↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/91

薔薇の残り香

雨上がりの街に、薔薇のジャムの香りが漂う。

それは、過去の罪と愛を包み込むような、甘く切ない残り香。

消えたレシピ帳の続きに刻まれた“薔薇”の文字が、教授を再び導く。

香りは言葉より雄弁に、真実を語るのだ。

――そして、秋山亮一教授は微笑む。

「ジャムはお好き?」

夜明けの街を、秋山亮一教授は静かに歩いていた。

 雨上がりの舗道にはまだ水滴が残り、そこに微かに混じる甘い匂い――それは、薔薇のジャムの香りだった。


「レシピ帳の続き……“最後の瓶”とは、これのことか。」

 教授は呟きながら、手にした小瓶を掲げた。

 深紅のジャムは、まるで血のように濃く、光の中で妖しくきらめいている。


 助手の松岡が息を切らして駆け寄った。

「教授、例の香料商ガルニエの倉庫で、新たな証拠が見つかりました! 薔薇の花弁に、手書きの符号が……」


 教授はその紙片を受け取ると、わずかに微笑んだ。

「ふむ、“B・R・J”……“Bleu Rose Jam”か。それとも、暗号文の一部だな。」


「教授、それは何を意味しているんですか?」

「香りの並び順だよ。香料の世界では、香りを三層で構成する。トップ、ミドル、そしてベースノート。薔薇は、その“中心”に位置する。つまり、これが香りの設計図だ。」



 教授たちは、香料商の裏通りにある温室へ向かった。

 そこは、無数の薔薇が咲き乱れる秘密の庭だった。

 甘くも少し切ない香りが漂い、空気全体が霞んでいるように感じられる。


 中央のテーブルには、一冊のノートが置かれていた。

 それは紛れもなく、消えたレシピ帳の続き。

 表紙には、銀色の筆記でこう記されていた。


“真実を知る者へ――香りは、人の罪を隠さない”


 教授はページを開き、香料の染みを指でなぞった。

 ジャムの甘い残り香の中に、ほのかな焦げの匂い。

「……火を使った形跡がある。香りの層を焼き消して、痕跡を隠したのか。」


 松岡が息を呑む。

「まさか……誰かが、証拠を香りごと消したってことですか?」

「その通りだ。香りを消せば、記憶も消える。だが、薔薇の香りだけは残った。――人は、愛を完全には消せないからな。」



 教授は机の上のティーカップを手に取り、ゆっくりと薔薇ジャムを溶かした。

 紅茶の湯気が立ちのぼり、香りが部屋いっぱいに広がる。

「薔薇はね、松岡。甘さの中に必ず棘を隠している。香りが強いほど、痛みも深い。」


 彼の目が遠くを見ていた。

 まるで、過去の誰かを思い出すように。

 やがて教授は静かに呟いた。


「ジャムはお好き……?」


 その声に、松岡は小さく頷いた。

「ええ、教授。甘くて、どこか悲しい味ですね。」

「それでいい。甘さの裏にある“痛み”を知らねば、香りの真実には届かない。」



 その夜。

 教授の机の上には、一輪の薔薇と、封のされていない小瓶が置かれていた。

 瓶の底には、わずかに金色の粉――“琥珀香”が沈んでいた。

 それは、次の事件の合図のように、月光を反射していた。

薔薇の香りの中に隠されたのは、忘れられぬ誰かの記憶。

香りを消そうとした者は、愛までも消し去ろうとした。

だが、薔薇だけは残った――痛みと共に。

教授は静かに紅茶にジャムを溶かし、月明かりを見つめる。

香りの奥に潜む真実は、まだ終わっていない。

次に漂うのは、琥珀色の約束の香り。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。