永遠の野原1
小さな町を見下ろす丘の上に立てば、風の掌が絶え間なく草の海に細波を刻む様子が眼に映る。
特に《風の辻》と呼ばれるこの丘は一年中風が途切れる事が無い。
町を囲む七つの丘の一つで、丘の天辺には古いトネリコの木がぽつんと一本立っているだけ。
他には何もない。
滅多に人も来ない。
ただ風だけが飄々と梢を鳴らして往く。
その丘の中腹で麦穂色の癖毛がふわりと揺れた。
風が吹く度、中途半端な長さの髪が顔にかかるのを煩わしそうに払いのけながら、しゃがみこんで何かに熱中している少年がいる。
「白露草に緋扇薊、蜜芹と……。これでいいかー、あっ!やったー!蔓莓が大豊作~」
春も盛りの花月。
緑の丘陵は様々な色の草花で埋め尽くされる。
野草の中にはそのまま食用にしたり香草として料理に使われる物も多く、この時期どこでもよく採れる。
少年の脇に置かれた採取籠の中は既に摘まれた野草でいっぱいだったが、新たに発見した小さな赤い果実はよほど魅力的だったらしく、器用に両角を結んだ布切れに嬉々として放り込んでゆく。
蔓莓に夢中になるあまり手元に気を取られ、いつしか頂上に近付き過ぎているのにも気付かずに。
『ゴチン』
と、突然額を鈍い衝撃に見舞われ少年は盛大に尻餅をついた。
「いったぁ~…。うう…いったい何…?」
涙眼で額をさすりながら前を見ると、ほぼ自分と同じ体勢で尻餅をついている相手がいた。
「わっ、ごめんなさい!僕ちっとも前見てなくて」
「いえいえ、こちらこそ申し訳ないです。珍しい薬草を見つけたものでつい…夢中になり過ぎました。君、怪我はありませんでしたか?」
「へーき。お兄さんこそタンコブできなかった?」
屈託の無い笑顔を返されて、青年はほっと安堵の溜め息を落とした。
その額と額で挨拶を交わす羽目をなった青年は、少年がいままで町で見かけたことのない、全くの初対面の相手だった。
歳の頃は二十歳を幾つか過ぎたあたり。
さぞかし年頃の娘達に受けが良かろうと思われる端正な顔立ちは、どちらかといえば女性的な部類の容貌で、長い黒髪を後ろで複雑な形に結い上げている。
これでこの上背と肩幅さえ無ければ、すらりとした柳腰の美女で通ること間違いなしだ。
一度見たら忘れないタイプの人だなぁ、と少年は内心密かに感心した。
青年は几帳面なようで、立ち上がるとすぐに衣服に付いた埃を払い、乱れた襟元や眼鏡をキッチリと整えて姿勢を正した。
「私はクロエといいます。――君は?」
「リトだよ」
何かに熱中してすぐ周りが見えなくなるのは自分の悪い癖だ。
大事な使いの最中に他に気を取られて用件を忘れたり、昇級試験の前日に読みかけの本に没頭してテストをすっぽかしたり。
もういい年齢の大人だというのに。まさかこんな野っ原にいてまで何かに気を取られようとは。
「お兄さん?どうかしたの?」
我知らずガックリと肩を落とした青年を気遣って、少年が顔を覗き込むように近付いてくる。
明るい空色の眼がくるくると実によく動いて、栗鼠のような小動物を連想させられる。
「具合悪いならウチで休んでく?少し歩くけど宿屋だから寝台が使えるよ」
「……大丈夫ですよ。なんというか少々精神的にヘコんだだけなので」
「ふぅん?」
人っ子一人いないと思っていた場所で、不覚にもお互い頭突きをくらうまで相手に気が付かったなんて。
「この辺りに人里があるとは知りませんでした。地図にも載っていませんでしたし」
「―――え」
クロエが発した言葉に少年は何故か目を丸くして言葉を詰まらせる。
「………お兄さん、ちなみにこの丘どっちから登って来たの?」
「ああ、あちらの――――」
と青年が指差す方角を見て少年は今度こそ目を剥いた。
「外側から……!?」
自分の用事はもう足りたからと、すぐにもその場を立ち去りそうな様子の青年の腕を取り、少年は待ったをかけた。
「危ないから!ちょっと待ってお兄さん!」
「は?」
いきなり腕にしがみつかれた青年のほうは、訳が解らず怪訝そうな表情で首を傾げた。
「えぇっと、こーゆー場合は誰に……そっか、フューシャだ!」
「リト君?」
「あのねお兄さん、この丘魔法がかかってるからふつーには行き来出来ないんだ。専用の門があるからそっち行こ?」
何やら奇妙な方向に話が転がり始めたようだった。
そもそも自分がこんな所にいるのは、ほんの少しの寄り道のつもりだったからだ。
利用していた乗り合い馬車が故障して、修理の間の時間潰しにそこらを散策していただけなのだが。
知り合ったこの少年曰く、こちら側から丘を下るのは危険なのだという。
どこら辺が危険なのかはよく解らないが、確かにいくらも移動した覚えが無いにも関わらず自分が乗って来た筈の馬車が何処にも見当たらない。
これだけ視界の開けた場所だというのに確かに変だ。
滅多に無いんだよ、と少年が笑う。
外側からの来訪者はごく稀らしい。
門を管理している人物に会う必要があるからと、案内も兼ねて少年が同行してくれる事になり、道中他愛もない話を交わしながらの移動となった。
「リト君は幾つなんですか?」
「13になったとこ。お兄さんは何してる人なの?」
「学者のようなものです。まだ半人前ですけどね」
「スゴイよ!僕、本を開くと眠くなってダメなんだ~。勉強苦手」
不思議な事に、子供の相手があまり得意な方ではなかったはずの自分が、この少年をさほど苦にしていない事実に気付いて軽い驚きを覚えた。
相手の雰囲気のせいだろうか。
ふわふわと天然な口調には、子供にありがちな自分の興味優先のけたたましさがない。
おかげでのんびりと周りの景色を楽しむ余裕さえある。
絶え間なく吹き付ける風が草の海を揺らす度、ざぁ、と波が生まれ潮騒にも似た音を響かせる。
「まるで細波のようですね……」
「―――久々に聞く感想だ」
思わず口から溢れた言葉に、突然第三者からの返しがあった。
それもごく近くで。
「――あなたは?」
「探していたのはそちらだと思うが?」
「え……」
余りの意外さに一瞬言葉に詰まった。
「フューシャ!これから行くとこだったんだよ」
「ああ、聴こえた」
少年が安堵の表情を見せたところから、目の前の人物が件の《管理人》であるのは間違いないようだ。
いきなり現れた管理人の姿があまりにも予想外だったため、反応に困って固まり気味なのは仕方がないだろう。
「……もしかしてリト君の彼女とかですか?」
見た目の(年頃の)釣り合いが取れているだけに、そう思われても仕方の無い組み合わせではあるだろう。
管理人はリト少年と同年代の少女、しかも人間の美醜に疎い自分ですらそれと判る器量良し。
ところがこの発言を聞いたリトは、世にも恐ろしい事を聞いたと言わんばかりの顔で、
「あ…あり得ないから!」
と完全否定した。
ちょこっと時間経過。リトが育ちました。新顔もいます。