第11節 主幹、わかりました!
2日目。イブは、市税徴収事務の現場体験をした。
青木主幹の引率のもと、横浜市中区元町にある中華料理店「八八四番」に訪問督励に行った。
店が忙しくなる11時より前に着き納税交渉する予定だったのに、あいにく店主が出掛けていて不在。
仕方なく、店番をしていた中国人の学生アルバイトに、店主が代表者になっている会社の町税未納明細表と差押警告書が入った封筒を渡して終わりにした。
青木の話によれば、この店の主人が代表者になっている新生日本リゾート開発というペーパーカンパニーがあって、その会社が深井町の古い固定資産税を滞納しているというのだ。
店からの出がけに、レジ横の壁に貼ってあるカレンダーをイブがスマホで撮影した。
「イブさん、なに?」
ファイルを鞄にしまいながら、青木が聞く。
「いえ、ただ、ちょっと、どこかで見たことのある風景だなと、、、」
カレンダーは、中心にマリーナの風景写真が大きく配置され、スポンサーである会社名が印刷された下辺部分は綺麗に切り取ってあった。
その後予定していた他の訪問先を全部回って用務を済ませると、午後2時。喫茶店「折田」で遅いランチを食べることにした。
「折田」はこの界隈では昔から有名なジャズ喫茶で、店主の折田は、通称「オッタさん」と呼ばれていて、横浜・横須賀のジャズに関する生き字引的な存在だ。
生まれは横須賀の人で、米海軍横須賀基地の国道をはさんだ反対側に建っていたEMクラブが閉鎖されるまでは、そこにバンドを率いて出演していたという生粋のジャズメン。
もともとはギター弾きだったけれど、独学でジャズピアノを弾くようになり、舞台ではもっぱらピアノを弾いていた。
カランコロン。
ドアを開けると、カウベルが乾いた丸い音を立てた。
昼間にしてはやや暗い店内を見ると正面の奥の床が1段高くなっていて、その上にグランドピアノが置いてある。
今は、昼食の時間も過ぎたことから、店内は閑散としていた。
左側の7人掛けのカウンターの一番奥に女の子が1人で座っていて、下を向いている彼女にマスターがしきりに何か話しかけている。
右側のボックス席が2つ空いていたので、青木は奥のボックス席に入ると、自分はカウンターが見える席に座った。
イブは、カウンターを背にする席に座る。
「ここはね、毎月最後の金曜の夜に、アマチュアのジャズバンドが来て生演奏するんだ。昼間はレコードのBGMだけど、やっぱりナマはいいよね」
青木はジャズが好きなのか、随分と力の入った言い方をした。
「主幹は、何か楽器はやられるんですか?」
メニューを見ていた青木が顔を上げる。
「ぼくは、エビピラフのランチセットにしよう。
そうだね、楽器はね、ギターをさわる程度かな。とても『弾ける』とは言えない。スリーコードを掻き鳴らす程度。Fのコードがね、最初うまく押さえられなくてさ」
と言いながら、自分の右の手首をギターのネックに見立てて、左手でFのコードを押さえる指の形を見せた。
多少謙遜して言っているのがわかる。でも、「弾いてみろ」と言われると困るらしいことも、わかった。
「わたしも、同じのにします」
「マスター、エビピラフのランチセット、2つ」
青木がカウンターに向かって言うと、マスターが右手を挙げてガッツボーズ。
喫茶店のエビピラフだから、しょせん温めるだけのものだ。つまり、出てくるのが早い。
味も予測できて、裏切られない。値段も安い。
待っている間、青木は仕事のことは一切話さず、むしろ仕事と関係ないささいな話をいろいろとした。
初めて買ったのがヤマハの3万円のフォークギターだったとか、左手の指が5本しかないのに押さえる弦が6本あるのはおかしいとか、演奏前に新しい弦を張って急いで巻き上げていたら4弦がいきなりバチンと切れたとか、学生の頃のちょっとした思い出話だ。
他愛ない話なので、聞かされるイブも肩が凝らなくて助かる。
「でも、ピアノの鋼の弦だって、切れるときはバチンっていきなり切れるそうですよ」
「おおっ、そうなんだ」
返礼として、イブも青海学院大学時代のヨット部の話をした。
「お金、かかるんじゃないの?」
上目づかいで青木が聞く。
「それが、全く。うちの大学のヨット部は去年が創部90周年で、とても古いんですよ。
古い分だけ昔から強くて、オリンピック選手が何人も出てるし、3年前の東京オリンピックの時の江の島沖レースでも、OB・OGがたくさん運営に関わったんです。
先輩の数が多いだけでなくて、OB会そのものが割としっかりしてるんですね。フネはOB会が買ってくれるので、学生部員は知識と技術さえ身につければいいんです。
それと、ヨットは風の力で走るので、実は、意外にお金がかからないんですよ。
モーターボートの場合は、燃料代が高くつくので、船尾からお金をばら撒きながら走るようなもんですけど」
「そうなんだ」
ソファに背をあずけて感心する青木。
「お待たせしました」
と言ってランチセットを持ってきたのは、さっきマスターと話をしていた女の子だ。
「あっらー!」
イブが素っ頓狂な声を挙げる。
「イブ先輩!」
今度は女の子。
2人の顔を繰り返し見る青木。
「あ、主幹。この子、葉山のヨットクラブの後輩なんですよ」
「えっ?」
「林小春といいます」
お盆を抱えたまま頭を下げる。
「小春ちゃん、なんだ、ここでバイトしてるの?」
「いえ、バイトじゃなくて、マスターにちょっと愚痴を聞いてもらってたんです」
カウンターの向こうでマスターが頭を掻く。
小春は、もともとは黒髪なのだろうけれど、潮焼けして赤茶けた艶のない髪の毛で、肌もすっかり黒くなっている。ネイティブ・アフリカンかと思うほどの黒さだ。
「まあ、相変わらず育ってるわね。何センチ?」
確かに背が高めだ。
「先輩、それは聞かない約束でしょ?」
イブが青木に説明をする。
「この子は自称169.5センチですが、実際に計ると173センチはあるんですよ。また伸びた感じ」
当の小春は、膝を曲げて縮んだふりをする。
「主幹、この子、すごいんですよ。ピアノでリストを弾かせるとセミプロ級で、この世代で右に出る子がいない。ピアノでテッペン目指せばいいのに、なぜかヨットにぞっこん」
フランツ・リストは異様に手が大きかったから、彼が作った曲を手の小さい普通の日本人女性が弾くのは、そもそも無理がある。
「お婆ちゃんが東都音楽大学主席卒業の伝説のピアニストで、お母さま、この子と、3代続けて同窓生。お爺ちゃんは青海学院大学元教授というセレブな一家で、横浜山手の豪邸に住んでる。
ディンギーの調子はどう?」
「はい! 大学にヨットサークル作りました」
小春が背筋を伸ばして元気に応える。
「まあ! 音大にヨットサークルか、、、。確かにお金持ちの家の子が多いんだろうけど。
でも、活動はできてるの?」
「ぼちぼち、ですね」
その先は余り話したくない様子だ。
「レッスンとの両立はなかなか大変よね?
また、葉山で会いましょ!」
イブが話をまとめると元気にお辞儀をして、カウンターに戻っていった。
「イブさん、顔が広いねぇ」
青木がサラダにとりかかる。
イブのピラフはまだ半分残っていた。
「葉山少年少女帆走倶楽部に来る子はみんな元気で、一年中海でディンギーに乗ってるから真っ黒なんです。その中でも、小春ちゃんはピカイチだったな、、、。
地元のヨット協会も目を付けてて、将来を期待してるんですよ」
「へえ、、、」
さすがに気が引けたのか、今度は、マスターがコーヒーを持ってきた。
「ぼくは、ここのアメリカンが好きなんだよ。エスプレッソは、どうもダメだな。焦げ臭いばっかりで。
ジャズもバイクもコーヒーも、やっぱ、アメリカンだよね?」
「スタイル!」
マスターが嬉しそうにエヘッという顔をして、帰って行く。
「あっ!」
スマホの画面を見ていたイブが、突然大声をあげた。目が三角になっている。
青木がコーヒーを吹き出しそうになり、手ぬぐいで口元を押さえた。
「主幹、わかりました!」




