リップサービス
~1~
俯せに漂えば目には何も映らず、仰向けに漂えば僅かに揺らぐ光だけが目に映る。僕はずっとそんな世界で生きてきた。深い深い海の底では僕と海意外になにもない。手を前に出したところで水を掻くだけ。触れるものは何もない。まぶたを閉じて眠り、まぶたを開けて起きる、それだけの生活。
どうして自分は生まれたのか、どこから来たのか、なんのために生きているのか、そんな哲学的な事も考えたりはしたけれども、それももう飽きてしまった。考える事すらなくなってしまった。それだけの長い時間を、僕はずっと漂いながら生きてきたのだ。
~2~
僅かな大きな音で目を覚ました。耳に届いた音は僅かな音だけれど、ここまで聞こえてきたのだから大きな音に違いない。
俯せにしていた体を仰向けにして天を仰ぐと、点が見えた。小さな太陽の光の中で水面付近を何かが漂っているようだった。点がこの海に落ちてきたらしい。久しぶりに体をお越して海面へ向かうよう水を蹴ると、体はなんの抵抗もなくすうっと水面へ向かっていく。
点は次第に大きくなり、形もはっきりと見えるようになった。点であった彼女は意識を失っていて、ゆっくりとその体を海へ沈めている。僕ですら行った事のない、深海へ。
彼女を助けるために僕はその体を抱きかかえて海面を突き破る。久しぶりに出た外は眩しくて目を細めた。次第にその光にも慣れて瞳を開けると彼女は僕の腕の中でぐったりとしてしまっている。目は閉じられ唇も青く、背中の翼は羽が抜けて折れ曲がり当分は飛べそうにない。僕は急いで彼女の体を近くの小さな孤島まで運ぶ。その孤島はヤシの木が6本と、島の真ん中にある小さな湧き水の池から川が続き、海へ繋がっているだけの本当に狭い孤島。僕はできるだけ狭い島に彼女を運びたかった。なぜだか良く分からないけれど、僕の世界がこの海であるように、彼女の世界もこの島にしてしまいたかった。
陸に彼女の体を横たえ、そのまま海へ引き返す。初めて触れる他者の感触に僕の胸は躍動していた。僕の海に初めて訪れた彼女に、僕は今までにないほど緊張して、今までにない奇妙な感情を抱いていた。すべてに飽きてしまった僕の海に新しいものが加わり、止まっていた時間が再び動き出したように感じられた。
彼女はそのきれいな髪にかわいらしい花形の髪飾りを付けていた。なんだかそれがとても印象的で、僕は目を離せなくなてしまった。
~3~
孤島の周りをぐるりと一周して貝や海草を集める。それらを彼女の眠る陸地へ置き、再び海へ潜った。今度は魚を捕まえる。青い魚、黒い魚、金色に輝く魚、目を離した隙に色が変わる魚、大きい魚、小さい魚、膨れる魚、しぼむ魚、威嚇をする魚に一目散に逃げ出す魚。いろいろな種類の魚を捕まえては彼女のいる陸地に置いていった。
また魚を置きに陸へ戻ると、彼女は目を覚ましていた。僕は海面を破る直前でどうにか止まり、慌ててまた距離を取るために潜る。水中から見る彼女はゆらゆらと揺れていて表情がはっきりと見えないが、笑っているようには思えない。何かを叫んでいる。僕も叫ぶことはできるけれど、これをコミュニケーションに使った事はない。コミュニケーションをする相手が居たことなんてなかったから。
誰もいないと思ったのか、彼女は叫ぶ事をやめて地面に座り込んでしまった。そこで僕が集めてきた海草や魚に気づいたらしく、再び辺りをきょろきょろとする。
「誰かいるのですか」
再び彼女は声を発する。しかし僕には意味などわからない。喉から出てくるこの音になにか使い道があるのか今まではわからなかったが、彼女を見る限り、特定の音を発することで他者に自らの考えを伝える手段のようだ。
少し怯える彼女の声が痛々しい。それにしてもなんてきれいな声なんだろう。こんなにきれいな音を僕は聴いたことない。海のさざなみも、ヤシの木のささやきも、魚が海面を跳ねる演奏も、こんなにきれいな音ではない。もちろん、僕の声も。
僕は胸の辺りがぎゅうっと締め付けられるような苦しい感覚に陥り、どうにかこの苦しみから抜け出そうと、気が付けば孤島を離れてしまっていた。
~4~
それから僕は彼女が眠っている間に食べ物や流木を彼女の島へ運んだ。彼女は僕が運んだ流木を乾かして火を起こし、魚を焼いて、水を蒸発させて塩を作った。
「ねえ、誰かいるのでしょう? きっとあなたが私を助けてくれて、こんなに良くしてくれているのね、会いたいな」
彼女は時々なにかを言うのだけれど、彼女の言葉が僕にはなにもわからない。彼女と会話ができたなら、どれだけ楽しいだろうか。しかし彼女を見る限り、その背中に付いている羽は空の証拠。海の僕を見たらきと気持ち悪いと思われてしまうだろう。
僕は顔を出す勇気なんて無いけれど、彼女のそばを離れる事ができなかった。
~5~
その日は嵐だった。強い風が吹いていて海は荒れ、雷が轟いて様々な漂流物が襲ってくる。しかしいつものように海のずっと下の方へ行けば外の嵐なんて関係ない。きっと今までの僕ならそうしていただろうけれど、今日は彼女の事が心配でずっと孤島に張り付いていた。
彼女はヤシの木に必死に掴まってどうにか耐えている状態で、僕が運んだ海草や魚もとっくにどこかへ飛んでいってしまったらしく、どこにも見当たらない。
嵐はいよいよ強くなり、彼女はついにヤシの木から手を話してしまった。彼女の体は軽々と宙を舞い、数日前と同じように海の中へ落ちてくる。もがき苦しみどんどん沈んでいく彼女の体。
僕は水を蹴って彼女の方へ向かった。その体をそっと大切に包み込み、海面へ連れていく。そして陸地へ押し上げてまたヤシの木にしっかりと手を回させ、僕は海に帰る。
「待って! あなたが私を助けてくれたの?」
彼女の言葉がわかったら本当に良いと思う。でも僕にはわからない。一回だけ彼女を振り返って、僕は海に体を沈めた。その後、嵐はすぐに収まっていった。
~6~
貝や魚が嵐で飛ばされてしまったため、僕はその分たくさんの食料をとって彼女の島へ向かった。しかし彼女は起きていた。僕は外へ出ようかどうしようか悩んだ。しかし、もう嵐のあの日にこの姿を見られてしまったのだから、どうしようもないのかもしれない。それなら隠れる必要もないのではないか。きっともう気持ち悪いと思われてしまっている。
外に顔を出すと、彼女は驚いたような表情でこちらを向いた。驚いてはいるが、その瞳に怯えは見当たらなくて少し安心する。
「あなた、嵐の時の」
僕は貝や海草を置いてさっさときびすを返す。
「待って!」
彼女は僕になにかを言っていたけれど、振り向かないで海へとまた戻った。
~7~
僕は彼女が起きていても魚屋流木を運ぶようにした。時間を気にしなくても良いというのはこちらとしても楽だから。
「いつもありがとう」
彼女は笑顔で僕に声をかけてくれる。気持ち悪いと思われていないのかなと、考えなかたこともない。しかしそんなはずはない。だって、彼女は空で、僕は海なのだから。しかし、彼女の笑顔は優しくて、僕はずっとそれを見ていたいと思うようになっていた。だから、彼女にどう思われていようと貝や魚を運び続ける。
~8~
「ねえ、少しこっちに来ない?」
彼女は島の縁に座ってこちらに手を伸ばしてきた。にこりと笑っている。僕はゆっくりと、おそるおそるその手を握り返した。すると彼女の笑顔はいっそう深くなって、その手を引かれる。水にのって僕の体は陸に打ち上げられた。
「ずっと、ずっとありがとう」
そうやって何かを言う彼女は僕の体をその両手で優しく包み込んでくれる。体の中心がどきどきとうるさいくらい鳴り響いて息が苦しくなってきた。彼女は本王に僕を気持ち悪いと思っているのだろうか、もしかしたら、もしかしたら、そうではないのだろうか。
暖かくて、ずっとこうしていたいと思った。でも彼女は空手、僕は海。現実は童話じゃないから、魔女に頼んで声と引き換えに翼をもらえるなんて事もない。僕が空になれたらどれだけいいだろう。きっと彼女は翼が治ったらどこかへ飛んでいってしまう。そして僕はまた独りで海の中に沈むだけの生活に戻る。この胸の苦しみもどきどきも、暖かさも全て消えてしまう。
気がついたら僕は彼女に包まれ、瞳から雫をこぼしてしまっていた。ずっと昔に感じた苦しみに似ている。魚たちはおんなじ仲間が一緒にいるのに、どうして僕には一緒に居てくれるおんなじ仲間がいないの? せっかく現れた彼女は空、僕は彼女を追う事すらできないのだ。
「どうして泣いているの? ごめんなさい、苦しかったのかな」
彼女は僕を離してくれる。両手で雫をぬぐい去り、海へと飛び込む。僕は彼女を失いたくない。
~9~
僕は言葉を知らない。それでも僕は必死に心を伝える。「かわいい」「きれい」「うつくしい」彼女の言葉でなんて言うのかわからないけれど、僕はそれらを必死に伝えようとした。しかしそれらの大半はリップサービスだ。彼女の声は美しいし大きな翼はきれいだけれど、彼女自信は美しくないしかわいくないしきれいじゃない。けれどそんな事はどうでもいい。うわべのものより僕は彼女自身を欲しいのだ。ただ、偽りじゃない思いもたくさんある。
「きみはやさしくて僕はだいすきだよ」
これはリップサービスじゃない。本音だ。
「ごめんね、あなたの言葉がわからないの。でも、私はあなたが大好きよ」
僕が何かを言えば彼女も何かを言い返してくれる。僕たちは言葉なんかなくてもどうにか意思が通っているような気がした。思い込みかもしれない。やはり彼女は僕の事を気持ち悪いとおもっているのかもしれない。それでも僕は彼女のそばにいられるだけで嬉しくて、嬉しくて何度も雫をこぼした。いつかは飛んでいってしまう彼女を思えば思うほど、今までに無いくらい胸が苦しくなって、このまま息が詰まり深海に沈んでしまうのではないかお思うほど。
僕はずっと彼女のそばに居たい。離れたくない。離れてほしくない。翼なんて、一生なおらなければいいのに。自分勝手な事はわかっているが、僕は毎晩のようにそう考えては雫を流していた。
彼女がそばに居てくれるのなら、彼女が彼女じゃなくても、一緒にいてくれるのなら、空じゃなくても、それでいい。いっそのこと、彼女のあのきれいでうつくしい翼をちぎってしまおうか。そうすれば彼女はずっとこの孤島で僕のそばにいてくれる。
しかしそんなこと、僕にはできない。
~10~
彼女は大きく翼を広げて満面の笑みを向けてくる。
「ねえ見て、もう痛くないの。これなら飛べるわ」
きっと翼が治ったのだ。何度かばさばさと羽ばたかせては自慢するようにくるくると回る。やはりその姿はきれいで、ちぎらなくて良かったと心の底から思った。
「一度、家に帰るわね。でもまたすぐに戻ってくるから安心して。絶対にあなたを独りにはしないわ」
彼女が何かを言って手を差し伸べてくる。最後の挨拶なのか。僕は彼女の手を、とる。初めて彼女の手を握ったあの時みたいにゆっくりと、おそるおそる。
彼女が行ってしまうと思うと、胸がまた苦しくなって息ができず、瞳からはとめどなく雫が流れ続け、嗚咽をかみ殺そうとすればするほど、動悸がはげしくなって、目眩がして、頭痛がして、目の前の彼女の顔が揺らぐ。
「泣かないで。お別れじゃないの。絶対に戻ってくるから、ね?」
彼女の声は優しい。とっても優しい。暖かい。ずっと聴いていたい。きれい。どこにも行かないで。僕は、君がいないとまた暗い海に沈むんだ。
~11~
僕は、握り返した彼女の手を引いていた。あの時とは逆に、僕が彼女を海に引きずり込んでしまっていた。その体を少しずつ沈めていく。現実は童話じゃないから海の中では息ができずに彼女はもがき苦しむ。こんな彼女の姿は見たくなかった。それでも仕方がないんだ。僕の海に降ってきたきみがいけない。
僕は彼女の体を強く抱きしめる。すると彼女は抵抗をやめ、僕の唇に自らのそれをそっと重ね合わせる。暖かくて、もう早く終わってくれればいいと思った。
僕は彼女を離す。彼女はこちらを少しだけ見つめ、海面へ泳いでいった。僕はそのまま体を沈めていく。彼女は外で息を吸うとまた海の中を覗いているようだったけれど、その後、すぐに空へと戻っていった。飛び立つ彼女が広げた翼は、僕の視界から太陽の光を奪う。
さようなら。
~12~
現実は童話じゃないから、深海ではなにも見えない。しかしその分、他の感覚が研ぎ澄まされている。僅かな水の振動を感じて手を上へ伸ばすと、何かが触れた。僕はそれをそっと両手で包む。花の形をしていた。暖かい。僕はそれをそっと自分の髪に付ける。似合わないと笑われてしまうかもしれない。それでもかまわない。僕はこの髪飾りと一緒にもっともっと深い海底へと向かう。きっとこの髪飾りは、君から僕へのリップサービス。どうか、きみがもう二度と事故で海に落ちませんように。
僕は心から願うよ。
END.
最後まで読んでくださりありがとうございました。童話封の文章を目指してみましたが、いかがだったでしょうか? 少しでも皆様の心に残れたら幸いです。