第5節 凹んだ後にまた凹む
午後2時過ぎ、高齢の女性が乗った車椅子を手で押しながら、中年の男性が来庁してきた。
気づいたイブが真っ先にカウンターに向かうと、男性が半歩前に出て言った。
「住民票がほしいんですが」
「お母さまの分ですか?」
男性が30センチほど身を引く。
「失礼ですね、妻ですよ」
イブの顔から血の気が引いた。
「申し訳ありません!」
上半身を60度曲げて詫びると、後ろからA子主任がイブの左肩を叩く。
「大変失礼しました。ご世帯全員分ですか? それとも、奥様お1人分ですか?」
世帯主との続柄を入れるのか、本籍を表示するのかなど、ひととおりの聞き取りをしながら、交付申請書の記載の仕方を夫に丁寧に教える。
2人に下がって待ってもらうように言うと、端末を操作して、妻1人分の住民票を出力した。
1枚紙なので認証機でガッチャンと留める必要もなく、渡して終わり。
レジの操作の仕方も教わりつつ、300円のレシートを渡すときに、改めて深々とお詫びを言った。
2人が去ると、A子主任からの教育的指導。
「イブちゃん、いい? 見た目で人を判断しない。東日本大震災の後、いっとき『年の差婚』をした方が多かった。
自分の印象を元に声をかけるんじゃなくて、例えば『お二人の間柄はどのようなものですか?』と聞けばいい。
LGBTの方もいるわけで、パートナー同士の方に『ご兄弟ですか?』とか聞いたら、傷つくでしょ」
イブの身長が160センチに縮む。
本日のレッスン・ワンだ。
席に戻ったイブは、正面に座るA子の顔を見れない。
下を向いて机の上の『イロハ』をひたすら読む。
しばらくすると、クリアファイルに桃色の縁取りのある白い紙を入れた若い男性が来た。
さっきの凹みを挽回すべく、果敢に席を立つイブ。
主任からの事前説明によれば、何種類かある戸籍の届出用紙はいずれもA3版二つ折りの白い紙を使っているけれど、それを受け間違わないように、出生届には桃色の縁取り、婚姻届には青い縁取り、離婚届には赤い縁取り、死亡届には黒い縁取りがあるというのだった。
「主任、出生届です」
斜め後ろに立つA子に明るく声をかけつつ、対面した男性に満面の笑顔で言った。
「おめでとうございます!」
ところが、言われた男性は無表情のまま。
首を傾げるイブの前に、桃色の縁取りの届出書に続いて黒い縁取りの届出書がクリアファイルから取り出された。
息をのむイブ。
「申し訳ありません!」
90度に腰を曲げ、カウンターに当るほど頭を下げる。
「別に、あんたが悪いわけじゃない。でも、傷つくよな、、、」
男性は、しわがれた声を喉の奥からかすかに絞り出した。
A子がイブの左肩を叩きながら、一緒に頭を下げた。
「まことに申し訳ありませんでした。
届け書の受付は順番に行いますが、やっていただくことがたくさんあります。お時間は、大丈夫でしょうか?」
「今日はこれだけで、あとは明日ですから」
そう言うと、力なく待合の椅子に腰を下ろして下を向いた。
それからが大変。
死産ならば、人として出生していないため戸籍に書く必要はなく、住民票を作ることもない。
死産したときの妊娠週によっては出産育児一時金の支給対象となる場合があるものの、基本的には、死産届を受けたら死胎火葬許可証を交付すればよい。
いっぽう、出産後に亡くなった場合は、たとえわずかな時間だったとしても人として産まれ生きた以上、両親の戸籍に記載し、その子の名前の住民票も作成したうえで、出生連絡票の記載、国民健康保険の加入手続き、出産育児一時金の申請、小児医療証の申請、児童手当の申請など出生に伴う通常の処理をすべてやらないといけない。
そして、それに続けて死亡に伴う事務一式となる。
最後に、葬儀が終わったら葬祭費7万円の申請をするよう説明する。
赤ちゃんの出生日と死亡日の両方の記載のある住民票除票は帰るまでに交付できるものの、その子の名前が書かれた戸籍謄本は、記載に日数を要するため数日待ってもらわないと交付できない。
テキパキと動くA子の脇で、イブは無言で様子を見るしかなかった。
大車輪で主任が動き、男性が出生届と死亡届の届出済証明、住民票除票と火葬許可証などを受け取り、下を向いたまま退庁したのは5時のチャイムが鳴ってからだった。
「今夜は、お酒が美味しいわね」
A子が首周りの汗を拭きながら言う。
「ありがとうございました。いろいろなことが、あるんですね、、、」
消え入るようなイブの声。
身長が150センチに縮む。
「よく『揺り籠から墓場まで』って言うけど、違うのよね。
役場の仕事って、人が産まれる前から母子健康手帳の交付とかで関わるし、亡くなった後も葬祭費の支給とかで関わるのよね。孤独死した場合なんか、火葬までやらないといけない。
産まれる前から死んだ後まで、住民と行政は関わっている、というか、関わらざるを得ないのよね」
町長が言っていた基礎的自治体という言葉の、実践的な意味だった。
凹んでいたイブの頭が、戻る間もなくさらに凹む。
本日のレッスン・ツー。本当の「エイプリルフール」だ。
「ウソみたい」
こうして、嵐の着任初日が終わった。
女子更衣室で着替えていると、花子係長と町長の話しになった。
町長はヒマさえあれば役場内をふらふら徘徊し、あちこち立ち止まっては職員に話しかけることから、ついたあだ名が「蝶々」。
もともと小さい町役場のため担当職員と町長との間の階層が少なく、上下の感覚が薄い。課長の上はすぐ副町長で、部長や局長はいない。
住民も役場内で町長に出会えば、気軽に話しかける。もともと町長といっても、なる前はただの近所のおじさんにすぎないのだ。
「職員数がちょうど100人だから俳句で『百人一句』を作ろうと言ったり、自分を含めると101人だから役場のアイドルキャラクターは『101匹わんちゃん』にしようとか言いだすのよ。
夏場のクールビズで、黒い斑点のあるダルメシアン風の白いTシャツを職員全員に着せようとしたりするし、職場の徘徊だって可笑しくない?」
イブは首を振る。
「いえいえ、俳句も徘徊も面白いアイデアです。俳諧から生まれた俳句は、吟行といって町を徘徊しながら句を作りますからね。途中で銀行によって1句作ったら、これがほんとの吟行と」
「ハハハ」
花子が乾いた笑い声をあげると、イブが自分の頭をげんこつで叩くマネをした。
「リーダー自ら歩き回って職場のニーズ把握と職員の満足度調査をしてるわけですよね。なかなかできないことです」
花子と話をしながら、イブが事務服から自前のスリーピースに戻る。
イブは、三つ揃いのパンツスーツを5組クローゼットに掛けていて、左から右に、月曜日から金曜日まで順番に着ている。
取り組んできた研究成果の学会発表が決まるたびに、自分への勲章として当日用のスーツの古着をネットで探し、横浜元町の洋裁店で丈を伸ばしてもらったものだった。
古いものの方が生地が良くて安いから、新品よりも古着が好きだ。
ブラウスも5枚持っていて、それらを5組のスーツと順番に組み合わせることで25パターンになるので、同じ組み合わせは月に1回しかない。
何を着ようか毎朝悩むのが面倒で、時間の無駄に思えて仕方がないのだ。
家にいるときは上下スエットで、近場の買い物とか短時間の外出なら、その上に薄手のウィンドブレーカーを玄関で重ね着しておしまい。
何事にもドライで、ある意味では合理的といえる。
脱毛はやらない。化粧もしないしネイルもやらない。中学生の時からヨットに乗ってるから、顔につけるものは日焼け止めクリームだけ。
たしかに、それらについて興味がないのも事実だけれど、化粧品を買うお金がなかったのも、また事実だった。
役場に入ってみると、ほとんどの女性職員が化粧をしておらず髪も伸ばし放題で、その点は大いに助かった。
「今夜は、予定は?」
「同期の鯛双くんと歩夢くんが、同期会やろうって」
「いいわね。たくさん飲んでね」
「はいっ!」
ようやく、イブのガッツポーズが出た。




