特別物語 教授の淡い恋 ― 香坂玲子 ―
この章は、秋山亮一教授がまだ若き日の頃に出会った女性――香坂玲子との記憶。
科学では解けない感情、そして香りに封じられた“約束”が、
彼の人生と研究の根幹を形づくった。
十数年前のこと。
秋山亮一はまだ准教授として、研究に没頭していた。
彼の研究室には昼も夜も香料の香りが漂い、光の代わりに瓶の反射が壁を照らしていた。
そこに現れたのが、香坂玲子だった。
化学よりも感性を信じるタイプの研究者で、
彼女の手元にはいつも小さな銀の匙と、琥珀色の液体があった。
「先生。香りって、心の形みたいなものだと思いません?」
その言葉に秋山は戸惑いを覚えた。
香りは化学反応の結果でしかない――そう信じてきた彼にとって、
“心の形”という表現は、どこか詩的すぎた。
だが、彼女と過ごす時間の中で、
秋山は香りを“記憶”として感じるようになっていった。
ある冬の日、研究室の窓辺で二人は小さな実験を行っていた。
「花弁を乾燥させず、香りを封じ込める新しい方法を探しているんです」と玲子が言う。
彼女の手から渡された瓶の中には、
薔薇とラズベリーが溶け合ったような香りが漂っていた。
「……まるで恋の香りだ」
思わず呟いた言葉に、玲子はわずかに微笑んだ。
「なら、先生。いつか完成したら――その香り、誰かに贈ってくださいね」
それが、彼女の最後の言葉になった。
翌月、玲子は異国の大学への招致を受け、突然の旅立ちを告げた。
秋山は言葉を失い、ただひとつ、彼女が置いていった瓶を手に取った。
ラベルには、彼女の筆跡でこう書かれていた。
> “No.7 約束の香り(Promise)”
それ以来、秋山は瓶を一度も開けていない。
だが、雨の日の朝――必ず、ジャムティーの湯気にその香りが重なる。
その瞬間、彼の胸の奥で誰かの声が響く。
“香りは、心の形ですよ”――と。
秋山亮一教授は、今も時折、その瓶を机の端に置く。
未だ封を切らぬままの“約束の香り”は、
彼の研究と人生を支え続ける、静かな恋の記憶だった。
玲子が残した“約束の香り”は、今も教授の手元にある。
それは、失われた恋でありながら、彼にとって最も美しい研究成果。
やがてその香りが、再び物語の中心に戻ってくる――。




