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悪役令嬢の蘇生劇 〜二十一回死んだので、女神様も犯人も扇で制裁いたします〜

作者: 篠瀬
掲載日:2026/06/22



「暖炉は初めてね」


 白い空間で目を開けて、エルヴィラ・ローデンベルクはまずそう言った。


 指先は動く。痛みもない。髪もドレスも焦げていない。つい先ほどまで自室の暖炉が爆ぜ、壁が鳴り、窓硝子が砕け、視界が赤く焼けたはずなのに、今はいつも通りの姿で白い床に座っている。


 つまり、また死んだ。


「あのぉ、物語が始まる前に死なれると困るんですぅ……」


 白い空間の向こうで、女神が半泣きになっていた。


 薄荷色の髪。白い衣。背後に揺れる、頼りない真珠色の光。そこまでは女神らしい。けれど両手を胸の前で握りしめ、今にも泣き出しそうに震えている様子は、神というより、提出期限を過ぎた書類を抱えた下級官吏に近かった。


 神々しさにも、向き不向きがあるらしい。


「こっちの台詞ですわ。何回目?」

「二十一回目ですぅ。死にすぎですぅ」

「わたくしのせいみたいに言わないでくださる?」


 エルヴィラは白い床に座ったまま、乱れもしていないドレスの裾を整えた。


 最初は池だった。


 幼い頃、庭の池に落ちた。次は高熱。その次は落馬。その後は落雷。猫を助けようとして首を折ったこともある。猫は無事だった。


 昔は不運だった。けれど最近は、少し違う。


 紅茶。薬湯。階段。馬車。そして今回は暖炉である。


 紅茶を避ければ薬湯が来る。薬湯を捨てれば階段が待つ。階段を使わなければ馬車が壊れ、馬車に乗らなければ暖炉が爆ぜた。


 ずいぶん熱心な不運だった。もう少し遠慮というものを覚えてほしい。


「あなた、犯人をご存じなのではなくて?」

「ええとぉ……」

「知っているのね」


 女神の視線が、頼りない真珠色の光ごと斜めに逃げた。


 神に目を逸らされる経験はあまりない。そもそも神に会う経験自体、普通はあまりない。だが二十一回も死んでいると、そのあたりの感動はだいぶ薄れる。


「見えてはいますぅ」

「では言いなさい」

「神様制度上、教えられないんですぅ」


 エルヴィラは黙った。女神も黙った。

 白い空間に、ありがたみのない沈黙が落ちる。


「神様制度」

「はいぃ」

「悪役令嬢とヒロインの物語が見たいからと、わたくしを二十一回も蘇生しているのに?」

「そ、それは神界で流行っていてぇ……てへっ」

「娯楽は制度の外なのね」

「言い方が怖いですぅ」

「便利な制度ですこと」


 エルヴィラは近くに置いてあった扇を拾った。

 なぜ白い空間に扇があるのかは知らない。だが、あるなら使う。悪役令嬢とはそういうものだ。


「では、死なない加護は?」

「ありますぅ」

「付けなさい」

「そのぉ……女神ポイントが足りなくてぇ」


 女神ポイント。神に予算。あってはならない言葉の並びだった。


 ぱぁん。


「あいたぁっ!」


 扇が女神の額で軽く鳴った。


「神を叩きましたぁ!」

「扇ですわ。叩いたのではなく、鳴らしただけです」

「私の額で鳴りましたぁ!」


 女神が額を押さえて、白い床の上で小さくなった。背後の光まで少ししぼんで見える。便利な光である。


「次は、もう少し役に立ってくださる?」

「努力しますぅ……」

「期待しないでおきますわ」


 白い空間が揺れた。戻る合図だ。


 次に目を開けると、自室の天蓋が見えた。

 薔薇模様の壁紙。絹のカーテン。焼け焦げていない暖炉。窓辺には朝の光。また、あの朝である。


 エルヴィラは上体を起こし、まず暖炉を見た。火は入っていない。薪もまだ積まれていない。


 よろしい。


「お嬢様。お目覚めでしょうか」


 扉の向こうから、メリナの声がした。

 柔らかく、慎ましく、いつも通りに優しい声。二十一回目の朝でも、少しも乱れない。


 それはそれで、たいしたものだった。


「ええ。入ってちょうだい」


 扉が開き、メリナが朝の礼をする。

 伏せた睫毛。きちんと揃えた指先。こちらを案じるように落とされた声。どこから見ても、忠実な侍女である。


 どこから見ても、という言葉はだいたい信用ならない。


「お加減はいかがですか」

「悪くないわ」

「奥様が、お嬢様は近頃お疲れのご様子だからと。薬湯を」

「いらないわ」


 返事が早すぎたのだろう。メリナの指が、盆の縁でほんの少しだけ止まった。


「……お飲みになりませんか」

「苦いもの」


 エルヴィラは鏡台の前に座り、鏡越しにメリナを見た。

 柔らかな侍女は、柔らかなまま微笑んでいる。けれど、薬湯を載せた盆だけが、わずかに重たそうだった。


「それから、暖炉には触れないで。紅茶も今朝はいらないわ」

「はい」


 返事は完璧だった。完璧な返事ほど、中身が見えにくい。


 誰かを疑うたび、別の死に方がやってきた。


 紅茶を避ければ薬湯。薬湯を捨てれば階段。階段を使わなければ馬車。馬車に乗らなければ暖炉。たいへん忙しい人生である。


 エルヴィラは鏡の前で微笑んだ。悪役令嬢には、悪役令嬢のやり方がある。


 午前のうちに、エルヴィラは地下書庫へ向かった。


 女神様は役に立たない。


 犯人は教えられない。死なない加護は女神ポイントが足りない。制度は便利に働かず、娯楽だけは神界で流行っている。なんとも腹立たしい。


 ならば、女神様の知らない札を引くしかない。


 神の制度が犯人を隠すなら、制度の外から手を伸ばす。証拠でも、記憶でも、傷でもいい。次の朝に何かひとつ持ち越せるものがあれば、この熱心すぎる不運にも綻びができる。


 神が駄目なら悪魔。公平である。


 ローデンベルク公爵家の地下書庫には、幸いにも悪魔召喚の禁書があった。幸いと言っていいのかは分からない。だが、あった。名門貴族の地下には、だいたい先祖の罪と埃とろくでもない本が眠っている。


 これで女神様をぎゃふんと言わせてやりますわ。よい目標ができた。



 午後、アレクシス・グランヴェル殿下が来た。


 第二王子であり、エルヴィラの婚約者である。金の髪はいつも通り整えられ、青い瞳は落ち着いている。王子らしく、礼儀正しく、よく見ている人だった。


 つまり、早く帰したい日に来られると少し面倒な人でもある。


 今日の用件は、王宮へ提出する婚約関係の書類確認だった。婚約者としては大切な用件である。悪魔召喚の前には、少し不向きだった。


「急いでいる?」


 アレクシスは書類に視線を落としたまま言った。


 青い瞳がこちらを見ていない分、余計にごまかしにくい。彼はいつも、見ていないふりをしている時ほど見ている。


「いいえ」

「そうかな」


 彼の指先が、まだ説明していない欄の上で止まった。


 その横には、すでにエルヴィラが揃えた書類がある。封蝋の向きも、記入欄の順番も、控えまで整っていた。急いでいない人間の仕事ではない。


「殿下のご説明が分かりやすいので、早く進んでいるだけですわ」

「私はまだ、ここまで説明していない」

「あら」


 エルヴィラは扇で口元を隠した。


「わたくし、几帳面ですの」

「君は急いでいる時ほど、几帳面なふりをする」

「殿下は、わたくしを見すぎですわ」

「婚約者だからね」

「便利なお言葉ですこと」


 実際、悪いことはこれからする。


 悪魔召喚だ。


 淑女の予定としては、かなり悪い。


 アレクシスはしばらく、書類ではなくエルヴィラを見ていた。青い瞳は穏やかで、けれど扉の前に立たれた時のような逃げ道のなさがある。


「その秘密は、今日でなければならない?」

「できれば、今日のうちに」


 エルヴィラは笑った。


 全部は言わない。


 言えば、殿下は止める。止められると面倒である。女神様をぎゃふんと言わせる予定に、婚約者の常識を混ぜてはいけない。


「今日はここまでにいたしましょう」

「もう?」

「はい」

「いつもより早い」

「そういう日もありますわ」


 エルヴィラは書類を揃え、控えを重ね、何もおかしくない顔で立ち上がった。


 アレクシスはまだ座っている。


 視線だけが、机の上からエルヴィラの手元へ移った。指先に、小さな黒い汚れがついている。地下書庫の埃だ。令嬢の指には少し不似合いな色だった。


 エルヴィラは何食わぬ顔で手袋を直した。


「殿下。玄関までお見送りいたします」

「今日はずいぶん丁寧だ」

「いつも丁寧ですわ」

「そうだね。今日は、特に」


 面倒な婚約者である。けれど彼は、最後まで問い詰めなかった。


 玄関先でアレクシスは一度だけ振り返った。金の髪が午後の光を受けて、少し眩しい。


「エルヴィラ」

「はい」

「無茶はしないように」

「まあ。わたくしを何だと思っていらっしゃるの」

「無茶をする人」

「失礼ですわ」


 事実である。


 エルヴィラは微笑んで、彼を見送った。


 これでよし。殿下は帰った。暖炉には触れさせなかった。薬湯も飲んでいない。紅茶も断った。予定も早めに終わらせた。


 あとは、女神様が知らない札を引くだけ。


   *


 夕方、エルヴィラは小礼拝室で悪魔を呼んだ。


 祈るための部屋で悪魔を呼ぶのは、用途として少し間違っている。けれど神があの調子なのだから、礼拝室もそろそろ別の働き口を探していい頃だった。


 床には銀粉の線。中央には黒曜石。周囲には禁書に書いてあったものを、それらしく並べた。細部は大切である。たぶん。


「闇に棲まう者よ。契約を知る者よ。神の目の届かぬ場所より、わたくしの前に姿を現しなさい」


 銀粉の線が光った。いける。


 女神様、見ていらっしゃるかしら。これが、使えない神に頼らない悪役令嬢の実行力ですわ。


 そう思った瞬間、召喚陣が赤く弾けた。


「……あら」


 違ったらしい。


 黒い炎が噴き上がった。床を舐め、壁を這い、礼拝室の天井まで一気に黒く染めていく。勢いだけは十分な炎である。呼んだ悪魔より先に、炎だけがやる気を出してしまったらしい。


 悪魔召喚で死ぬのは初めてだ。


 女神様をぎゃふんと言わせる前に、こちらがぎゃふんと言う可能性が出てきた。


 その時、扉が乱暴に開いた。


「エルヴィラ!」


 帰したはずの婚約者が、黒い炎の向こうに立っていた。


 金の髪が火の色を受けて、ひどく明るく見える。青い瞳は、もう落ち着いていなかった。


「何をしている!」

「悪魔召喚ですわ」

「悪魔、召喚」

「ええ。まあ、ご覧の通り、失敗のようですけれど」


 足元の召喚陣は崩れ、銀粉は炎に呑まれている。裾を摘まんで礼をする余裕はなさそうだった。


 アレクシスが踏み出す。


「来ないで」

「大丈夫ですわ、殿下」

「大丈夫なわけがない!」

「大丈夫です。わたくしだけなら」


 黒い炎が肩口を呑んだ。


 熱い。痛い。息がしにくい。それでも、まだ話せる。


 アレクシスは何かを叫んでいた。声は炎に揺れて、よく聞こえない。ただ、こちらへ伸ばされた手だけが見える。


 困った人だ。


 燃えているのはエルヴィラで、殿下ではないのに。


「心配なさらないで、殿下」


 声が少し掠れた。黒い炎が視界の端を塗りつぶしていく。


「どうせ、また朝になりますわ」

「何を……」

「ええ。すぐにまた会えます」


 だって、そういうことになっている。


 二十一回死んで、二十一回戻された。女神様は役に立たないが、朝だけは律儀に寄越す。なら、二十二回目も同じだろう。


 エルヴィラは微笑んだ。


「ですから、ごきげんよう」


 殿下の声が、黒い炎に呑まれた。


 次に目を開けた時、白い空間の床に女神が座り込んでいた。


 薄荷色の髪が、いつもよりしょんぼりと垂れている。白い衣も、背後の頼りない真珠色の光も、どこか元気がない。


「悪魔召喚は、ちょっと、さすがに、どうかと思うんですぅ……」


 エルヴィラは乱れた髪を指先で整えた。


 焦げていない。痛みもない。黒い炎に呑まれたはずの体は、いつも通りに戻っている。つまり、戻ってきた。


「失敗しましたわ」

「成功していたらもっと困りましたぁ」

「あら。神界で流行りそうですのに」

「流行らせないでくださいぃ!」


 相談すれば止められる。止められると面倒なので、黙って実行した。


 実に合理的だった。


「で、何か分かりましたの?」

「何がですかぁ」

「悪魔召喚の適性ですわ」

「そこですかぁ!?」


 女神が白い床を両手で叩いた。神の床がぺちぺち鳴る。まるで威厳がない。


「エルヴィラ様、婚約者様の目の前で黒炎に呑まれたんですよぉ!」

「そこは少し予定外でした」

「少しで済ませていい出来事じゃないですぅ!」

「殿下は、次の朝には覚えていないでしょう?」


 女神が黙った。


 白い空間で、頼りない真珠色の光だけが小さく揺れる。


 エルヴィラは目を細めた。


「女神様」

「はいぃ」

「その沈黙は何かしら」

「そのぉ……エルヴィラ様が命を軽く扱ったので、穴があきましてぇ……」

「穴」

「本来は残らないはずのものが、強く見た人には夢みたいに残ることがあるんですぅ」

「殿下は?」

「……とても強く見ていましたぁ」


 白い空間が、しんと静かになった。


 強く見ていた。


 たしかに、炎の向こうの殿下はよく見ていた。こちらが燃えているのだから、見るなと言う方が難しい。


 エルヴィラは、ふっと笑った。


「なら祈っていてちょうだい」

「はいぃ?」

「殿下が覚えていないことを。あなた以外の神様に」

「ひ、ひどいっ! そして往生際が悪いですぅ〜!」


 女神の嘆きが遠ざかり、白い空間が揺れた。戻る合図だ。



 次に目を開けた時、エルヴィラはまた自室の天蓋を見ていた。


 薔薇模様の壁紙。絹のカーテン。焼け焦げていない暖炉。窓辺には朝の光。何もかも、またあの朝である。


 エルヴィラは上体を起こし、まず暖炉を見た。火は入っていない。薪もまだ積まれていない。


 よろしい。


「お嬢様。お目覚めでしょうか」


 扉の向こうから、メリナの声がした。

 柔らかく、慎ましく、いつも通りに優しい声。人は毒を運ぶ朝でも、案外きちんと挨拶ができるらしい。


「ええ。入ってちょうだい」


 扉が開き、メリナが朝の礼をする。

 伏せた睫毛。揃えた指先。こちらを案じるように落とされた声。どこから見ても忠実な侍女である。


 どこから見ても、という言葉はだいたい信用ならない。


「お加減はいかがですか」

「悪くないわ」

「奥様が、お嬢様は近頃お疲れのご様子だからと。薬湯を」

「いらないわ」

「……お飲みになりませんか」

「苦いので」


 メリナの指が、盆の縁でほんの少しだけ止まった。エルヴィラは鏡台の前に座り、鏡越しにそれを見た。


「それから、暖炉には触れないで。紅茶も今朝はいらないわ」

「はい」


 返事は完璧だった。完璧な返事ほど、中身が見えにくい。


 髪を梳かせていると、廊下の向こうが騒がしくなった。


 足音がいくつも近づいてくる。屋敷の者のものではない。もっと揃っていて、もっと遠慮がない。


「お嬢様。アレクシス殿下がお越しです」

「あら」

「今朝は、先触れもなく」


 朝から。先触れもなく。


 アレクシスは礼儀を欠く人ではない。つまり、礼儀を欠いてでも来る理由があった。


 エルヴィラは鏡の中の自分を見た。髪は半分だけ整っている。顔色は悪くない。死んだ直後の令嬢としては上出来である。


 ただ、殿下の方はどうだろう。


「お通しして」


 扉が開くと、まずアレクシスの青い瞳が見えた。


 金の髪も、上着も、いつも通り整っている。王子らしい姿勢も崩れていない。けれどその目だけが、昨夜の黒い炎をまだ映しているようだった。


 背後には近衛と侍従が控えている。


 先触れもなく婚約者の部屋まで踏み込むには、あまりに物々しい朝だった。


「エルヴィラ」


 アレクシスは一瞬、エルヴィラを見たまま息を止めた。


 生きているかを確かめるように。


 あら。これは、少し。よくなかったかしら。


「ご機嫌よう、殿下」


 エルヴィラはいつも通りに微笑んだ。


「朝からどうされましたの? 書類の件かしら」


 アレクシスの青い瞳が、わずかに細くなった。


「なぜ知っている」

「冗談ですわ。あまりにも物々しいので、つい」


 エルヴィラは彼の背後へ視線を流した。


「朝からそれだけお連れでしたら、きっと大事なご用件なのでしょう?」


 にこりと笑う。けれど、アレクシスは笑わなかった。


「昨夜、夢を見た」


 エルヴィラは目を瞬く。


「君が黒い炎に呑まれる夢だ」

「それは恐ろしい夢ですわね」

「君は私に、どうせまた朝になると言った」

「夢の中のわたくしは、ずいぶん変わったことを言いますのね」

「君はすぐにまた会えるとも言った」

「楽観的ですわ」

「夢ならね」


 アレクシスはそれ以上を口にしなかった。ただ、部屋の中を見た。


 火の入っていない暖炉。銀盆の上に置かれた薬湯。空の茶器。扉の近くで控えているメリナ。青い瞳が、ひとつずつ確かめていく。


「その薬湯を」


 短い指示で侍従が動いた。


 メリナの手が、今度ははっきり止まった。


 侍従は薬湯を小皿へ移し、王族用の検知針を浸した。銀の針先が、じわりと黒ずむ。


 部屋の空気が冷えた。メリナの顔から、血の気が引いていく。


 毒は、喉を焼く前に見つかった。


 前は違った。


 薬湯を避け、暖炉を避け、紅茶を断り、ようやくメリナの唇を震わせた。そこまではよかった。その直後に、暖炉が爆ぜた。分かりやすい口封じである。


 けれど今朝は違う。


 殿下がいる。王族の侍従が証拠を包み、近衛が扉を塞ぎ、メリナが逃げられない場所で青ざめている。


 未来が少しずれた。


 いつもなら、ここで別の手が伸びてくる。証拠を燃やし、口を塞ぎ、エルヴィラをまた白い空間へ送り返す。けれど、今はまだ続いている。なら、やり返せる。


 エルヴィラは鏡台の上に置いてあった白薔薇の扇へ視線を向けた。


 打ってやりますわ。


「寒くはないのか」


 アレクシスが言った。


「そこまで寒くはありませんわ」

「手が冷えている」

「朝ですもの」

「暖炉に火は?」

「今日は結構です」


 アレクシスの視線が暖炉へ移った。彼は短く目配せした。


 近衛が暖炉を調べる。炉の奥から、黒く煤けた硝子の欠片が出た。薪箱からは、黒い封蝋のついた細い筒が見つかる。


 火を入れれば、どうなったか。考えるまでもなかった。


 近衛が扉側へ半歩動いた。


「その侍女を外へ出すな」


 命じたのはアレクシスだった。


 メリナの肩が跳ねる。いつもは慎ましく伏せられている睫毛が、今だけ忙しく揺れていた。


「わ、わたくしは、ただ運んだだけで」

「誰の指示で」

「それは……」


 言葉が途切れた。アレクシスの目が冷える。


 その冷え方は、扇で頬を打つ程度の温度ではない。もっと静かで、もっと深い。王族が罪を見る時の目だった。


 それは少し困る。王族の手で裁かれるべきことは、裁かれればいい。けれど、その前に。


「そこまでですわ」


 エルヴィラの声で、部屋の空気が止まった。


 アレクシスが振り返る。近衛も動きを止める。銀盆の上では、黒ずんだ検知針が証拠らしく沈黙していた。


「エルヴィラ」

「まだ連れて行っては駄目です」

「彼女は毒を運び、暖炉に触れられる場所にいた」

「ええ」

「確認する」

「確認は後でよろしいでしょう」

「後で?」

「まだ、わたくしがやり返しておりませんもの」


 アレクシスが黙った。


 メリナも黙った。


 近衛と侍従は、黙るしかなかった。


「やり返す」

「はい」

「……そういう問題なのか」

「そういう問題ですわ。今朝は、まだ終わっておりませんでしょう?」


 エルヴィラは鏡台の上の白薔薇の扇を手に取った。


 よく磨かれた骨。白い花弁を模した布地。令嬢の手に収まるために作られたものだが、用途はひとつに限らない。


 アレクシスは扇を見て、それからエルヴィラを見た。問い詰める目ではなかった。止める目でも、まだない。昨夜の黒い炎を覚えている人の目だった。


 やがて、アレクシスは深く息を吐いた。


「お返事は?」

「……分かった」


 エルヴィラはにこりと微笑んだ。そして、白薔薇の扇の先をほんの少しだけ上げる。


 打つためではない。ただ、行儀の悪い答えを直して差し上げるためである。


「殿下。お返事は?」


 アレクシスの表情が複雑なものになった。


 王子としての尊厳と、婚約者の命と、昨夜の黒い炎が、青い瞳の奥で真面目に相談している。


 まさか。いや、しかし。


 目の前の婚約者は、扇を持って微笑んでいる。


 絵になる顔だった。内容はともかく。


 アレクシスは少しだけ首を傾げた。


「……ワン?」

「よろしい」


 エルヴィラは満足して頷いた。


 部屋の空気が、毒を見つけた時とは別の意味で凍った。


 近衛の一人が何もなかったように扉の金具を見つめる。侍従は銀盆の上の検知針へ視線を落としたまま、瞬きの回数だけを少し増やした。誰も殿下を見ない。たいへん忠誠心のある沈黙である。


 メリナだけが、毒を見つけられた時よりもひどい顔をしていた。殿下の尊厳が目の前で少し折れたせいかもしれない。


 これは真面目な話である。


「メリナ」


 名前を呼ぶと、メリナはびくりと肩を揺らした。


「はい、お嬢様」

「あなた、わたくしに薬湯を持ってきたわね」

「それは、お嬢様のお体を案じて」

「そう」


 エルヴィラは白薔薇の扇を指先で持ち直した。閉じた骨が、手の中で小さく鳴る。


「では、これは薬湯の分です」


 パァーンッ!


 白薔薇の扇がよく鳴った。


 メリナの顔が横を向く。頬を押さえた目に涙が浮かんだ。痛みの涙か、恐怖の涙か。どちらでもよい。痛かったなら、成功である。


「それから、これは暖炉の分です」


 パァーンッ!


 もう片方の頬もよく鳴った。


 左右の釣り合いは大切である。淑女の身だしなみとして。


「お、お嬢様……」

「はい。言い訳をどうぞ」

「わたくしは、ただ、包みを渡されただけで」

「誰から?」

「薬室係です。薬湯も、暖炉のことも、あの人から言われました」

「あら」


 エルヴィラは扇を開いた。


 ぱさり。


「では、次は薬室ですわね」


 メリナが青ざめる。


 アレクシスが何かを言いかけてやめた。賢明である。



 軽く身支度を整えたあと、エルヴィラは白薔薇の扇を手に部屋を出た。近衛と侍従が続き、メリナは青ざめたまま別の近衛に見張られている。


 今までは、こちらが逃げ道を探す側だった。だが、今日は違う。廊下の先にいる者たちが、逃げ道を探す番である。


 薬室係は薬棚の前で見つかった。


 青ざめた顔。落ち着かない指先。こちらを見る前から、もう言い訳を探している目だった。


 逃げるには遅く、知らなかったと言うには顔色が白すぎる。


「わ、私は、包みを混ぜろと言われただけです。中身までは知りません」

「まあ。知らない毒なら混ぜてもよろしいのね」


 薬室係の喉が鳴った。


 エルヴィラは閉じた扇を軽く上げる。


 薬瓶の並ぶ棚の前で彼は一歩下がろうとして、背中を棚にぶつけた。硝子が小さく触れ合う。


「誰に言われましたの?」

「し、執事長です。奥方様付きの侍女長からの指示だと」

「暖炉の仕掛けは?」

「薬草を運ぶ荷に、細い筒を紛れさせろと。馬小屋へ回す荷です。私は、馬番に渡しただけで……!」


 薬湯から、暖炉へ。薬室から、馬小屋へ。ようやく線が伸びた。


「そう。では、頬はひとつで足りそうですわね」


 パァーンッ!


 薬瓶が棚の中でかすかに鳴った。


 薬室係は頬を押さえたまま、床に膝をつきかける。近衛がその肩を押さえた。


「次は馬小屋ですわ」


 薬室を出ると、アレクシスが隣に並んだ。


「エルヴィラ」

「何かしら」

「このまま屋敷を回るつもりか」

「ええ。身支度は整えましたでしょう?」

「そういう意味ではない」


 アレクシスの視線が、閉じた白薔薇の扇へ落ちる。


 すでに何度かよく鳴ったそれは、令嬢の装飾品というより、今朝はすっかり実用品だった。


「疲れていないのか」

「殿下は、わたくしを病人にしたがりますのね」

「今朝の君は、病人より無茶をする人に見える」

「では元気ですわ」

「答えになっていない」


 その声が少しだけ低くなったので、エルヴィラは横目で彼を見た。


 青い瞳は前を向いている。けれど、意識はずっとこちらにある。


 面倒な婚約者である。悪くはないけれど。


「ご心配なら、目を離さなければよろしいのでは?」

「そのつもりだ」


 返事が早かった。


 今度は、エルヴィラが少しだけ黙る番だった。


「せめて、私の目の届く場所にいて」


 重い許可だった。けれど許可は許可である。


「では、殿下の目が届く場所で続けますわ」


 アレクシスは何も言わなかった。ただ、歩幅だけをエルヴィラに合わせた。



 馬小屋に着くと、馬番は水桶を抱えたまま立ち尽くしていた。


 馬より怯えた顔をしている。馬の方がまだ品位を保っていた。


「薬室からの荷を受け取りましたわね」

「う、受け取りました! けど、中身までは本当に」

「知らなければ、爆ぜてもよいのね」


 馬番の腕の中で水桶が揺れた。


 エルヴィラはすぐには打たなかった。白薔薇の扇の先で、彼の足元を軽く示す。


「置きなさい。水をこぼすと馬が驚きますわ」

「は、はいっ」


 馬番が慌てて水桶を床へ置く。馬が一頭、鼻を鳴らした。賢い。


「誰の指示?」

「執事長です! 薬室から来る荷を薪箱へ入れろと。お嬢様のお部屋の暖炉に使うから、と」

「馬車は?」

「それも執事長です。お嬢様が遠出できないように、少し傷んで見せろと」

「あら。少しの意味を、ずいぶん大きくお育てになったのね」


 馬番の顔が、さらに白くなる。


「本当に、車輪が外れるほどとは」

「知らなかった?」

「はい」

「そう」


 エルヴィラは閉じた扇を持ち直した。


「では、知らなかった分は軽くして差し上げます」


 パァーンッ!


 水桶の水面がびくりと揺れた。馬がまた鼻を鳴らす。賛同と受け取っておく。


 薬湯。暖炉。馬車。すべて、同じところへ戻っていく。


 エルヴィラは扇を見下ろした。白薔薇の骨が一本、少しだけ歪んでいる。よく働いた証である。


「では、ようやく執事長ですわ」



 執事長は屋敷の廊下で待っていた。


 逃げなかったのか、逃げられなかったのか。どちらでもよい。背筋は伸び、手袋は白く、顔にはまだ屋敷の品位が貼りついている。品位は便利だ。悪事を隠す布にもなる。


「お嬢様」


 執事長は深く頭を下げた。


 その仕草だけなら、長年この家に仕えてきた者の礼に見える。けれど、礼とは本来、相手を敬うためのものだ。自分を守るために使うなら、ただの盾である。


「すべては屋敷のためでございます」

「屋敷は毒を盛りませんわ」


 エルヴィラは閉じた扇を振り抜いた。


 パァーンッ!


 白薔薇の扇がよく鳴った。


 執事長の顔が横を向く。白い手袋をはめた指先が、ほんのわずかに震えた。


「お嬢様のお体を案じてのことでした」

「案じる手が多すぎて、命に届いております」


 もう一度、閉じた扇を持ち直す。


 執事長の目がそれを追った。いい目だった。ようやく、扇を装飾品ではなく実用品として見ている。


「王家との婚約は、お嬢様には重すぎると……奥方様付きの侍女長から、そのように」

「まあ。重いものを軽くするために、わたくしを消そうと?」


 パァーンッ!


 今度は反対側の頬で鳴った。


 執事長の姿勢が、ようやく少し崩れる。


 よろしい。


 姿勢のよい悪人は、崩れるところまで見ておきたい。


「命じられただけ?」

「……私は、この屋敷を守るために」

「屋敷は守っても、屋敷の娘は守らないのね」


 エルヴィラは扇の先を、執事長の胸元へ向けた。打つためではない。どこに罪があるのか、指し示すためである。


「薬湯。暖炉。馬車。階段。どれも、あなたの口を通っている。屋敷のためというには、ずいぶんわたくしだけを狙った忠義ですこと」

「私は、奥方様のご意向を」

「あら。ようやくお母様のお名前に近づきましたわね」


 執事長が口を閉じた。


 遅い。一度落ちた言葉は、拾っても戻らない。


「では、そろそろお母様のところへ参りましょうか」


 エルヴィラは扇を下ろした。


 白薔薇の骨がさきほどよりもさらに歪んでいる。薬湯、暖炉、薬室、馬車、執事長。よく働いた結果だった。


 その手元へ、アレクシスの視線が落ちる。


「エルヴィラ」

「何かしら」

「扇を替えよう。骨が歪んでいる」


 言われて見れば、たしかにこのまま本命へ向かうには少し心許ない。


 アレクシスが侍従に目配せすると、すぐに予備の扇が差し出された。


 孔雀色の扇だった。


 深い青と緑が角度によって揺れ、縁には細い金の線が走っている。制裁道具にしては華やかすぎるが、悪役令嬢の装備としては悪くない。エルヴィラはそれを受け取り、指先で重さを確かめた。


 よい。


 閉じた骨が、手の中で小さく鳴る。


「殿下。なぜ扇までお持ちですの?」

「君が扇を持たずに出ても困らないように」

「まあ」


 用意がよすぎる。そして、今はとても助かる。


「ありがとうございます」


 エルヴィラは空いた手を伸ばし、アレクシスの頬を軽く撫でた。


「良い子ですわ、よしよし」


 アレクシスが一瞬だけ黙る。


 近衛も黙った。侍従も、頬を押さえる執事長も、全員が黙った。先ほどとは違う種類の沈黙だった。


「……どういたしまして」


 少し遅れて返ってきた声は、いつもより低い。


 あら。これはこれで、よい反応である。


 エルヴィラは孔雀色の扇を手に、廊下の先へ向き直った。


 その時だった。


「なにをしているの!?」


 廊下の向こうから甲高い声が響いた。


 淡い黄色のドレスをまとった令嬢が、頬を押さえる執事長と、近衛と、孔雀色の扇を持ったエルヴィラを順番に見た。


 継母の姪、リリアーヌである。


 今日もとても可愛らしい。そして、たいへん間が悪い。


「エルヴィラ様……あなた、ついに気が触れてしまったのね!?」


 リリアーヌの声はよく通った。


 廊下に控えていた近衛と侍従の視線が、一斉にそちらへ向く。執事長は頬を押さえたまま、何も言わなかった。言える立場ではないと、ようやく理解したらしい。


「まあ」


 エルヴィラは孔雀色の扇を口元へ添えた。


「次の頬が、自分から来ましたわ」

「や、やめて! 伯母様に言いつけますわ!」

「あら。ちょうどお母様のところへ行くところでしたの」

「伯母様なら、あなたを止めてくださるわ。やっぱりあなたには王家との婚約なんて無理なのよ」

「やっぱり」


 エルヴィラはその言葉だけを、そっと拾った。リリアーヌは気づかない。


 淡い黄色のドレスを震わせながら、こちらを睨んでいる。可憐な顔立ちに、怒りと恐怖と、少しの期待が混じっていた。


「伯母様もそう言っていたもの。あなたは体が弱くて、少しのことで寝込んで、殿下にご迷惑ばかりかけるって。私の方が、殿下のお隣に――」


 そこでリリアーヌは自分の口を押さえた。


 遅い。言葉というものは、落ちたあとに拾ってもだいたい汚れている。


「まあ。殿下のお隣は、いつからあなたの席になりましたの?」

「ち、違いますわ」

「違うの?」

「伯母様が、私なら殿下を支えられるって……」


 また落ちた。よく落ちる。言葉の管理ができないなら、せめて口に鍵をかけておけばよいのに。


 エルヴィラはアレクシスを見た。


「殿下。お隣の席、知らないうちに予約されていましたわ」

「迷惑だね」


 短い返事だった。声は穏やかだったが、青い瞳は少しも笑っていない。リリアーヌの顔から、血の気が引いていく。


「私の隣に誰が立つかを、私以外が決めるのか」

「い、いえ、私は、その」

「伯母様に聞けば分かるのでしょう?」


 エルヴィラが言うと、リリアーヌは反射のように頷いた。頷いてから、自分が何に頷いたのか気づいた顔をする。


 やはり遅い。


「では、案内してくださる?」


 リリアーヌは一歩退いた。


 逃げ道を探す顔だった。だが後ろには近衛がいる。前にはエルヴィラがいる。横には、青い目を少しも笑わせていないアレクシスがいる。よい配置である。


「……こちらですわ」


 リリアーヌは小さな声で言い、踵を返した。自分が案内役になったことに、まだ納得していない背中だった。


 継母の部屋へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。


 リリアーヌは何度も振り返り、そのたびにエルヴィラの孔雀色の扇を見る。頬を押さえる。もう一度、扇を見る。とても分かりやすい。


 継母の部屋の前には、侍女長がいた。


 執事長の口から何度も名前が出た女である。薬湯、馬車、暖炉。そのどれにも、奥方様付きの侍女長という言葉がついて回った。本人は、扉の前で背筋を伸ばしている。


 屋敷には、背筋で罪を隠そうとする者が多い。


「お嬢様。奥様はお休みでございます」

「そう。では起こして差し上げて」

「今は、どなたも」

「薬湯と暖炉と馬車と階段」


 エルヴィラは孔雀色の扇を閉じたまま、指先で軽く持ち直した。


「どれの分から受けたいか、選ばせて差し上げますわ」

「わたくしは、何も」

「では、階段の分で」


 パァーンッ!


 孔雀色の扇がよく鳴った。


 侍女長の顔が横を向く。廊下の空気が一拍止まった。


「階段には、よく滑るものが塗られていましたの」

「存じません」

「そう。知らないものを磨かせるお家なのね」


 侍女長の指が、扉の前で震えた。


 扉ひとつ隔てた向こうに、継母がいる。


 この女が守っているのは、屋敷の静けさではない。罪がまだ形を保っている時間だ。


「扉を開けてくださる?」


 侍女長は唇を噛んだ。開けなければ扇がもう一度鳴ると分かった顔だった。理解が早い。できれば、もっと早く別のことを理解してほしかった。


 震える手が取っ手に触れる。金具が小さく鳴った。


 部屋の中には継母がいた。


 淡い朝のドレスをまとい、心配そうな顔で立ち上がる。柔らかな声。母親の顔。エルヴィラの身を案じるように寄せられた眉。


 けれど、その目は最初にエルヴィラの頬でも手でもなく、孔雀色の扇を見た。それから、アレクシスを見る。最後にリリアーヌを見る。順番は正直だった。


「エルヴィラ。これは何の騒ぎ?」


 父が領地と王都を行き来するようになってから、王都屋敷の差配はほとんどこの人の手にあった。


 誰が茶を運び、誰が薪に触れ、誰が薬湯を用意するのか。屋敷の中では、それだけで人の命に届く。


 そして今、この部屋の外には頬を押さえた執事長がいる。青ざめた侍女長がいる。泣きそうなリリアーヌがいて、王族の近衛と侍従が廊下を塞いでいる。


 それだけ揃っていて、まだ母親の顔を貼っていられる。


 見習いたくはないが、技術としては高い。


「お母様。今朝は、ずいぶん皆様に案じていただきましたの」


 継母の微笑みは崩れなかった。


「エルヴィラ。何をしているの。殿下の前で、そのような」

「制裁ですわ」

「制裁?」

「ええ。薬湯、暖炉、馬車、階段。いろいろ溜まっておりましたの」


 継母の目元が、ほんの少しだけ動いた。


 階段。


 そこに反応した。


「あら」


 エルヴィラは孔雀色の扇を唇に当てる。


「お母様は、階段がお好き?」

「何を言っているの」

「薬湯は、王族用の検知針に反応しました。暖炉の薪箱からは仕掛けが。馬車の細工は馬番が、薬湯と暖炉は薬室係が、手配は執事長と侍女長が。皆様、とてもよく働いていらしたわ」

「何かの間違いよ」

「間違いが多すぎて、屋敷が忙しいですわね」


 継母の視線が、すっと執事長へ向いた。


 執事長は何も言わない。頬は赤い。姿勢は少し曲がっている。先ほどまでの品位が、扇数発ぶん減っていた。よい変化である。


「エルヴィラ。あなたは近頃、疲れているのよ。だから皆が心配して」

「心配」

「ええ。王家との婚約も、あなたには重すぎるでしょう。私はあなたのために」

「わたくしのために、毒を?」

「言葉を選びなさい」

「暖炉を爆ぜさせて?」

「エルヴィラ」

「馬車を壊して?」

「落ち着きなさい」

「階段を滑らせて?」


 継母の顔から、ほんの一瞬だけ色が消えた。


 やはり階段だった。まだ証拠が表に出ていないものほど、人は反応する。よい勉強になる。


「そのようなこと、誰が」

「伯母様は!」


 リリアーヌが声を上げた。


 継母の顔が、初めてはっきり動く。


 遅い。


「伯母様は、エルヴィラ様はお体が弱いから、殿下にご迷惑をかけるって。私の方が殿下をお支えできるって、そう言ってくださいましたわ」

「リリアーヌ」


 継母が短く名前を呼ぶ。


 リリアーヌはそこで、自分が何を言ったのか分かった顔をした。本当に、落としたあとに気づく子である。


「まあ。答え合わせが早くて助かりますわ」

「違うの。私は、ただ」

「ただ、殿下のお隣に座る予定だったのね」

「予定だなんて」

「違うの?」

「伯母様が、そうなれば皆が幸せだと」


 また落ちた。よく落ちる。


 エルヴィラはアレクシスを見た。


「殿下。皆が幸せだそうですわ」

「私は含まれていないようだね」

「あら。主役なのに」

「不思議だ」


 アレクシスの声は静かだった。静かすぎて、部屋の温度が下がる。


 リリアーヌが泣きそうな顔で口を押さえた。もう遅い。だが、押さえないよりはよい。今後の教育に期待である。


「では、お母様」


 エルヴィラは継母へ向き直った。


「薬湯も、暖炉も、馬車も、階段も、すべてわたくしの思い違いで。侍女も薬室係も馬番も執事長も侍女長も、皆が勝手にわたくしを休ませようとしていた、と?」

「……そうね。あなたを案じるあまり、行きすぎた者がいたのでしょう」

「行きすぎ」


 便利な言葉である。


 毒が喉まで来て、暖炉が天井まで爆ぜて、馬車の車輪が外れても、まだ行きすぎ。お母様の言う道は、ずいぶん長いらしい。


「お母様。あなたは、わたくしを殺したかったのではなく、椅子を空けたかったのね」

「エルヴィラ」

「殿下のお隣の椅子ですわ」

「何を」

「病弱な娘なら、婚約を辞退させられる。死んだ娘なら、なお都合がいい。どちらでもよかったのでしょう?」


 継母の顔から、母親の色が消えた。


 一瞬だけ。本当に一瞬だけ。


 けれど、その顔が見られたので、エルヴィラは満足した。


「あなたのためだったのよ」


 継母が低く言った。母親の声に戻そうとして、戻りきらなかった声だった。


 エルヴィラは孔雀色の扇を持ち直す。閉じた骨が、手の中で小さく鳴った。


「わたくしのためと言うなら」


 一歩進む。


「まず、わたくしを殺さないでくださる?」


 扇が振り抜かれた。


 バヂィイインッッ!


 孔雀色の扇が継母の頬を打つ。継母の顔が横へ弾かれた。体が大きくふらつき、きれいに結い上げられていた髪が馬鹿みたいに崩れて、頬にも肩にも落ちる。


 母親の顔も、心配する顔も、屋敷の女主人の顔も。


 全部、赤く腫れた頬と乱れた髪に負けた。


「これは、わたくしの分ですわ」


 エルヴィラは微笑んだ。


 よろしい。ようやく本日の本命である。


 孔雀色の扇を、もう一度持ち上げる。


「次は、薬湯の分かしら。それとも暖炉の分?」

「エルヴィラ」


 そこでアレクシスが一歩前へ出た。


 彼の手が、扇ではなくエルヴィラの手首にそっと触れる。


 止める手だった。けれど、取り上げる手ではない。


「君の分は、今入った」

「あら。まだまだ残っておりますのに」

「そこから先は、正式に進める」

「殿下が噛む番ですの?」

「そうだね」


 アレクシスは継母を見た。エルヴィラに向けていた目とは違う。


 冷たい、王族の目だった。


「ローデンベルク公爵夫人。第二王子の婚約者に対する毒物使用、殺害未遂、馬車への細工、暖炉への仕掛け。加えて階段への細工についても、これから確認を行う。すでに証拠と証言は、私の侍従が確保している」

「殿下、これは」

「弁明は王宮で聞く」


 短い言葉だった。それだけで近衛が動いた。


 継母は一歩下がろうとして、下がれなかった。


 後ろには自分の部屋がある。前には王族の近衛がいる。横には、頬を赤く腫らした執事長と、青ざめた侍女長。泣きそうなリリアーヌまで揃っていた。逃げ道の少ない配置は、やはり気分がよい。


「お待ちください、殿下。これは誤解です。私はただ、エルヴィラの体を案じて」

「毒を?」

「それは、あの者たちが勝手に」

「暖炉も、馬車も、階段も?」

「私は何も」


 継母の声はまだ母親の形をしていた。けれど、顔がついてきていない。


 赤く腫れた頬。大きく崩れた髪。いつもなら柔らかく整えられている目元に、隠しきれない焦りが浮いている。


 母親の顔は、扇一発ぶんの衝撃に意外と弱かった。


「連れて行け」


 アレクシスの声で近衛が動いた。継母の腕に手がかかる。


「エルヴィラ!」


 継母が叫んだ。初めて、母親の声ではなかった。


「あなた、自分が何をしているのか分かっているの? 私を王宮へ引き渡せば、ローデンベルク家に傷がつくのよ」

「まあ」


 エルヴィラは孔雀色の扇を口元に添えた。


「わたくしに毒を飲ませるより、頬を打たれるより、王宮へ連れて行かれるより、まだ家の傷を心配なさるのね」

「当然でしょう。あなたはローデンベルクの娘なのよ」

「ええ」


 エルヴィラは微笑んだ。


「だから、傷んだところは切り落としますわ」


 継母の顔が歪んだ。


 近衛がその体を部屋の外へ向かわせる。継母は最後まで姿勢を保とうとしていた。けれど、崩れた髪が頬に張りつき、赤く腫れた頬がそれを許さない。


 たいへんよい眺めだった。


「リリアーヌ嬢」


 アレクシスの声が向いた。


 リリアーヌは肩を跳ねさせた。先ほどまで継母へ向けていた目が、今度は王子の青い瞳から逃げる。


「あなたにも事情を聞く必要がある」

「わ、私は、伯母様がそう言ったから」

「だから聞く」


 短い言葉だった。リリアーヌは唇を震わせる。


「全てを知っていたとは、今は判断しない。だが、私の婚約に関わる席を、あなたと伯母が勝手に語っていたことは軽くない」

「そんな、私はただ」

「ただ、隣に立つつもりだった?」

「……っ」


 リリアーヌの目に涙が浮かんだ。


 可愛らしい涙だった。だが、可愛らしい涙で椅子の持ち主は変わらない。


「リリアーヌ」


 エルヴィラが呼ぶと、リリアーヌは怯えたようにこちらを見た。


 視線はエルヴィラの顔ではなく、孔雀色の扇に落ちている。学習が早い。


「あなたが何を知っていて、何を知らなかったのかは、王宮でお話しなさい」

「わ、私は」

「ただし」


 エルヴィラは扇を少しだけ持ち上げた。

 リリアーヌの頬が、打たれてもいないのに強張る。


「次に誰かの隣を自分の席だと思う時は、座る前に持ち主を確かめることですわ」

「……はい」


 小さな返事だった。今朝、初めて少しだけ賢そうな声だった。


 近衛がリリアーヌを促す。彼女は何度も継母を見たが、継母はもうリリアーヌを見ていなかった。自分がどう逃げるか、それだけを考えている顔だった。


 よい教育である。


 誰に使われていたのか、よく分かっただろう。


 執事長も、侍女長も、薬室係も、馬番も、それぞれ近衛に囲まれていく。屋敷の者たちは廊下の端で息を殺していた。いつもなら誰かの指示を待つだけの顔が、今日は何も言われないことを恐れている。


 屋敷が静かだった。ずいぶん長い間、静かなふりをしていただけの場所だったのかもしれない。


「エルヴィラ」


 アレクシスが、もう一度エルヴィラの手首にそっと触れた。


 強く握ってはいない。ただ、離せばもう一度扇が鳴ると分かっている手だった。


「殿下」

「何だ」

「わたくし、かなり我慢しておりますわ」

「知っている」

「褒めてくださってもよろしいのよ」

「よく我慢した」

「少し棒読みですわね」

「本心だよ」


 青い瞳が、ほんのわずかに緩んだ。


 先ほどまで王族の目をしていた人が、ようやく少しだけ婚約者の顔に戻る。


「だから、今は私の目が届く場所にいて」

「それは命令?」

「お願いにしては重いものだと思ってほしい」

「便利なお言葉ですこと」


 エルヴィラは孔雀色の扇を閉じた。閉じた骨が、手の中で小さく鳴る。アレクシスの視線がそこへ落ちた。


「まだ打つつもりか」

「必要があれば」

「できれば、必要がない場所にいてほしい」

「殿下がそうしてくださるのでしょう?」

「そのつもりだ」


 返事が早い。


 よろしい。


「では、殿下の目が届く場所で、続きを見届けますわ」


 アレクシスは手首から手を離した。けれど、距離は離れなかった。


 廊下の先では継母たちが近衛に連れられていく。誰も振り返らない。振り返れないのかもしれない。エルヴィラはその背中を見送った。


 今日はまだ、死んでいない。


 朝から薬湯を避け、暖炉を避け、扇を振り、証拠を拾い、首謀者を王族の前に引きずり出した。


 たいへん忙しい一日である。けれど、白い空間には戻っていない。


 それが何より気分がよかった。


「殿下」

「何だ」

「紅茶が飲みたいですわ」

「検査したものを用意させる」

「あら。大変物々しいお茶ですこと」

「今朝の君には必要だ」

「では、焼き菓子も」

「それも用意しよう」


 エルヴィラは満足して頷いた。


 制裁のあとには紅茶。


 悪くない。


 とても。


   *


 それから七日が過ぎた。


 エルヴィラは生きている。まず、それが珍しい。


 朝起きても暖炉は爆ぜなかった。紅茶を飲んでも喉は焼けなかった。階段を降りても足元は滑らず、馬車の車輪も外れなかった。


 あまりに何も起きないので、三日目の朝には少しだけ身構えた。四日目には、逆に腹が立った。五日目には、紅茶を二杯飲んだ。安全な紅茶というものは、思ったよりおいしい。


 ローデンベルク公爵家の中は、ずいぶん静かになっていた。


 継母は王宮へ連れて行かれた。第二王子の婚約者に対する毒物使用、暖炉への仕掛け、馬車の細工、階段への細工。その指示と手配に関わった証言は、王族の侍従がすべて記録していた。


 屋敷のため。娘のため。休ませるため。継母は最後までそう言ったらしい。


 だが、王宮の法官は、毒を薬湯と呼んではくれなかった。爆ぜる暖炉を休養とも呼ばなかった。馬車の細工も、階段の蝋も、親心には分類されなかった。常識的である。


 継母は王都屋敷の管理権を剥奪され、実家との連絡も断たれた上で、王都郊外の塔へ送られることになった。優しい母親の顔を使うには、少し壁が厚い場所である。


 領地から呼び戻された父は、王都屋敷の差配を継母に任せきっていたことを王宮で厳しく問われた。知らなかったと言えば毒が薄まるわけではない。階段の蝋が消えるわけでも、暖炉の仕掛けがなかったことになるわけでもない。


 父はしばらく、王都屋敷の人事と管理を王家の監督下で改めることになった。


 薬室係、馬番、執事長、侍女長も、それぞれ罪を問われた。


 命じられただけ。知らなかった。屋敷のため。皆、よく似た言葉を並べたらしい。よく似た言葉を並べる者は、よく似た場所へ送られる。


 リリアーヌはすべてを知っていたわけではなかった。


 ただ、自分のものではない椅子を、いつか自分の席になると思って眺めていた。継母にそう囁かれ、そう信じ、自分の方が殿下に似合うのだと夢を見た。


 殺意を知らなかったことは、罪を軽くした。けれど、王家の婚約を勝手に語ったことは、無かったことにはならなかった。


 彼女は社交界からしばらく遠ざけられ、遠縁の領地へ送られた。しばらくは殿下のお隣どころか、王都の舞踏会の端にも立てない。椅子というものは、座る前に持ち主を確かめるべきである。


 エルヴィラはその報告を、日当たりのいい小さな客間で聞いた。


 窓辺には花がある。暖炉には火が入っている。紅茶は、王族の侍従が確認したものだ。


「ずいぶん大掛かりなお茶ですこと」


 エルヴィラはカップを持ち上げた。


 琥珀色の紅茶から、やわらかな香りが立つ。苦くない。喉も焼けない。手も震えない。ただ温かい。


 それだけのことが、少し不思議だった。


「気に入らない?」


 向かいの椅子に座ったアレクシスが言う。


 彼は今日も真面目な顔をしていた。お茶会に近衛を二人置く男の顔である。


「いいえ」


 エルヴィラは一口飲んだ。甘い焼き菓子の香りが、紅茶の奥に少しだけ混じる。


「おいしいですわ」


 言ってから、エルヴィラは少し黙った。おいしい。それだけを、何も疑わずに言えた。


 薬湯を避ける理由を探さなくていい。カップの底を見なくていい。誰が運んだかを覚えなくていい。暖炉の音に肩を固くしなくていい。今日は、ただ紅茶を飲んでいる。


 アレクシスがその沈黙を見ていた。


「エルヴィラ」

「はい」

「今、少し穏やかな顔をしている」

「あら。わたくしはいつも穏やかですわ」

「扇で屋敷を回った人の言葉とは思えないね」

「殿下の目が届く場所でしたでしょう?」

「そこは守った」


 アレクシスは少し身を乗り出した。


「私は、あの時よく待ったと思う」

「ええ。とてもよい待てでしたわ」

「褒められている気がしない」

「褒めていますのに」


 エルヴィラはカップをソーサーへ戻した。澄んだ音が鳴る。


「なら、ご褒美を」


 エルヴィラは瞬きをした。


「ご褒美」

「私は待った。君の制裁も邪魔しなかった。目の届く場所にいるという約束も守らせた。証拠も押さえた。紅茶も安全にした」

「自分で並べると、少し可愛げが減りますわね」

「では、君が並べてくれる?」

「よく待てました。よく見張れました。よく噛まずに我慢できました」

「犬から離れてほしい」

「ワン?」

「忘れてくれと言ったはずだ」

「嫌です」


 エルヴィラは孔雀色の扇で口元を隠した。


「それで、殿下。ご褒美とは?」


 アレクシスはしばらく黙った。


「君から、ひとつ」

「何を?」

「私が望むものを」

「あら」


 エルヴィラは目を細めた。


「殿下。そういう言い方は、悪い大人のものですわ」

「君の婚約者だからね」

「便利なお言葉ですこと」


 エルヴィラは扇を閉じた。


 ぱちり。


「手を」


 アレクシスが片手を差し出す。


 素直である。とてもよい。


 エルヴィラはその手を取った。


 温かい。


 少し身を乗り出すと、アレクシスの青い目がほんのわずかに揺れた。


 ご褒美をもらえると思った顔だ。


 だから、エルヴィラはその手の甲に、閉じた扇の先を軽く当てた。


「待て」


 アレクシスが止まった。


 見事な待てだった。


「……エルヴィラ」

「お返事は?」

「……今か」

「今ですわ」


 アレクシスは目を閉じた。


 深く息を吸う。そして、吐く。


「……ワン」

「よろしい」


 エルヴィラは満足して、彼の手の甲に口付けた。


 ほんの軽く、礼をするように。ご褒美としては上品である。


 アレクシスが固まった。


「……それは」

「ご褒美ですわ」

「君は、ずるい」

「殿下ほどではありません」


 アレクシスは固まったまま、こちらを見ていた。


「もう一度」

「欲張りですわね」

「よく待ったから」

「それを言えば何でも許されると思っていません?」

「少し」

「正直でよろしい」


 アレクシスの口元が、ようやく少しだけ緩んだ。エルヴィラはその顔を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 紅茶のせいだろう。きっと。


「では、殿下」

「何だ」

「次は、わたくしの番です」

「君の?」

「ええ。殿下は、わたくしの安全な紅茶を用意してくださいました」

「そうだね」

「ですから、わたくしからもご褒美を差し上げました」

「うん」

「次は、わたくしがご褒美をいただく番ですわ」


 アレクシスが瞬きをした。


「何が欲しい?」


 エルヴィラは微笑んだ。


「明日も、安全な紅茶を」


 アレクシスの表情が、ふっと柔らかくなる。


「明後日も」

「ええ」

「その次の日も」

「もちろん」

「では、ついでに焼き菓子も」

「用意しよう」

「よろしい」


 エルヴィラはカップを持ち上げた。


 安全な紅茶。明日も、明後日も、その次の日も。


 白い空間に戻らずに済む未来は、思っていたより静かで、温かくて、少し甘い。


 悪くない。


 とても。


 その時、どこか遠くで、聞き覚えのある声がした。


『あのぉ……』


 白い空間ではない。


 目の前には紅茶がある。アレクシスもいる。暖炉も静かに燃えている。それなのに、女神の声だけが、やけにはっきり聞こえた。


『物語が始まる前に、もう終わってるじゃないですかぁ……!』


 エルヴィラは紅茶を一口飲んだ。おいしい。とてもおいしい。


 視線を少し上げると、紅茶の湯気の向こうに薄荷色の髪がふわふわと揺れていた。


 白い衣。頼りない真珠色の光。白い空間で見慣れた女神が、半透明の姿でテーブルの中央に浮いている。紅茶と焼き菓子の間で。


 アレクシスは気づいていない。つまり、見えているのはエルヴィラだけらしい。


 エルヴィラは声に出さず、頭の中で呼びかけた。


『女神様』

『はいぃ……』


 返事が来た。


『あらすごい。頭の中で会話ができるのね』

『今はそこではなくてぇ……』

『そうね。流行りそうですわね』

『流行らせないでくださいぃ! あと、創造神さまにバレましてぇ……』

『あら』

『エルヴィラ様の不運ステータスが消えますぅ……』


 エルヴィラはカップをソーサーへ戻した。


『それはよい知らせですわね』

『私を一度叩けば、ですが』


 女神は両手で額を押さえた。先回りだけは上手になっている。


 エルヴィラは孔雀色の扇を閉じたまま、軽く持ち直した。


 アレクシスが瞬きをする。


「エルヴィラ?」


 パァーン!


『あいたぁっ!』


 扇の先が、紅茶と焼き菓子の間に浮いた女神の額でよく鳴った。


「何を?」


 エルヴィラは扇を膝の上へ戻した。


「失礼。虫がおりましたの」

「虫」

「ええ。とても騒がしい虫が」


 湯気の向こうで、女神が涙目になっている。


『虫じゃないですぅ……!』


 エルヴィラは微笑んで、もう一度紅茶を飲んだ。


 今日は死んでいない。


 明日もきっと、紅茶を飲む。


 殿下の目が届く場所で。


 そして、必要があれば扇も届く場所で。


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― 新着の感想 ―
殺意が高過ぎる。 継母は貴族だから一見軽い処罰だろうけど貴婦人としては死んだも同然。女主人に阿って正嫡の娘殺害に手を貸した使用人のが直接的に酷い事になりそう。
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