第15節 なんやの浜で大事件
6月7日金曜日の午後。
深井小2年1組の亀本樹は、バス停「荒崎」の先の道路右側に広がる「なんやの浜」に設置されたテトラポッドで、同級生の原比呂人とタマ採りをする約束をしていた。
地元でいうタマとは正式にはイボニシのことで、岩場の隙間など潮の流れのあるところを好んで生息し、潮に流されないように殻にボツボツとしたイボを持っているので、イボニシという。
サザエと同じ巻貝で、丸い蓋を爪楊枝でこじ開けて肉の部分を食べる。
食べればサザエに似た味と食感で、4センチ以上の大きさなら醤油を垂らして焼くと酒のつまみや夕食のおかずになった。
タマは肉食性の貝のため体の中に毒を持っていて、肉に付いたワタの一部を一緒に食べるとピリピリするけれど、そのピリピリ感もタマ独特の味わいのひとつだ。
それでいて、トコブシやサザエのような漁業権の対象ではないので、どこの誰がいくつ採っても全く問題ない。
樹の家は母子家庭で貧しかったから、大きめのタマがたくさん採れたときは、地元の飲食店に売って小遣いにしていた。
樹が鞄を家の玄関に放り入れ、漁港に着いたのが午後1時半。
この日は大潮で、干満の差は1.4メートル。
幸い風もなく、波もほんのわずかに揺れる程度だ。
午前11時に底をついた潮位は午後6時の満潮に向けて徐々に満ちてきてはいたものの、樹と比呂人がテトラポッドに着いた頃は、まだその半分より大分下だった。
普段の潮位では浜とテトラポッドの間を行き来できないのだけれど、大潮のときはそれが可能になる。
「樹、大丈夫か?」
浜に残って周りに大人がいないか見渡していた比呂人が聞くと、沖側に張り出して積まれたテトラポッドの真ん中あたりまで行った樹が振り返りながら言った。
「比呂人は、見張りをしてて。親爺さんが誰か来たら、合図に『ヤッホー』って叫んでね。
たくさん採れたら、山分けだからさ!」
テトラの先まで行った樹が水面に近い隙間から中をのぞくと、普段採れるものよりもかなり大きなタマが見えた。
「おお、いるぞー」
5センチ以上あるか。奥のものほど大きい。
隙間に頭を入れるとすっと入る。右肩を入れると左肩も入った。腰を通し、さらに奥に手を入れると両足も入った。
「やったー、でかいの採れたぞー!」
ひとつひとつを腰に下げた網に入れると、編み目をすり抜ける心配がいらないほどの大きさだった。
荒崎漁港の脇、バス停「荒崎」のすぐ近くに、牛目愛子たちが運営する「わかし食堂」がある。
「わかし食堂」の「わかし」とは、体の成長に応じて「ワカシ」、「イナダ」、「ワラサ」と名前を変えていく出世魚「ブリ」の幼少期の名前だ。
子供の成長を願ってつけられた名前だけれど、「お茶を沸かして待ってるから、来てね」と、親も来やすいように配慮した名前でもあった。
少子化と貧困化の波は、例外なく深井にも押し寄せていて、各クラスの中に母子家庭の子が数人いることが普通になっていた。
児童委員兼任の民生委員をしている愛子たちの中でも、ご飯を食べられない子供が増えていることを心配していたが、小中PTA、子供会連絡協議会、青少年育成指導委員会、社会福祉協議会、深井婦人会、高齢者元気会、そして連合町内会の理解と応援、出資を得て、荒崎に空き家を再利用したこども食堂ができたのが1年前だ。
午後5時、「わかし食堂」の外に立っていた愛子は、キンコンカンのチャイムを聞きながら、漁港のはるか西の水平線に向かって傾く太陽を静かに眺めていた。
入口の暖簾が揺れている。
風が上がってきていた。
すると、「なんやの浜」の方からこちらに向かって、太陽を背に道路を全速力で走ってくる子供がいる。
「おばさーん!」
どーん。
泣きながら走ってきた子が、そのままの勢いで愛子にぶつかった。
「比呂人くん、どうしたの?」
比呂人も「わかし食堂」の常連だ。
「おばさん、樹が、テトラに挟まれて出てこれない!」
比呂人の肩をつかんだ愛子の手に力が入る。
ルールを破った比呂人を叱るよりも先に、消防団に連絡しないといけない。
自分のスマホを取り出し、登録してある消防団分団長の亀本大地に電話した。
「わかった。すぐ行く」
畑で農作業をしていた大地は、全てを放り投げて内原台を後にした。
愛子は、比呂人といっしょにテトラに向かって走りながら、119番通報をする。
走る途中で会う人全員に、テトラで子供が溺れかけているから手助けしてくれるように叫んだ。
「わかった。町内会館からAED持ってくる」
そう言ってくれたのは、元消防団員のおじいさんだ。
愛子が浜に着く頃には救援の大人たちは10人以上に膨らんでいたが、平日の昼間だから、一部の女性を除けば皆高齢者ばかりだ。
「樹くーん、大丈夫?」
テトラの手前の浜で声を限りに叫ぶ。
「おばさーん、ごめんなさーい!」
一番外側のテトラポッドのあたりから返事があったが、吹き上がってきた風にあおられた波の音が重なり、最後が聞き取りにくい。
「満潮は6時やぞ。まだまだ潮が上がる。
バカタレが。テトラで遊ぶなと、言うとったやろ!」
潮焼けした顔の鞆男さんが吐き捨てるように言うと、愛子のスカートをつかんで泣き続ける比呂人の頭を平手で叩いた。
「おばさーん、怖いよー!」
「大丈夫、大地さんたちが助けてくれるから。
いいかい、少しでも上に、顔を上げるのよ!」
今は、それしか言えない。
日没の時刻は6時55分だが、陽は大分西に傾きつつあった。
愛子が樹を励ましながら母親に電話をしても、出られない旨の機械的なメッセージが流れるだけだ。
仕方なく、すぐ来るようにショートメールでメッセージを送った。
浜に人が集まってきたものの、救急車のサイレンがまだ聞こえない。
「救急車を呼んだのか?」
群衆の中の誰かが叫んだ。
「最初に、5時ちょうどに、電話した!」
そう返事をしながら時計を見ると、5時10分だ。
三浦半島の南西に位置する深井町は、消防については、近隣市町の共同による一部事務組合の三浦半島消防組合に属していた。
いざというときに住民が119番通報をすると、半島の北東部にある横須賀市消防局の救急係に着信し、そこから最寄りの分署に救急車の出動指示が出る仕組みになっていた。
深井から直近の分署は横須賀市長坂にある西分署で、次は南の三浦市初声の分署だ。
距離的には西分署が少し近いものの出動中のことが多く、初声分署は来てくれやすいけれど西分署よりも遠い分だけ到着時間がかかる。
深井町西端の荒崎地区までは、西分署からは直線で6キロで、初声分署からは7キロだ。
出動命令を受けた緊急車両が発進し平均時速40キロで走っても、到着までの走行時間はそれぞれ最短で9分と10分半かかる。
「どいてくれ!」
群衆を押しのけて、数人の消防団員と共にひときわ大柄な大地分団長が現れた。
愛子が大地に抱きつく。
「どんな様子ですか?」
「1時半頃にテトラの中に入って、タマ採りしてたんだって。
その後、潮がどんどん上がってきて、出られなくなった」
「場所は?」
愛子が声のしたあたりを指さすと、2人の団員が服のまま胸まで海に入って近づき、かわるがわる声をかけて励ました。
海面から中を覗こうとしても、中が暗くてよく見えない。
頭を海面下に突っ込んでも、コンクリートの足が見えるばかりで、どこから入ったかはわからない。
「樹くーん、聞こえるか?」
大地が叫ぶ。
「おじさん、ごめん、なさい!」
波が顔にかかり始めているのか、声が途切れ途切れになった。
「やばい。時間がない。誰かが潜らないと、、、」
大地が、ひとつ手を打った。
「万汰を呼んでくれ! 万汰は潜水士の資格がある。
あいつは、どこにいるんだ?」
その頃、万汰は、今日から始まった町議会の代表質問にそなえるため、役場の議員控室で前年度町税徴収率の分析資料を持ってきた海老夫課長と分析担当のイブから話を聞いていた。
その説明が終わりに近づいた頃、万汰のスマホが鳴った。
「ちょっとごめんね。あ、愛子さんだ」
スマホを耳にあてる。
「はい、、、えっ! すぐいきます!」
険しい表情の万汰に、いぶかしがる課長。
「何か、ありましたか?」
「なんやの浜で事故らしい。すぐ行かないと」
資料一式をがさっと鞄に入れ、上着をつかむ万汰。
「わたしもご一緒していいですか?」
イブがおずおずときく。
「いいけど、なんで?」
「愛子さんが困っているなら、わたしも力になりたいんです」
万汰がイブの右肩をつかむ。
「よし、行こう。でも自転車だよ?」
「自転車は慣れてます」
ガッツポーズのイブ。
その場で課長の了解をとり、職場に戻らず事務服のまま退庁することにした。
2人して自転車置き場までかけ降りると、万汰はイブを荷台に横座りさせ、一気に坂を下った。
丘の上の役場から浜までは、直線距離でも2キロある。




