第8節 あーだこーだ言われたくないよね
発端は、文房具代などの消耗品費の「預け」問題だった。
「今、『預け』の残金って、いくらかな?」
A子主任の隣りのカウンター側の机にいる加山勘八が、文房具業者に電話をかけていた。
「5万円? ああ、わかりました。じゃあ、エプソンのインクジェットプリンタ、EW-056A。今月中に届けてくれる?
8千円? わかった。インクも5セットね」
話が終わると、普段どおりに受話器が下りる。
耳慣れない言葉に、イブが引っ掛かった。地方自治法の逐条解説には出てこない用語だ。
「勘八さん、『預け』って、何でしょう?」
勘八がぎょっとして右斜め前のイブを見る。
「『預け』は、『預け』だなぁ。業者にお金を預けてある。
年度末に予算が余ったとき、品物を買ったことにして支払い代金をプールしてもらっている分さ」
役場の会計年度は3月末で一旦閉まるけれど、5月までは「出納整理期間」といって3月末までに確定した修繕料や購入物品の支払いができる。
この地方自治法上の制度を利用して、3月の年度末に使いきれず残った予算について、4月に入ってから、文房具などを3月中に納入してもらったことにして業者から請求書をもらい、支払いだけ先に済ませてしまうのだ。
先に代金をもらった業者は裏帳簿を作ってそれを管理し、役場から随時連絡があったときに裏帳簿から差っ引きで物品を納入するというシステムだ。
本来なら備品購入費として予算計上しておくべきプリンターを、予算がつかなかったからと、それを消耗品費の預け金で買ってしまおうという魂胆だ。店からすればお金に色が付いているわけではないから、何を求められようと気にはならない。売り上げは売り上げだ。
イブが握っていたボールペンを机に置く。
「それって、ちょっと、変じゃありませんか?」
時速100マイルの剛速球がうなりをあげた。
「納品されていないのに、誰が納品書の検査員欄にハンコを押したんですか?
ハンコは役人の命だって、人事の方から言われました。
それって、財務監査でみつかったらアウトですよね?」
顔面すれすれの危険球に、勘八が大きくのけぞる。
「イブちゃん、何言ってんだよ。昔からやってるし、前任者からもそう引き継ぎを受けてるんだぜ。
財務監査だって、書類上は全て整ってるから、ひっかかるところはどこにもない。
係長だって知ってるよ。
だいたい、昨日今日配属されたような君に、あーだこーだ言われたくないよね」
不機嫌な顔の勘八から目を移すと、球審が頭を掻いている。
上目使いのイブが小さな声で聞いた。
「係長、いいんですか?」
花子が椅子に座り直す。
「わかりました。勘八くん、ごめん。
イブちゃんの言うとおりです。やめましょう。
実はね、わたしも、ここに異動で来た時にオヤッと思った。でも、言い出しそびれちゃったの。
いい機会だから、消耗品費の『預け』はこの際やめましょう。
勘八くん、矢島商店にもう一度電話して、その旨言ってください。
そうね、腐らないもの。無駄遣いにならないようにみんなで考えて、必要なものを買って、全部使いきってください。いいよね?」
「わかりました」
言われた勘八は天井を向いている。
30分後、リソグラフのマスターとインク、印刷用紙、ボールペン、クリアファイル、付箋など、端数の数円はお店に泣いてもらって、積年の「預け」予算を全部使いきった。
これで、お店が持っていた裏帳簿も残高0円だ。
勘八が舌打ちしながらトイレに立つと、イブが左斜め前の花子に頭を下げた。
「係長、すみません。わたし、思ったことをそのまま言ってしまう悪い性格なんです」
再び頭を下げる。
「いいえ、それがきっと、あなたのいいとこなのよ。ニワトコかな?
また、あなたの魔法の杖で解決してね。ありがとう」
係長も頭を下げる。
「係長、魔法だなんて、、、。わたしが持っている魔法は、この水筒がわりの魔法瓶だけですから」
花子が見ると、水筒の表に映画『ハリーが掘った』の主人公ハリーが魔法の杖を振り上げている場面が描かれていた。
「なるほどね」
しかし、そうした職場での直言が何回か続くと、いつのまにか、昼食を食べる時の会議室で、イブのまわりの椅子が空くようになってしまった。
昼も窓口が開いている1階各課の職員は交代で昼休憩をとることから、1階事務室奥の「1の1会議室」を、午前11時から午後2時まで職員の昼食会場として開放している。
職員は、もちろん1階の来庁者用食堂で町民と一緒に食事してもいいし、弁当持参者はこの部屋で食べてもいい。
会議用の長机が大きなロの字型に並んでいて、基本はばらばらに座るけれど、隣り同士座って会話を楽しみながら食べる職員も少なくない。
イブは3人掛けの長机の真ん中に1人で座り、スマホの画面をめくりながら自作の海苔段々弁当を食べるようになった。向かいの机や隣りの机から他愛のないおしゃべりと笑い声が耳に入ってくる。
ある日、食べ終えた職員が出ていくのと行き違いに、海老夫課長が入ってきた。
「イブさん、座ってもいいかな?」
スマホを見ていたイブが、慌てて画面を閉じる。
「あ、どうぞ」
恐る恐る課長の顔を見た。
「係長から聞いたよ。『預け』の件、ありがとう。
役場の中では、昔からやってたことが疑問を持たれずに、古いまんま今でも行われている場合がある。というか、少なくない。
イブさんのように、新しく来た人は、そうしたことに気づきやすいんだと思う。気づいたこと、疑問に思ったことは、我慢せず、そのまま係長に相談してほしい。係長に言いにくい時は、直接ぼくに言ってくれていい。
一緒に、古い因習を変えていこう」
イブは、課長の顔をまっすぐ見ながら、小さくうなずいた。
課長が差し出した右手を握り返すととても温かかったけれど、5本の指が異様に太い。
イブの視線に気づいた海老夫が、自分の指を見ながらしみじみと言った。
「ぼくが行っていた中学校にオーケストラ部があったんだけど、入部の時に『お前はコントラバスだ』って顧問に言われて、あわててチェロに変えてもらった。
バイオリンが弾ける指じゃないけど、チェロなら弾ける」
海老夫が少し照れ笑いをした。
チェロは、人間の声に一番近い弦楽器だ。




