第28節 蝶々とイブに迫る危機
年が明けた2025年1月7日に告示がなされ、正式に町長選の選挙運動が始まった。
選挙運動期間は5日間しかない。
初日から、町内中を朝となく夕となく候補者カーがねり歩いた。
「牛目さーん、期待してるわよー!」
小学校の下校時に重なり、付き添いの保護者が沿道から声をかけると、牛目が車から降りて握手をした。
「蝶々、頑張れー!」
漁港のコンクリートの上で網を繕っている漁師から声がかかると、原が車の窓から頭ごと体を出して手を振った。
候補者カーが行き違う時は、町民の手前、紳士的に互いの健闘を称えたが、選挙事務所の中では全世帯に片っ端から投票依頼の電話を掛けていた。
若い世代の転入世帯は、最初から家電を持たない家も多いけれど、農家や漁師などの昔からの家は皆家電があり、昔のNTTの電話帳がそのまま使えたのだった。
票読みスタッフが数えても形勢は全く互角で、戦っている本人たちも、勝っているのか負けているのかわからない。
一方が「図書館建設、消防署誘致」と叫べば、他方が「来ぶらりを作ります、少防所を作ります」と連呼するのだ。
小耳にはさんだだけでは違いがわからない。
ただ、アピールの最後だけは決定的に異なり、牛目陣営は「横須賀市との合併を目指します」と言い、原陣営は「深井の独立と自治を守ります」と言ったのだ。
選挙運動が始まって間もなく、A子主任が急な休暇を取った。
A子には小さい子供がいるので、熱を出した時などは保育園に出せないことから、急に休むことがあることはイブも知っていた。
午前11時を過ぎ、魔法瓶に水を足そうと湯沸場に行くと、入れ違いに湯沸場から出てくるB子に会った。
「こんにちは」
互いに笑顔で会釈を交わし、去っていくB子の後ろ姿を見送ると、なんと事務服の左肩に黒丸シールがある。
息をのむイブ。
しばし亜然としたけれど、事実は1つだ。
「そうか、、、」
誰にも言うまいと決め、自席にもどる。
すると、研究所の稔係長から急ぎの電話がかかってきた。
「イブくん、申し訳ない。蝶々に決裁してもらわないといけない急ぎの書類があるんだ。副町長までのハンコはぼくがもらった。
蝶々は選挙事務所でお昼を食べるはずだから、これから行って、ハンコをもらってきてくれないか?」
慌てるイブ。
「選挙事務所にいつものご印鑑をお持ちになっているんでしょうか?」
良い質問である。
「心配はいらない。ハンコがなければ、花押でいける」
「カオウ? 石鹸ですか?」
笑い出す稔。
「座布団1枚あげたいところだが、今は時間がない。サインのことだよ。
江戸時代の殿様もハンコの代わりにサインをした。そのサインのことを花押と言うのさ」
「なんだ、ハンコは無くせるんじゃないか」と係長に事務改善提案したいところだけれど、とにかく今は時間がない。
「わかりました。これから伺います」
花子係長と海老夫課長に報告し、2階の研究所で書類を受け取ると、事務服のまま国道沿いの選挙事務所に急いだ。
内原台からは下りの道だけれど、早足で歩いても15分はかかる。
「こんにちは」
選挙事務所に入るなり中にいる職員に声をかけた。
「ご苦労様」と言って、机の上の名簿から顔を上げたのは私服を着たA子だ。いや、違う。A子のフリをしているB子だ。
休暇届けを出したA子は黒丸シールの事務服のまま、B子として徴収係で仕事をしている。実際に休んだのはB子で、原の選挙事務所にいた。
B子の現姓は亀本だから、合併派のはずである。
ということは、、、。
イブは、作り笑顔で近づくとB子の左耳にささやいた。
「分かってますよ、B子さん」
言われた方は、座ったまま30センチも飛び上がったろうか。
口が開いたまま驚愕の表情で凍りつき、両手の指が虚空をつかんでいる。
「選挙運動は、地方公務員法第36条で禁じられてますよ」
いつもの直球、時速100マイルだ。
顔の前で必死に両手を振るB子。
「とんでもない!
ちょっと陣中見舞いのお酒を届けてくれって、夫に頼まれただけなのよ」
額から汗が噴き出ている。
「名簿、見てましたよね?」
震える雨蛙に近づくマムシのように、畳みかけるイブ。
ハンカチを額に当てるB子。
「留守番を頼まれただけなの」
そう言って、慌ててファイルを閉じる。
「大丈夫です。わたしは頭の固い女ですが、口も固いですから」
「助かったわ!」
B子が両手でイブの右手を握る。
「ところで、蝶々は?」
「ちょうどいま候補者カーが戻るところで、皆外に出迎えに行ってるの」
イブは外に出ると、車からよろよろと降りて来た原をつかまえ、無理矢理サインをもらうと急いで役場にとって返した。
「イブちゃん、ありがとう!」
後ろでB子が大きく手を振った。
いっぽうイブがいない間、役場の中では大騒ぎが起きていた。
イブが決裁書類を持って出かけた後、町長あてに横須賀市選出の民自党県会議員のMから電話が入り、本人不在のため副町長が対応していた。
県会議員のMは、本名が英武という苗字だけれど、通称をMとしていて、県議会事務局内でもMで通していた。
若い頃から県会議員しかしたことがなく、議会事務局員や県の幹部職員が皆自分に平身低頭するのが当たり前だったことから尊大に育ってしまい、それが当然だと思っていた。
公務でもないのに自分の妻の買い物のために役所の公用車を出させようとしたり、議員は呼ばないと決めている市内の自治会・町内会の新年賀詞交換会に挨拶のために強引に出席しようとしたりするので、事務局役の市職員がよく困っていた。
「そう言われても、主催団体が自主的に決めていることですので、無理です」と断ると、「そんなこと言っていいのか? 市長に言うぞ」と脅すのだ。
そして、実際に市長にぐだぐだと文句の電話をする。
県議会事務局内部では「あの人」と呼ばれ、職員皆から嫌われていた。
Mは栄衛が連れてきた選挙ブレーンの1人だったのだ。
「副町長、県会のMだけど。聞くところによると、おたくの町の職員の佐藤なんとかが、町長に頼まれて選挙運動してるって噂がある。
警察が知ったら、町長も困るよね?」
神奈川県議会には県警を所管する防災警察常任委員会があり、Mはその委員なのだ。
受話器を左手に握ったまま、右手で額の汗を拭く副町長。
「お電話、ありがとうございます。ご心配をおかけしまして、まことに申し訳ありません。
しかしですね、ご懸念の点につきましては、ご心配無用かと存じております」
電話の向こうの声が大きくなる。
「どうして、お前にそんなことが言えるんだ?
だって、原の選挙対策本部に入りびたって選挙政策を立案し、そのための資料を作って配ってるって、もっぱらの評判だぞ!」
オロオロする副町長。
「あの、その、町役場では、常日頃から職員に政策提案を勧めておりまして、それが職員の資質向上に寄与すると思うからなんですが。
ですので、現職の町長が職員と一緒に考えた新しい施策案を住民にお知らせするのは特段の問題はないかと、思っています。
それと、佐藤職員ですが、彼女はきわめてまじめな職員でして、曲がったことが大嫌いで知られています。
廊下の角を曲がる時も丸く回らないで、直角に曲がるんですよ。
頭がとても固くて、固すぎて困ったもんだという者もいるくらいの、絵に描いたような石頭なんですよ。ほんと」
そう言いながら、自分でも笑ってしまった。
「彼女は、日々本来業務に邁進しておりまして、そんな、議員のお耳に入ったような、選挙事務所に入りびたるなどという、恐れ多い、そうした時間も事実もございません」
猛り狂う電話の相手。
「ほんとにそんなこと言っていいのか?
よーく、原に言っておけ。警察が動くのは選挙が終わってからだ。その時が楽しみだなって。
わかったか!」
ガチャン!
副町長が左耳を押さえたくなるほどの音を立てて電話を切った。
「噂には聞いていたけど、噂以上だったな」
副町長が隣りにいる総務管理課長にぼやいた。
「蝶々、大丈夫でしょうか?」
「ただのプレッシャーさ。圧力をかけて蝶々の動きを押さえようという魂胆だろう。
卑劣な奴だ」
吐き捨てるように言った。
「警察は動くんでしょうか?」
「いくら警察だって、馬鹿じゃないさ。
イブくんに関する噂が事実無根だってことぐらい、調べりゃすぐわかる」
副町長が笑った。
「とはいえ、念のために、M県議から話があったことは、蝶々と海老夫課長にぼくから言っておこう。
イブくんには、しばらく慎重に行動するよう、海老夫課長からそれとなく言ってもらうのがいいかな。
変なことにひっかけられても困る。
もしかしたら、地雷をばら撒くかもしれん。
それにしても、やっかいな奴だ」
総務管理課長が腕を組んだままうなずいた。




