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青春レイニィ

作者: 日向 葵

 水温は生ぬるい。日差しはあつい。

 真夏の真っ昼間、及川澪は制服姿のままプールにぼんやりと浮かんでいた。

 高校三年生に必修の夏期補修は正午丁度に終わった。十二時に鳴る市のチャイムが補講の終了を告げるとすぐ、澪は教室を出た。まだ誰も降りてこない玄関で靴を履き替える。それから何の迷いもなく目的の場所――――プールに向かった。持ち前の身体能力を活かしプールサイドに易々と忍びこむ。猛暑の熱気に焦がされ火傷しそうなアスファルトの上、履き馴らしたローファーと靴下だけを脱ぎ捨て水中に飛びこむ。いや、飛びこんだというよりは倒れこんだ。今は少しの力も体にこめたくなかったから。

 人魚姫みたい、と小さいころは散々もてはやされた塩素で茶色く脱色した髪をほどく。夏場はうっとうしいから一つにまとめるのが澪のスタイルだ。今日はこの豊富な毛量を一つに結び長いポニーテールを背中に垂らした。機能だけの黒いヘアゴムを外す。腰まで伸ばしに伸ばした長髪が水面に優雅にたゆたうよりも早く、澪は穏やかな波を一つたたせプカリと浮いた。

 夏本番。とても晴れ渡った日で当たり前だが太陽は眩しい。直視できず目を細めるが効果は現れなかった。死角となり、周囲の目を遮ぎるとなりの無人の体育館の影は短すぎて生憎とこちらまでは届かない。そんな正午だった。受験生にしてはあまりにも平和で、変哲の言葉も空気を読み影を潜めたのか、感傷に浸るには不似合いな青春の一ページだった。


「澪?」


 青く涼しげな空間に、突然割って入ってきたいち男子生徒の声。もはや聞き飽きたもので、すぐさま人物像が澪の脳裏に浮かんだ。


「……涼太」


 気だるげな声は、うだるような暑さのせいか、相手への不快感のせいか。ぶっきらぼうに、澪はここと外界を仕切る金網の向こうにいる部外者もといクラスメイト、一之瀬涼太の名前を口にした。

 答えを受け取って早々、涼太はフェンスに足をかけよじ登った。てっぺんにはおおげさに有刺鉄線が巡らされているが別段問題ではない。プールに隣接するように設置してある物置小屋(中には掃除道具や一輪車、コーンが保管されてある)の平坦な屋根に寄り道し、助走をつけて軽やかに障害物を飛び越えた。着地は見事成功したものの、独特のあの足の痛みに顔をしかめて涼太は近付く。水とコンクリの境界で涼太は歩みを止めた。水色なんて嘘、透明な水の中を覗きこむように上半身を前に傾ける。瞳孔の奥、視神経までも突き刺しそうな厳しい逆光で表情は明確に分からないが、澪の目には心なしか嬉しそうに映った。


「ここ、立ち入り禁止だよね? どうやって入ったのさ」

「涼太と同じ」


 きっと自分以上に軽々と、水だけのこの世界に飛びこんだのだろう。

見てもいないその姿を思い描き鳥のようだと涼太は惚れぼれした。普段の澪は魚そのものだからなおさらだ。バックは吸いこまれそうなくらい広く澄んだ夏空。シンプルな背景を切り裂くように長い手足を駆使し髪を空中に翻す鮮明で強烈なイメージが意図せずとも浮かぶ。同時に頬をだらしなく緩ませるのは俗に言う惚れた弱みか。涼太はずっと、スイミングだけに一途な澪のことが好きだった。幼馴染の特権で、小学生の時分から知っている澪の水泳への情熱にも負けない真っ直ぐな想いは、まだ伝えていない。

 澪はというと、仏頂面で浮遊したまま。不本意な侵入者に気温とは真逆の冷えた視線をチラとおくる。その取り付く島もない様子で、再び一心に青空を見つめ始めた。

快晴の日和に、白い入道雲と消し忘れの飛行機雲が一筋。ありふれた夏のワンシーン。無言を貫き、無表情を崩さず、澪は丁寧に景色を網膜に焼きつける。

 一人になりたいのだろう。なにしろあんなことの後のこの時期だ。ひたむきだった澪にとって辛くないわけがない。涼太は分かっていた。分かっていて、颯爽と強い意志を残し教室を立ち去った澪の背中を探し(といっても思い当たる場所はここ一ヶ所だ)、あえて名前を呼んだ。自分に何かできることがあると信じて。自分にしか、澪を元気づけられる人間はいないと呆れるほどの自惚れを纏って。


「いい天気だな」

「そうだね」

「にしても、あっちぃな」

「平気」

「……ブラ、透けてるぞー」

「いっぺんチカンで逮捕されてきて」


 他愛もないお喋りで涼太は健気にも澪の気を紛らそうと試みた。望み通り、澪は心底ばからしいと呆れかえった顔で水底に足をつけ全身をこちらに向ける。感情が一つも読みとれない能面より、例え軽蔑の眼差しを向けられようともこちらの方が何倍もマシだ。涼太は隠すことなく正直に笑みを零す。


「つーかさ。こうやって見ると、澪ってマジ人魚みたいだよな」


 しとどに濡れはするものの、体とは反対に水の中には沈まず無造作に広がる豊かな髪。その幾何学模様に囲まれた澪は、確かに童話に登場する人魚じみていた。実際、彼女は他の選手とは違い、大層な水しぶきと共に水音を激しくかき鳴らすのではなく至って静かに泳ぐ。広がる波紋だけが軌跡として残るかつての澪のフォームを見た人は、決まって海をものにする人魚を連想した。

 しかし悪意なく呟いた涼太なりの誉め言葉は、あろうことか澪にとって最大級の地雷と変貌する。


「……人魚が人間になれるなら、」

「うん?」

「あたしも魚になれるよね」

 

 ぽつり。まるで雨粒のように小さく小さく零れた、空想物語をなぞった叶いそうもない願望。それでもしっかり紡がれた音の波は静かに水面を駆け涼太の元にまで届いた。


「澪……」


 何が元気づけたいだ。夏の直射日光を反射し煌めく紛いものの海で一人孤独に漂う人魚の傍まで来て、結局は余計なことしか言えなかった。涼太は歯ぎしりする。何とかして早くにこの状況から抜け出さなければと直感で使命を理解し、焦燥感にどんどん追いたてられた。

強い日差しがちりちりと首筋を焼き、焦りをいたずらに煽る。


「魚になったって、つまんないと思うぜ? 海には何も無いし」


 ワザとおどけた調子でいつものように軽口をはたくも、どちらも傷ついた重苦しい雰囲気は変わりそうにない。


「海には全部あるよ。光も闇も水も酸素も土も、魚も哺乳類も月も星も」

「……太陽がねぇじゃん」


 潮の代わりに鼻につく独特なカルキの匂い。本物なら自由には泳ぐには狭く、四角い海を好む人魚姫が、澪だった。


 初夏の始め、澪は人魚の足を失ってしまった。いわゆる《不慮の事故》というありふれた出来事で。

 澪ご自慢の両足は故障し、日常生活に差し支えは無いものの、今やアイデンティティである水泳は不可能と診断された。

 その結果のダメージは今でも十分に響いている。本当なら、今日は高校生活最後の大会当日だった。実力はあり余るほどで、表彰台に登る可能性は高いと長年指導を受けもってくれたコーチの折り紙つきだった。もちろん目指すのはそのトップで、そのために毎日欠かさず努力を重ね、大歓声を浴びる今日を夢見てきた。その矢先のまさかの欠場。自分は今、会場ではなく学校のプールにいる。

 誰も予想の出来なかった運命に一番に愕然としたのは言うまでもなく澪本人だった。好きなものを奪われ、得意なものを失った澪の遣る瀬なさは計り知れない。一種の執着は捨てきれず、まだ未練を引きずっている。

 断ち切られた憧れの未来にもう何度目とも知れず焦がれ、思わず澪は泣き出しそうになった。悲しいのではない。悔しいのだ。解決の糸口すら見つけられず、己の非力さを思い知った。感情のコントロールもままならないほどに自分は幼いのだ、と。おまけに、付き合いのよい馴染に気を使わせ迷惑をかける始末。散々だ。

 情けない顔はいくら気の置けない相手にでも見せたくない、見られたくない。目頭の熱さを感知し、すかさず澪は俯いた。水面に投影された隠し切れない顔を、誤魔化すように風が吹き歪める。


「あたしを照らさない太陽なんて、いらない」


 こんなのはタチの悪い八つ当たりだ。澪は冷静に理解している。それでも、涙をこらえるには誰かのせいにするしかなかった。

 痛いほど心得ていた。太陽は誰にでもずっと平等にひかりを注ぐ事実を。それでも輝けないのは、他でもない自分自身が磨き方を忘れた宝石だから。

 風が止み、視界を埋めつくす凪いだ水鏡にもう一人の自分が写りこむ。眉尻を下げ口を真一文字に結び、気を抜けばすぐにでも零れそうな嗚咽を必死に漏らすまいと耐える姿が。

 夏がね、弦のようにピンと張りつめて、それでいて切れそうなくらい細い声で伝える。塩素剤の溶けた海はただ静かに、泳げない人魚を包んでいた。


「終わらないんだ……っ、ど、しよ、涼太ぁ……」


 ほとんど涙声が、澪の思いの切実さを正確に表現していた。

 澪にとって夏は、太陽を真上に蝉時雨も追いつけない無音の世界への潜水に満足してから終わるものだった。その季節が来ないまま、暦は次へと急いていく。夏休みも塾の冷房も机の上に積み重なるだけで手つかずの参考書も何も澪に夏を教えてくれないまま。全てが澪にとっては無意味で空虚な、中身を伴わない記号だった。


 豪快な音が響いたかと思うと、すぐ真横に盛大な水柱が立つ。しぶきが頭上からパラパラと降り、持ちこたえた涙の代わりに伏せて髪の貼りつく澪の頬にかかった。見ると靴を脱いだだけの涼太が、同じ土俵に登場している。頭まで全身プールに沈めてから息つぎ一つ、制服を水びだしにして顔を出した。


「澪が魚になれるなら、」


 こちらをしっかり見据えているのが視線を上げずとも声のベクトルで分かる。どこかで耳にしたようなセリフに、涼太がどう続けるのか澪には見当がつかなかった。


「おれも王子になれるよな」


 ぱちくり。目を二、三回瞬きさせ、思わずばっと顔を向かい合わせる。ハトが豆鉄砲食らったような顔つきを普段と違って茶化すことなく、涼太は逸らさず見つめ返した。


「……ぷろぽーず?」

「ばっ、何でそうなんだよ! 告白だよ、こ・く・は・く!」


 一気に照れが回ったのか、赤ら顔で反論する。荒らげた声は勢いとは反対にどこか優しさを帯びていた。


「……ダメだよ」


 諸手でカルキ臭い水を掬い涼太の方へ放る。不意打ちにたじろいだのを見届けてから、底を蹴りスイと水面を背にした。夏空は背景と同じ色をしている。


「人魚姫は、恋をしたら泡になっちゃうから」


 弱々しい微笑み一つ、負担にならない程度に足で水をやわらかく弾き背泳ぎする澪。ゆらりと遠ざかっていく姿は近くて遠く、まるで真夏の蜃気楼のようだ。

 久方ぶりに目にした微笑は、悲恋物語のヒロインよろしく儚いもので。当分終わりそうにない夏を二人は予感した。

実際一度で良いから学校のプールに制服姿で忍び込んでみたいですよね。そんな強者を知っていますが。(何を隠そう私の妹だったりします。はしゃぎすぎて制服のリボン無くして帰ってきました)


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今後の文芸部の活動での参考にさせていただきます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 他の人が出したのと大抵一緒ですね。 やっぱり情景描写が素晴らしいです。 後は言葉選びも良いと思いました。随所で、そう来たか!と思わされました。 [気になる点] こちらも他の人がもう既…
[良い点] 他の人も挙げていましたけど、描写が綺麗です。脳に強烈に焼きつく。 すごいなぁ、と素直に思います。 [気になる点] <受験生にしてはあまりにも平和で、変哲の言葉も空気を読み影を潜めたのか、…
[良い点] 抜けるような空が、作品の背景に、当然の様に作品のある点。 [気になる点] 台詞の違いがわかりずらい。しかしそれが独り遊びの様でおもしろい。 [一言] ハンディキャップと自分と、他者という鏡…
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