどうだろう。それゆえに高級なのか、高級ゆえにそうなのか。
あはは、と力無い笑いが沙希の口から漏れた。
いやはや、どうしたものか。
「うっわー! すっげーなー!」
固まってしまった三人の背後で、着替えに手間取り、一足遅れでやってきた林戸が声を上げた。浮世絵柄の競泳パンツで、サメだかシャチだかイルカだか、正体不明の浮き袋を小脇に抱えている。
高校生様御一行の場違い度が格段に上がった。
「アンタさあ。そのサメ、どうする気よ?」
「サメ? いや、小野田。あれはシャチだろう」
「え……。イルカじゃないの?」
先に来ていた三者三様の意見に、林戸はわざとらしく溜息を吐いてみせた。
「おっ前ら、なにいってんの? どう見ても、クジラだろ。これ」
どう見てもクジラにだけは見えない浮き袋の頭をぽんぽん叩く。
「別にもうどうでもいいわ、そんなの。とりあえず、場所取ってから泳ごっか」
脱力した良美の後について、沙希は空いているデッキチェアに向かう。大理石のような床のひやりとした感触が足の裏に気持ちいい。
「うわー、この床もすげーなー。なんかよ、アレに似てね?」
林戸の問いに、遠藤が聞き返す。
「なんだ。温泉施設か、何かか」
「いんや。墓石にさ」
セメントで固めた四角い門柱の間に、一歩、踏み出した。
「……近衛圭介だ」
軽く握った左の拳の影から、冷たく硬い感触を右手で掴んで引き出した。すでに知っている、罪科の剣のこの手応え。
まだ、互いに距離がある。にも関らず、霞崎洸は黒い刀身を振り上げた。
さらに一歩、公園に踏み込んだ圭介は反射的に立ち止まる。
振り下ろされる刹那、圭介が剣を横なぎに斬り払う。切尖に、体育館の舞台袖にあるビロードのカーテンを引っ掛けたような嫌な重さがあった。
霞崎洸の剣と圭介の剣。互いに向かって、頭上と地面を影が駆け抜け、公園の風景はモノトーンへと色を変えた。
影引かれた真の世界。これで舞台は整った。
切尖に感じた抵抗は影の重さだったのだろうか。「影を引く」とはこういう意味なのか。
自問自答する暇も無く、『敵』の黒い刃が迫る。
一閃を迎え撃つ一閃。
ぎん。
一音のみを残して、二人は同時に飛び退った。
身体が軽い。さほど運動が得意ではない圭介だが、罪科の剣を手にすると、人間離れした軽快な挙動をする自分に気付いていた。
一瞬、崩れた体勢を、いまは灰色になった滑り台の手すりを掴んで立て直す。
霞崎洸は砂場で膝の砂を払う。革靴の左の踵が、なだらかな砂山を踏み崩していた。
圭介の姿を確認すると、眼鏡の真ん中を人差し指で押し上げる。と、同時に走り、後ろに砂煙を上げた。
向かい来る『敵』に、圭介は両手で剣を構え直す。
遊びではない。
敗者は死に、己自身と望みを失うのだ。
つまり、全てを。
力を抜いて、水に身体を委ねれば、人は浮力で沈まない。
高い天窓を眺めながら、沙希はプールをたゆたっていた。
長い髪が水面に広がって、すこしコワい光景になっている。
きっと掃除とか大変なんだろうな。
そんなことを沙希はぼんやりと考えていた。
こつん、と頭がプールの端に当たり、ささやかな漂流記は終わった。
「どりゃ」
近くの縁に座っていた良美が、軽いキックで水を跳ね上げた。
「わわわわ……!」
驚いてちょっと沈みそうになったが、すぐに沙希は勘を取り戻す。眼鏡なしのぼやけた目で良美に訊ねた。
「あれー? 遠藤くんたちはどうしたのー?」
「ああ。アイツらなら、あれからずっとへばったまんま」
そうだった。男子二人は何を思ったのか、急に競泳を始め、一本、なにくそもう一本と続けた挙句、そのうち声も無く水からあがるとデッキチェアに突っ伏したのであった。ふと見ると、魚類だか哺乳類だかモチーフが謎の浮き袋も、中途半端に空気が抜けて、二人の近くに転がっていた。
「ところでさ、沙希」
「んー?」
呼ばれて水面から見上げれば、やっぱり親友の胸はなかなかに立派だった。
「アンタって、子供のころ川でおぼれたってわりに、プールとか平気なんだね。アタシから誘っといて、いうのもなんだけどさ」
良美からの質問と述懐両方に、沙希は一度だけ頷いた。
「助けてもらったから」
小さな声で答えると静かに目を閉じる。
水に対する恐怖心はまるで無い。
むしろ、水に浸っていると逆に安心するくらいだ。
そもそも、溺れていたときは気を失っていたので記憶が無い。家に帰ってから、両親にこっぴどく怒られたことのほうが、まだ記憶に残っている。
母親の胎内で人は羊水に守られている。そのせいか、赤ん坊のうちは水を恐れないともいう。
水に包まれていると、沙希は不思議とくつろいだ気持ちになる。
まるで、元いた場所に戻ってきたかのような甘い郷愁。
薄れていく現実感に反比例して、遠い思い出が浮かび上がる。
ちいさなけいくんのぬくもりが。
「どりゃ」
どぷん、といきなり良美が飛び降り、波に煽られた沙希はあえなく転覆して沈んだ。
ぶつけた剣の力は拮抗し、圭介と霞崎洸は刃の向こう、互いの顔を睨み合う。
額に浮かんだ汗が静かに流れ落ちる。
同時に、力点をずらした霞崎洸の剣が、圭介の剣に沿って下へと滑走する。
右手の指を失う寸前、引いた剣でかろうじて払い除けた。
木刀に似た形の罪科の剣には鍔が無い。鍔迫り合いは不利どころではない。
勧善懲悪を描いた時代劇のようにはいかない。芝居などではないのだ。
そう、これは殺し合いだった。
斬り掛かる機会を圭介に与えず、『敵』は再び距離を取る。
ずれた眼鏡を、また直した。
「さすがに手強いな。三人目ともなると」
その言葉は、圭介の鼓膜だけでなく、心までをも震わせた。
三人目。
この男は、二人殺してここまで来た。
圭介自身、一人殺してここに来た。
二人合わせれば、すでに三人が犠牲になっていることになる。
――おれたちは、一体、何人で殺し合いをやらされているんだ?
「私を白けさせるな」
緊張を破る不意の声に、二人の剣士は視線を向けた。
砂場からわずかに離れた、二組のシーソー。その無人の長い板、上がったほうの先に、なまめかしく輝く黒い人影が銀の笑顔で立っていた。
ペイルライダー。
「守りたいものがあるのだろう? 叶えたい願いがあるのだろう? 命よりも大事なものがあるのだろう? だが、お前たちの事情など、この私にはどうでもいい。戦え。戦い続けろ。望みを勝ち取るそのときまで」
視線を戻せば、霞崎洸の目の色が違う。『敵』を捉えた昏い瞳。
自分の目もそうなのかと思いながら、追って迫る斬撃を、背後に跳んで躱した。
靴底が小石で滑る。かがんだ膝の裏に金属の柵の感触。
しまった。ブランコの周りの囲いか。
そう気付いたが、体勢を咄嗟には直せず、そのまま仰向けに倒れる。打ちつけた背中に激痛が走った。
その瞬間、圭介は、空から落ちてくる影を見た。視界の隅にブランコを捉えた。
剣でブランコを引っ掛け『敵』にぶつける。と、同時に、振り切ったその下をくぐり、ぎりぎりで難を逃れた。
去りゆくブランコを真ん中から両断した霞崎洸が、遅れて戻る右の片割れを蹴り飛ばす。
起き上がろうとした眼前をかすめるブランコの右半分を、圭介の黒い剣が弾く。
「やるじゃないか、三人目」
繋がれて揺れて回るだけの割れた元ブランコの成れの果てを挟んで、二人は改めて対峙した。
「そうでもないさ、二人目」
名乗ったはずの一人と一人は、互いの名前を口にせず、黒い刃に相手の姿を映す。
微かに笑う『敵』の表情に、圭介は相手の余裕を見た。手にかけた人間の数が、自信を上乗せするのだろうか。
圭介が走った。ブランコの柵を越え、左へと。
向き合ったまま、霞崎洸が追う。
その先に滑り台があった。
手すりのある金属板の斜面の下を、圭介がくぐった。
その瞬間、霞崎洸の罪科の剣が滑り台ごと斬り払う。
ぎん。
響く音のこの重さ。
滑り台の下、不可視の状態で斬撃を止めた圭介が、飛び出しざまに横蹴りを放つ。
剣を滑り台に食い込ませたままの『敵』の腹へ、右足がめり込んだ。
激しい衝撃を受けた霞崎洸は、砂場まで吹き飛ばされた。
圭介は走った。
灰色の砂場に倒れ、咳き込む『敵』へ向かって。
なんとか立ち上がるも、まだふらついている相手に渾身の一撃を見舞う。
その刹那、圭介の目を鋭い痛みが襲った。
霞崎洸が罪科の剣の切尖で砂を巻き上げて飛ばしたのだ。
連続動作で振り上げた黒い刃が、一瞬怯んだ圭介の頭上に閃く。
「これで終わりだ、三人目!」
勝利の確信に笑う『敵』、その顔の横を一迅の影が駆け抜けた。
霞崎洸の剣速を凌ぐそれは左肩を割り、胸の半ばでやっと止まった。
刀身から伝わる鼓動が近い。
一時とはいえ、視力を失った圭介の相打ち覚悟の一撃だった。
窓に鉄格子のついた白い部屋、そして白いベッド。
女が一人、横たわっている。
ねえ、あたしね。
か細い声で女が言った。
わたしね、おかあさんになるの。
やさしいおかあさんになるの。
静かな部屋に小さな声が響く。
かいだんからおちたからって、わたしをひとごろしよばわりしない、やさしいおかあさんになるの。
落とした視線、膝の上で震える自分の拳。
わたしね、だいすきなの。
か細い声が続く。
わたしね、あかちゃんがだいすきなの。
あなたとわたしのあかちゃんだもの、きっといいこにきまってるわ。
こんなにだいすきな、だいじなあかちゃんを、わたし、ころしたりなんてしないわ。
なのに、あかちゃんがいなくなっちゃったの。
わたしのおなかからいなくなっちゃったの。
ねえ。あなた。さがしてきて。
あのこ、きっとさびしがってるわ。
わたし、ちゃんとおかあさんになるから。
やさしいおかあさんになるから。
ねえ。あなた。
ねえ。ねえ。ねえ。
どう言葉を尽くしてもなにも伝わらず、繰り返すばかりの光景が、目に溜まる涙で滲んだ。
思い出す。純白の衣装で自分の隣に立っていた彼女の姿を。
誓ったはずだ。
健やかなるときも、病めるときも、と。
打ちひしがれ、彷徨い歩き、足を止めた夜の公園で何者かに呼び止められた。
「お前は、何を望む?」
そして、新たな誓いを立てた。
軽い頭痛は去っていた。圭介は痛みに霞む目を開けた。
霞崎洸だったものが砂のように細かな粒になり、静かに下へと落ちていく。
崩れ去る左手、薬指に嵌められた指環が落ちていく軌跡を、圭介の視線が追った。
砂場には、新しい灰色の山が出来ていた。
なにかを築こうとして果たせなかった、灰と塵と砂の山が。
指環はどこにも見当たらない。砂の中に埋もれたのか、それとも砂になったのか。
「己を信じようにも、自らついた嘘があまりに大き過ぎたな。彼――霞崎洸は」
上がったままのシーソーの上、ペイルライダーが嘲う。仮面の表情そのままに。
「誓いを立てた相手が、もしも神だとするならば、許してくれるかもしれん。だが、己自身に誓ったのなら、逃げ場など何処にも有りはしない。決して許しはすまいよ、己の嘘を。それに目を背け、他人に怒りの矛先を向けたところで、嘘に嘘を重ねるだけの事。かつて望んだものを、もう望まなくなった自分の嘘ばかりを恐れていては、『敵』に勝てるはずもない。しかし、そんな者ですら二人もの『敵』を倒せるのだから、この遊びは面白い」
面白い?
胸の内で問い、圭介は奥歯を噛み締める。
霞崎洸は弱者などではない。
観ていただけのものにはわかりようもない。
取り戻したかっただけだ。
向こうが透けてしまうほど、あまりに薄い微かな望みであろうとも。
ただ、取り戻したかったのだ。
大事な誰かの人生を。
「影引かれた真の世界に、嘘がつけ入る隙など無い。記憶に留めておくといい、近衛圭介よ。嘘が辿った哀れな結末をな」
風が吹き抜けた。
景色に色彩が戻り、砂場から灰色の砂山が消えていた。
「あと三人だ」
無人のシーソーが大きな音を立てて地面を打ち、反動で上がって、また下りる。
繰り返すシーソーの音を追うように、ブランコが二つに割れ、滑り台が鋭く裂けた。
遊具が壊されていると匿名の通報を受け、警察官が公園に着いたのは、それから十五分後のことだった。
午後二時を過ぎたばかりの駅前のカフェは、さすがに人の姿もまばらだった。
高級プールで規定時間をきっちり過ごした沙希たちは、このまま帰るのもなんなので、みんなでお茶でも飲もうという話になった。それというのも、男子二人が疲れ過ぎていて、このままだと帰宅途中で倒れそうに見えたからだ。
窓際の席に腰掛けた沙希が、ふと外を眺めると、一時間前に待ち合わせをした噴水が、ちょうど水を噴き上げたところだった。
「ちょっと、遠藤」
沙希の隣に座る良美が、ジンジャーエールのストローから口を離して言った。
「近衛のケータイに、電話かけなさいよ。なんで、アイツ、来れなかったのか知りたいでしょ?」
知りたいのは沙希のほうだった。
ちらりと見ると、遠藤は烏龍茶の氷を噛み砕いている最中だった。ごくりと飲み込んで、軽くむせる。
「近衛、ケータイ持ってないぞ」
「ウソ? 冗談でしょ」
「いや本当。面倒臭いとか言ってたな、たしか」
「はあ? なにが面倒なの、こんなの。使ってれば、すぐに覚えられるでしょ、使い方なんて」
「いちいち持って歩くのが面倒臭いそうだ」
いろいろな場所に携帯電話をよく置き忘れてくる不携帯気味な沙希は、心の中で、うんうんと頷く。すると途端に、良美から肘でつつかれた。
「なにアンタも頷いてんのよ」
気付かなかったが、ホントに頷いていたらしい。
あはは、と笑って誤魔化して、アイスミルクティーを掻き回してみたりなんかして。
それまでぐったりしていた林戸が、顔を覆っていたおしぼりをテーブルに置くと、疲れの抜けきらない声でおもむろに言った。
「一人暮らしだから、大変なんじゃねーの? いろいろとさー」
初耳だよ! と内心驚いた沙希だったが、圭介について知らないことだらけの自分に改めて気付いた。
「へえ~。……そう、なんだ~?」
平静を装ってはみたが、なんだか間が不自然だった。
「あ。酉蕗、知らなかったんだ? なんか、親父さんがね、再婚したらしくてさ。高校に入ったついでに、離れて暮らすことにしたらしいんだよねー」
沙希の遠い思い出の中では、けいくんのおとうさんとおかあさんは、遊びに行くといつもニコニコと笑っていた、ような気がする。けれど、その顔を声を仕草を、もうはっきりと思い出せなくなっていた。
「林戸! お前、それ、本人がいないところで、ベラベラしゃべってもいい話じゃないだろう!」
「いや、でもさ、ほら。……事実だしよー」
なにやら雰囲気が悪くなる男二人を、まあまあと良美がなだめる。
「まー、いまどき、親の離婚や再婚なんて、別にめずらしくもないっしょ? ウチも母一人子一人だしさ、けっこー前から」
仲良くなってすぐに何気なく話してくれた良美の表情を、沙希は今でもおぼえていた。 笑い話のように気安い口調だったが、真剣に聞かなきゃダメだ、とそのとき思った。
遠藤は素早く携帯電話を操作して耳に当てる。
そして、待つこと数秒。
「留守電か」
言うと、隣の林戸にケータイを押し付けた。
「ほら。ちゃんと近衛に、一言詫び入れとけ」
神妙に面持ちで受け取った。瞬間、林戸はケータイを沙希に突き出した。
「ほら、酉蕗、パス!」
反射的に掴んだものの、
「え? え? え?」
状況がまるで掴めない。
「沙希! はやく出ないとキレちゃうよ!」
良美に急かされ、電話に出れば、いままさに録音開始の「ピー」が鳴ったところだ。
「……! えーと、あの。プール! そう、プール! ――……! 楽しかったよ、近衛くん!」
そこでまた「ピー」と鳴った。
「沙希……。アンタ、自分の名前も言ってないよ……」
微妙な空気が漂いはじめたこの場から、そそくさと逃げ出したい気持ちでいっぱいの沙希であった。
どこをどう歩いたのか、まるで記憶が無い。
どこかの店の公衆電話から、一一〇番に匿名の連絡を入れたあと、圭介はあてもなく彷徨った。なにも食べてはいなかったが、空腹はもう感じない。
色彩が戻った青い空。だが、今は色褪せて見える。
わずかに浮かぶ雲までも、どこか白々しく思えてくる。
また一人、人が死んだというのに、この世界は気付きもしない。
ただ続くだけの日常を足で踏みつけながら進む。
雑踏の気配に目を上げると、そこは駅前広場だった。
行き交う人々の多くは、圭介とほぼ同年代。夏休み中の学生ばかりだ。
「もう。ほら、約束の二時をもう五分も過ぎちゃったじゃない」
不満げな若い女の声に、振り向いた。
ベビーカーを押す父親らしき男が、妻に小言を聞かされ口を尖らせていた。
去っていく親子の後ろ姿に、たまらず圭介は目を背ける。
流れる人と人の間に、水を力無く空へと伸ばす噴水を見た。
駅舎入口の上にある時計を確認すると、待ち合わせの時間から一時間以上も過ぎていた。
そもそも来るつもりもなかった。
なのに、気付けばここに来ていた。
幾筋にも交差して歩く人々を縫うように噴水へと進む。
途中で、肩が軽くぶつかり、舌打ちするのが聞こえた。一言謝ろうと顔を向けると、舌打ちした若者は、ヒッと脅えた声を上げて小走りで去っていった。
自分がどんな表情をしているのか、想像も出来なかった。
辿り着いた。
噴水は直径二メートルほどで、中央の柱の頂点と同心円状の八ヶ所から、水の線を上げていた。
周りに知った顔は無い。当然だ。
自分の顔を確かめたくて、揺れる水面を覗き込んだ。
ちょうど噴水が止まり、水面へ徐々に鏡像が浮かび出す。
ぽつん。
降ってきた雫が波紋を起こし、水鏡がまた揺れた。
見上げた空に、積乱雲が凄まじい勢いで膨らんでいく。入道雲とはよく言ったものだ。
急に暗くなった空に、雷鳴が響き渡った。
激しい雨が降り注ぎ、無数の水の糸が天地を結ぶ。
あれほどいた人々が蜘蛛の子を散らすように、歩道を打つ雨粒から逃げ出した。
圭介は噴水へ目を落とした。
強い雨を受けて泡立った水面は、沸騰したときのそれによく似ていた。
さらに勢いを増した雨が、視界を限りなくゼロへと変えていく。
どこかの軒下で雨宿りをしている誰かの嬌声が遠く聞こえた。
その声に混じって自分の名を呼ぶ声を耳にしたような気がする。
甘い幻聴を振り払い、圭介は約束の場所に背を向けた。
足取りが重く感じるのは、衣服が水を吸ったからだと、己自身に言い聞かせて。
「ちょっと、沙希! やめなさいよ! はずかしいでしょ!」
店のドアを開けて、雨の向こうに大声で呼び掛ける沙希の腕を良美が掴んだ。
「でも! いま、噴水のところに近衛くんが!」
すでに、豪雨のカーテンで外の風景はなにも見えない。
「はいはい、わかったわかった。ほら、他のお客さんのジャマになるから」
雨宿りのカップルがまた一組、ちょうど来店したところだった。
良美は「でも」とか「だって」とかぐずる沙希の肩を押して座席に戻る。
店内のざわめきに、なにあの子といった類のものがちらほら混じっているが、良美は気付かないフリをした。沙希は気付きもしなかった。
「んー。こっからだと見えなかったぞ、酉蕗?」
空のグラスを横に退け、お冷を飲みながら、林戸が怪訝な顔で答えた。
そこにトイレから遠藤が戻ってきた。
「何かあったのか?」
「あー、なんでもない。沙希の見間違いだから」
「見間違いなんかじゃないよ! あれは近衛くんだよ!」
「なんなら、おれが見てこようか? 店の人に事情を話せば傘くらい貸してくれるだろ」
遠藤のありがたい申し出をすげなく良美が却下する。
「いや、いいから。もしも、いたとしてもさ。こんなヒドい雨なんだから、もう走って、どっか行っちゃってるでしょ。フツー」
もう一度、沙希は窓の向こうの景色を見詰めた。
降りしきる雨の層は厚くなる一方で、先がまるで見通せない。
あの日、川に呑まれた二人は泣きながら一緒に帰った。
けれど、噴水に背を向けたあの後ろ姿が、雨の中に消えたとき、沙希はいいしれない不安を覚えた。
激流の内に、たった一人で消えてしまいそうな、そんな寂しげな背中だった。
部屋に着いた圭介は、濡れて身体に張り付くTシャツを背中から前に引っ張った。
べたつく衣服をその辺りに脱ぎ散らかして、手近な物へ着替える。
脱いだ物をまた拾い集めて、台所で絞った。水がシンクをぼとぼとと叩く。
よれたタオルで髪を拭きながら見ると、留守番電話に着信のランプが灯っている。
再生を押すと、一件だけ入っていた。
聞き終えて、タオルの下から窓を見る。
もう雨はあがり、たれこめた厚い雲間から、光が一条射していた。
あと三人。