第6節 凹んだ分は食べて挽回
嵐のような採用初日が終わり、着替えて5時30分に正面玄関に行くと、鯛双と歩夢の2人がすでに待っていた。
退庁する職員1人1人に「お疲れ様でした」と声をかけている。
「お疲れ!」
イブも2人に声をかける。
「イブさん、素敵なスーツですね」
鯛双が下から上まで、舐めるように見た。
半歩下がって体をひねるイブ。
「さあ、熱中症予防のために、みんなで水分補給をしましょう。
『大漁亭』を予約してあります」
イブを真ん中にして、3人並んで歩き始めた。
会場は漁港近くの地魚料理屋で、鯛双が昼休みに電話で予約を入れておいたのだ。
役場と小学校との間の坂を下り、旧道を右に向かって5分ほど歩くと深井の漁港で、そのそばにある古い構えの店だ。
「こんちはー」
鯛双が入口の暖簾を払い上げて中に入ると、女将さんが奥の調理場から前掛けで両手を拭きながら出てきた。
「鯛双さんも歩夢さんも、元気そうね。就職、おめでとう。今日から仕事ね?」
話が早い。すでに皆に知られている。
「同期の佐藤イブさん」
イブがヘコッと頭を下げた。
イブ以外の3人は知った者同士だ。
深井町にはこども園が2つに小学校・中学校はそれぞれ1つしかないから、学校行事などを通じて親子セットで顔なじみになる。
小学校の授業参観の時は、来校した親の子供より先に同級生が気づき「〇〇ちゃんのお母さん来た!」と叫ぶ。
こども園の0歳児保育から一緒だと、中学卒業までの15年間ずっと一緒だ。
そもそも深井という地域は三浦半島の西の端にあって海に向かって突き出ていることから、地理的には隣接する横須賀市や三浦市から少しズレた位置にある。
歴史的にも、独立した半農半漁の町として栄えてきた。
町内は15の地区に分かれ、それぞれに町内会があるけれど、それらを連合町内会が束ね、民生委員児童委員協議会もひとつ、社会福祉協議会もひとつ、小中学区もひとつ。消防団も自主防災組織も婦人会も老人会も子供会も、結局みんな深井町でひとつにまとまっていて隣りの市からは独立している。
学校教育について言えば、公立の小中学校にもかかわらず先進的な9年間一環教育を戦後まもなくから続けてきたわけで、実際に、中学校が新1年生を受け入れる前の3月には、中学校と小学校の先生方の引き継ぎの懇話会が開かれている。その年によって落ち着いた学年なのか荒れた学年なのかで、中学校側の受入体制が異なるからだ。
そして、主要な地域組織の範域が同一ということは、地域課題に関するそれぞれの組織の意志決定が同一方向にまとまりやすいという利点になっていた。
大漁亭に入ると店の中は左半分が座敷で4人用の座卓が3つ奥に向かって並び、右半分は椅子席のテーブルが3つ並んで置かれている。
「漁港でアカザエビが揚がったから、食べてね」
座敷に上がった皆に女将さんが嬉しそうに言うと、男子2人はガッツポーズだ。
「アカザエビ?」
イブは聞いたことも見たこともない。
「相模湾の深いところで捕れるエビで、いつも捕れるとは限らないし、捕れても量が少ないんだ。
見ればわかるけど、両腕をずうーっと長く伸ばしたエビ」
鯛双が、自分の両腕を座卓の上で前に伸ばしながら体で説明する。
トロリとした甘みのある下半身の肉は刺身で食べ、上半身は殻ごと味噌汁に入れるけれど、ハサミが2本お椀の縁から飛び出ることになる。
「それと、しらすの口が開いたから食べる?」
女将さんの一言に、イブの口がぽかんと開いた。
「しらすが口を開けた?」
あの小さなしらすが皆で口を開ければ可愛いに決まっている。
両手を大きく振りながら歩夢が笑った。
「イブさん、相模湾ではしらすは1月から3月半ばまで禁漁期なんですよ。
禁漁期が開けることを、地元の漁師さんたちは『口が開いた』って言うんです」
右手のげんこつで頭を叩くまねをするイブ。
「江の島の入り口に『湘南しらす』を食べさせるお店があるでしょ?
いつもたくさん人が並んでるけど、ここ深井漁港に揚がるしらすも同じ『湘南しらす』ですからね。美味いですよ。
おばさん、釜揚げしらす、3つね!」
慌ててイブが訂正。
「女将さん、わたしの分はしらす丼にしてください!」
のけぞる女将さん。
「だって、『湘南しらす』ですからね? わたし、並ぶのが嫌で、あそこで食べたことないんです。ここで食べれるんだったら、絶対しらす丼! 毎日食べに来ちゃう。
わたし、子供の頃ひもじかったから、食べることだけは誰にも負けないの」
4人の笑い声とともに同期会が始まった。
深井は町として長い歴史があるけれど、地域住民は従来3派に分かれていた。
漁師が多い加山一族、農家中心の亀本一族、商店やその他の職業が多い原一族。
当然漁協は加山一族の根城になっているし、農協は亀本一族の支配下だ。
町会議員もこの3派から出ているし、町長もこの3派の持ち回りになっている。
今は原町長が1期目だけれど、来年1月無投票のまま再選されると2期8年で勇退し、次は加山一族から立候補者が出て、対立候補は出ない慣例になっていた。
そうやって、地域の中の利害関係を8年ごとに調整し、お互いの福祉がバランス良く増進するよう図られてきたのだ。
この黄金のトライアングルに敵対する者は、これまで1人も出てこなかった。
「そうなんだ、、、」
2人が話す地元の表と裏の話を、イブは興味深く聞いていた。
今聞いている話はどこにも書かれていないものの、地域住民の皆が知っている暗黙の了解なのだ。
アカザエビの甘く柔らかい刺身を口に運びつつ、2人が繰り出す地元話を聞きながら、イブは辞令交付式で言われた給与のことを考えていた。
仮に夏冬の賞与を含めた年収が概算で月給の16か月分だとすると、月1万4千円の差は年間22万4千円になる。
2人と比べると、毎年この差が続くのだから、10年で224万、30年で672万円。
イブは、つぼ焼きサザエの切り身を1つ口に放り込むとニヤリとした。
(大学時代の借金が返せる)
しかし、よく考えてみると、イブが働ける期間が27歳から65歳までの38年間なのに対して、この2人は22歳から43年間だ。
定年前の5年間に2人がもらう給与の合計は、恐らく3千万円以上だろう。
退職金も勤続年数が長い方が多くなるので、退職時の職位を考えなければ2人の方が多いにきまっている。
3人が受けとる生涯給与を比べると、早く働き始めた2人の方が断然多い。
それに、厚生年金についても、2人は43年支払う一方、イブは38年間だから、もらう段になれば2人の方が多い。遅く働き始めた分だけ、やはり損なのだ。
白髪頭の2人がにやけた顔でVサインする姿が脳裏にうかんだ。
舌打ちをするイブ。
そんな計算をしていたら、せっかくのサザエが冷めていた。
「女将さん、つぼ焼き、お代わり1つ! 熱いの、お願いします!」
ヤケになって叫んだ。
「アカザエビにしらす丼、とても美味しかったです」
イブが女将さんに頭を下げると、料理代を清算していた鯛双が代金を請求した。
酔いのせいで舌がうまく回らない。
「イブさんはぁ、半分のぉ、3っつ!」
確かに飲んだ酒の量は2人の方が大分多いが、料理はイブの方がよく食べた。まあ、ここは甘えておこうと、素直に3千円を出す。
お腹をさすりながら大漁亭を出ると、イブを真ん中にして2人が両脇につき、まるで水戸黄門の町内漫遊。右に180センチの鯛双、左に160センチの歩夢。
結局、同期会の会長は、長幼の序ということで、イブに決まる。2人とも年下だし、大学院博士課程修了のイブに花を持たせた形だ。
同期会の名称は「三様会」。「三者三様だから」とのイブの提案に2人は手を叩いた。
歩夢と鯛双はイブを「屋形」のバス停まで一緒に送ってくれたけれど、別れた後の後ろ姿を見ると、酔った2人が手をつないで帰っていく。




