第3節 まだ呼ばれないのかよ!
「ごめん、ごめん。窓口でつかまっちゃって」
「2の3会議室」にイブを迎えに来た配属先の亀本花子係長が、遅れた言い訳をした。
「佐藤イブです。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる。
「付いてきてね」
そう言うと、先に立って中階段を降りた。
庁舎1階にある税務町民課のオープンカウンターの前には、たくさんの住民が順番待ちをしている。
4月は、引っ越し手続きや就職に伴う健康保険の切り替えに加え、銀行に提出する印鑑証明や住民票など、町役場に来ざるを得ない用事が多い。
「お引越しですね。では、こちらの用紙にご記入ください。
3枚複写になっていますので、このボールペンで少し強めに書いてください」
深井町へ転入する場合、来庁者の大半がマイナンバーカードを持っていてその家族もほぼ取得しているから、日本全国に張り巡らされた住民基本台帳ネットワークからデータを取り出せば、窓口職員が手打ち入力の大半をせずに事務処理が進む。
とはいっても、氏名や前住所地の漢字を1字ずつ異体字や誤字がないか確認する必要があり、場合によっては前住所地や本籍地に電話確認なども入れつつ正確に打ち込んでいく。
渡邉の「邉」などは異体字が何十個もあるけれど、町の住民基本台帳システムがすべての文字フォントを持っているわけではないので、時によってはその場で新規に文字フォントを作らないといけない。
住民データはすべての役場内業務システムの根幹となるデータなので、転入時の入力作業で打ち間違えると、各担当課の業務システムで作成される住民関連データが全て間違ってしまうことになる。
そして、転入手続きの際に職員を一番困まらせるのが、マイナンバーカードにアクセスするためのパスワードを本人が忘れている場合だ。
どうしても思い出せない時は、身分を証明する書類2点のコピーをとり、4つのパスワード全てを再設定することになる。
「3つのパスワードは同じ数字4桁を共用できます。
ただ、最後の署名用電子証明書のパスワードは英数字混在で6桁以上必要なので、この数字4桁にご自身の氏名のイニシャルを2つ足してください。このやり方なら、忘れなくていいですよ」
「あら、それなら簡単ね?」
小学校の学齢児の子供がいれば、修学手続きの案内をする。
「新1年生ですね? 就学前健康診断は、前の住所地でやられましたか?」
「急な転勤で時間がなかったら、やってないのよ」
「では、明日以降の健康診断の予定表をお渡ししますから、予約したうえで必ず済ませてくださいね?」
「助かったわ。ありがとう。」
ほっとした母親が子供の頭をなでる。
世帯主が公務員でない一家の場合は、児童手当の申請手続きがある。
家族に75歳以上の者がいれば後期高齢者医療保険の手続きが、介護認定を受けていた者がいればその認定を引き継ぐ手続きが、それぞれ必要な場合がある。
妊婦が転入してくるときは、母子健康手帳の交付を受けているかどうかを確認し、未交付ならば、病院がくれた胎児のエコー写真など妊娠していることがわかるものを確認して手帳の本冊と別冊を交付する。
加えて、妊娠出産に伴う国民年金の免除申請が済んでいるかも確認し、済んでいなければ申請してもらう。
最後に住民票の交付手数料1枚300円をもらって、レシートを渡しながら「大変お待たせしました」と頭を下げる。
これら一連の作業を、来庁した者全員分行う。
人間の処理はこれで終わりだが、最近増えてきたのが、犬の転入手続きだ。
犬の飼い主に狂犬病予防ワクチン接種の案内を毎年通知する事務があることから、飼い犬のデータが町役場に登録されていないといけない。
だから、犬を連れて深井町に転入したら、「犬の転居届」も書いてもらうことになる。
バインダー式の記入用紙に、犬の名前、犬種、性別、毛の色、生年月日、飼い主の住所と氏名、電話番号を書くのだけれど、多頭飼いの場合は1枚1枚全犬分を書くことになる。
「まあ、チョビちゃんは、お母さまと同じ誕生日なんですね?」
「そうなのよ。毎年、お誕生会はこの子と一緒にやってるの。ケーキも一緒に食べるのよ、ね?」
「ワン!」
また、国際化の波は深井町にも及んでいて、来庁者が外国人の場合は主に英語で対応することになるけれど、あいにくその使い手は、これまではA子主任1人しかいなかった。
職員自身のスマホを持参して翻訳アプリでやりとりすることも可能だし、中国人のような漢字文化圏からの転入者は漢字を使った筆談もそれなりに有効ではあるものの、やはりお互いに英語が話せれば英語で話した方がはるかに事務は早い。
事務的な専門用語が、機械翻訳ではどうしても適切に訳せないのだ。機械翻訳が間違っていたとしても、機械が責任をとってくれるわけでもない。
「I will try to speak English. If you speak slowly and use plain words, I thik we can communicate each other. OK? (頑張って英語を話しましょう。あなたが、ゆっくり簡単な言葉を使ってくれたら、お互いの意思疎通ができると思います。いいですか?)」
「Oh, thank you so much!(まあ、ありがとうございます)」
係長から現場の説明を受けつつ戸籍住民課の前を通る間に、イブの耳にはさまざまな会話が入ってきた。
事務室の中に入ると、係長の右斜め前の席をあてがわれたが、イブにできる仕事は当面何もない。
「イブちゃんは電話とらなくていいし、窓口も出なくていいから」
役場の事務室は、20年も前に全てオープンカウンター方式に変わっているのに、いまだに「窓口」という用語が生きている。
「とりあえず、この通勤届と扶養控除申告書を書く。書いたら下さい。
時間があったら、『新規採用職員の手引き』と『自治体職員の窓口業務のイロハ』を読む。通称『手引き』と『イロハ』。いいわね?」
係長にそう言われると、体いっぱいに詰まっていた空気が一気に抜ける。
係長は自席を離れ、窓口でトラブっている職員の応援に回った。
係の島の中でのんびり席に座っているのは、イブひとりだ。
見ると、B6サイズの白いカードに繰り返し大きな印鑑を押し直している職員がいる。
押しては眺め、首をひねってカードを破き、また新しいカードに押す。これを何度も繰り返している。
白い象牙の印鑑に付着した朱肉の赤が妙に毒々しい。
イブは、皆が何をしているのか全く理解できない。小学校の時の勉強が苦手な同級生と同じ、いわゆる「お客さん」状態。
何度も椅子に座り直す。
突然、吹き抜けのホールに、2階の奥まで届くような怒鳴り声が響いた。
「おい、そこの! さっきから待ってるのに、まだ呼ばれないのかよ!」
周囲の視線が一気に集まる。
イブに向かって怒鳴っているのに、イブには答えるすべがない。
椅子に座ったまま震えるイブ。




