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閉店する喫茶店で、七年前に貸した傘を返されました

作者: 銀細工ナギ
掲載日:2026/05/27

 閉店の日に雨が降るなんて、喫茶あまやどりらしいですね、と常連さんたちは笑った。


 私は笑えなかった。


 六月三十日、午後四時。青葉通り商店街の古びたアーケードを、梅雨の雨が太鼓みたいに叩いている。磨いても消えない輪染みのついたテーブル、壁際の振り子時計、祖母の代から使ってきた銅のやかん。二十席しかない店内には、花束と「お世話になりました」と書かれた菓子箱が増えていくばかりだった。


 入口のガラス戸には、私が三日前に書いた紙が貼ってある。


『喫茶あまやどりは、本日十八時をもって閉店いたします。五十二年間ありがとうございました』


 書いたのも貼ったのも私なのに、通るたび文字を読まずにはいられない。


「澪ちゃん、ブレンドをもう一杯ちょうだい。最後だと思うと、帰りにくくてさ」


「最後だからこそ、飲み過ぎないでくださいよ。夜、眠れなくなります」


「そういう小言まで文子さんそっくりになったなあ」


 窓際の戸塚さんが楽しそうに笑う。祖母の名前を出されると、胸の底に溜まったものが少しだけ揺れた。


 喫茶あまやどりは、祖母の小川文子が二十三歳で開いた店だ。駅で電車を待つ人、傘を忘れた学生、買い物に疲れた近所の人が、一杯分の時間を休める場所だった。


 二年前、祖母が手首を痛めて姉の家へ移ってからは、孫の私が店を任されている。大学を出て勤めた洋菓子店を辞め、戻ってきたときは「おばあちゃんが治るまで」のつもりだった。


 そのまま二年が過ぎた。


 そして、アーケードの老朽化と駅前再整備が決まった。


 この一帯の店舗は夏から順に取り壊され、新しい駅前広場には、小さな貸店舗が八区画だけ作られる。旧商店街の店主には応募資格があると説明会で聞いたけれど、私は申込用紙を厨房の引き出しへしまったままにしていた。


 祖母の店を、私が勝手に似た姿で作り直していいのかわからなかった。


 何より、私自身が続けたいのか、ただ終わらせる勇気がないだけなのか、わからなかった。


「いらっしゃいませ」


 ガラス戸の鈴が鳴り、私は考えをコーヒーの湯気に隠して顔を上げた。


 入ってきた人は、戸口でしばらく動かなかった。濡れた黒髪を短く整え、白いシャツの袖を肘までまくり、肩には図面筒らしい細長いケースを提げている。


 見覚えのない大人の姿だった。


 けれど右手に持っている紺色の傘を見た瞬間、名前が口からこぼれた。


「瀬尾、くん?」


「久しぶり、小川」


 瀬尾航平は、高校の卒業式以来、一度も会っていなかった同級生だった。


 雨粒を落とす傘の持ち手には、黄色い糸が結んである。私が高校生の頃、貸し傘と店の傘を見分けるために、不器用に巻いた糸だ。紺色の布は新品みたいに張りがあるのに、木製の持ち手にある小さな傷だけは覚えている。


「それ……」


「返しに来た。ずいぶん遅くなったけど」


 航平は傘を閉じたまま、両手で差し出した。


「貸し傘帳、まだある?」


 七年前の春が、雨の匂いを連れて戻ってきた。


 卒業式の日も、今日と同じように雨だった。


 同じクラスだった航平は、三年生になってから放課後によく店へ来た。窓際の席でノートを広げて、駅舎やベンチや屋根のスケッチをしていた。コーヒーは苦手だからと、いつもミルクの多いカフェオレを頼んだ。


『建築、勉強したいんだ。雨の日でも人が外にいたくなる場所を作ってみたい』


 進学で東京へ行くと聞いたとき、私は「すごいね」としか言えなかった。私も県外の製菓学校へ行くことになっていたのに、その先の話をしたら離れるのが現実になる気がした。


 卒業式の帰り、彼はびしょ濡れであまやどりへ来た。傘が風で折れたというので、私は傘立てから一番丈夫な紺色の傘を渡した。


『これ、貸し傘だから。返却期限は……卒業生割引で、いつでもいいよ』


『そんな期限、甘すぎない?』


『じゃあ、ちゃんと帰ってきた日まで』


 そう答えた私を、航平は驚いたように見て、それから大事な約束をする顔で頷いた。


『必ず返す』


 東京での住所も、好きだという一言も聞けないまま、彼は雨の向こうへ歩いていった。


 私は何度か、店の鈴が鳴るたびに紺色の傘を探した。そのうち学校と仕事で町を離れ、祖母から送られてくる短い手紙にも、彼が来たという知らせはなかった。


 忘れたつもりだった。返されない傘は、返事の代わりなのだと。


「……七年延滞は、うちの貸し傘史上最長かも」


 やっと出てきた言葉がそれだった。


「申し訳ない。延滞料は払う」


「傘一本で破産させるような店ではありません」


「それなら、まずコーヒーを一杯注文してもいいかな」


 彼は困ったように笑った。高校時代より頬が少し痩せ、笑ったとき目尻に薄い線ができる。それを見つけた自分が、ひどく落ち着かなかった。


「カフェオレでなく?」


「今はブレンドが飲めるようになった」


「大人になったんだね」


「小川に言われると、試験されてる気分になるな」


 私は彼をカウンターの端へ案内し、豆を量った。手順は身体に染みているはずなのに、ドリッパーへ湯を落とす指が少しだけぎこちない。


 常連さんたちは事情を聞きたそうな目をしていたが、ありがたいことに声は掛けてこなかった。代わりに戸塚さんが会計を済ませると、私にだけ聞こえる声で「閉める時間までは店主の好きにしな」と言った。


「どうぞ。最後の日のブレンドです」


 航平はカップを受け取り、まず香りを吸い込んだ。そして、ひと口飲んで目を伏せた。


「うまい。文子さんのより、少し軽い」


「祖母は深煎りが好きだったから。私は、雨の日には後味が軽いほうがいいと思って」


「小川のコーヒーなんだな」


 当たり前のことを言われただけなのに、胸に熱い滴が落ちた気がした。


 私は布巾で、もう乾いているカウンターを拭いた。


「どうして、今日?」


 聞かないでおこうと思ったのに、声は勝手に出た。


「閉店を知っていたの?」


「一週間前に戻ってきて、貼り紙を見た。今日まで、入る勇気が出なかった」


「七年ぶんの最後の一週間?」


「怒って当然だと思う」


 航平はカップを置き、傘を見た。


「大学へ行った春、父が倒れて、実家を引き払って母と東京へ移った。連絡先を交換しなかったことを、あのとき初めて本気で後悔した。店へ手紙を出すくらいできたのに、何を書けばいいのかわからないまま時間だけ経った」


「傘を返したい、で済んだでしょう」


「そうだな。返したら、もう小川に会う理由がなくなるのが怖かった」


 雨音が、近い。


 私は返事をしなかった。嬉しいなどと思ったら、七年待った十八歳の自分に申し訳ない気がしたし、今の彼を一言で許してしまうほど、私は素直でもなかった。


「持ち手は同じだけど、布、張り替えた?」


「二度ほど。破れた傘を返すわけにもいかなかったから」


「それだけ丁寧に修理するなら、宅配便というものもあったのに」


「返すときは、自分でここへ持ってくると決めていた。本当に、自分勝手だと思う」


 謝る横顔に、格好のよい言い訳はなかった。それがかえって困る。


「それで、戻ってきたのは傘のため?」


「仕事のためでもある」


 航平は肩に掛けていた筒を床へ置いた。


「俺は設計事務所で、駅や広場の屋根と植栽を担当してる。汐見の駅前整備にうちの事務所が入って、現場調整で戻ることになった」


 私は手を止めた。


「新しい広場を設計する側なの」


「基本計画を決めた側じゃない。取り壊しを決める権限もない。ただ、これからできる場所の一部には関わる」


 航平は図面筒から一枚の紙ではなく、折り畳まれた市の案内用紙を出した。私の引き出しにも入っている、移転希望店舗向けの応募要項だった。


「旧商店街の店が優先応募できる小型区画、受付は今日の二十時までだ。応募するかどうかは、もう決めた?」


「しない」


 自分でも驚くほど、答えは早かった。


「ここは祖母のお店だから。新しい建物に名前とカップだけ運んで、同じ店ですって顔をするつもりはない」


「同じ店にしなくていいんじゃないか」


「簡単に言わないで」


 声が強くなり、残っていた客がこちらを見た。私は慌てて小さく頭を下げる。


「ごめん。でも、瀬尾くんに言われたくない。七年いなかった人に、続ければいいなんて」


「続けろとは言わない」


 航平はまっすぐこちらを見た。


「ただ、応募しなかったことを、閉店したあとに小川が誰かのせいにするのが嫌だった。文子さんのためでも、商店街のせいでも、俺が遅く帰ったせいでもなくて、小川自身が選んだと言えるなら、それでいい」


「……私のこと、知っているみたいに言うね」


「知らない。だから今日、知り直したいと思って来た」


 そんな言葉を、七年前の彼は言えなかっただろう。私も、今だからこそ傷つくほど正確に受け取ってしまう。


 壁の時計が五時を告げた。


 外の雨は弱くなるどころか、アーケードの排水溝から溢れそうな勢いになっている。店内にいた最後の二組が、スマートフォンを見ながら困った顔になった。


「あら、電車止まっちゃったみたい。線路が冠水だって」


「バスも遅延だ。お嬢ちゃん、悪いけど、もう少し雨宿りさせてもらえるかな」


「もちろんです。十八時までは開いていますから」


 そう答えたとき、外から高校生らしい女の子二人が駆け込んできた。制服の肩が濡れ、一本の折り畳み傘を二人で使ってきたらしい。


「すみません、ここ、まだ入れますか? 駅が閉まってて」


「どうぞ。タオルを持ってきます」


 身体が先に動いた。棚から清潔なタオルを出し、冷房を弱め、温かい紅茶のメニューを示す。


「閉店の日なのに、すみません」


「雨宿りするための店ですから」


 口にした瞬間、祖母の決まり文句を自分の声で言ったことに気づいた。


 航平は黙ってカウンターを降りると、濡れた床に置かれた注意看板を入口へ移した。


「手伝ってもいい? 資格の要らない範囲で」


「じゃあ、傘袋を広げて、濡れた傘をこちらへ。コップを触るのはまだ許可しません」


「了解、店主さん」


 店主さん。


 祖母の代役ではなく、そう呼ばれた音が耳に残った。


 五時半には、店内は閉店日とは思えないほど賑やかになっていた。電車の再開を待つ会社員、買い物帰りの親子、向かいの花屋の店主まで、雨から逃げ込んでくる。


 冷蔵庫には、今日使い切る予定の生クリームと卵が残っていた。私は手書きの札をカウンターに立てる。


『本日限り 雨宿りプリン』


「澪ちゃん、それ、文子さんの固いプリンかい?」


「配合は祖母のですが、カラメルは私のほうが苦いです」


「じゃあ、そっちをもらおう。閉店前に孫の味も覚えておかないとな」


 戸塚さんが戻ってきていた。きっと雨だけが理由ではない。


 オーブンから出したプリンを冷やしている暇はないから、作っておいた分を器へ移す。コーヒーを淹れ、紅茶を注ぎ、子どもには温めたミルクへ少しだけ蜂蜜を落とす。


 航平は言われたことだけを手際よくこなした。傘を整え、空いた椅子を運び、年配のお客さんが立つと入口まで足元を気遣う。テーブルの位置を変えるとき、通路が狭くならないよう一度しゃがんで目線を確かめた。


「やっぱり、設計する人なんだ」


 私が呟くと、彼は椅子を抱えたまま振り返った。


「何が?」


「人の通るところを先に見てる」


「この店で教わったからな。荷物を置く人、杖をつく人、濡れたコートを脱ぐ人。同じ席でも、必要な幅が違う」


「高校生がそんなこと見てたの?」


「見てたよ。小川が、客が座る前に椅子を少しずつ動かしてたから」


 私は持っていたトレイを落としかけた。


「私、そんなことしてた?」


「してた。俺がこの店を好きだった理由の、かなり大きな部分」


 どちらの意味で言ったのかを聞く余裕はなかった。紅茶の注文が三つ入り、私は厨房へ逃げるように戻った。


 十八時、閉店予定の時刻になった。


 雨はさらに激しくなり、商店街の放送が、駅前道路の一部通行止めを告げる。誰も追い出せる天候ではない。


 私は入口へ行き、閉店の貼り紙の下に、太いペンで一枚足した。


『雨が弱まるまで営業します』


 戸塚さんが拍手をして、女子高生がほっとしたように笑った。


 カウンターへ戻ると、祖母から着信が入っていた。店の電話ではなく、私の携帯へだ。


「もしもし、おばあちゃん」


『澪、そっちは雨がひどいんだって? ニュースで見たよ。店は閉められたの』


 相変わらず張りのある声に、ふいに喉が詰まった。


「まだ。雨宿りのお客さんが多くて、延長営業中」


『そう。じゃあ、豆が足りないんじゃないかい。二階の物入れに、私の隠し在庫が一袋あるよ』


「隠してたの?」


『最終日にあんたが足りなくすると思ったからね』


 祖母は電話の向こうで、いたずらっぽく笑った。


『申込書は、どうしたの』


「……まだ、引き出し」


『そうかい』


 責める声ではなかった。だからこそ、私は聞いてしまった。


「おばあちゃんは、続けてほしい?」


『私の店なら、今日で十分よ。五十二年も働いたんだから』


 きっぱりした答えだった。


『澪。あんたは、私が倒れそうだから仕方なく二年も店に立てるほど、辛抱のいい子じゃないよ。嫌なら三日で顔に出る。続けるなら、私の店を残すんじゃなくて、自分が開く店にしなさい。閉めるなら、胸を張って鍵を返しなさい』


 厨房から、店内が見える。


 濡れた鞄を膝に載せた女の子たちが、プリンを一匙ずつ味わっている。戸塚さんは隣の席の会社員に、祖母の昔話を聞かせている。航平は傘立てへ入りきらない傘を、空の珈琲豆箱へ立てていた。


 その景色の中心にいる自分を、私は二年間、仮の店番だと思い込んでいた。


 コーヒーの味を軽くしたのも、プリンのカラメルを苦くしたのも、雨の日に蜂蜜ミルクを出すようになったのも、私だ。


 それを好きだと言ってくれる人がいるのを、終わる日まで認めないふりをしていた。


「おばあちゃん。新しい店、席は十二くらいになりそう」


『掃除が楽でいいじゃないか』


「貸し傘帳を持っていってもいい?」


『あれはもう、あんたが管理してきたものでしょう。ずいぶん長く借りたままの男の子の名前もあったねえ』


「知ってたの?」


『傘を待つ孫の顔くらい、わかるよ。で、返ってきたのかい』


 私は傘立ての紺色を見た。航平がちょうどこちらに気づき、何か必要かと眉を上げる。


「うん。今日、返ってきた」


『それなら、延滞料は高くお取り』


 笑って電話を切ったあと、私は厨房の引き出しを開けた。


 申込用紙は、折れも汚れもなく入っていた。その下には、物件の平面図に私が鉛筆で描いた十二席の配置案がある。見ないふりをしていただけで、私はとっくに新しい店を想像していた。


「瀬尾くん」


 呼ぶと、航平がすぐにカウンターへ来た。


「この応募、あなたが選考するの?」


「しない。俺たちは広場の共用部分の設計担当で、店舗選考は市と運営会社。知り合いが応募するなら、俺はその区画の個別打合せからも外れる」


「そう」


 私は胸の前で、申込用紙を一度抱えた。


「だったら、出す。私の店として応募する」


 彼の顔に浮かんだ喜びを見て、すぐ釘を刺す。


「瀬尾くんが来たから続けるんじゃないよ。祖母に言われたからでもない。私が、明日からも雨の日にコーヒーを淹れたいから」


「うん」


 航平は、笑う前に一度しっかり頷いた。


「その店に、客として行きたい」


「ブレンドを飲めるようになったお客さんなら歓迎します」


 応募には営業計画の短い欄があった。私は店の合間に、ボールペンで一文字ずつ書き込んでいく。


『雨の日にも、電車を待つ日にも、立ち止まる場所が必要な方へ、珈琲と小さな甘味を提供します。旧あまやどりの貸し傘の仕組みを引き継ぎ、新たに地域の本を交換できる棚を設けます』


 書いているうちに、まだない店の匂いがするようだった。


「店名は?」


 航平が、紙の空欄を指した。


 喫茶あまやどりをそのまま使えば、祖母の店の二号店になる。まったく別にすれば、この二年間まで置いていくような気もした。


 窓の向こうで、街灯が雨粒を淡く照らす。傘を差して歩く人の頭上にだけ、小さな屋根がいくつも浮かんでいる。


「喫茶あまやどり、のあとに、小さく『澪』ってつける」


「読み方は?」


「みお。水が通る道って意味もあるから。雨が流れて、またどこかへ歩いていくための店」


「いい名前だ」


「審査担当じゃない人の感想として、受け取っておきます」


 応募窓口は、通りを挟んだ再整備案内所に設けられた投函箱だ。締切は二十時。当日消印のような優しい制度はない。


 時計は十九時二十分を示していた。


 ちょうどその頃、雨脚が少しだけ弱まり、駅も折り返し運転を始めるという通知が流れた。客たちは名残惜しそうに、しかし安心した顔で席を立った。


「澪ちゃん、新しい店、出すのかい」


 戸塚さんが会計皿に代金を置きながら、申込書を見た。


「まだ選ばれるかわかりませんけど」


「選ぶ人に言っとくれ。ここのプリンが食べられなくなったら、駅前で迷子になる老人が増えるって」


「脅迫は審査に不利なので、普通に応援してください」


 笑いながら、私は最後の客たちを送り出した。女子高生二人には貸し傘を一本ずつ渡す。


「返すの、来月になっても大丈夫ですか」


「大丈夫。新しい店の場所が決まったら、入口に張り出しておくから」


「絶対返しに行きます。プリンも食べます」


「約束ね」


 二本の黄色い糸が、紺色の傘の隣から雨の町へ開いていった。


 十九時四十分。私は店内の灯りを半分落とし、申込書を透明な書類袋へ入れた。


「行ってくる」


「俺も行く。傘を貸してもらった恩がある」


「もう返したでしょう」


「今日は、俺が貸す番だ」


 航平は、七年前の紺色の傘を開いた。張り替えられた布が、店の明かりを受けて静かに艶めく。


 傘は大人二人で入るには、少し狭かった。


 私が右肩を濡らさないようにすると、航平の左肩が雨の中へ出る。傘を彼のほうへ押し返せば、今度は私の髪に滴がかかる。


「七年も持ってたなら、大きい傘に改造しておけばよかったのに」


「二人で使う予定が立っていなかったからな」


「それ、自業自得だからね」


「本当にそう思う」


 商店街の店々はほとんどシャッターを下ろしていた。かつて果物屋だった場所、祖母と買い出しに行った乾物店、放課後に航平が自転車を止めていた柱。そのすべてを、雨がやわらかく洗っている。


「小川」


「なに?」


「俺がここへ戻ったのは仕事がきっかけだけど、希望を出したのは汐見の案件だったからだ」


 歩く速さが、少し落ちた。


「大学の課題でも、就職してからの設計でも、気づけば屋根の下にコーヒーを飲める場所を描いていた。俺が場所を考えるとき、最初に思い出すのはこの店と、カウンターで笑う小川だった」


「……それを、七年前に言ってくれたらよかったのに」


「うん。遅すぎた。でも、遅いから言わずにいるのも、もうやめる」


 案内所の庇が見えてきた。白い投函箱が、蛍光灯の下にぽつんと置かれている。


「俺は、ずっと小川が好きだった。帰ってきて、今の小川がコーヒーを淹れるのを見て、思い出じゃなくて今も好きだと思った」


 雨の夜はずるい。どれだけ心臓がうるさくても、外には聞こえない。


 私は申込書の袋を両手で持ち直した。


「瀬尾くん。私、今日の昼まで、閉店したら市外のホテルの喫茶部門に応募しようと思ってた。誰も私を知らないところで、決められたメニューを出すほうが、楽かもしれないって」


「うん」


「新しい店を始めるなら、たぶんすごく忙しい。落ちても立て直さなきゃいけないし、受かっても準備で余裕がなくなる。七年前の続きを、綺麗な思い出みたいには始められないよ」


「綺麗でなくていい。忙しい小川に、会う順番を予約させてほしい。返事を急がせるつもりは」


「予約なら、最初の一件を受け付けます」


 航平が言葉を止めた。


 私は息を吸う。コーヒーではなく、雨と濡れたアスファルトの匂いがした。


「私も、高校のとき瀬尾くんが好きだった。今日、いきなり七年分をなかったことにはできないけれど、ブレンドを飲んでくれる瀬尾くんを、もう少し知りたい。だから、新しい店がなくても、会いに来て」


「……それは、客として?」


「最初の一回は、延滞料の支払いとして。二回目からは、デートかどうか相談しましょう」


 航平は、泣きそうにも見える顔で笑った。


「七年分なら、何回来れば払い終わる?」


「私が決めるから、相当かかります」


「よかった」


 なぜ、と聞く代わりに、私は一歩前へ出た。


 案内所の投函箱へ、申込書を落とす。小さな紙の音が、ことん、と未来の底へ届いた。


「出した」


「おめでとう、店主さん」


「まだ応募しただけ」


「それでも、小川が自分で最初の扉を開けた日だろう」


 航平が私へ傘の柄を差し出した。


「これは、正式に返却。貸し傘帳にも書かないとな」


「店に戻って、最後の仕事をしてから閉めます」


「手伝わせてください」


 帰り道、傘は私が持った。航平の肩が入るように意識して傾けると、彼が少し驚いて、けれど何も言わず隣へ近づいた。


 店に戻る頃には、雨は糸のように細くなっていた。


 閉店時刻を二時間も過ぎた店内には、コーヒーとプリンの甘い匂いがまだ残っている。私はレジを締め、カップを洗い、最後に入口の貼り紙を剥がした。


 航平はカウンターで、分厚い貸し傘帳を開いていた。


「これか。俺の行がある」


 七年前の頁は、紙の端が少し黄ばんでいる。


 日付。貸出傘番号、六番。氏名、瀬尾航平。目的地の欄には、当時の彼の丸い字で『東京へ行く前に、駅まで』とある。


 返却日の欄だけが、長いあいだ空白だった。


 私は彼へボールペンを渡した。


「返却日と、ひと言をお願いします」


「店主さん、見ててもいい?」


「帳面は店の記録なので」


 航平は姿勢を正し、ゆっくり書いた。


『七年後の六月三十日 返却。借りた傘のおかげで、帰る場所を見失わずに済みました。次は二人で雨宿りに来ます』


「最後の一文、まだ確定じゃないと思うんだけど」


「予約の希望欄ということで」


「そんな欄はありません」


 私が笑うと、彼も笑った。


 私は貸し傘帳を閉じる前に、頁の余白へ店主として追記した。


『延滞料として、珈琲の約束を受領。返却完了』


 入口の鍵を回す。五十二年間、祖母の店を守ってきた鈴が、最後に小さく鳴った。


 寂しくないわけではなかった。明日ここへ来ても、コーヒーを淹れることはできない。椅子も棚も運び出し、いつか建物ごと消えてしまう。


 それでも私は、鍵を握ったまま立ち尽くさなかった。


「お疲れさま、喫茶あまやどり」


 呟いてから、隣に立つ航平を見る。


「帰る前に、祖母へ報告の電話をします。延滞料を取り始めたって」


「文子さんには、相当叱られそうだな」


「それでも逃げない?」


「もう、返すのを遅らせるのは懲りたから」


 私は紺色の傘を開いた。


 雨はまもなく止みそうだったが、駅までの道を二人で歩くには、まだ十分に降っている。


 三か月後、新しい駅前広場の一角に、十二席の店が開いた。


 白い壁に青い小さな看板を掲げる。


『喫茶あまやどり 澪』


 窓際には祖母から譲られた振り子時計と、革表紙を新しくした貸し傘帳。入口の傘立てには、黄色い糸の傘を六本用意した。その六番だけは、貸出中ではなく、特別に店の奥へ置いてある。


 開店初日の夕方、予報どおり雨が降った。


 ガラス戸の鈴が鳴り、濡れた肩を払って航平が入ってくる。広場の設計業務からは申告どおり私の区画分を外れ、それでも開店準備中は仕事帰りに何度も、客としてコーヒーを飲みに来た人だ。


「いらっしゃいませ。お一人ですか」


「今日は待ち合わせです」


「どなたと?」


「延滞料の計算が厳しい店主さんと」


 私はカウンターに予約席の札を置いた。閉店後の二十分、最初から決めてあった席だ。


「本日の請求は、ブレンド一杯と、私が駅まで帰るための傘係です」


「喜んで」


 私は彼のために豆を挽く。


 雨粒が新しい屋根を叩き、その下を、傘を持たない人がゆっくり歩いていく。立ち止まる場所と、また歩き出す道のあいだで、コーヒーの香りがふわりと広がった。


 七年前に貸した傘は、ようやく返ってきた。


 代わりに始まった約束は、期限を決めず、これから二人で確かめていけばいい。


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