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異世界工場管理  作者: 好山 雪


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18/34

第18話 十二時間の帰還権

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第18話では、ルカの移送停止と前線十名の安定化を同時に進めます。


帰還灯は人を救う灯りですが、灯りを制度にするには、誰かの名前や帰る場所を勝手に奪わせない仕組みが必要です。


今回は、俊平たちが「時間がないから仕方ない」という誘惑と戦う回です。


外縁開拓局の新しい人物も登場します。


第十三工廠へ戻る馬車の中で、誰も喋らなかった。


車輪の音だけが、石畳を叩き続けている。


十二時間。


三十六時間。


二つの期限が、俊平の頭の中で交互に光った。


ルカの移送まで十二時間。


前線で十名を安定化させるまで三十六時間。


帰還灯は二基。


工廠で三基目を作るには、炉心調整、記録束の選別、返還監査の回路を一から組む必要がある。


普通なら、無理だ。


だが、この都市で「普通」を基準にすると、人が材料になる。


「管理官」


リゼットが膝の上で書記板を抱え直した。


「先に確認します。ルカさんを起こすには、帰還灯二号を使う必要があります」


「分かっています」


「でも、ルカさんは今、意識が不安定です。本人同意を得る前に、第二段階へ入ることはできません」


「入らない」


「初期照射だけで、帰還権保全の意思表示ができるところまで戻せる保証はありません」


「それでもやります」


ヘレナが向かいの席で顔を上げた。


疲れ切った顔だった。


それでも、弟の名前が出るたびに目だけは生き返る。


「俊平さん。ルカが、うまく話せなかったら」


言葉がそこで止まった。


俊平は、すぐには答えられなかった。


うまく話せなかったら。


本人の意思が確認できなかったら。


外縁開拓局への移送は止められない。


痛覚債権は譲渡済み。


第九施療院は「合法」と言った。


マグダも「違法ではない」と認めざるを得なかった。


制度の中では、ルカはもう半分運ばれている。


「その時は」


俊平は言った。


「話せるところまで戻す方法を、もう一つ作ります」


イザベラが低く笑った。


「また作るのか」


「はい」


「便利な言葉だな、作るって」


「工場ですから」


馬車の中に、ほんの少しだけ息が戻った。


笑いではない。


けれど、壊れないための空気だった。


工廠の門が見えた時、鐘楼から短い鐘が鳴った。


リィンの合図だ。


緊急工程。


全員集合。


門をくぐると、作業場はすでに熱を持っていた。


セナが髪を乱したまま制御卓に張りついている。


ミルカは帰還灯一号の外殻を外し、内部の結晶線を抜き出していた。


サマラは食堂から持ち込んだ帳簿を床に広げている。


ノアは死者会計局の黒い箱を開き、誰にも読めない名簿を指でなぞっていた。


グレンは炉前で腕を組んでいる。


「遅い」


セナが言った。


「審問が長引きました」


「でしょうね。で、何を押しつけられました?」


「三十六時間で前線十名。十二時間でルカの移送停止」


セナは三秒だけ黙った。


それから、制御卓に額を打ちつけた。


「無茶の卸売りですか」


「小売りより効率がいいです」


「そういう冗談を言う体力はあるんですね」


ミルカが帰還灯の部品を掲げた。


「二号はルカに使うんだよね。一号を前線へ出す?」


「一号は九分しか持ちません」


「でも初期照射だけなら使える。意識を浮かせるだけなら九分は長い」


リゼットが頷く。


「前線運用は初期照射に限定します。個人帰還情報は使わない。共有帰属記録だけで意識を戻し、本人同意が取れた患者だけ第二段階へ」


イザベラが言った。


「第二段階用の灯りは?」


「三号を作ります」


セナが顔を上げる。


「材料は」


俊平は工廠を見渡した。


「第十三工廠の共有記録」


作業場が静かになった。


サマラが帳簿から顔を上げる。


「共有記録って、うちの?」


「食堂の鐘、作業札、寝台番号、交替表、修理記録、給与印。個人の奥深い記憶ではなく、ここで一緒に働いた事実です」


グレンが眉を寄せた。


「それを燃やすのか」


「燃やしません。貸します。使った後、工廠へ返す」


「返らなかったら」


「三号は失敗です」


ミルカが小さく言った。


「工廠の記録が欠けたら、みんなが帰る場所も欠ける」


「だから、同意を取ります」


俊平は作業場全体へ向き直った。


第十三工廠の労働者たちが、入口や足場や炉の影からこちらを見ている。


名前を知らない者もいる。


この世界へ来たばかりの頃なら、彼らは「人員」だった。


今は違う。


給与袋を受け取る手。


夜勤明けの顔。


食堂で薄いスープをすする背中。


壊れた機械の音に先に気づく耳。


誰かが欠ければ、工廠の音が変わる。


「帰還灯三号を作るために、第十三工廠の共有記録を一時貸与してほしい」


俊平は言った。


「個人の記憶は使いません。名前を奪いません。帰る場所も奪いません。ただ、この工廠がこの工廠であるという記録を、前線の患者を戻すための足場に使います」


誰もすぐには頷かなかった。


当然だ。


この都市では、貸したものは返ってこない。


痛みも。


時間も。


名前も。


みんな、そうやって奪われてきた。


グレンが前に出た。


「俺は貸す」


サマラが続いた。


「食堂記録も貸します。ただし、返ってこなかったら管理官の昼飯は三日抜きです」


「重い罰ですね」


「命に関わりますから」


セナが手を上げる。


「制御記録、貸与します。返還監査は私がやります」


ミルカも頷いた。


「機械の修理音も貸す。変な音になって返ってきたら、私が叩き直す」


リィンが鐘楼から降りてきた。


「鐘も貸す。でも、鐘の音は死者にも届くから、ノアにも聞いて」


ノアは黒い箱を閉じた。


「死者会計局として許可します。死者の名を燃やさないなら」


最後に、リゼットが書記板を掲げた。


「全員同意ではありません。反対者の記録は除外します。沈黙は同意に含めません」


俊平は頷いた。


「それでお願いします」


セナが小さく息を吐く。


「また面倒な仕組みを」


「面倒にしないと、奪われます」


「知ってます」


彼女は制御卓に新しい紙を貼った。


帰還灯三号。


共有帰属記録型。


個人帰還情報使用禁止。


反対者記録除外。


返還監査必須。


作業場の空気が変わった。


恐怖が消えたわけではない。


だが、恐怖に工程名がついた。


工程名がつけば、人は手を動かせる。


「二班に分けます」


俊平は言った。


「ルカ班。僕、ヘレナ、リゼット、ノア。帰還灯二号で初期照射を行い、帰還権保全申請を取る」


「前線班」


イザベラが先に言った。


「私、セナ、ミルカ、リィン。帰還灯一号を持って先発する」


「グレンさんとサマラさんは三号製造を」


グレンが頷く。


「炉は任せろ」


サマラが帳簿を抱えた。


「食堂の鐘は、ちゃんと返してくださいね」


俊平は深く頭を下げた。


「返します」


その時、作業場の入口に黒い制服の男が立っていることに気づいた。


誰も通した覚えがない。


だが、門番は止めていなかった。


黒炉都市の紋章の下に、錆びた鋤の印。


外縁開拓局。


男は灰色の帽子を取り、丁寧に一礼した。


「外縁開拓局、移送監督官バルド・レイスです」


声は穏やかだった。


畑の収穫量を報告するような、平らな声。


「ルカ・エルムの移送準備について、ご挨拶に」


ヘレナが一歩後ずさった。


俊平は男の前に立つ。


「移送は十二時間後のはずです」


「ええ。予定では」


バルドは薄い書類を取り出した。


「ただし、対象者の状態が移送に耐えない場合、外縁開拓局は現地で予備処理を行う権限があります」


「予備処理?」


「開拓用に、痛覚債権を固定します。石化が進んでいる者は割れやすい。感覚を一定の形で固めておく必要がある」


ヘレナの顔から血の気が引いた。


「それをしたら、ルカは」


バルドは少し困ったように首を傾げた。


「戻りにくくなります」


「戻りにくく?」


「正確には、戻る必要のある部分が減ります」


作業場の温度が一気に下がったようだった。


この男は、ルカを壊すと言っている。


壊すのではなく、開拓に適した形へ整えると言っている。


オルドとは違う。


オルドは白い仮面で隠していた。


バルドは隠さない。


人を資材として扱うことに、何の高揚も悪意も持っていない。


ただ、仕事として言っている。


「予備処理は拒否します」


俊平は言った。


「拒否権は、債務者本人か権利保全代理人にあります」


「ヘレナさんは家族です」


「痛覚債権の譲渡後、家族代理権は制限されます」


「では本人に拒否させます」


バルドは初めて微笑んだ。


「そのための意識があれば」


俊平は答えなかった。


答えれば、怒鳴ってしまう。


怒鳴れば、時間が減る。


バルドは懐中時計を見た。


「予備処理開始まで、八時間四十分」


「十二時間では」


「移送は十二時間後です。予備処理はその前に行います」


リゼットが素早く書記板を確認する。


「通知書には記載がありません」


「細則です。外縁開拓局移送規程、第五十七項」


「写しを」


「どうぞ」


バルドは薄い紙を差し出した。


リゼットが受け取り、読み進めるほどに表情が険しくなる。


「合法です」


その言葉が、床に落ちた。


合法。


この都市で一番冷たい刃。


俊平はバルドを見た。


「八時間四十分以内に、ルカ本人の帰還権保全申請を出せば、予備処理は止まりますか」


「止まる可能性があります」


「可能性」


「判断は医療契約課と外縁開拓局の合同確認になります」


「マグダ審理官に送ります」


「お好きに」


バルドは帽子をかぶり直した。


「私は制度に従うだけです。制度が止めろと言えば止めます。進めろと言えば進めます」


「人を見ていない」


「見ていますよ」


彼はヘレナを見た。


「姉がいる。名前がある。戻りたい場所がある。だから開拓に向いている」


ヘレナが息を止める。


「戻りたい者ほど、外縁では長く働きます。帰還への渇望は、熱になりますから」


俊平の視界が赤くなった。


グレンがバルドへ踏み出しかける。


俊平は手を上げて止めた。


「帰ってください」


「また来ます。八時間四十分後に」


バルドは静かに去った。


誰も追わなかった。


追えば負ける。


この都市は、怒った者を違反者に変えるのがうまい。


俊平は息を吐いた。


「予定変更です」


セナが嫌そうな顔をする。


「これ以上どう変えるんです」


「ルカ班の期限は八時間四十分。前線班はすぐ出発。三号製造は同時進行」


「寝る時間は」


「ありません」


「食べる時間は」


サマラが籠を差し出した。


「あります。手で食べられるものだけ作りました」


パンに黒い塩を挟んだだけのものだった。


それでも、誰も文句を言わなかった。


生きて手を動かすには、食べるしかない。




ルカは、第九施療院から第十三工廠の仮施療室へ移されていた。


移送停止の正式許可は出ていない。


だがマグダが審問一時閉廷の際に発した「資料保全命令」により、ルカは審問対象資料として一時的に固定された。


人間を資料と呼ぶことに、ヘレナは傷ついた。


それでも、資料である間だけ、ルカは運ばれずに済む。


制度は人を傷つける。


同じ制度で、人を少しだけ守ることもある。


俊平は、その矛盾を飲み込むしかなかった。


仮施療室の中央に、ルカが横たわっている。


胸から下は灰色の石に覆われ、喉のあたりまで細い亀裂が走っていた。


顔は少年のままだ。


けれどまぶたの裏に、黒い粉が沈んでいる。


帰りたいという気持ちまで、石にされかけている。


「ルカ」


ヘレナがそっと手を握る。


石の手は冷たい。


「姉さんだよ。聞こえる?」


返事はない。


リゼットが帰還灯二号の記録束を確認する。


「初期照射は共有帰属記録のみ。ヘレナさんの個人記憶は使いません」


ヘレナが頷く。


「私の名前でもだめですか」


「本人同意の前には使えません」


「姉なのに」


「姉だからです」


リゼットは静かに言った。


「ヘレナさんの記憶は、ルカさんにとって強すぎます。本人の意思が戻る前に使うと、ルカさんの帰りたい場所をこちらで決めてしまう」


ヘレナは目を閉じた。


「分かりました」


ノアが黒い箱を開く。


「死者の名は使わない。ただし、死者と混線した場合は分離する」


俊平は帰還灯の制御環に手を置いた。


コーデックスが視界に浮かぶ。


対象: ルカ・エルム。


状態: 石化進行、痛覚債権固定前。


使用可能情報: 第九施療院搬送記録、第十三工廠仮施療室入室記録、姉の発話音声。


警告: 姉の発話音声は個人帰還情報に接近。


俊平は姉の発話音声を除外した。


ヘレナが小さく息を呑む。


「私の声、使わないんですね」


「初期照射では使いません」


「はい」


彼女は泣きそうだった。


それでも、頷いた。


愛しているから使わない。


この都市では、それが一番難しい。


俊平は制御環を回した。


帰還灯二号に、小さな灯りがともる。


白ではない。


黒でもない。


炉の奥で燃え残った金色のような光。


「照射開始」


リゼットが記録する。


「一分」


ルカのまぶたが震える。


「二分」


喉の石に細い亀裂が入る。


「三分」


ルカの指がわずかに動いた。


ヘレナが口を押さえる。


声を出さない。


自分の声が強すぎると知っているから。


「四分」


ノアが箱を押さえた。


「死者が寄っている」


「誰です」


「外縁で名前を落とした者たち。帰還灯を道だと思っている」


俊平の背筋が冷える。


帰還灯は灯台だ。


灯台は、目的の船だけを呼ぶわけではない。


迷った者すべてが、光を見る。


「分離します」


「管理官同調は禁止です」


リゼットが即座に言う。


「分かっています」


俊平は工廠共有記録を薄く広げた。


仮施療室の扉。


搬入票。


寝台番号。


水を飲ませた時刻。


誰かが置いた毛布。


個人の深い記憶ではない。


そこにいたという、浅い事実。


ルカの周囲に、細い足場が組まれていく。


死者の影が、その足場の外側で揺れた。


ノアが死者の名簿を閉じる。


「ここはまだ生者の寝台です」


影が少し離れた。


「五分」


ルカの唇が動いた。


音は出ない。


ヘレナが震える。


俊平は帰還灯の出力を上げた。


警告: 共有記録返還率低下。


返還率: 93%


まだ大丈夫。


いや、大丈夫ではない。


七パーセントが欠けている。


七パーセントでも、工廠の誰かにとっては帰る足場だ。


「出力を戻します」


リゼットが言った。


「でも」


「返還率が下がっています。無理に上げると共有記録が欠けます」


俊平は歯を食いしばり、出力を下げた。


ルカの唇の動きが止まりかける。


ヘレナの手が、空中で迷う。


触れたい。


呼びたい。


けれど、まだ使えない。


「ルカさん」


リゼットが言った。


「ここは第十三工廠仮施療室です。あなたはルカ・エルムとして記録されています。聞こえたら、まぶたを動かしてください」


反応はない。


「六分」


ノアが低く呟く。


「外縁の影が増えた」


帰還灯の光の端に、黒い手のようなものが集まっている。


戻りたい者たち。


戻れなかった者たち。


外縁開拓局へ運ばれ、名前を摩耗させた者たち。


彼らはルカを奪おうとしているのではない。


一緒に帰りたいだけだ。


だから危険だった。


悪意のない重さは、拒みにくい。


俊平は台帳を開いた。


「外縁死者の一時待機記録を作ります」


ノアが目を見開く。


「そんなもの、死者会計局にもありません」


「今作ります。帰還灯に寄った死者を、患者の記録から分離して仮置きする。返せるものは後で死者会計局へ返す」


「死者にまで返還監査を?」


「混ざったら、ルカも死者も戻れません」


ノアは一瞬だけ笑った。


「あなたは本当に、面倒な生者ですね」


「よく言われます」


ノアが黒い箱を開き、空白の札を取り出した。


死者名仮置き。


帰還灯接近影。


個別名未確認。


患者記録混入禁止。


札を置いた瞬間、黒い手が少しだけ整列した。


戻れるわけではない。


それでも、列があるだけで影は落ち着いた。


「七分」


ルカの喉が震えた。


「……あ」


ヘレナが息を止める。


俊平は静かに言った。


「ルカ・エルムさん。聞こえますか」


少年のまぶたがわずかに開く。


灰色の瞳。


焦点は合っていない。


「ここは、外縁ではありません。第十三工廠です」


ルカの唇が動く。


「……さむい」


ヘレナの涙が落ちた。


「声を出さないで」


リゼットが小さく言う。


ヘレナは両手で口を塞いだ。


俊平は続けた。


「あなたは今、外縁開拓局へ移送されようとしています。止めるには、あなた自身の意思表示が必要です」


ルカの目が、少しだけ揺れた。


理解しているか分からない。


「あなたは、外縁開拓局へ帰りたいですか」


ルカは長い時間をかけて、まぶたを閉じた。


違う。


否定。


「あなたの帰る場所は、どこですか」


これは危険な問いだった。


帰る場所。


個人帰還情報に触れる。


だが、本人の意思表示には必要だ。


リゼットが緊張した声で言う。


「本人発話なら記録可能です。誘導しないでください」


俊平は頷く。


「あなたの言葉で、言えますか」


ルカの唇が震えた。


音にならない。


帰還灯の出力が落ちる。


残り時間が削れていく。


ヘレナがもう限界だった。


彼女は自分の胸を押さえ、声を殺して泣いている。


ルカの目が、その動きに向いた。


そして、ほんの少しだけ焦点が合った。


「……ねえ」


ヘレナが崩れそうになる。


「さん」


声は割れていた。


けれど、確かに言った。


姉さん。


リゼットが即座に記録する。


本人発話。


帰還先認識。


家族記録、本人起点。


俊平は問いを重ねる。


「あなたは、ヘレナさんのところへ帰りたいですか」


ルカの目から、灰色の涙が一筋流れた。


「かえ、る」


ヘレナが泣き崩れた。


帰還灯二号の灯りが一瞬強くなる。


警告: 個人帰還情報発生。


貸与同意確認未完了。


俊平はすぐに出力を抑えた。


「ルカさん。あなたの名前と帰る場所を、治療のために一時的に使うことを許可しますか。使った後、必ず返します」


ルカの呼吸が荒くなる。


「名前を、取られるの」


「取りません。借ります」


「返す?」


「返します」


「ほんとうに?」


俊平は答えようとして、止まった。


この都市で「必ず」と言うのは怖い。


だが、言わなければ同意にならない。


「返せなければ、使いません」


ルカはしばらく俊平を見た。


少年の目ではなかった。


痛みを債権にされ、石にされ、売られかけた者の目だった。


「じゃあ」


彼は小さく言った。


「貸す」


リゼットが筆を走らせる。


本人同意確認。


帰還権保全申請可能。


俊平はすぐに申請書へ切り替えた。


「ルカ・エルム本人の意思により、帰還権保全を申請。外縁開拓局への移送および予備処理の停止を求める」


ノアが死者会計局の印を押す。


リゼットが記録係として署名する。


ヘレナが家族証人として震える手で名を書く。


最後に、ルカが指を動かした。


石化した指では署名できない。


俊平は筆を握らせようとして、止めた。


握れないものを握らせるのは、同意の偽装だ。


「発話署名でいきます」


リゼットが頷く。


「記録します」


俊平はルカへ言った。


「あなたの名前を言えますか」


ルカは、息を吸った。


「ルカ」


「姓は」


「エルム」


「あなたは、外縁開拓局への移送を拒否しますか」


「拒否、する」


「あなたの帰る場所は」


「姉さんの、いるところ」


ヘレナが声を殺して泣いた。


帰還灯の灯りが、静かに弱まっていく。


俊平は照射を止めた。


ルカの目が閉じる。


石化は戻り始めた。


だが、喉の亀裂だけは完全には閉じなかった。


声の通り道が、少し残った。


リゼットが申請書を封印する。


「時刻、予備処理開始まで六時間五十二分」


「マグダ審理官へ送ってください」


「写しを外縁開拓局にも」


「はい」


ノアが黒い箱を閉じる。


「死者の仮置き札も送りますか」


俊平は頷いた。


「送ります。外縁で名前を落とした死者が、帰還灯へ接近した記録として」


「嫌がられますよ」


「嫌がるなら、見せる価値があります」




前線から最初の報告が届いたのは、その二時間後だった。


通信管の向こうで、セナの声が割れている。


「こちら前線仮施療所。帰還灯一号、初期照射開始。対象一名、意識浮上」


雑音の奥で、怒号と呻き声が重なる。


ミルカの声も聞こえた。


「出力安定しない! 前線の鐘、音がぐちゃぐちゃ!」


リィンが叫ぶ。


「鐘じゃない、砲声が混ざってる! 帰る音と死ぬ音が近すぎる!」


俊平は通信管に向かって言った。


「共有帰属記録を浅くしてください。食堂、寝台、交替札。戦闘記録は使わない」


イザベラの声が入る。


「戦闘記録を外すと、兵が自分を見失う」


「兵士である前に、生きている人間として戻してください」


短い沈黙。


それからイザベラが言った。


「了解」


通信管の向こうで、誰かが泣きながら名前を言った。


一人目。


意識回復。


本人同意確認。


第二段階保留。


俊平は記録した。


その後も報告は続いた。


二人目は成功。


三人目は意識が戻らず、照射中止。


四人目は自分の名前を言えたが、帰る場所を「隊」と答えた。


イザベラが第二段階へ進めようとした。


俊平は止めた。


「隊は帰る場所ですか、それとも命令系統ですか」


イザベラは沈黙した。


患者はもう一度問われた。


長い時間の後、「妹の店」と答えた。


第二段階へ進める。


五人目は、同意を拒否した。


「名前を貸したくない」と言った。


前線の空気が凍ったのが、通信管越しにも分かった。


イザベラが低く言う。


「拒否された」


俊平は目を閉じた。


「使用しないでください」


「死ぬかもしれない」


「それでも」


長い沈黙。


やがてイザベラが言った。


「了解」


その声は、ひどく疲れていた。


俊平は拳を握る。


助けるための仕組みが、助けたい手を止める。


それでも、ここで止めなければ、帰還灯は第九施療院と同じになる。


六人目、成功。


七人目、初期照射のみ。


八人目、同意確認。


九人目、死亡確認。


通信管の向こうで、リィンが泣いていた。


「鐘が、間に合わなかった」


俊平は何も言えなかった。


死者会計局の仮置き札に、ノアがひとつ線を引く。


名前は返せた。


命は返せなかった。


その違いが、重い。


十人目の報告が来た時、帰還灯一号の持続限界は近かった。


セナの声が震えている。


「一号、外殻温度上昇。これ以上は割れます」


ミルカが叫ぶ。


「でも対象十人目、意識浮上しかけてる!」


俊平は制御卓の数値を見る。


遠隔でできることは少ない。


「出力を下げてください」


「下げたら落ちる!」


「共有記録返還率は」


セナが叫ぶ。


「八十八!」


低い。


低すぎる。


「中止」


俊平は言った。


通信管の向こうが一瞬静かになった。


「管理官」


セナの声が冷たくなる。


「ここで中止したら、十人目は戻りません」


「返還率八十八で続けたら、共有記録が欠けます」


「欠けても、患者は戻ります」


「欠けた記録は誰かの足場です」


「分かってます!」


セナの声が割れた。


「でも、目の前で死にかけてるんです!」


俊平は息を吸った。


言葉が出ない。


正しい命令は、いつも誰かを傷つける。


「中止です」


彼は言った。


「責任は僕が取ります」


通信管の向こうで、金属が床に落ちる音がした。


ミルカの泣き声。


リィンの鐘。


イザベラの低い罵声。


そして、照射停止の報告。


十人目は安定化できなかった。


前線実績は、九名。


条件は十名。


俊平は制御卓に手を置いた。


指先が冷たい。


一人足りない。


たった一人。


けれど制度は、その一人で扉を閉める。


「管理官」


グレンが炉から声をかけた。


「三号、火が入るぞ」


工廠の中央で、帰還灯三号の外殻が組み上がっていた。


一号より小さい。


二号より不格好。


無数の札と帳簿の写しが、外側に巻かれている。


第十三工廠の共有記録。


誰かの深い記憶ではなく、みんなで踏んだ床の記録。


セナはいない。


ミルカもいない。


前線に出ている。


だから、三号の最終調整は俊平がやるしかない。


「返還監査を」


リゼットが立つ。


「私が見ます」


「ルカの申請は」


「送付済み。マグダ審理官から受領印が返りました。外縁開拓局は未回答です」


「バルドは」


「予備処理予定時刻まで、五時間十一分」


俊平は帰還灯三号に手を置いた。


コーデックスが視界に浮かぶ。


帰還灯三号。


共有帰属記録型。


初期照射性能: 中。


第二段階性能: 未確定。


返還監査: 不完全。


都市採用可能性: 低。


不正転用耐性: 中。


俊平は笑いそうになった。


低い。


中。


不完全。


そんなものばかりだ。


完璧な救いなど、この都市では試作図にすらならない。


「火入れ」


グレンが炉弁を開く。


黒炉から送られる熱ではない。


第十三工廠の補助炉。


弱く、鈍く、煤だらけの火。


だが、誰かの痛みを燃やしていない。


サマラが食堂の鐘を鳴らした。


リィンはいない。


だから鐘は少し不器用だった。


それでも、作業場に音が広がる。


帰還灯三号の中に、灯りが生まれた。


小さい。


しかし、消えない。


リゼットが叫ぶ。


「返還率、九十九」


グレンが吠えた。


「上等だ」


俊平は通信管へ飛びついた。


「前線班、聞こえますか。三号が点灯しました。すぐ送ります」


返事はすぐには来なかった。


雑音。


遠い爆発音。


それから、イザベラの声。


「送れ」


「十人目は」


「生きている。ぎりぎりだ」


「三号到着まで持ちますか」


「持たせる」


彼女の声は、刃のようだった。


「相模。私はまだ納得していない」


「はい」


「だが、命令には従った。十人目を勝手に照射しなかった」


「ありがとうございます」


「礼はいらない。三号を寄越せ」


「すぐに」


通信を切ると同時に、工廠の外で鐘が鳴った。


搬送鐘ではない。


来訪鐘。


重い三連。


外縁開拓局の鐘。


リゼットが青ざめる。


「早すぎます。予備処理まで五時間あるはず」


門が開く音。


足音。


バルド・レイスが、作業場へ入ってきた。


後ろには黒い担架班が四人。


全員が、顔を布で覆っている。


「予定変更です」


バルドは穏やかに言った。


「外縁開拓局は、ルカ・エルムの予備処理を前倒しします」


「理由は」


俊平が問う。


「帰還灯使用により、対象者の帰還欲求が増大したためです」


ヘレナが叫んだ。


「それは、帰りたいって言えたからでしょう!」


「はい」


バルドは頷いた。


「ですから、外縁労働資源として価値が上がりました」


グレンが今度こそ殴りかかろうとした。


俊平は止めなかった。


止めるより早く、黒い担架班の一人が書類を掲げた。


強制妨害時、工廠操業停止。


帰還灯三号、差押え。


第十三工廠、外縁協力義務違反。


グレンの拳が空中で止まった。


バルドは静かに続ける。


「抵抗すれば、前線へ送る三号も差し押さえます」


俊平は、喉の奥が焼けるのを感じた。


ここで抵抗すれば、ルカを守れるかもしれない。


だが三号が止まれば、前線の十人目が死ぬ。


抵抗しなければ、ルカが壊される。


制度は選択肢を二つに見せる。


どちらも人が死ぬように作られた二つを。


リゼットが震える手で書記板をめくる。


「管理官、外縁開拓局への回答期限はまだ残っています。前倒しの根拠が」


「細則第六十二項」


バルドが即座に言う。


「対象者の資源価値変動時、譲受局は保全処置を早めることができる」


「資源価値ではありません」


俊平は言った。


「ルカは人です」


「その議論は、基幹契約会議でどうぞ」


バルドは担架班へ合図した。


「対象者を確認します」


ヘレナがルカのいる仮施療室の扉の前に立った。


小さな体で、扉を塞ぐ。


「通しません」


バルドは困ったように眉を下げた。


「家族妨害は記録されます」


「してください」


「あなたの労働債務に加算されます」


「構いません」


「弟さんが戻った時、あなたの債務が増えていると悲しみますよ」


ヘレナの顔が歪んだ。


悪意がない声で、最も痛い場所を押す。


俊平は一歩前へ出た。


「バルド監督官」


「はい」


「ルカ本人の帰還権保全申請は提出済みです」


「承知しています」


「マグダ審理官の受領印もあります」


「確認しています」


「なら、合同確認前の予備処理は申請妨害です」


「いいえ。申請は受け付けられただけです。効力発生前の保全処置は可能です」


バルドは本当に制度だけを見ている。


だから、隙がない。


俊平は机の上の帰還灯三号を見た。


前線へ送る灯り。


十人目を救う可能性。


そして仮施療室の扉。


ルカ。


ヘレナ。


二つを同時に守る方法。


そんなものはない。


そう思った瞬間、コーデックスが視界に警告を出した。


外縁死者仮置き札、反応。


帰還灯三号、未登録影との接続可能。


俊平は息を止めた。


外縁の死者。


帰還灯二号に寄ってきた、名前を落とした者たち。


彼らは外縁開拓局に運ばれた者だ。


帰れなかった者だ。


なら、証人になれる。


「ノア」


俊平は低く言った。


「外縁死者の仮置き札を、帰還灯三号につなげますか」


ノアの顔が強張る。


「危険です。死者の帰還欲求が流れ込めば、三号は前線へ送れなくなるかもしれません」


「証言だけ取ります」


「死者の証言は、通常契約では弱い」


「外縁開拓局の労働記録に載っている死者なら?」


ノアが目を細めた。


「未返還資源として、局の記録に残っています」


「資源として記録しているなら、証拠になります」


バルドが初めて、ほんの少しだけ表情を変えた。


俊平は言った。


「外縁開拓局で予備処理を受けた者が、名前を失った記録を提示します。ルカの予備処理が帰還権を不可逆に損なう危険があるなら、合同確認前の処理は保全ではなく破壊です」


「死者の影を証拠に?」


バルドの声に、わずかな冷たさが混じる。


「死者会計局立会いで記録します」


ノアが黒い箱を抱えた。


「立ち会います」


リゼットも前に出る。


「第十三工廠記録係として記録します」


ヘレナが扉の前で涙を拭った。


「家族証人として、見ます」


バルドはしばらく黙った。


「その記録に法的効力があるとは限りません」


「効力が出るまで時間を稼げます」


俊平は答えた。


「あなたは制度に従うだけだと言いました。なら、記録中の対象に手を出せますか」


バルドの沈黙が答えだった。


制度は刃だ。


だが、刃と刃が噛み合えば、一瞬だけ止まる。


「記録時間は」


バルドが問う。


「三十分」


「長い」


「十五分」


「五分」


「十」


バルドは懐中時計を見た。


「十分快く待ちましょう」


俊平は頷いた。


十分。


ルカを守るには短すぎる。


前線へ三号を送るには長すぎる。


それでも、ゼロではない。


「始めます」


帰還灯三号が、工廠の中央で灯った。


外縁死者仮置き札が、黒く震える。


ノアが名簿を開く。


リゼットが筆を構える。


サマラが食堂の鐘を、今度はゆっくり鳴らした。


帰るための鐘ではない。


証言を始める鐘。


灯りの中に、影が立った。


一人ではない。


何人も。


名前の輪郭が削れた者たち。


手の形を忘れた者。


口だけが残った者。


目のない顔で、工廠の天井を見上げる者。


彼らは声にならない声で言った。


帰りたかった。


名前を預けた。


返らなかった。


戻るほど、遠くなった。


外縁の土は、帰り道を食べる。


ノアが記録する。


リゼットが記録する。


俊平は、歯を食いしばって聞いた。


バルドも聞いていた。


表情は変わらない。


だが、懐中時計を持つ指がわずかに強くなっている。


影の一人が、ルカの名札へ手を伸ばした。


奪うためではない。


止めるために。


行くな。


声にならない声が、そう言っていた。


その瞬間、通信管が鳴った。


前線からだった。


セナの声が飛び込んでくる。


「管理官! 三号はまだですか! 十人目、呼吸が落ちてる!」


工廠の全員が俊平を見た。


帰還灯三号は、今、死者の証言を記録している。


止めれば、バルドがルカを運ぶ。


続ければ、十人目が死ぬかもしれない。


俊平は、喉の奥で何かが切れる音を聞いた。


選べない。


選べないなら、工程を分ける。


「三号の灯りを分岐します」


リゼットが叫ぶ。


「無理です!」


「証言用と前線用に分ける」


「返還率が落ちます!」


「返還監査を二重にする」


「誰が」


俊平は帰還灯に手を置いた。


「僕が」


リゼットの顔が真っ青になる。


「管理官同調は禁止です」


「同調ではありません。記録監査です」


「言い換えです!」


俊平はリゼットを見た。


「止めてください。危なければ」


「止めます。絶対に」


「お願いします」


帰還灯三号の灯りが二つに割れた。


ひとつは工廠の中央に残り、外縁死者の証言を照らす。


もうひとつは通信管へ流れ、前線へ送られる。


コーデックスが赤く染まる。


警告。


返還監査負荷増大。


管理官記録への逆流可能性。


黒炉学習率上昇。


俊平は歯を食いしばった。


「前線班、受け取ってください」


セナの声が震える。


「受信。帰還灯三号、遠隔照射に接続」


「初期照射だけです」


「分かってます」


「本人同意が取れるまで第二段階へ進まない」


「分かってます!」


セナの叫びの奥で、十人目の患者の呼吸音が聞こえた。


細い。


今にも切れそうな糸。


「対象者へ問いかけ」


イザベラの声。


「聞こえるか。ここは前線仮施療所。お前の名前を言えるか」


長い沈黙。


俊平は同時に、工廠側の死者証言を監査する。


名前を預けた。


返らなかった。


外縁の土が覚えている。


証言が流れ込む。


前線の呼吸が流れ込む。


工廠の鐘が流れ込む。


俊平の中で、全部が混ざりかける。


その時、リゼットの声が鋭く響いた。


「管理官、戻って」


戻る。


どこへ。


一瞬、分からなくなった。


「相模俊平。第十三工廠管理官。帰還灯三号監査中。あなたは証言ではありません」


リゼットの声が、釘のように意識を留めた。


あなたは証言ではありません。


俊平は息を吸った。


自分の名前が戻る。


前線から、かすかな声が聞こえた。


「……カイ」


イザベラが叫ぶ。


「姓は」


「……ロウ」


「帰る場所は」


「鍛冶場」


「同意するか。名前と帰る場所を治療のため一時貸与する。返せなければ使わない」


長い沈黙。


「返せ」


患者が言った。


「絶対、返せ」


セナが泣きそうな声で言う。


「同意確認」


ミルカが続ける。


「第二段階、最小出力で入る!」


俊平は工廠側の灯りを保つ。


外縁死者の証言が、最後の一つにまとまる。


名前は判読できない。


だが、記録番号が残っていた。


外縁開拓局、予備処理済み。


帰還情報返還記録なし。


死亡後も債務残存。


ノアがその番号を読み上げた。


リゼットが写す。


バルドの顔から、初めて微笑みが消えた。


「その記録は」


「あなたの局の記録ですね」


俊平が言う。


バルドは答えない。


答えないことが答えだった。


通信管の向こうで、セナが叫んだ。


「十人目、安定化! 痛覚抽出なし、個人帰還情報返還率、九十八!」


作業場に、誰かの息が爆発した。


十名。


条件達成。


だが喜ぶ間はなかった。


リゼットが外縁死者の記録束を封印する。


「外縁予備処理による帰還情報未返還の証拠、取得」


ノアが死者会計局の印を押す。


「死者会計局、証言保全」


俊平はバルドへ向き直った。


「合同確認前の予備処理は、帰還権を不可逆に損なう恐れがあります。証拠があります」


バルドは懐中時計を閉じた。


「医療契約課へ確認します」


彼は通信札を取り出し、短い暗号を送った。


待つ時間が長かった。


一分。


二分。


三分。


ルカの仮施療室から、かすかな呼吸音。


前線から、十名安定化の追加報告。


帰還灯三号は灯りを弱め、外殻に細い亀裂を入れている。


やがて、バルドの通信札が鳴った。


彼は内容を読み、帽子を取り直した。


「医療契約課主任審理官マグダ・クラインより通達」


作業場が静まり返る。


「ルカ・エルムに対する予備処理を一時停止。帰還権保全申請を受理。外縁開拓局への移送は、基幹契約会議予備審査まで凍結」


ヘレナがその場に崩れ落ちた。


リゼットが支える。


グレンが大きく息を吐く。


サマラは食堂の鐘を抱きしめていた。


俊平は膝から力が抜けそうになるのを、どうにか耐えた。


止まった。


完全に救ったわけではない。


凍結。


一時停止。


まだ薄い氷の上だ。


それでも、ルカは今夜、運ばれない。


バルドは俊平を見た。


「見事な手続きでした」


「褒められる気がしません」


「褒めています。外縁では、手続きを作れる者が一番長く生きます」


「外縁に行くつもりはありません」


「いずれ来ますよ」


バルドは穏やかに言った。


「帰還権を基幹契約会議に載せるなら、外縁の記録は避けられません。黒炉都市で最も多く帰還権が欠けている場所は、外縁ですから」


俊平は黙った。


バルドは担架班を連れて去っていく。


扉の前で一度だけ振り返った。


「それと、相模管理官」


「何ですか」


「あなたの帰る場所は、どこですか」


作業場が静まった。


俊平は答えられなかった。


日本。


元の世界。


第十三工廠。


どれも正しいようで、どれも契約書に書けない。


バルドはその沈黙を見て、少しだけ目を細めた。


「帰る場所を定義できない者が、帰還権を守ろうとしている。興味深い」


彼は去った。


外縁開拓局の鐘が遠ざかる。


俊平は帰還灯三号を見た。


亀裂だらけの外殻。


それでも、灯りは消えていない。


通信管から、イザベラの声が聞こえた。


「相模」


「はい」


「十名、安定化した」


「確認しました」


「拒否した五人目は、生きている。照射なしで、まだ持っている」


俊平は目を閉じた。


「よかった」


「よかったのかどうか、分からない」


「僕もです」


「だが、あいつは自分で拒否した。私は、それを守った」


「はい」


「ひどい仕組みだ」


「はい」


「でも、ひどくない仕組みを作るには、たぶん必要なんだろう」


イザベラの声は、疲れていた。


けれど、折れてはいなかった。


「前線班、帰還灯一号と三号を持って帰投します」


「お願いします」


通信が切れた。


工廠に静けさが戻る。


ヘレナが仮施療室の扉にもたれたまま、泣いていた。


リゼットは記録をまとめている。


ノアは外縁死者の仮置き札を黒い箱へ戻していた。


グレンは炉を落とし、サマラは食堂の鐘を拭いている。


誰も勝利とは言わなかった。


勝利にしては、失ったものが多すぎる。


それでも、条件は揃った。


前線十名。


ルカの移送凍結。


外縁予備処理の証拠。


帰還権を基幹契約会議へ上げるための材料。


俊平は台帳を開く。


新しい項目を書いた。


帰還権。


本人の名前、帰る場所、戻りたい意思を、売却不可、徴収不可、担保化不可とする基幹権利。


未定義事項。


帰る場所を持たない者。


帰る場所を奪われた者。


帰る場所を答えられない者。


そして。


異世界から来た者。


ペン先が止まる。


俊平は、自分の名前を書きかけてやめた。


まだ書けない。


書いた瞬間、黒炉都市がそれを読む気がした。


工廠の奥で、黒炉へ続く管が低く鳴った。


まるで笑っているようだった。


リィンがいない鐘楼で、鐘がひとつだけ勝手に鳴る。


戻りたい鐘。


戻れない鐘。


俊平は台帳を閉じた。


次の審問まで、残り二十四時間。


帰還権は、まだ言葉になったばかりだ。


言葉になったものは、守れる。


同時に、奪われる。


第十三工廠は、奪われる前に制度へ打ち込まなければならない。


釘のように。


灯台の杭のように。


誰かが帰る時、足場になるように。




ここまで読んでくださりありがとうございました。


第18話では、ルカの帰還権保全と、前線十名の安定化を同時に進めました。


ルカはひとまず移送凍結となり、前線でも十名の条件を達成しました。


ただし、完全な勝利ではありません。


外縁開拓局のバルドは、オルドとはまた違う種類の怖さを持つ人物です。


悪意ではなく、制度と仕事の顔で人を資源として扱う。


黒炉都市の暗さを別方向から見せる役として出しました。


また、今回の最後で俊平自身の「帰る場所」が問われました。


帰還権を守ろうとする本人が、自分の帰還先を定義できていない。


この矛盾は、今後かなり大きな意味を持ってきます。


次回は、帰還権を基幹契約会議へ上げるための準備と、黒炉側の反応に踏み込んでいく予定です。


引き続き読んでいただけたら嬉しいです。


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