第16節 イブさん、まかせた!
なんやの浜にようやく消防車の鐘の音が聞こえてきた。救急車のサイレンではない。
消防車が浜の入り口に着き、オレンジ色の制服を着たリーダー格の消防士が最初に飛び降りると、砂浜を疾走した。
「ご苦労様です!」
彼は大地分団長に挨拶すると、状況の引き継ぎを受けた。
「あなたが、通報された牛目愛子さんですね?」
うなずく愛子。
「樹くーん、消防車が来たぞ。もう大丈夫だ。
あとちょっと、頑張ろうな!」
隊長が声をかけた。
「ごめんなさーい」
涙声だ。
隊長が、大地分団長以下の消防団員と愛子に向かって説明した。
「自分も含め、隊には救急救命士の資格をもった者がいます。
しかし、分団長が言われるように、ここは誰かが潜らないと、樹くんをテトラの隙間から出すことができない。
もうすぐ暗くなります。救急車もじきに来るでしょうけれど、決め手は、その万汰さんでしょう」
遠くから、かすかに救急車のサイレンが近づいてきた。
「大丈夫かー!」
その声に振り向くと、自転車に乗った万汰が浜に向かって走ってきた。背中にイブがしがみついている。
車が通りにくい最短コースを、丘の上からママチャリでまっしぐらに飛ばしてきたのだ。
「万汰、お前の出番だ!」
イブを降ろし自転車を道路わきに放り出した万汰に向かって、分団長が叫んだ。
「テトラか、、、」
万汰が小さくつぶやく。
昔、同じようにテトラポッドに挟まれて亡くなった子供がいたことを、万汰は祖父から聞いて知っていた。
「大地さん、すぐ船を2、3隻出して、海側からテトラ全体に灯りを当ててください。ぼくが潜ります。
問題は、どこの隙間から入ったかだ。それが分からないと、出しようがない、、、」
万汰は、そう言いながら脱いだスーツとワイシャツをイブに預け、股引と肌着1枚になる。
大地から言われた漁師たちが、堤防に横づけしていた漁船をさっそく離岸させ、45度ずつ3隻に分かれて、サーチライトでテトラポッド全体を照らし始めた。
裸足で海に入った万汰は、テトラの奥まで明るくなったことを確認しながら近づく。
「ママー!」
叫んだ樹の場所は、だいたいわかる。2メートルも離れていない。
しかし、どこの隙間から入ったのか。
万汰は考えた。
(干満の潮位の差は1.4メートル、所要時間は7時間。1時間で20センチずつ潮位が上がった。つまり、4時間前に樹が隙間に入った時の水面は、今より80センチ低かった)
万汰はサーチライトに照らされた海の中で、今の水面より80センチ低い位置にあるテトラの隙間を探した。
大きく息を吸って潜り、自分の頭を通してみる。
何度もそれを繰り返すうち、自分の頭の通る隙間をひとつ見つけたものの、両肩までは入らない。入っても、上半身の右側半分がせいぜいだ。
精一杯首を突っ込むと、その先に樹の靴が見えた。
「樹くーん!」
呼吸のために水面に首を出した万汰の呼びかけに、返事がない。
代わりに、大地が叫ぶ。
「万汰、急いでくれ!」
「手鉤棒をください!」
万汰の声に、漁船の上から、数本、手鉤棒が投げられた。
近くに落ちた1つを手にし、再び潜る。
あたりを付けた隙間に再度頭と右肩を通し、手鉤棒で樹の足首を引っ張る。
樹の体がすっと近づく。抵抗がない。
万汰の心臓が激しく連打し、頭に血がのぼる。
近づいた足首を手でつかんで引き寄せ、腰を引っ張って下半身から先に隙間から出す。
歯を食いしばりながら、全力で樹の体を隙間から出した。
テトラの間から体が出始めていることに気付いた消防団員たちが、途中から手を貸してゆっくり引いてくれた。
頭が最後に隙間から出る。見れば目と口が開いたままだ。
樹の体が海中から出されると、浜で大歓声が上がった。
2人の消防団員がぐったりした樹の体を砂浜に敷かれた毛布の上に下すと、救急隊員の1人が急いで心肺蘇生法にとりかかる。
最初の一押しで、口から海水が噴水のように飛び出した。
万汰はテトラのコンクリートに両手を突いたままうなだれている。
分団長が水の中をテトラまで行って、万汰の右肩に手を置いた。
「よくやった。あとは、お医者さんと本人の力を信じるしかない」
「ぼくが、もうちょっと早く来てたら、、、」
「お前のせいじゃない」
ようやく浜に上がると、万汰は白衣を着た救急車の隊長に言った。
「もし輸血が必要なら、ぼくの体からいくらでも血を抜いてください。ぼくはO型です。
この子を死なせるわけにはいかない!」
白衣を着た別の隊員が差し出した毛布をイブが受け取り、万汰の濡れた背中を包んだ。
樹に対する胸骨圧迫が続いている。
「愛子ー!」
皆が振り向くと、荒崎町内会会長が走りながら叫んでいた。
無量塾からの帰り、「夜空の星」に行く途中で、この騒動を知ったのだ。
「樹くんが、テトラの中で溺れたの」
樹は無量塾の生徒でもあった。
愛子が、比呂人の肩を抱いているイブを紹介した。
「あなた、佐藤イブさんよ」
会長がうなずく。
「ああ、あなたが。
お話は、愛子からずい分聞いています」
イブの頬が赤くなった。
隊長が周囲の者に声をかける。
「これから長坂の横須賀市民病院に搬送します。
ご親族か、どなたか、一緒に行ける方はいますか?」
迷わず愛子が右手を挙げた。
「民生委員児童委員の牛目です。
この子の母親は今働いていて、まだ連絡がとれていません。父親はいません。2人暮らしです。
わたしが代わりに同乗します」
イブが慌てて割って入った。
「愛子さん、わたしが代わりに乗ります。愛子さんはこども食堂があるじゃないですか。ここは、わたしが、、、」
愛子が比呂人の頭をなでた。
「そうね、それがいいわね。
イブちゃん、ありがとう」
イブが隊長に向き直る。
「隊長さん、町役場の佐藤イブです」
事務服を見れば一目瞭然。
「それは助かります」
隊長が敬礼した。
「イブさん、まかせた!」
「会長、わかりました。あとで電話します」
牛目の声に力強く答える。
多くの群衆と万汰たちを残し、樹とイブを乗せた救急車がなんやの浜を後にしたのは、午後5時50分を回っていた。




