第22節 みんな、納得しないでしょ!
9月6日の金曜日、午後6時。
カランコロン。
「こんちは、、、」
夜空の星のドアを押し開けて入って来たのは万汰だけれど、いつもより声が低い。
「元気ないわねぇ。どうかしたの?」
カウンターの中から、愛子がつとめて明るく声を掛ける。
冷蔵庫から出された手拭いで顔を丸く拭きながら、万汰がボヤいた。
「今日議会で、合併問題特別委員会の報告があったんですよ。明日の新聞に載ると思います。
9月議会に間に合うように、閉会中の夏休みにも審議を進めた努力は認めましょう。でもね、、、」
「それで?」
愛子がきく。
「それでね、結論は、合併不適」
鼻から息を吐いた愛子が、黙って万汰のグラスにビールを注ぐ。
「意外な展開?」
万汰がぐびっと一口あおる。
「だって、どう考えたって、おかしいでしょ。
そりゃ、中立的な立場から審議するとか言って、各会派から均等に委員が出て、前後左右から議論した。それはいいですよ。
ぼくみたいな1年生議員じゃなくて、当選何回っていうベテランの先輩たちですから、結論に間違いはないんでしょう。
でも、ぼくは納得できない」
カウンターテーブルの上の小鉢からピーナッツを鷲づかみにして口に放り込むと、音を立てて噛んだ。
愛子が静かに2杯目を注ぐ。
「横須賀市はね、財政的には火の車なんですって。財政調整基金は、ほぼゼロ。
委員会が市の財政課にヒアリングしたら、とても新しい施設を建てる余裕なんかない、と。それどころか、深井以上に厳しい施設統廃合計画を実施中で、議会の一部反対を押し切りながら、市長は断固たる決意で取り組んでいるんですって。
昔みたいに、市長が国の元官僚だった時代は、好きなように補助金も交付金ももらえてたけど、市民派の市長になってからは、国も冷たくなったんだって」
横須賀のかつての市長は国の局長クラスの天下りが多かった。米海軍基地があることから、反対派の市長に就任されると防衛政策上大問題だからだ。
しかし、時代も少し変わり、ひとつ前の市長が市民派から出ると、それに続く今の市長も市民派からの当選だった。
万汰の話に愛子がうなずく。
「合併するには深井町の議会の議決も必要だけど、横須賀市の議会の議決も必要で、横須賀から見ればお荷物みたいな財政赤字の深井町との合併が可決されるわけないでしょ、だって」
万汰のグラスは、もう3杯目が空だ。
愛子が4杯目を注いでいる時に、牛目が帰ってきた。
牛目は、無量塾を終えたあと、岬の湧き水を汲みに行っていたのだ。関東大震災でも涸れなかった湧き水で、富士山の伏流水と言われている。
クセがなく、ウィスキーの水割りにもコーヒーにもよく合った。
「やあ、いらっしゃい」
牛目が陽気に言った。
「お邪魔してます」
まだ声が低い。
牛目は愛子から説明を受けると、湧き水の入ったボトルをキャリアーから冷蔵庫に仕舞いながら、ポツリと言った。
「そうか、議会ではそういう説明だったんだ、、、。
でも、町内会長の間で言われている理由は、ちょっと違うみたいだな」
下を向いていた万汰の顔が、がばっと起きる。
「どういうことなんですか?」
奥に引っ込んだ愛子の代わりにカウンターの中に入った牛目は、壁に寄りかかりながらタオルで両手を拭いている。
「いやね、ぼくも聞いただけの話」
万汰がカウンターテーブルの上に並べられたグラスを1個取ると、ひっくり返して牛目の前に置き、ゆっくりビールを注いだ。
グラスに手を添えてへこりと頭を下げた牛目が、話を続ける。
「冷静に考えると、うなずける。つまり、話は、こうさ。
万汰くんも知ってのとおり深井町議会の議員は12人いるけど、決して多いわけじゃない。葉山町や湯河原町だって、議席数はそう変わらない。
何が問題かというと、合併したあとの選挙なんだ。
深井は人口8千人で、有権者は6千人。投票率が50パーセントとして、投票数は3千。それを12人で割れば、平均得票数は250。
つまり、深井町の議員選挙の最低当選ラインは、ざっと200票ぐらいなもんだ。過去も、実際にそれくらいだった」
万汰がゆっくり頭を上下する。
「ところが横須賀市の場合、丸い数字で言うけど、人口40万で議席も40。
有権者が8割で32万、投票率が同じなら投票数は16万。だから、平均得票数は4千票。
中にはたくさん票を取る人もいるから、実際の当選ラインは4千票よりも低い。とはいっても、2,500はあるだろうね」
万汰が左手で顎の下をなでる。
「合併するとさ、とりあえずは深井町の議員は失職することなく、全員そのまま横滑りして横須賀市議会議員になる。
でも、合併後に次の市議会議員選挙が行われれば、深井町出身の議員はほぼ全員落選することが、わかっちゃった。深井全部で、やっと3千票だからね。受かっても1人。2人は無理だよね?」
万汰の開いた口が塞がらない。
舌の上のピーナッツの欠片が見える。
万汰の顔がみるみる赤くなり、珍しく声を荒げ、右の手のひらでカウンターテーブルを叩いた。
「そんなことだったんですか?
そんな、情けない。自己保身だったなんて。信じられません!」
牛目は落ち着いている。
「多分、どちらも事実でしょ。だけど、どちらがより重要だったかは、誰も言わないでしょ。
議場での報告だけが、公式記録として議事録に残るんだよね。真実は、常に、闇の中」
牛目が両手を広げた。
「みんな、納得しないでしょ!」
牛目は返事のしようがない。
万汰の空のグラスにビールを注ぐ。
「次の未来塾は?」
タコの切り身が入ったおさしみワカメの小鉢を冷蔵庫から1つ取り出すと、それを万汰の前に置きながら聞いた。
「美味しいです」
そう言ったものの、箸が小鉢の中で泳いでいる。
「来週の金曜日なんですよね。どうなるんだろう、、、」
最後まで、万汰の顔は冴えないままだった。
カランコロン。
「じゃあ、また来週!」
黙って出ていく万汰の背中に牛目が声をかけたけれど、振り返るでもなく、わずかに右手を挙げただけだった。




