第9節 難問続きの派遣研修
「イブさん、職場派遣研修の1回目、徴収係ね」
4月のある朝、出勤して自席に着こうとするイブをつかまえて、花子係長が声をかけた。
「2回目は、健康福祉課の福祉係ね」
職場派遣研修というのは、新規採用者に必須の研修で、配属先の職場に慣れた頃、他の2つの職場に2日ずつ派遣され、役場の別な仕事を体験するというものだ。
新採の事務職員は、市民サービス窓口、税、福祉、この3分野のいずれかに配属されることが多いもので、社会基盤となっている分野を入り口にして、役場人生が始まるのだ。
だから、窓口に配属されたイブは、他の2分野の職場に行くことになる。
ゴールデンウィークが明けると、イブは同じ税務町民課の徴収係に新採派遣研修の第1回目として行くことになった。
2日あるうちの初日の午前中は、町税の賦課徴収業務の概要説明を聴いた。
イブが早めに昼食を終えて席に戻ると、すでに食事を済ませていた係長役の青木主幹が声をかけた。
「イブくん、何かいいアイデア、ありませんかね?」
今年3月末時点の徴収率一覧表を眺めていた青木が、放り投げるようにしてイブにプリントを渡す。
税金の徴収率は、課税の根拠となる調定額を分母とし徴収額を分子として計算したもので、現年度分と滞納繰越分とに区分されている。
現年度の令和5年度分は出納整理期間の終わる5月末まで徴収できるから、まだ締めの時期ではない。
また、現年度分の徴収率は口座振替加入率などの影響が大きいため、主幹が監督責任を持つ徴収係の肩にかかっているというものでもない。
ところが、滞納繰越分は令和4年度以前に課税された税金の未納分で不良債権化した税金であり、その徴収率は主幹率いる徴収係の奮闘如何によるというのが、庁内と議会内での認識だ。
その締めが3月末で、それを県がまとめた県内34市町村の徴収率一覧表を見るなり、主幹は溜息をついたのだ。
滞納者に対して係員が督励を行って自主的な納税を指導するのだけれど、財産がありながら納税する意思のない悪質なケースは、その財産を差し押えて税金に充当することになる。
民間会社の営業部門と同じで、金額的な業績が数字でわかってしまう極めてシビアな係なのだ。
職員一同日々奮闘しているものの徴収率は上がらず、皆困っていた。深井町は、県下徴収率一覧表ではいつも最下位周辺にいたのだ。
「あー、また蝶々に謝らないといけない」
主幹が両手で顔を覆った。
そんな主幹を横目で見ながら、イブは自席に座ってプリントに目を通す。
「難問ですね、、、。どうしましょ。
とにかく、結果を分析するにはデータが必要ですね」
言われた主幹が顔を上げた。
「滞納繰越分に関するデータは、全部鋼製書庫の中にあるよ」
椅子から体を起こした主幹は、課長の机の脇の壁一面に並ぶキャビネットにイブを案内し、中に格納されているファイル類の中身について詳しく説明した。
メモを取りながら話を聞くイブ。
「しばらくお時間をいただいてもいいでしょうか?」
「いいよ。今日は事務概要の説明だけで、明日、現地臨場督励の体験だからね」
青木はそう言うと、キャビネットの前で腕組みをしたまま立ちつくしているイブを残して自席に戻っていった。
午後、イブはトイレに行く間もなく、自席でひたすら書類綴りと格闘した。
ようやく4時を回った頃、額の汗を拭きながらイブが青木に声をかけた。
「主幹、ちょっと手こずりましたが、なんとかできました」
「おおっ、さすが博女。ありがとう!」
笑顔の青木がイブの机まで移動し、パソコンの画面を見る。
「たまに、薄情な女だと言われることがありますけど」
笑いながら、イブが鉛筆を指し棒代わりにして説明を始めた。
「滞納繰越分の徴収額は、主に自主納付分、といっても納税督励の結果の分割納付ですが、それと、差押による取り立て分とに大きく二分されます。
破産事件や不動産競売事件に対する交付要求分は5%未満と額が小さいので、ここでは無視します。
それと、不動産差押は、件数が少ないのと、差押そのものは担保としての意味はありますが、実際に物件を自力で公売しているわけでもなく、徴収額そのものにさほど貢献していないので、今回はデータから除外しました。
執行停止分も3年後に調定額を下げる効果がありますが、全体の数字が小さいので、これも捨てました。
また、この時間で1年分の全データを見ることはできませんので、4月、7月、10月、1月分から、アットランダムに25件ずつ、合計100件を抽出して分析しました。
この分析結果は、90%程度の確からしさがあります」
「面倒をかけたね」
申し訳なさそうに主幹が頭を下げる。
「さて、この自主納付分と差押取立分について分析してみたところ、結果はこうです。
自主納付の約束額は、1件平均3万6千円。でも、納付約束した滞納者全員が約束を守るわけではなく、実際の履行額は1件あたり2万7千円の75%。わかりやすく言えば、400万円の納付約束をすると300万円が入ってくる計算です」
自席にいた尾藤が、広げていた書類をファイルに収めて寄ってくる。
尾藤は、どちらかというと、差押よりも納税交渉を得意としていた。
滞納者への対応が優しいとのもっぱらの評判で、1人暮らしの高齢者から泣きながら感謝されたことがある。
「いっぽう、差押は、全平均が約9万円です」
尾藤が肩をすくめる。
「これも2つに大別され、1つは預金差押ですが、これは金額が全くバラバラで、普通預金1件1,000円から定額貯金100万円まであります。この平均額が約10万円。
もう1つは給与差押で、この毎月の取立額は1件あたり平均約5万円」
尾藤の隣りに座っていた武藤が、読んでいた分厚い税務六法を閉じて寄ってくる。
武藤は厳しい納税交渉で名がとおっていて、差押に注力していた。
滞納者から怒鳴られることが多く、固定資産税の滞納で自宅を差し押えられた男からカウンター越しに殴られそうになったことがある。
「さて、これらの数字を見て考えなければならないのは、わたしたちの目標とそのための方法論です。
ここでは、現年度課税分は脇に置き、滞納繰越分だけを分析しています。
そもそも、午前中に主幹から伺った国税徴収法に基づく滞納整理の方向は、3つに分かれています。
1つめは督励の結果としての自主納付、2つめは差押、3つめは執行停止です。
この3つが、わたしたちの日常業務の全体的方向です。
これらの業務に各々どれ位の人的資源、時間と言い換えてもいいですが、それを配分するのか。わたしは、この配分割合のことを『徴収ミックス』と名付けました。
目標に向けてこの『徴収ミックス』を最適化することがわたしたちの戦略であり、その各構成要素に対する具体的な取り組みが戦術となります」
青木が大きくうなずく。
徴収係の他の職員もばらばらと自席を離れ、イブを取り囲んで人垣ができた。自分の机で仕事をしている者はひとりもいない。
「目標である徴収率を規定している1つの要素、分母としての調定額は課税部門の問題ですので、ここでは、分子としての徴収額を積み上げるための戦術を検討します。
さて、徴収額を上げるための自主納付と差押について、どうしてもわからないことがあるので、いくつか質問をさせてください。
尾藤さん、1件の納税交渉に要する時間はどれ位ですか?」
皆が尾藤の顔を見ると、本人は肩をすくめた。
「うーん、催告書出しから始まって、話をして、簡単な話なら、分割納付書をプリントして封筒に詰めて経過記録を書くまで、早くて30分。
難しい時は、極端なクレームの場合を除いても、1時間半はみた方がいいかな」
1件1件、相談内容のボリュームは異なるのだ。コロナの3年間があったせいで、納税相談がそのまま生活相談や事業相談に及ぶこともめずらしくない。
「ざっくり、平均1時間で大丈夫ですか?」
尾藤がうなずく。
「では次に武藤さんに伺います。
差押に要する時間は、どれ位でしょうか?」
皆が武藤の顔を見ると、彼も困惑した表情だ。
「これも千差万別だよね。預金も給与も、それぞれだな、、、」
そう言って考え込む。
「事前準備の調査時間、差押調書の作成時間、取り立てたお金の入金処理、配当計算書の作成作業、消し込まれた後の延滞金計算日の修正まで、全て含めてください」
腕組みしたままの武藤の脇から、青木が助け船を出した。
「細かい計算は勘弁してもらって、預金は郵送差押と臨場差押があるけど、それぞれトータルで1件あたり、3時間でどうだ?」
武藤が首を振る。
「4時間?」
今度はうんうんとうなずく。
青木が続けた。
「もう1つの給与差押は、最初の差押の処理は1回でも、毎月、取立金の配当処理があるから、仮に10回で滞納が解消するとして、ならすと毎月の処理1回あたり、、、やっぱり3時間か?」
武藤がこっくりする。
「2時間とか2時間半じゃ終わらない?」
「毎回作る配当計算書が、30分じゃ終わらないんですよ。早くても40分。
給差は、差し押えする前から勤務先とのやりとりもあるし、とにかく手間が多くて。1つ1つのことは10分、20分としても、きっと意外に時間がかかっていると思うんですね。
中には取り立て額の計算が自分でできなくて、毎月こっちに計算を頼んでくる会社もあるよね。
最終回なんか延滞金や振込手数料の計算までキッチリやって、過不足なく取り立てしなきゃならないから、神経も時間も使うし。
言われてみれば、そう、やっぱり、ならせば3時間コースなんでしょうね」
周りの職員も納得の表情だ。
イブがメモ用のミスコピー用紙の裏に計算式を大きく書くと、皆に見せた。
「整いました」




