#02 天狗面
「こういうつもりさ」
どこからともなく"天狗面"をかぶった下男は、それまでの口調とは打って変わる。
「……"天狗面"、だと? よもやキサマ、御庭番か!? 」
「ご明察。飛騨幕府、"聖威大将軍"直轄──公儀御庭番。御用改めである、手向かいすれば容赦なく切り捨てる」
そう口にした後に、"天狗面"はすぐさま言い直す。
「いや手向かいしなくても切り捨てる」
「戯けたこつば抜かしよって、こン若造がァ……」
南郷ミチツネの横に控える大隅武士の一人が、腰の刀へと手を掛ける。
「別にィ、ふざけてなんかないぜ? 倒幕容疑は確たるものと相成ったし、特一級権限においてこの場の全員を粛清させてもらう」
「幕府の狗風情が、よぉ吠えよる」
「わんわん。……いや天狗って普通の犬じゃないよな、なんて鳴くんだ?」
かぶった"天狗面"で表情は見えなくなってしまったが、とぼけた様子に対し、自分も刀へと手を伸ばす。
「挑発的な振る舞い、許せぬ」
「逸るな、ゼンノスケ──"天狗"よ、ここの主人はどうした」
「寝てるよ。そっちはそっち、追って沙汰があるだろうさ」
肩をすくめた"天狗面"は、自分たちと大隅武士らとの狭間へと、わざわざ囲まれる形で入ってくる。
「御庭番にしては、随分と若い。"天狗面"の噂はいくつか耳にしてはいたが……どうやら先代の話か」
御庭番とは、いわゆる隠密である。
昼は民の中に紛れ、夜は闇の中に溶ける影人。旗を掲げず、名を記さず、記録に残らず。
刃を振るうこともあれば、筆で人を殺すこともある。
単独行動を基本とし、その正体を晒すことなく、間諜・探索・謀略・暗殺といった任務を遂行する手練れの中の手練れ。
ゆえに失敗は許されない。ゆえに死する時は独りで散る。ゆえに増援はないと。
「若く才能があるからこそ御庭番となったろうに。どうやら《こう》を焦ったようだな」
「い~や? ここ数年の風聞は俺ので間違いないぜ」
スッと差し出された"天狗面"の手の平には、いつの間にか2束の"血判状"が置かれていた。
「"証拠"は確保、っと」
「なっ……!!」
全員に驚愕が走り、そのまま"天狗面"がパンッと両手を打ち鳴らすと"血判状"は消え失せてしまった。
その代わりとばかりに──手の中に新たに持っていた煙管を、天狗面をやや上にズラしつつ口にくわえる。
「ッスゥーーー」
「きさん……そん素っ首ば置いてけぃ!」
南郷ミチツネが大刀を抜き、今にも斬り掛からんとする最中にあって……至って平然とした"天狗面"の吸う煙管の火皿が、煌々と燃ゆる。
「南郷どの、ひとまずお待ちを」
「なんならあ!!」
「ぷっはぁ~……」
猛る巨漢をなだめる父と、調子をまったく崩さずに煙を吐く御庭番"天狗面"。
「我らに寝返りはせんか、"天狗面"よ」
「くっかっはっは、言うに事欠いて面白い。交渉は嫌いじゃあないぜ」
「若くして公儀御庭番……さぞ優秀なのだろうが、所詮は使われる身よ。その立場を逆に利用し、我らに協力してくれるのならば……相応の見返りを約束しよう」
「直属の御庭番相手に、お上を裏切れとは……なかなかどうして面白い」
「幕府なぞに縛られることなき自由の身──任務の最中、市井の人々の自由な姿に憧れたことがあるのではないか?」
くるくると、"天狗面"は火がついたままの煙管を手元で回す。
「憧れるも何も、俺は"自由に不自由はしてない"んでね。それに、ちょいとばっかし遅かったな」
まるでその言葉が合図になったかのように、視界がぐらりと揺れ、猛烈な吐き気に襲われる。
「うっ……く──」
そうして一人、また一人とその場に立っていられずに、同志たちが倒れていくが、僕はそれを何とか踏ん張って拒んだ。
「なんぞこいはどうしたあ!?」
「よもや盛られた……? 口にしたのは酒──いや、飲んだのは二人だけで……」
「行灯の蠟燭に香を練り込んでおいた。元から部屋にあるヤツだけだと問題ないが、混ざり合って併さると毒として効果が出てくるってわけだ」
何が原因だったのかを探ろうとした直後、"天狗面"は勝ち誇った様子であっさりと種をバラしてきた。
煙と煙が混ざり合うことで、毒になるのだろう──下男より渡されていた行灯、まさにこの男に誘導されたものであった。
たった一人で囲まれながらも余裕そうにしていたのは、仕込みが既に完了していたからなのだと。
「いい臨床試験になった、ありがとう」
「我、らは……みすみす罠に──」
「ちなみにこのまま全身が弛緩していき、心臓か呼吸のどちらかが先に止まるんであしからず」
"天狗面"は煙管から紫煙をくゆらせながら、腰元から抜いた扇を開き、言葉と共に扇ぎ煽る。
おそらくは──解毒薬効が含まれているのであろう──煙を吸う"天狗面"だけが、この場では十全に活動しうるのだ。
「はってっさってっと、動けるのは……ひふみの四人か。思ったより剛の者がいるな、まっ尋常に勝負してやるよ」
「なに……が、尋常だ……卑怯者めが」
僕はなんとかその言葉を絞り出して、"天狗面"を睨みつける。
「おいおい、過程はどうあれアンタらは自らの意思で将軍に弓引いた──内乱・転覆を謀ったわけだ」
「だか、ら……なんだ」
"天狗面"は煙ではなく、溜め息を「はァ~~~」と吐いた。
「っんなの、とっくに戦争だろうが。そうでなくとも誠の武士たるもの、"常在戦場"を心中に置いて然るべき」
「ぬぅ……」
「こうも不心得者ばかりとは恐れ入るってもんだぜ、なぁ?」
「減らず口を──」
「まっそれでも介錯はしてやるさ。ほら俺ってば慈悲深いし、養子とはいえ一応は武士の家系なんで。情けってやつを──」
「せからしかッ!!」
怒号と共に南郷ミチツネは畳を突き抜かんばかりに踏み込み、梁や天板などお構いなしに叩き斬りながら振り下ろす。
「割と自信作だった毒をものともしないその肉体、やるなぁアンタ」
そう口にしながら"天狗面"は──柄を砕かんばかりに両手で引き絞り、振り下ろされた剛剣を──閉じた鉄扇であっさりと刀を受け止めていた。
「野太刀"地源流"か──俺も以前ごっついのと闘ってから気になって、ちっと齧ったわ」
「ぬぅ……ッッ!? こんまま潰しちゃる!!」
「おう、なかなか。けど残念だったな、まだまだその程度じゃ俺の命どころか、髪の毛一本にすら届きゃしないぜ」
鍔迫り合うように押し込もうとする南郷であったが、"天狗面"が持つ鉄扇は微動だにせず。
さらに南郷ミチツネが一息に力を込めようとした瞬間──その持ち手を"天狗面"が蹴り上げていた。
「っな、が──」
跳ね上がった南郷ミチツネの両腕。掴んでいた大刀は中空に静止し、"天狗面"が代わりにそれを握り込む。
そして屋敷が揺れ崩れんばかりに畳を踏み込むと、勢いよくその刃をかち上げたのだった。
逆袈裟に斬断された南郷ミチツネ──その分かたれた死体がずるりと、それぞれ畳に倒れ落ちる。
「知恵捨」
"天狗面"は血の一滴も浴びぬまま、大刀を畳へと突き立てる。
その様子を僕は……ただただ眺めることしかできないのだった。