#40 別れ
──南州、泰山の庵──
「……まったく、無様な姿を見せてしまったのう」
病臥から起き上がった尹・ロンバン老師は、小さめの酒盃を口に持っていく。
「老師……」
その日は"身意八合拳"の修練の為、アルムはいつも通り"歪空跳躍"で庵へとやってきた。
そして──見つけたのは、外で倒れていた老師の姿だった。
すぐに介抱したところで、老師はほどなくして目を覚まして最初に要求したのが酒であったのは……いささか呆れるところである。
「今までにもあったんすか?」
「数えるほど、じゃがな。汝に発見かるとは……我の運も尽きてきたのう」
弱気な老師を見るのはアルムにとっては初めてであり、それは衝撃であると同時に考えさせられることだった。
「老いと病気は、如何ともし難いものよな」
あるいは顔色や呼吸。あるいは立ち合いや稽古での機微。あるいは食の細さ。あるいは酒量──よくよく注意深く観察していれば兆候はあったのだろう。
公儀御庭番として任務につき、市井や人々の情報を収集しているのにもかかわらず……己の至らなさにアルムは歯噛みする。
老いや病気は魔導具"一日一命"をもってしても、その場凌ぎにもならない。
「アルム、託してよいか」
「……モノによるっす」
「カカッ汝はそういうやつじゃったのう」
神妙な表情から、一転して老師は笑う。
「とりあえず耄碌はしてないようで。いよいよとなったら死に水くらいはとるんで、安心してださいよ」
「小子が、生意気になりおって……」
老師は上体を完全に起こしてから、ゆっくりと立ち上がる。
「そういえば、大陸品はもう残っておらんのじゃったか」
比武で一本取るたびに一つ、貰い受けてきた。
既に箱いっぱいだった物品は底をつき、その全てをアルムが所有している。
「いつだったか、"青スライム"が入ってた瓶が残ってますかね。中身は空っぽとはいえ、老師が酒を飲むのに使い始めたんで」
「なるほど、あれかい」
老師は歩いていくと、棚に置いてある透明度の高い空き瓶を手に取った。
「最後の比武──否、最期の決斗としようか、我が弟子アルム」
「武人として。男として。っすか」
「無論じゃ、このまま朽ち果てるくらいならば華々しく散ってこそよ」
「老師って……俺の気持ちはいつも無視ですよね」
「なんじゃ、気遣ってほしいのか?」
「いーーーえ! 俺と老師はそういうんじゃないんで別にいいです。ただ最期に一言だけ、ぶつけてみただけなんで」
外へと出ていく老師に、アルムも続いていく。
「死ぬには、いい日っすね」
「うむ。それに泰山に思ったよりも長居してしまったものよ」
ゆったりと泰山の澄み渡った空を眺め、清涼な空気を肺いっぱいに満たす。
"片割れ星"ほどではないが、ここはとても気持ちがいい。
「アルム、汝に授けるものがある」
「その空き瓶っすか」
老師は透明な空き瓶をその場に置くと、静かに首だけを横に振る。
「"絶招"じゃ」
「絶招──身意八合拳の奥義って……"合一拳"でなく?」
「確かに基本ではあるがな、一言も奥義と言った覚えはない」
完全なる身体連動と魔力との合一を果たして成される、一打必倒の拳。
それを勝手に奥義だと思い込んでいたが、どうやら別に存在するようだった。
「今から見せるのは、発展じゃ。この肉体では打てて精々が一発じゃろう──その眼と胸裏にしかと刻みこめい!」
「押忍ッ!!!」
アルムは山間に残響するほど強く、大きく、返事をする。
老師は住み続けてきた家の前に立つと、眺めながらゆっくりと息吹で整えていく。
「ふゥーーー……」
「まさか老師──"家"に絶招を打つ気ですか?」
「我が死ねば、もはや無用の長物じゃ」
「まだ中にいろいろありますけど──」
「男が細かいことを言うでない。試しにはちょうどよいのじゃ」
老師は腰を低く重心を落とし、丁寧に折りたたんだ拳を、家の外壁へと添えた。
「まばたきもするでないぞ。身意八合拳──絶招・"虚勁"」
わずかばかり土を踏みしめる音、体はほとんど動かないまま関節が連動し、肘から手までがわずかに震える。
地響きのような振動が構造物全体を走り、次の瞬間には家そのものがボロボロに崩れていった
「──理解したか? アルム」
「生まれてから一番ってくらい集中して、ココに刻みつけた」
アルムはトンットンッと心臓付近を親指で叩く。
「足から腰、腰から背、背から肩、肩から拳まで。心は熱く、意は消し、充実した気を、力に乗せて、魔と合一させ──そして、外へと解き放つのじゃ」
足と腰・腰と背・背と肩・肩と拳──外四合。
心と意・意と気・気と力・力と魔──内四合。
併せて八合──そのすべてを完璧に運用するのが前提、その上で発生するエネルギーの全てを放出させ、かつ共鳴させる。
「──衝撃の刹那に幾度も打点をずらすことで、波をぶつけ合わせながら浸透させた。だから木や石で組まれた家も、細部に至るまで崩壊せしめたわけですね」
「カカッ、ハッハハハハ! 完璧な見切りじゃアルム、やはり汝は恐るべき天稟よ」
「当然っすよ」
アルムは得意気に、ドンッと心臓を拳で叩く。
「では──本気で行くぞい。"絶招"を受ければ死ぬるはアルム、おんしのほうよ」
「……?? さっき打てるとしても一発とか言ってませんでした?」
「さてなあ、まるで若かりし頃のように力が溢れてくるようじゃ。男ならば、限界を超越えてこそよ」
老師は右拳を左掌へ合わせ、アルムも同じように抱拳礼を交わし合う。
「はァ~、まったく……散るにしたって弟子の手を借りるなんて、正直どうなんすか?」
「案ずるな。古来よりその命をもって、師は弟子に越えられるものよ。我もそうじゃった」
「一日くらいは落ち込むかも」
「たった一日とは……薄情な弟子よの」
「おかげさまで」
「口が減らぬのは、どれほど成長しても変わらぬな」
覚悟が決まった眼光。歴史が刻まれた身体。誇りが宿った拳。退けぬ闘争。
武人として、男として、師弟としての立ち合い。
「最期に一つだけ。老師、もしも一分だけ過去に戻れるとしたら……何をしたいっすか?」
「なんじゃそれは……? そういえば馬・ガオフェンも似たようなことを言っておったな」
「あれは"死んで生まれ変われるなら、次は何になりたいか"──ですね」
老師はさほど考えることなく、あっさりと答える。
「一分か──最初に酒を飲んだ時、かのう」
「格別の美味さ?」
「安酒じゃったよ……しかし強い酒でな、あの頃はたった一杯で酩酊したものじゃ」
らしい答えに、アルムはフッと笑みを浮かべた。
今にも尽きる蝋燭が最後に燃え上がるかのように──老師は地面を左震脚で砕きながら、左右の手を並べて垂らすように構えをとる。
アルムも応じるように、まったく同じ身意八合拳の構えをとった。
開始の言葉はなく、泰山の包み込むような静謐の中で死合が始まった。
示し合わせてはいなかったが、自然と今まで習ってきた身意八合拳の技を、順番に繰り出しては互いに躱し防いでいく。
一つの技を終えるごとに、緊張感と重圧で押し潰されそうになっていく。
しかしもはや止まることは許されず、止めることもできなかった。
いずれも致命打には至らず、ついには最後の技を迎え、放つ。
『絶招──"虚勁"』
老師と、アルムの、言葉と、動きが、重なる。
失敗すれば絶命を免れえない際の際、アルムは無意識のままに"死域"へと一歩踏み出していた。
そして踏み込んだ分だけ、先に打ち込まれた一撃によって勝負は決した──
「──ま、だ……まだ甘いが……伝授は、これにて完了じゃ」
「しかと、受け取りました」
「今後も励め、アルム。そして──これまで通り、何事も楽しむことよ」
そう言いながら倒れた老師の躰を、アルムは受け止める。
「……汝は楽しむことにかけて、素晴らしい才を持っておる」
「楽しむ才能、なんか前にも言われたような」
世界は──面白い。まるで自分の為に用意された舞台のようだと。
「その心を常に置くことができるならば、それはすなわち無敵よ」
「押忍! 今までお世話になりました!!」
そうしてアルムの腕の中で、老師は安らかにその息を引き取ったのだった。
◇
老師の遺体を"泰山"の頂きへ埋葬し、アルムはコキコキと首を鳴らして半分が黄昏時となっている幻想的な夜空を見上げた。
センチメンタルな気分で、幼少期からの記憶を想起しながら思い出に浸る。
(最初の出逢いは奇縁。なし崩し的に師事するハメになったけど──)
とても充実していた。男としての生き方を、大いに教わった。
そして武術を通して霧縫とは違う形で学んだがゆえに、多様な視点で物事を考えることを覚えた。
「……おぉ?」
遠目から羽ばたく影が見えたので、アルムは口笛で旋律を奏でて山彦を響かせる。
気を引いたおかげで、5年ほど前にも見た──別固体の──"大怪鳥"が、山頂めがけまんまと近付いてくる。
「先刻の絶招は、合一から解放へ至る部分が不十分だった……だから今度こそ、老師への手向けだ」
最終的には実戦の動きの中でも十全に使えるようにする必要があるが、今はまず完璧な型を──老師の墓前で披露することに専念する。
突っ込んでくる飛行魔物との相対距離を正確に測りながら──地の足から拳まで、心から魔まで──完全なる合一と解放を果たす。
「身意八合拳──絶招・"虚勁"」
拳の先が飛行魔物の鼻先に触れ、多重に揺れる衝撃が反響するように浸透する。
そうして大怪鳥は瞬時に全身を破壊されて、そのまま反対側へと墜落していった。
「もしも天国ってもんがあるのなら……こんだけ近いんだ、きっと魅せられたでしょ──老師」
アルムは透明な空き瓶に入れた酒を一口だけ含むと、残りで墓石を濡らすのだった。




