いかなる花の咲くやらん 曾我物語より 上巻
「えっ、頼朝様?仇討ち?今は。いつ?」
不思議な石によって導かれ、時空を超えた女子高生永遠と仇討ちで有名な曽我十郎の時を超えた歴史ロマンスペクタル。
湘南平塚七夕祭り。踊り手としてパレードに参加した永遠は一瞬、時空を遡る。そこにいた青年と目が合った瞬間、何故か彼に心を惹かれるが、すぐに現代に戻る。実は幼い頃にも同じような体験をしていた。両親と梅林に寄った際に見知らぬ少年と遊んだ。ところが両親はそんな少年はいなかったと言う。
次の春、永遠は例大祭で巫女をしている時に、崖から落ち鎌倉時代にタイムスリップしてしまう。それは三回とも石の力に拠るものだった。今回は現代になかなか戻れず、茶屋で働き始めた。そこである青年と会う。七夕の青年も梅林の少年もその同じ青年だった。不思議な縁で結ばれた二人は深く愛し合う。
令和元年(2019年) 夏 平塚
湘南の太陽が容赦なくアスファルトを熱している。
海からの塩気を帯びた風が頭上の七夕飾りを渡って行く。
ここは神奈川県平塚市。七夕の町。
昭和二十六年に戦後の復興と繁栄を願い、仙台を範として、ここ平塚でも七夕祭りが始まった。全長四百四十五メートルのスターモール商店街を中心に、並行する商店街と合わせて三千本の豪華絢爛な七夕飾りが並び、その美しさとからくりの工夫を競い合う。竹飾りは主に地元の企業と商店が用意するが、幼稚園や小学校の提供する飾りもある。その値段は一本十万円から数百万円する物もあるらしい。頭上にずらりと並んだ風にたなびく飾りの中を歩いていると、まるで天の川の中を歩いているようだ。夜は飾りに明かりが灯り、昼とは違った幻想的な雰囲気を醸し出す。普段は静かな海沿いの町だが、この日ばかりは、全国から一五〇万人もの観光客が押し寄せる。
車を通行止めにした通りの両側には、ぎっしりと出店が並び、焼ける醤油の匂いや、綿あめの甘い匂いが漂っている。父親に肩車された子供が、下駄が片方ないことに気付いたが、人の流れの中で探すことは無理そうだ。商店街の西側、見附台広場の交差点には舞台が設置され、司会者がパレードの開始を告げている。市長、市会議員が行進した後、ミス七夕が艶やかな笑顔で沿道に手を振る。近くの保育園児たちが、七夕音頭に合わせて踊り、その可愛らしさがパレードに花を添えている。
パレードの終盤あたりに、「疾風乱舞」が出演する。
湘南は近年よさこいが盛んで、疾風乱舞は平塚のよさこいのグループだ。主に中学生から大学生が所属している。日本舞踊から発展して、様々なダンスの要素を取り入れ、長袢纏を基本にした色とりどりの衣装で踊るよさこいは、七夕の雰囲気にぴったりだ。
今年の疾風乱舞の衣装には紫の地に白い藤の花が大きくあしらわれている。帯は藤のつるが巻き付いたようなデザインになっており、手には竹細工で作った藤の花を持っている。
「永遠―、ドキドキするね」
「大丈夫、あれだけ練習したんだから」
親友の和香に話しかけられたのは、佐藤永遠。平塚市内の中高一貫校に通う十六歳、高校二年生だ。スラリとした長身と白い肌は気品を漂わせているが、はっきりとした顔立ちは華やかな印象だ。その容姿はまるで大ぶりの白藤のようだ。幼いころから習っている日舞はすでに師範の免許を持っている。また、高校のストリートダンスコンテストでは、友人たちとグループを組んで優勝している。その時は近隣の男子高校生が永遠を一目見ようと押しかけ、体育館は一時騒然としたものだ。永遠は疾風乱舞に入って日が浅く、今日のパレードに出ることは知られていない。後日今日のことを知った男子高校生たちは、さぞ悔しがるだろう。
「そうだよね。間違えたらどうしようって、怖い気もするけど。うん、大丈夫。楽しもう」
「そう、怖いと思えば怖い。楽しいと思えば楽しい」
「永遠ちゃんって、おとなしそうだけど、へんに度胸が据わっているよね。頼りにしてます。ウフフ。さあ、出発だね」
緊張はしていたが、いつも踊りの音楽が流れ始めると、体が勝手に動いていく。永遠はこの時の体とともに心も踊る感覚が大好きだ。
「あー、緊張するー」
友だちの和香は何やらきょろきょろとしている。
「どうしたの?和香ちゃん」
「んー、あっ、これで良いや」
「?」
「もう一個、同じような石ない?」
「石?これは?」
ベンチの上にあった、おはぎのような黒い石を永遠は、和香に渡した。
「あっ、良いね。何処にあった?」
「ベンチにあったよ」
「おかしいなあ。さっき見た時は無かったけどなあ。まあ、良いか」
和香は二つの石を火打石のようにカチカチと合わせた。
「時代劇でやっていた。これから何かをするときにうまくいきますようにって、こうするんだって」
もう一度和香が、カチカチと石を合わせた。
「しゅっぱーつ」
先頭が動き始める。踊りが始まった。その時、大きな風が吹いた。ざわざわと竹飾りが揺れる。永遠は軽いめまいを覚え、町も仲間も薄れていく感じがした。
ぶんぶんと頭を振って、しっかりしなきゃと踊り続けた。気が付くと、そこはいつもの商店街ではなかった。どこか田舎の村のお祭り広場のようだった。
「えっ、何?」
村の人々が、突然櫓の上に現れた娘の、今まで見たこともないような激しい踊りとその美しさに見とれていた。
その群衆の中に、一人輝いているように見える青年がいた。
(あの人・・・)
永遠は、遠い昔にその青年とどこかで会ったような気がした。
青年と永遠の目が合った瞬間、和香の声がして、我に返った。
「永遠、永遠、楽しかったね」
「えっ?」
「終わっちゃたねえ。喉乾いた」
気が付けば、パレードのゴールに仲間とともに立っていた。
「あー、なんか私、今、田舎のお祭り広場にいたような気がする。そこにすごいかっこ良い人がいて、まるで光っているみたいに見えたの。そうしたら、その人もこっちを見ていた」
「なにー、それ。永遠、危ない。熱中症じゃない。早く、なんか飲もう」
(何だったんだろう。前にもこんなことがあった。
(あの時と同じだ)
幼い時、日舞の発表会の後で、曽我の梅林に家族で寄ったときのことだ。
平成二十年(2008年) 春 曽我
「永遠の『藤娘』は上手く踊れましたね。すっかり藤の髪飾りを気にいってしまって」
父と母が微笑みながら話している。
発表会が終わって着替えるとき、永遠は藤の髪飾りを外したくないと言ってそのまま付けていた。
「お父さん、お母さん、見ててね」永遠は、小川にかかる木の橋を舞台に見立て、踊ってみせた。
その時足元の小さな黒い石につまずいた。景色が揺らめいた気がしたが、気にしないで踊り続けていた。
気が付くと両親の姿は見えず、着物を着た美しい少年がこちらを見ていた。
「あなたも発表会?私も着替えたくなかったけど、脱がされちゃった。頭の飾りだけ残してもらった」
驚いて見つめる少年だったが、永遠はおかまいなしにおしゃべりを続けた。
「ねえねえ、何を踊ったの。一緒に踊ろう。私は藤娘よ」
「僕の得意な踊りは獅子舞だ」
二人はしばらく楽しくおどっていたが、母の呼ぶ声が聞こえた。
「永遠、永遠、風が冷たくなってきたわ。そろそろ帰りましょう」
「あれ?男の子は?」
「男の子って?」
「今、一緒に踊っていたでしょ。獅子舞が上手な男の子」
「そんな子はいなかったわよ。さあ、売店行くわよ。梅干し買って帰りましょう」
「えー、おかしいなあ。あっ、待ってー。シソ巻きも買ってくれる。甘いのと酸っぱいのがお口の中で混ざって、美味しいんだ」
「はい。はい。お母さんも好きよ。買いましょうね」
安元二年(1176年) 春 河津
少年の名は一万。うとうとと夢を見ていた。
夢の中で一面の薄紅色の海原が富士のすそ野まで広がっていた。
花のような甘い香りがむせるほどだった。
「ここはどこだろう。あっ」
小川にかかる木の橋の上に突然、女の子が現れた。不思議な着物を着て、頭には藤の花の髪飾りをつけて踊っている。まるで藤の花の妖精のようだと、驚いてみていると女の子から声をかけてきた。
「あなたも発表会で踊ったの?一緒に踊ろう」
一万は、その女の子が何を言っているか理解できないまま、自分の得意な獅子舞を踊って見せた。
一万の暮らす伊東では、祭りの時に獅子舞の奉納をするので、一万は毎日練習していた。
しばらく一緒に踊っていたが、不意に、女の子が消えてしまった。そして一万は目が覚めた。(かわいい藤の妖精だったな。また会えるかな)と、まどろんでいた。
「おかえりなさいませ」
「うむ」
「領地の見回りはいかがでしたか」
「おお、今年も豊作で、刈り入れは大忙しだぞ」
「うれしい悲鳴ですね。みんなでにぎやかで、大変ですけれど楽しいですね」
「そうだな。伊東の荘は半分になっても尚豊かで、何も憂慮することはない。お父上とのいざこざで、工藤祐経殿には、迷惑をかけた。この度はお上の評議で、領地を折半することに決まり、すっきりして良かった。祐経殿とは同じ一族。これから伊東の繁栄のためにともに手を取り合って、仲良くしたいものだ」
この男は河津祐泰。伊東、河津を領土とする伊東祐親の嫡男である。見目麗しく、がっしりとした体格の大男であるが、気性はたいへん穏やかで優しく、子供たちをたいへん可愛がっていた。学問に優れ何か意見を言うときも立場を深慮し、技芸に秀で弓矢も強弓で矢継ぎ早の名手である。
先々代からの領土争いが、悩みの種であったが、この度、ようやく訴訟が収まり、父祐親と叔父の祐経が伊東の領土を半々に収めることが決まり、心が晴れ晴れとしていた。
「お父様、お帰りなさいませ」
一万が領地の見回りから帰って来た父親に絡みついている。
「お父様、お母様、僕は妖精に会ったよ」
「あら、そうなのですか。妖精に?」
「はい。藤の花の妖精を見ました。薄紅色の海の橋の上で踊っていました。不思議な服を着て、頭に藤の簪を刺していました。とても可愛かったです。一緒に踊れと言うので、僕も一緒に獅子舞を踊りました」
「それはそれは。一万は獅子舞が得意ですものね」
「はい」
一万は母に踊って見せた。
そこへ弟の箱王も乳母に抱かれて帰ってきた。幸せいっぱいの河津家であった。いつまでもこの幸せが続くと思っていた。
ところが祐親の叔父、工藤祐経はお上の評定におおいに不満を持っていた。
「えーい、忌々しい。何故、にっくき河津祐親と領土を半々に折半せねばならないのだ。
私の父伊東祐継が早くに亡くなったばかりに、今まで祐親の好きにされてきた。もともと伊藤の荘は父の領地。それなのに、祐親は伊藤、河津の二つの荘をわがものとし、私を都へおいやった。祐親の娘と一度は結婚させておきながら、その妻さえ奪い返されてしまった。
十四歳から二十一歳まで私は都の武者所で仕えた。その間何度も所領を返してもらえるように訴訟をしてきた。
祐親の根回しでなかなか訴訟は受け付けられなかったが、この度ようやく訴えを聞き届けていただけた。しかし、何故、すべての伊東の荘がわが物にならぬ。半分半分とは口惜しい」
長年の訴訟が聞き届けられ、先祖からの領地を半分取り返した工藤祐経の嘆きである。
「いっそ、恨みの矢でも射かけてから死んでしまおうとも思うが」
それを聞いていたのが、長年の郎党である大見小藤太と八幡三郎である。
「もし、殿が伊東の所領をお持ちなされていたならば、我らも権勢を誇れたはずだ。こうなっては、我らにお任せください。必ずや隙を見つけ、一矢で仕留めることをお誓いいたします」
こうして、祐親は全く自分の知らぬところで、大見小藤太と八幡三郎に命を狙われることになった。
その年の秋、珍しい出来事があった。
武蔵、駿河、伊豆、相模の四か国の大名たちが「伊豆の奥野で狩りをしてあそぼうではないか」ということになって、伊豆の国にやってきた。
伊東祐親は大いに喜んで、色々ともてなし三日三晩にわたる酒宴が催された。
それを聞きつけた大見小藤太は、
「狩場では、狙う好機が多くあるだろう。この機会を逃す手はない。殿、いよいよ運が巡ってまいりました」
「うむ。ついに時がやってきた。必ずや祐親を亡き者にしてくるのだ。そして伊東の領地をすべてわが物にするのだ」
「八幡三郎よ、さあ、行こう。今こそ殿のご無念を晴らすのだ。そして、工藤の繁栄の時代を迎えようぞ」
そして、大見小太郎、八幡三郎は、猟師の姿になり大勢の中に紛れ込んだ。
しかし、七日間の巻き狩りの間、夜も昼も付け狙ったが、矢を射かける機会が見つけられないまま、むなしく狩りもおわろうとしていた。残された狙い所は帰り道だけである。
「殿は気をもんで、今か今かと朗報を待ちわびているだろう。手ぶらで帰るわけにはいかん。
最後の覚悟を決めよう。ここは先回りをして、伊豆の赤沢山の麓の児倉追立辺りで待ち伏せをすることにしよう。あそこなら大きな椎の木があり、その陰に身を隠すことができる。また、細い獣道が多くあり、事をやり遂げたのち、逃げるのにも都合が良い」
二人は赤沢山の麓に先回りをして、三本の椎の木陰に身を隠し、最初の矢を大見小藤太が、次の矢を八幡三郎が射ることにした。ところが待てど暮らせど、一行がやってこない。
それもそのはず、その頃一行は、帰路の途中の柏原で、車座になって酒宴を催していた。
五百余騎の人々は狩りを終えて帰るところ、柏の木の生えている野原に出た。そこは百町ほどの広さがあり、柏の木が高く伸び密生していた。峰から吹き降ろす風に吹かれた紅葉の葉が、それぞれの笠にはらはらと散り、雅やかな風情を醸していた。
「伊豆の山々はどこも美しいけれど、ここはまた一段と美しい。このほどの名残を惜しんで酒宴を催してはいかがでしょう」と、懐島平権守景義が言うと、あちらこちらから「それが良い」「それが良い」と声が上がり、酒宴が始まった。そのうち相模国の山之内滝口三郎と、駿河国の相沢三兄弟で相撲が始まった。山内は相撲を三番取った後、伊豆国の竹沢元太に負けた。竹沢も五番相撲を取った後、駿河国の荻野五郎に負けた。荻野も七番取った後、同国の高橋大内に負けた。このように、主だった若者たちが入れ代わり立ち代わり相撲を取ったところ俣野五郎が出て来た。
「俣野殿は怪力であるから、負けたものはさっさと退き、次から次へ行きつく暇も与えず、寄せ合わせ、寄せ合わせ」と若者たちが順番に取り掛かったが、俣野五郎はたちまち三十二番の勝負に勝った。調子にのった俣野五郎は宿老である相模国土肥次郎実平に「年寄りでもお出ましなされ、手並みのほどを見せてあげましょう」と言った。
伊豆国河津三郎祐泰は穏便で控えめであったので、自分からはなかなか出て行かなかったが、長老に対するこの無礼が我慢できず、自分も一番相手をお願いしたいと申し出た。
俣野は東国の大男であったが、河津はさらに五、六寸ほど大きかった。両方から寄り合い油断なくして河津は俣野の上首を打ってそらせ、立ち退いて
「やはり、たいしたことはない。しかしこれほど勝ち誇ったものを情けなく打ってはバツが悪いだろう」と一度二度苦戦のふりをしてから俣野の上首をちょうと打つ。討たれた俣野が左右の手で河津の上首を打とうとする。その懐に河津がさっと入る。俣野の右の前足を片手で取るや、放り投げた。
これが世に言う「河津投げ」である。
陽が傾き、風が冷たくなってきたころようやく面々は腰を上げた。ほろ酔い気分の坂東武者たちが愛馬にまたがり、今回の巻き狩りの成果、先ほどの相撲のこと、そして家で待つ家族のことを思い浮かべながら帰路へ着いた。
八幡三郎と大見小藤太は、ひたすら待っていた。必ずここを通るはずだ。日没してしまえば狙撃は困難。薄暮であっても標的は見づらい。武士たちも暗くなる前に宿へ着きたいと思えば急ぎ足でかけてくるであろう。薄暗がりの中、早馬で行かれては、祐親を仕留めることができるであろうか。まして狩り装束は誰も似たようなもので、判別は難しい。大きな夕日が山の端に落ちかかっている。
いよいよ、待ちかねた一行がやってきた。思ったより、一行はゆっくりと歩を進めていた。一番に通るのは波多野右馬允、二番に通るのは懐島平権守景義、三番は大庭三郎景親、海老名源八季貞、土肥次郎実平、土屋次郎義清と続き、遙かに遅れて流人の源の頼朝。この次に伊東と河津の親子がやってきた。
優れた乗り手に、名高い名馬であるから、倒木や岩や石もかまわずゆったりと歩ませていた。乗り換えの郎党一騎も近くにいない。土肥の配下の谷の向こうの山を登っている。
前後に人はいなかった。
さんざん待っていた大見小藤太であるが、天性の臆病者で「どうしよう。どうしよう」と思っているうちに目の前を通りすぎて行った。
次の射手、八幡三郎は落ち着いて、白木の弓に大きな鹿矢をつがえて引き絞り、ヒョウと射た。
その矢は河津三郎祐泰の鞍を割り、腰から太ももに貫通した。
祐泰は弓を取り、矢をつがえて、馬の鼻を引き返し、周囲を見回したが、真っ逆さまに落馬した。萌黄の布で裏打ちした竹笠が風に舞った。
「しまった。祐親ではないぞ。息子の祐泰が先に進んでいたとは」
後ろから来た祐親を大見小藤太が射たが、これは外れた。
続いて八幡三郎の射た矢が飛んできたが、矢は左手の指二本を射切り手綱をちぎった。
「山賊がいる。搦め手を回せ、先進は引き返せ、後進は進め」と祐親は叫んだが、とても足場が悪く、もたもたしている間に、大見小藤太と八幡三郎は逃げ延びてしまった。
「祐泰、祐泰、目を開けろ。しっかりしろ。祐泰」
祐親の嘆く声が伊豆の山々にむなしくこだまするばかりであった。
祐泰の遺体は編駄という板に乗せられて宿所へ帰った。祐泰の母は遺体に取りすがって
「私も一緒に冥土の旅に連れて行っておくれ」と身悶えして声を振り絞って泣き続けた。 父親の祐親も
「同じように矢に当たったのに どうして自分だけ助かったのだ。お前はどうしてあっけなく旅立ったのだ。私のような年寄りが助かって 若いお前が何故」と嘆き悲しんだ。妻は二人の男の子を膝に乗せて
「お前たちよくお聞き。昔、周の幽好王という人が 殷の仲好町に滅ぼされた時、母の摩低夫人の体内に宿っていた子は七ヶ月になっていました。夫人は王に先立たれた後 あまりの悲しさに 体内の子に向かって 『たとえと月に満たなくても 早く産まれて 父の仇を討っておくれ。』と言い聞かせました。その子は八か月で生まれ 七歳十一ヶ月の時に 見事仇を討ち果たしました。 世の人は感動し、その子を国王にしました。お前たちも この話をよく覚えておくのだよ。父を討ったのは 工藤一郎祐経に違いない。二十歳になるまでに 祐経の首を取って、この母に見せておくれ」と悲しみの涙を流しながら、強く 強く言い聞かせた。三歳になったばかりの箱王は 母の言葉が分からず ただ悲しそうな母を 慰めるように 母の頬を撫でていた 。五歳の一万は「 十五歳で父の仇を討ちます。二所権現様 三島大明神様 足柄明神様 富士浅間大菩薩様 氏の大神様 どうか私に力をお貸しくださいませ」と父の遺骸に誓った。
祐泰の遺骸は花園山へ運ばれて 荼毘に付された。 三十五日の法要で 伊東祐親は出家をした。一万は父の使いならした鏑矢や鞭などを取り出し、「自分もいつかこれらを使いこなして、工藤祐道を討ちまする」と言った。箱王が「父上はどこへ行かれたの」と尋ねたので、母は「父上は仏となって極楽浄土というとても素晴らしいところで平穏に暮らしておいてです。私もいつかはそこへ行って一緒に暮らしたいと思っているのです」と答えた。すると、すべてを分かっていたと思われた一万が「そうなのですか。それなら今、参りましょう。母上も乳母も急いで 身支度をして私を連れて行ってください。私は父上が恋しくてなりません。早く早く」と母を急き立てた。 集まった人々が一万のいじらしさに心を打たれた。(この子は父の死を本当に理解したとき、本当に仇討ちをするかもしれない。この子が本当に仇討ちをするなら必ずや力を貸そう) と強く思った。
祐親と同じように、母の万劫御前も出家しようとしたが、
「このわしは老衰しておる。そのうえ工藤祐経はまだわしの命を狙っている。いつ死ぬかわからん。そなたが出家した後幼い子供を誰かに預けてどのように育つと思っているのか。どんな人とでもいいから再婚して二人の子供たちを、祐泰の形見と思って 育ててくださるまいか。もし、この願いを承知できないのなら まず この入道が自害しよう。それを見届けてから そなたの思い通りにするがよかろう」
そこまで言われて万劫御前は背くことができなかった。 そして遠い親戚である曽我祐信と再婚をした。 輿入れの前に祐泰の墓前で「 今はおいとましなくてはなりません。蘇我の里へ参ります。 どうか私と子供達をお守りください。私もまたどこにおりましても あなた様の菩提を弔います。」と挨拶をすると、その母の横で幼い一万が「おじい様の言葉に従って 母上様のお供をして曽我の里へ参ります。父上様の仇 工藤祐経を討つまで どうかお守りください」と泣きながら祈る姿に 皆涙ぐんだ。
こうして万劫御前は曽我祐信の元へ嫁いできた。
その頃、一万は、必ずや父の無念を晴らすを決意をし不動明王あてに手紙を書いた。
ふどうめう王様え申し上げ候。われらけうだいは。ちちにはなれ。母ばかりをたのみ。
おもしろき事もなく。けうだいづれにて。ほかゑまいり候ゑば。むかいやしきの平どのに。
せびらかされ。うばやしたじたまでも。をなじやうに。せびらかし候ぬゑ。うちゑかゑり。
ははさまにつげ候ゑば。いろいろとしかられ。せつかんにあひ申候まま。かなしくそとへも出で申さず。
はこ王とふたり内にいや。ただちちの事ばかりをおもひ。まことのととさまのないゆゑに。
よそのものにも。われわれ申候。はよう。大なをとこになり。かたきくどうすけつねをうち申たく候。
はは様の大じにせいと。おんおしゑ候。まもりほんぞんにて候へば。はようねがひを。すけつねをころし申たく候恐々謹言。
一まんより
をふどうさま
それから二年、世は平家の世から源氏の世に移っていた。
その昔平家の時代、流人だった頼朝と娘の八重姫の間に子がいることを知った工藤祐親が、平家を恐れて二人を別れさせ、その子供をす巻きにして川に沈めてしまったことがある。そのことを恨んでいる頼朝は工藤祐親を処刑した。
その頃、平家に関係したものはお腹の子供まで殺された。兄弟も平家側の人間として処刑されるところ、曽我祐信の嘆願で処刑を免れた。
石橋山の戦いで命を懸けて頼朝様をお助けした恩賞で得た駿河国八群の大介の任をご辞退して、二人の命を助けてくれたのだ。貧乏にはなったけれど、それでも祐信様は二人が助かったことを、本当に喜んでくれた。
万劫御前は兄弟を救ってくれた曽我祐信にいたく感銘した。
「子供たちが助かって本当に良かった。祐泰が亡くなった時は、悲しみのあまり 一万には辛いことを言ってしまった。
まだ一万が五歳の時のこと。もう仇討ちのことは忘れているだろう。これからは貧しくとも、平穏にこの曽我で親子幸せに暮らしていきたいものよ」
しかし、歳月は幼な児の心にともった仇討ちの炎を消すことはなかった。
治承三年(1179年) 春 曽我
一万は八歳になっていた。
曽我の里にはまた梅の季節がやってきた。紅白の梅が満開でどこまでも続く。まるで遠くにそびえ立つ富士の麓まで薄紅の大海原が続いているようであった。 その美しい光景を一万は不思議な気持ちで眺めていた。
「この景色は以前に見たことがある。まだ父上がご存命で 母上と箱王と幸せに暮らしていた頃。そうだ 藤の花の妖精と踊った夢を見たあの時の景色だ。 あの時は薄紅色の大海原だと思っていたが あれは この梅の花だったのか。 あの頃は 毎日 藤の花の妖精の話ばかりするものだから、父上からよくからかわれたものだ。 昨年も見たはずなのに気が付かなかった。悲しみに心を閉ざしていたからか。 あの時のことを思い出したら 少し心が軽くなったようだ。藤の花の妖精に慰められたような気がする。どうかまた会えないものか 」
一万がしみじみとしていると弟の箱王が泣きながら駆け寄ってきた。兄に泣きながら抱きついてくる箱王に一体どうしたのだ。何があったのかと一万は優しく語りかけた。
「えーん、えーん」
「どうしたのだ。箱王。誰かに何かされたのか。お腹でも痛いのか」
「 わからない」
「 わからない?何か嫌なことがあったのだろう。誰かに何か言われたのか?」
ヒックヒックとしゃくりあげながら「兄上、仇持ちってなあに?」と聞く弟に驚いた一万は「 どうしてそのようなことを言うのだ ?」と尋ねた。
「今、お父上の所にお客様がいらしているの。子供も三人一緒だったから、遊ぼうと思ったの。そしたら一番大きい子が 僕を見て『やーい、 やーい、仇持ち』って 言ったから、他の子も同じように囃し立てて」
「何ということだ」
「ねえ、仇持ちって、なあに?『親の仇も打たないなんて 武士とは言えないぞ。弱虫毛虫』って言われたの 」
「親を誰かに殺されたとき立派な武士の子であったら、その仇を打たねばならない。それが武士の本懐、本当の親孝行というものだ」
「 でも僕達の父上の曽我祐信殿は元気でいらっしゃいます。母上は今も、弟と手毬で遊んでいらっしゃいました。僕は仇持ちではありません。何故、仇持ちと言われるのですか」
「 箱王、そなたももう五歳。本当の事を言っても良い年だな。私も当時五歳。今のそなたと同じ歳であった。 これから 話すことは我らの今後の生き方に大きくかかわってくる。何も知らずこのまま平穏に暮らすこともできる。それでも聞きたいか」
「 はい。箱王は五歳になりました。兄上のご存知のことを全てお聞かせください」
「実は曽我祐信殿は本当の父上ではないのだ。われら兄弟の本当の父上は河津祐泰という。おじい様の伊藤祐親と共に河津伊東を治めていた。その領地を巡って親族の争いがあり、おじい様の弟、工藤祐経に殺されたのだ」
「クドウ スケチュ...スケチュネ?」
「そうだ。その工藤佑経が、おじい様を殺害しようとした。そして、間違われて父が殺された。その後おじい様は出家し領地はすべて祐経の物になった。母上も出家したかったのだが、我々を育てるために曽我の父上に輿入れしたのだ」
「そうなの?曾我の父上は本当のおとうさまではないの?」
「曽我殿は我ら兄弟を本当の子供のように愛してくれてくる。しかし、本当の父上は他に居る。いや、居た。大きくて、厳しく、そして優しい父上であった。皆に頼られるとても良い領主であった」
「では、私たちの仇はそのくどうすけちゅねなの」
「ああ。父は今もこの世とあの世の狭間で、恨みの炎でその身を焼いて苦しんでいる。私が仇を討って父をその地獄の業火から救わなければならない。私は父が亡くなった時に父の墓前で必ず仇を討つと母に誓ったのだ」
「ならば私も兄上と共に仇を討ちます」
「いや、仇を討ち果たすことは優曇華という。二千年に一度咲く花だ。めったにあるものではない。仇討ちが成功する確率は限りなく低い。仇討ちをしようとおもえば、その間士官することも叶わない。苦しい生活だ。お前はまだ幼く、曽我殿を本当の父と信じて生きてきた。これからも曽我殿を父として、母と共に幸せに暮らしてほしい。仇は必ずこの兄が打ってみせよう」
「どうしてそんなことをおっしゃるの。私は今まで兄上をすべての手本として育ってまいりました。お兄様が右へ行けば右へ行き、左へ行けば左へ参りました。今更道をたがえることなどできましょうか。何故、共に仇を討とうと言ってはくださらないのですか。」
「まだ、わからぬか。見事祐経を討ち果たせたとて、その先は無い。父に報告するために冥途に旅立つしかないのだぞ」
「兄上がそのようなお覚悟ならば、私も同じに覚悟を決めます。もう、泣きません。ともにすけちゅねを討ちましょう」
幼い弟がどこまで理解して覚悟を決めたのかはわからないが、「もう泣きません」と言いながら泣いている舌足らずの弟をいじらしく思い、一万は弟を抱きしめた。
「早く大人になろう。お前が十三、私が十五になったら、どんな野の果てまで、山奥まででも分け入り、祐経を探し出して二人で力を合わせて仇を討とう。お前も良く弓の稽古をしておけ」
真っ赤に染まる空を背にまばゆい太陽が富士の頂きに沈もうとしていた。その太陽から一筋の光が一本の道となって兄弟の元へ届いた。二人はその夕日に静かに手を合わせた。
「お兄様、お手合わせお願いします」箱王は一万の後をいつも追いかけて、剣の練習をせがんだ。また、兄上のように力持ちになるのだと、辺りの石を持ち上げては投げていた。最初のころはどんぶりほどの石も持ち上げられなかったが、今では一升餅ほどの石なら軽々、投げられるくらいになった。庭師が並べた石も、箱王にとっては鍛錬の道具。『あらあら、お庭がめちゃくちゃだわ。』と母は嘆きながらも、兄弟仲良く遊んでいる様子に、怒りはしなかった。まさか、二人が父の仇を討つための修行をしているとは露にも思わなかった。二人はすくすくと育った。兄の一万は、しなやかに鍛え上げられた背の高い少年になった。弟の箱王は背の高さこそ兄には追い付かないが、屈強な身体には力がみなぎり、その成長ぶりには目を見張るものがあった。将来は二人とも父親譲りの立派な青年になるであろうと思われた。それでも箱王はまだまだ、母に甘えるところがあった。
ある日、流鏑馬の訓練をしている時に、箱王が落馬をして足を怪我した。母親が不便であろうと、負ぶってくれたのが嬉しくて、「時々怪我をしようかな」などと言って、母を笑わせた。
怪我が良くなってくると、箱王はもうじっとしていられなかった。すぐに兄を追って、走り回った。
「箱王、まだ、無理をしてはいけないよ。もう少し、良くなってから、また剣術の練習をしましょう」
「いえいえ、もう、大丈夫です。見ていてください。この怪我したほうの足で、その石を割ってみせましょ」
「それは、無茶苦茶です。また、怪我をしますよ。今度は軽い怪我ではすまぬかもしれない。骨を折りますよ」
一万の止めるのも聞かず、箱王は「えいやっ」と、石を踏みつけた。さすがに石は割れなかったが、なんと、石が足の形に凹んだではないか。これには兄の一万も驚いた。
元歴元年(1184年) 秋 曽我
一万は十三歳の十月半ば頃 元服して、曽我十郎祐成となった。本来であれば河津を名乗るはずであったことを思うと、母の胸中は複雑であったが、無事元服したことはめでたいことであった。
兄弟は人前で仇討ちの話はしなかった。その日も誰にも聞かれぬように二人きりで仇討ちの話しをしていたのだが、元服して気が立っていたのか、夜半まで話し込んでしまった。静かな屋敷の中で、二人の話声は 母の寝所まで漏れ聞こえてしまった。
「なんと、恐ろしいことを。私のせいだわ。幼い子供たちがずっと仇を討つために、武芸を磨いていたなんて。時代は平家から源氏の時代に変わったのだもの。今の世では仇討ちなど許されない。ましてや祐経は鎌倉の頼朝様の側近、うちの子供たちは頼朝様の仇の孫。目立たぬように、お怒りに触れぬように、静かに生きていかなくてはならないものを。貧乏に身をやつしても、子供たちを助けてくれた曽我様にも申し訳ない。亡くなった祐泰殿も、子供たちの幸せを願っていることでしょう。なんとか、仇討ちを辞めさせなくては」
万劫御前は大変衝撃を受け、子供たちを改心させるために どうしたら良いかと、悩み苦しんだ。
そして万劫は箱王を、かねてより信仰のあった箱根権現預け、法師になるために勉強をさせることにした。兄弟を呼び寄せて
「お前たちは仇討ちをしようとしているのですか。
河津の父上が亡くなった折、私は仇を討って欲しいとお前たちに言いました。
今では、後悔しています。時代は変わり、平家の後ろ盾を失くしました。仇討ちを仕終えることが出来ても、その後領地を取り返せるようなこともありません。憎き工藤祐経は、源氏の重鎮となっています。お前たちが仇討ちをしようとしていると知られたら仇を討つどころか、 祐経に会うまでもなく、何らかの罪を着せられ殺されてしまうかもしれません。曽我のお父様に助けていただいた その命 ゆめゆめ無駄にしてはなりません。
河津の父上はもう、極楽浄土で安穏に暮らしておいででしょう。お前たちもこちらの世で平穏に暮らしておくれ。もしもまだ成仏できていないというのなら、仇を討つより、心からの供養が必要だと思いますよ。
そこで箱王、お前は箱根大権現様へお行きなさい。
父上は箱根大権現様を信仰していらっしゃいました。お前の箱王という名前も、箱根大権現様から頂いたのです。権現の別当様には、話を通してあります。
よく学び、立派な法師になり、父上の孝養を懇ろにするのです。」
それを聞いた箱王は 「わかりました。私は前世で何か悪いことをしたので、父上に会えない人生を送ることになったのかと 思い悩んでおりました。修行して読経を続けることが、父上のためになるのでしたら、喜んで箱根に参りましょう」と 目にいっぱいの涙をためて答えた。
箱根大権現神社で、箱王は父の菩提を弔うために立派な僧になろうと 毎日、辛い修行を辛いとも思わず、励んでいた。他の稚児たちが遊んでいるときも、ひと時も怠けず ひたすら経を覚え、念仏を唱え、座禅を組み、作務も自ら進んで行った。そして僧としての修行の傍ら、ひそかに武芸を磨くことも怠らなかった。権現の森の奥深く、杉の木を相手に剣術の稽古をする音が響いていた。もともと、その事情を知って気の毒に思っていた別当の行実は、箱王が真面目に父の御霊を安らげようとする姿に感心したが、一方であまりに真摯な姿に、心を壊すのではないかと心配もし、陰ながら箱根大権現様に、箱王の健やかな成長を祈っていた。
箱王は 幼い時から兄一万と共に父の仇をとることを親孝行の誉と、剣の鍛錬に明け暮れてきたが、今は父のことを思いながら読経することが、一番の親孝行と自分に言い聞かせた。三年半の辛い修行が明け、いよいよ出家するときが近づいてきた。
箱王は本宮に詣で、「ついに出家する日が近づいてまいりました。毎日毎日読経をし、まじめに修行をしてまいりましたが、心の中の憎しみは消えません。今も、工藤祐経の首を取りたいという気持ちがくすぶっております。どんなに読経いたしましても、父上の苦しみの声が耳に残ります。私が仇を討たなくては 父上は救われないのではないでしょうか。もしも、私が仇を討つことを権現様がお許しになるのでしたら、どうか私にお示しください。お示しがなければ、僧になることを定めとし、素直に頭を丸めます」
箱王が手を合わせ、目つぶって祈っていると、御宝殿の中から「泣く涙、斎垣の玉となりぬれば 我もともに袖ぞ露けき」(お前の涙が、神社の垣根の玉となるので、私も袖で涙をぬぐっていますよ。)と聞こえた気がした。
あれはお告げだったのだろうか。仇討ちをせよとおっしゃっておられたのか。
健久元年(1190年) 冬 箱根
新しい年があけた。
そして、一月十五日に 頼朝が御二所詣のため、三島大社へ参ずる前に 箱根大権現に来ると知らされた。
「頼朝様が、箱根に来る。祐経は頼朝の側近と聞いている。必ず一緒に来るであろう。
これが権現様のご利益であろうか。本殿で祈ったのが昨年十二月十五日、それから一月もしないで、祐経に会う機会をくださった。ありがたく、尊いことだ。
父の仇の祐経が、寺に頼朝の供でやってきた。その祐経をみつけて「祐経か。あいつが父上を殺したのか」
箱王は涙がにじむ目に祐経の姿を焼き付けるように柱の陰から睨んでいた。
「父上…」
「この寺に河津祐泰のご子息が修行をされていると伺ったのだが」祐経が何食わぬ顔で近くにいた小僧に箱王のことを聞いた。
「箱王ですね。あー、あそこに居ります。あの柱のところに立っております。呼んでまいりましょうか」
「おお、頼むわ。わしは箱王とは親戚でね。頑張って、良い坊さんになるように声をかけてやろう」
祐経は、箱王を呼んだ。
「おお、お前が箱王か。お前の父上とはいとこ同士でのう。私の父が早くに亡くなったので、そなたのおじいさまに引き取られ、父上とはいとこというより、兄弟のように育ったのだ。
そなたは父上にそっくりだな。大きな体に恵まれて、立派に箱根大権現様にお仕えできそうだ」
祐経は、最初は箱王の父祐泰とは仲が良く、兄弟のように育った。何者かに矢を射られて、亡くなったと聞いたときは信じられなかった。あれだけ文武に優れた祐泰殿が、狩りの流れ矢で亡くなるとは。と、しらを切って話していたが、酒がすすむとだんだん本性を現してきた。
「もうすぐ出家するそうだな。そうすればもう立派な僧だ。殺生はできなくなるな。
いやー、めでたい めでたい。これでわしもやっと枕を高くして寝られるわい。坊主が仇討ちなど片腹痛いわ。お前の父上のことは大嫌いだった。大きななりが威圧的だった。顔が良いことをひけらかして、周りの女子は皆、祐泰に夢中だった。優しいふりをして、わしにもいつも優しく接しおって、わしは見下されているようで むかむかしたわ。見た目ではかなわぬので、せめて学問でと思っても、まるっきりダメだった。ならば武術でと頑張っても、祐泰は力も強く、足元にも及ばなかった。挙句、爺さんは儂の領地の全てを奪った。
お前のお爺さんの祐親を討つはずが射そこない、祐泰を討ったと聞いたときは、しくじったと思ったが、そのあとは上手くいった。自慢の息子を亡くした爺さんは、もう気力をなくしてのお。ふぉふぉふお。頼朝様の世になって、平家に与していた祐親は力を失い、伊東も河津も我が物になった。挙句に、忘れ形見のお主はついに坊主になるという。おっと、これはしたり。少々話し過ぎた。まあ、せいぜい励めよ」
箱王はぶるぶると震えた。「今、ここでこの祐経を殺してしまいたい。今までは本当に父を殺したのが祐経か確証はなかった。しかし、ここまではっきり自白されてそのままにしておけない。兄者、兄者、この箱王はどうした良いのですか。一人で仇を討つことは許されましょうか。権現様、神社の境内で刀を抜くことは 許されましょうか」
祐経は今言ったことを忘れたように 親切ごかしに「袴や馬にも困っているのだろう。これからは私がなんでも助けよう。旦那がいると思って頼ってくると良い。そうは言っても今は何も差し上げるものがない。せめてこれをお納めなさい」と言って、赤木の柄に白銀の小刀を箱王に渡した。鞘には波と花菱、小柄には梅の精巧な彫刻があった。箱王はその刀で一刀と思ったが、祐経はその刀を片手で抑え、もう一方の手で、頭を軽くたたいた。箱王は、仲間の元へ去っていく祐経を 箱王は見送るしかなかった。
物陰に隠れて、悔し涙を流す 箱王のもとへ 別当様がやってきた。
「すべて見ていました。神社の中で、人傷沙汰をおこしてはいけないと 思ったのですか。
あなたは本当に分別のある方ですね。
どうなさいますか。このまま出家なさいますか」
「こんなに心に憎しみを持った者が、出家できるのでしょうか」
「修行が終わって出家をすると言っても、その先も修行は続きます。修行を続ける中で憎しみや煩悩が消えていけばそれはそれで良いと思います。
一方で、本望である仇討ちを果たしたのち、晴れ晴れとした心持で、出家なさるのも良いと思います」
それから半年後、箱王は十七歳になった。
いよいよ、次の都での受戒の式で出家することが決まった。
(やはり、開けても暮れても祐経の事ばかりを考えてしまう。このまま僧になっても、学問、勤行の時にも、元服して 兄と共に仇を討つべきであったと後悔ばかりしてしまいそうだ。その煩悩はかえって罪業となるのではないか。頭を剃る前に、兄上に相談するのが良いであろう)
そして、箱王は四年間過ごした 箱根の山を下りる決心をした。
中秋の深夜、一人静かに神社を出て山道を行く箱王の足元を美しく光る満月が照らしていた。そんな箱王をそっと見守る影があった。
「箱王、ここでの修行もそなたの心をすくうことは出来なかったか。これから、そなたの進む道は修羅の道だ。せめて神のご加護があるように私にできるとは祈ることだけだ。今夜は月明りがある。箱王のために一晩中、経を上げよう」
別当の読経する声が静かな箱根の山々にしみわたっていった。
冴え冴えとした月は 曽我の里にも輝いていた。 「美しい月だ。箱王も見ているだろうか。いよいよ、明日 出家だな。二人で仇を討とうと 志した日から 十二年もの月日が流れてしまった。道は違えてしまったが これで良いのだろう。仇はこの十郎が討つ。箱王には父上と私のために 供養をしてもらおう。 そして母の支えになって欲しい。箱王なら立派な僧となることだろう。 十郎が感慨にふけっていると、ドンドンと扉を叩く音がした。
こんな夜更けに誰だろう。
「兄上」
「箱王。どうした。明日 出家するのではないか」
「 そうです。ですから どうしても今日中に兄上にお目にかかりたかったのです」
「 いったい… 」
「実は 先月、工藤祐経が頼朝様のお供で箱根大権現へ参りました。今までは父上を殺したのは工藤祐経と言われておりましたが、確証はありませんでした。 ところが祐経がはっきりと「自分が命じた。」と言ったのです。
『父上のことが嫌いだった。』と 『私が出家したら やっと枕をして高くして寝られる』と。そして私を挑発するように刺し刀をよこしました。 私はその場で切り付けようと思いました。ですが 寺院内で刃傷沙汰を起こしては 別当様に迷惑がかかるのではないかと 思い迷った一瞬に 抑え込まれて逃げられてしまいました。
その後はどんなに読経をしても修行をしても、無心になれず 悔しさが私の中を駆け巡るのです」
「 うーむ」
「このまま出家して良いものでしょうか。この悪念がなくならなくては 却って父上にとって罪業となってしまう気がします。 ただ母上は私が出家して僧になることを 切望しておられます。深山を一人きりで降りて参りました。 峰に登る時は父の恩の高いことを思い 谷へ下る時は母の徳の深さを思い。どうしたらよいかわからなくなりました」
「父と母の思いを別にしたら 、箱王の気持ちはいかがなのですか」
「私は工藤祐経の首を取って、父の冥福を祈りとうございます」
「人は人に相談する時は 大抵の場合もう答えが出ているものなのですよ。 本当に悩んでいる時は 誰もその悩みを口にできません。 実際、箱王が祐経に会ってからひと月以上、私に相談する機会は多くあったと思います。が、そうしなかった。そして、今夜この兄に会いに来た。もう、そなたの気持ちは決まっておりましょう」
「…」
「兄は母上と同様に、箱王に出家して欲しいと願っています。 仇討ちは遠く険しい道です。 そしてその行き着く先は死あるのみ。箱王には私の分も長く生きて母を支えて欲しいと思います。 しかし、その願いはもう叶わぬのであろう?」
「 こんな会話を以前にもしましたね。 兄上が 八歳私が五歳の時でしたね。 二人で仇討ちをしようと富士に沈む夕日に誓いました。」
「うむ。あの頃は小さかったが大きくなったな。見上げるほどだ」
「 もう、迷いません。兄上、私も共に仇討ちをさせてください」
「さて、母上は何とおっしゃるだろう。当面はお許しくださらないかもしれない。しかし、いつか分かってくれるであろう。
ならば、出家の時刻が来る前に 早々に元服をしなくてはならない」
「そうは言っても、どなたに元服親をお願いするのですか」
「 前々から もしこんなことがあったらと 色々と考えておりました。 北条時政殿はいかがであろう。 北条殿の奥方は我々の伯母にあたる。きっと力になってくれることであろう」
「なるほど。北条どのであれば 元服親として申し分ない 」
「さ、もう夜明けだ。早速 北条殿にお願いに参ろう」
北条司朗時政は喜んで二人を迎え入れた。すぐに髻を取り上げ 名を北条五郎時宗とつけられた。 白覆輪の鞍を乗せた鹿毛の馬を引き出物とし 七日もの間祝宴が催された。 祝宴の後二人は曽我の母親に許しを請うため 曽我屋敷へ帰った。
「立派な大人になったな。箱王。おっと、もう箱王ではなかった。五郎という名前をいただいたのだね。このお姿を見たら母上も さぞやお喜びなさるであろう。」
「そうでしょうか。お望みどおり 出家しなかったことを、ご立腹なさいませんでしょうか」
「わが子の元服を喜ばぬ母がこの世に居りましょうか」
「そうですね。きっと喜んでくださいます」
二人は、母の喜ぶ顔を想像しながら、浮いた心で屋敷の門をくぐった。
ところが 元服した姿の箱王の姿を一目見た母の万劫御前は たいそう衝撃を受けた。 障子をぴしゃりと閉め激しく泣き狂った。
「なぜ、なぜそのような装いをしているのですか。箱根の山から箱王がいなくなったと連絡を受け まさかとは思っておりましたが なんということでしょう。 十郎、お前の差し金ですか。 十郎を元服させたことだけでも、 後悔しておりましたものを。二人とも僧になれば権現様の慈しみで 波だった心も静まったものを。 辛いことは忘れて 平穏に長く生きて欲しいのに。わかりました。 わが子と思うから 生き急ぐような真似を 辛く思うのです。 もう母でもなければ子でもない。 箱王は今すぐこの家から出て行きなさい」
そう言い残して母は屋敷の奥へ入ってしまいました。
残された箱王は 今すぐ箱根に帰って 僧になり、母に許してもらいたいと思ったが、 兄が「 母上の厳しいお言葉もお前のことを思ってのお言葉。 いずれわかってくれよう。 少し間をおいて また許しを乞おう」 というので とりあえず 親戚の家に身を寄せることにした。伯母の夫の三浦良澄殿、母方の伯母の夫の和田義盛殿、従姉妹の嫁ぎ先の渋谷重国殿、姉の夫の早川遠平殿、これもまた従姉妹の夫の秦野権守殿。北条政子様の母君は二人にとっては伯母にあたる。岡崎義実殿の奥方も二人の伯母である。ほかにも渋美殿、海老名殿、本間殿。伊東の一門は多かった。 あちらこちらの縁者のもとで過ごすうちに二、三ヶ月が過ぎた。縁者たちは皆、兄弟を大変可愛がっており 、もし仇討ちをしたならば 訴訟をして兄弟を助けようと 思っていた。その後二人は曽我へ戻り 五郎は 十郎の部屋で 隠れて暮らした。
母を恋しく思う五郎の勘当はいまだ解けぬまま、物陰から母の様子をうかがう姿は哀れであった。
万劫御前も、そんな五郎に気が付いてはいたが、ここで許しては、仇討ちを許したことになってしまう。二人のために、心を鬼にして 知らぬ顔をしていた。
仇に巡り合うことは万に一つより難しい。めぐり会えないまま一生を終えることのほうがはるかに多いと聞く。しかし仇祐経は、今を時めく源の頼朝のお側近くに仕えるほどに出世している。
逃げ隠れしているわけではないので、普通の仇よりは情報が入りやすいであろうと考えていたが、思ったようにはいかなかった。
その日も二人はあてもなく大磯から鎌倉まで行ってみることにした。にぎやかな宿場なら、なにかしら祐経の情報が得られるかもしれない。二人は、二宮から、大磯を通り、平塚まで来た時、八幡宮で七夕の踊りを奉納していた。
「兄上、八幡宮で人だかりがしております。何やら情報が得られるかもしれません。寄って参りましょう」
「そうだな。八幡宮に我らの願いが成就するように、お願いをしておくのも良いだろう」
「馬もそろそろ、休ませてあげなくては」
二人は下馬場で馬を降りようとしたとき、境内に設けられた、櫓の上に一人の女性がいきなり現れた。紫の生地に白い藤の花がえがいてある着物の裾を膝まで端折って、手には藤の花を持っている。まるで藤の花の妖精が降臨したようだった。
妖精の踊りは美しく激しく、今まで見たこともないような神秘に満ちた舞だった。
人だかりの中、櫓の上の妖精と馬上の十郎の目が合った。
刹那に二人の魂がひかれあった。二人の魂は宙を舞い、溶け合い、一つになった。
(あの時の妖精だ。幼い時、薄紅色の海で共に踊った妖精。ずっと自分の心に住み着いて、どんなにつらい時も、あたたかな灯をともしていてくれた。あの妖精だ。夢じゃなかったのだ。この世のものではないかもしれないけれど、実在したのだ。会えたのだ。やっと会えた)
そのとき、妖精はふっと消えてしまった。
今のは 、いったいなんだったろう。人々のざわめきで、はっと我に返った十郎は、いきなり駆け出した。馬を降りかけていた五郎は慌てて馬に乗りなおし、急いで兄を追いかけた。
兄は叫びながら馬を駆し、一気に高麗山を駆け上がった。
山の頂上で、やっと馬を止めた。
「兄上、いったいどうしたのです」息を切らして五郎が訪ねる。
「妖精だ。子供の時からずっと、今一度会いたいと願っていた、あの藤の妖精だ」
「兄上が子供の頃、夢で一緒に踊ったという、あの藤の妖精ですか」
「おお、そうだ。すっかり大人になっていたが、間違いない。やはり夢ではなかったのだ。まるで夢のようだ」
「夢ではなかったと言いながら、夢のようだと言う。いったいどっちなのです。あははは」
「わははは、それもそうだ」
「ふむ、妖精に姿を変えた神が、父上の無念を晴らさんとする我ら兄弟を見守っていてくださるようです」
「我ら、仇持ちの身の上では生身の女性と恋をするわけには、いかない。仇を討ったら自分たちも果てる覚悟。身の回りの付き合いをなるべくなくし、心残りの無いようにしなくてはならぬ。妖精にあこがれるくらいは許されよう」
その時、馬が苦しそうにいなないた。
「おお、これはいけない。馬を休ませようとしていた折であったのに、こんな山の上まで一気に駆け上がってしまった。どこぞに小川でも流れておらんか」
「しばしお待ちを」
五郎は何回か地面に耳をつけると、そばに落ちていた枝でドンと地面を突いた。すると、こぽこぽと泡が立ち、直に水が溢れてきた。
「でかした五郎。これで馬に水をやれる」
二人は馬に水をやってから、自分たちも喉を潤した。
「のう、五郎、この山の上からの景色は、曽我の屋敷からの景色に似ておるな。
あれが二子山、金時山。私たちのふるさとの伊豆半島が見える」
「そうですね。母上のいらっしゃる曽我は、あの辺りでしょうか。お世話になった箱根大権現様の箱根山も」
「富士の山が本当に凛々しい」
「曽我と違うのは、海がとても近いことだ。海も山も空も、とても美しい。この美しい景色に改めて、誓おう。父の無念を晴らすことを」
二人の志を受け止めるように、果てしない海のきらめきがどこまでも続いていた。
平成三十年(2018年) 秋 平塚
「どうしたの。永遠ちゃん。ぼーっとして。今日は、購買にみやこ饅頭が来る日だよ。早くいかないと売り切れちゃうよ。
あ、もしかしてまた、この前、七夕祭りで、一瞬気が飛んだ時に 目が合った男の人のこと 考えていたの」
「うん、子供の時にも 同じようなことがあったって話したよね。
たぶん、子供の時に 会った男の子と この前あった男の人は 同じ人だとおもう。気のせいとかじゃなくて、夢とかでもなくて、昔の時代に行った気がする」
「それって、タイムスリップ?」
「うん。なんかすごく運命的なものじゃないかなって気がするの。。その時代からの引力を感じる」
「引力?」
「私はあの人と結ばれるために、いつか本当にその時代に行くと思う」
「えー、やだー、永遠、どこにも行かないで。私たちの友情は永遠だよ。永遠だけに」
「またー、そのフレーズ好きだよね」
「だって、永遠ちゃん大好きなんだもん。あっ、みやこ饅頭も好き。早く行こう。本当に売り切れちゃうよ」
「あっ、待ってー。私も、和香ちゃんもみやこ饅頭も好きー」
平成三十一年(2019年)春 大磯
大磯の高麗山の山神輿は、もともと高麗寺の祭りの最中、多くの人が集まるので地上の汚れを避けるため、御霊を上社まで担ぎ上げて仮宿させるようになったことが由来である。
このお祭りは町の無形民俗文化財にも指定されており、現在でも高麗山の険しい山道を人と神輿が一体となり上社まで登り、翌々日、下社へ降りる。
山神輿は高麗山で一番急な男坂を夜間に登る。
路沿いには提灯を持った人々が待機し、前棒が二人、後ろ棒が四人の計六人で担ぐ。神輿棒に結び付けた綱を男坂上の大木に括りつけて、左右四、五人が神輿を引っ張り上げる。
神輿の重さは二百四十キログラム、上げる高さは百五十メートル。真っすぐな壁面を引っ張り上げるわけではない。獣道のような細い山道、生い茂る木々の間を引き上げる。大仕事である。
永遠と和香はボランティアでその祭りの巫女として神輿に同行していた。
祭りが行われるのは毎年四月十七日。境内の桜は見頃を終えていたが、山のあちらこちらに山藤が咲いていた。御輿を上げる男たちは山藤を堪能する余裕はないが永遠は山道に散らされた花がらが神様の為の散華のようだと感じていた。
午後八時頃、男坂と女坂の合流地点の「中の坊跡」で大休止をとる。神輿の屋根を平手で叩き、お神酒、水、おにぎり、たくわんを、巫女の永遠と和香が担ぎ手に振舞う。
午後八時半、上宮に到着。神輿を平手で叩きながら、境内を練り歩く。神主の祝詞があげられ、その日の工程は終わりになる。
翌日は、そのまま山に神輿は安置され、社人二人が夜通しお守りする。
十九日御帰還、一時頃山降りが始まる。
「ねえ、永遠ちゃん、それにしても大変なお祭りすぎない?いつからやっているんだろう」
「お祭りはいつからか分からないけれど、(鎌倉期には将軍源の頼朝が正室北条政子の安産祈願をした)って立て札に書いてあったから、お寺はとても昔からあるんだね」
「頼朝っていったらえーと、八百年前だ」
「すごい昔。私たちって、ずっと昔と繋がっているんだね」
「神様は、そんな昔から私たちを見守ってくれているんだ」
「さあ、降りるよ。気を付けて」
神主の祝詞が終わって、神輿の飾りを全て外す。
和香はこの間にスニーカーに履き替えた。神事の間は草履だが、山歩きの時は歩きやすいスニーカーにしている。
神輿が動き始めた。広場から降り始めは整えられた石の階段が百九十段ほどある。その先は細い山道をひたすら下って行く。帰りは綱はなく担ぎ手にすべての重さがのしかかる。足元は乾いている所は表面の土が流れて滑る。湿っている所はぬるぬると滑る。
「あれ、永遠ちゃん、草履のままだよ。この道、草履じゃ危ないよ。
「あー何やっているんだろう私は。もう、お御輿動いてしまってしまったから、少し下のベンチのところで履き替えるから、先にいくね」
「えー、駄目だよ。神輿の前に行っちゃ。あぶないよ」
(なんか変だな。いつもの永遠ちゃんなら履き替え忘れなんてしないし、神輿の先に行くなんて無茶なこと、絶対しないのに。あれ、あれは何だろう。永遠ちゃんの肩に黒い丸い物が乗っている。)
永遠が曲がり角で左に行こうとしたところで角にある大きな木の枝がシュッと伸びてきてとうせんぼうをされた。
(え、何?枝が動いた。嫌だ。左に行かれなかった。邪魔になっちゃう。あー、もう神輿が来ちゃった。ベンチまで行くのは間に合わない。そこの曲がり角の右側に少し広いところがあるから、あそこに避難しよう)
永遠が慌てて曲がり道の右側に移動しようとしたときに足が滑った。
永遠は斜面を滑り落ちてしまった。
「あ、永遠―」和香の声が山間に響いた。
その時、座布団ほどの黒い石が現れ、永遠を乗せて、木々の間から覗く青空に吸い込まれるように消えていく。
和香は、石で運ばれていく永遠と、崖の下で横たわる永遠を、同時に見た。
(さっき、永遠ちゃんの肩に乗っていた黒い物?一瞬木の枝に飛んだよね。そして、永遠ちゃんを連れて行った?いえいえ、永遠ちゃんは下に落っこちているんだから、気のせいかな)
文治五年(1189年) 初夏 大磯
宮内判官家長と夜叉王という夫婦がいた。二人はなかなか子宝に恵まれず 近くのお地蔵さんに毎日祈願していた。その日も二人でお地蔵さんにお参りに来た。
「どうか、子供をお授け下さい」おはぎをお供えして手を合わせると おはぎがむくむくと膨らみ始めた。 びっくりして見ているとおはぎは座布団くらいの大きさにまでなった。 ガリ。
「 あいたたたたた」
「お前さん 何をやってんだよ」
「だって、おまえ。おはぎが大きくなったから 嬉しくって 思わずかじりついちまったよ。そしたら 石になっちまっていたんだよ」
「 あわてんぼうだね。だいじょうぶかい。そんなことより おはぎの上を見てごらんよ」
「 だから おはぎじゃなくて石だよ」
「どっちでも いいよ」家長は女房に言われて石の上を見てみると 美しい巫女さんが一人横たわっていた。
「これはどうしたことか。子供が欲しいと願っていた 我々に 神様がお遣わしになったのかね。 なんという神々しい美しさだ」
「 あれ、怪我をしているようだよ。とにかく家に連れて帰って手当てをしよう」 二人は 永遠を連れて家に帰った。 しばらくのち 永遠が目を覚ました 。(あら、私はどうしたんだっけ) 永遠は見知らぬ屋敷に寝かされていた。額には冷たく絞った手ぬぐいが乗せられていた。
「あいたたたたた」 ちょっと動こうとしたら腰や手足が随分と痛んだ。(ここはどこかしら。山が見える。 あの、ひょうたんみたいな形は高麗山よね。 でも、なんかいつもと違う感じがする。景色も色が抜けてしまったみたい。モノクロに見えるわ。 あっ、テレビ塔がない 。この女の人が助けてくれたのかしら。)
「・・・吾は夜叉王。元来、平塚の宿の者なり。夫はさんぬる平時の乱に誅セられし悪右衛門督信頼卿の舎兄民部権少輔基成とて、奥州平泉へ流され給ふ人の乳母子宮内判官家長と申します。平治の逆乱によりて住人、海老名源八権守季貞といひし人、都にて芳心することありける間、この宿を頼みてぞ居りたる」
(何か話しているけれど、言葉が少し違うみたい。よくわからないなあ。あ、この石)
黒いおはぎのような石がコロコロと永遠の手元に転がってきた。手に取ってみると、今まで白黒だった世界がにわかに色をおび、女の話している言葉も理解できるようになった。
「そして、私と所帯を持ったんですよ。ああ、こんな話は後々でよろしかったですね。お前様、天使様がお目覚めになられましたよ」夜叉王と名乗る女が、声をかけると、夫らしき男も枕元にやって来た。
「おーおー 気がつかれましたか」
「あの。ここは」
「ここは 山下の長者屋敷です。 私は宮内判官家長。こちらが 妻の夜叉王でございます。我々には子がおりませんでな。もう何年も虎池弁財天のお地蔵様に願掛けをしておりました。今朝もいつものようにお願いをしておりました。すると突然、私どもの目の前にあなた様が現れたのでございます」
「子供が欲しいと願っていた私たちにお地蔵さまが預けてくださった娘さんです。我が子と思って大切にお世話させていただきます」
「ありがとう、ございます。名前は永遠と申します。何かの力に導かれて こちらに送られたようにも思います」
「そうですか。不思議なご縁ですね。お地蔵様のお計らいなのでしょう。むさ苦しいところですが、気兼ねなくお過ごしくださいませ」
「ありがとうございます。不可解なことばかりで混乱しておりますので、とても心細く思っております。そのように言っていただけると大変頼もしいです」
「 ところでお加減はいかがですか」
「はい。あちこち打ち身のようです。あいたたたた」
「あー、まだ無理はなさらないように。突然、石の上に現れた時、 気を失っておられました。お体もあちこち打っておられるようです。」
「石。石って、これですか」永遠は手の中の石を見せた。
「えーえー。そうです。そうです。その石だと思います。不思議な石で大きさは違いますが、その形はまさしくその石です。お地蔵様にお供えしたおはぎが見る見る大きくなりまして、座布団くらいになりました。もとはおはぎだったものですから、食いしん坊の家長が大きなおはぎだと思って噛り付いたんですよ。おほほほ。ところがおはぎが石になっていたんです。その石の上にあなた様が倒れていらしたのです。そこで夫があなた様を担ぎましてこちらへ運びました。そうですか。また石が小さくなって、あなた様の手の中に。あなた様をお守りしてくださる、神様の御神具なのですかね。それを齧ってしまって、失礼いたしました。まだゆっくりとお休みになっていてください。手拭いがぬくくなりましたね。お取替えいたしましょう」
「ありがとうございます」(そうだわ。崖から落ちそうなところを、石が助けてくれたんだ。そしてここへ運んできてくれたのね。やっぱりタイムスリップしてしまったのかしら)
「ところで、今は西暦何年ですか」
「 せいれき? せいれきとは何ですか。ただ何年と尋ねられましては 建久元年でございます」( 建久って何。建久って何年前なのかしら。 どうしよう困ったわ。タイムスリップとか言っても分かってもらえないだろうなあ。前もすぐに戻れたから、今回もすぐに戻れるとは思うけれど・・・)永遠は石を握りしめた。
それから二、三日もすると 永遠は何とか起き上がれるようになった。( 前のタイムスリップの時はすぐに元に戻れたのに、今度はなかなか戻らないわ) とても不安な反面、なぜかすごく気持ちが高ぶっていた 。(梅林の君に会える気がする)
ひと月もすると永遠の類まれな美しさは あたりでも評判となった 。そして大磯の茶屋の菊鶴という女将が 是非、自分の店に来て欲しいと言ってきた。
「私は大磯で茶屋を営んでおります。この度、永遠様の神々しいばかりの美しさを噂でうかがいまして、ぜひ、うちの店に遊女として来ていただきたく、参じました」
(え、遊女って。男の人の相手をするの。無理、無理。それは出来ないわ。)
「この、娘の親代わりをしております、宮内判官家長でございます。こちらが 妻の夜叉王。親代わりと申しましても、この娘はある日、お地蔵様に子供を授けていただけるようにお願いしておりました折、いきなり目の前に現れたのです。いうなればお地蔵様からの預かりもの。遊女に差し出すわけにはまいりません」
「菊鶴という店の遊女たちは殿方の相手をするわけではありません。歌舞音曲を披露することを生業としております。神殿へ舞を奉納したりしております。」
(ああ、そういえば歴史の時間に習った気がする。静御前や常盤御前が偉い人の奥さんなのに『遊女』って、よく分からなくて、先生に質問したんだ。そうしたら、私たちがイメージする、遊女は江戸時代頃の話しだって。常盤御前や静御前は今でいう踊りや歌を人前で披露する、いわゆるアイドルみたいなものだって先生が言ってたな。ということは、今は江戸時代ではないのかしら?)
「そういえば、この子が現れた時、この子は巫女のいでたちをしておりました。神社仏閣へ舞を奉納するのでしたら、お地蔵様もお怒りにはならないと存じます。でも、あくまでも決めるのは永遠さんです。永遠さん、お受けするかお断りするか思案してみてください。ゆっくりよくよく考えてからの返事で良いとおもいますよ」
(最初に梅林の君に会ったのは、踊りの発表会の後だった。次に会えた時も私はどこかの櫓の上で踊っていたのよね。もしかして、私が踊っている時に梅林の君は現れるのかもしれない。思い切って大磯に行って茶屋の踊り手になってみよう。あの方に会えたら、元の時代に帰れるかもしれないし)
「私、参ります。いつまでも宮内判官家長様と夜叉王様に、厄介になっているわけにもまいりませんし。私でお役にたつのでしたら」
数日後、永遠は大磯へ向かった。
菊鶴の店は、夜叉王の家から半里余り離れた、大磯の中心地の化粧坂という小高い丘の一角に建っていた。商店が軒を並べ、遊郭も他にも何軒かあり、鎌倉、腰越から遊びに来るものが多かった。山を背にして南側には真っ青な海がよく見えた。その海までは少し歩くが、近くには小さなせせらぎもおおく、井戸もあった。また東側には花水川まで田や畑が広がり、西側は遠く富士山がそびえていた。
「良く、来てくれましたね。早速ですが、店での名前を決めましょう。考えておりました名前は『虎』です。ここは六社神社のお膝元で、竜神様が守っていてくださいます。私の名前が『菊鶴』、今、お店で一番人気の踊り子が『亀若』、ここに虎が加わりますと、中国の四神『龍、鶴、亀、虎』が揃います。自分を神様に見たてているようで恐れ多いのですが、縁起が良いと思いましてね。実名の永遠さんと音も近いですし、いかがでしょうか。」
(虎さんか。強く頑張れそう)
「はい。ありがとうございます。虎、良い名前だと思います。よろしくお願いします。」
店は、繁盛しているようで、何人かの女の子とそれを世話する男たちも働いていた。その中に一人、親友の和香ちゃんにそっくりな女の子がいた。
「わかちゃん」と呟くと
「えっ、私 亀若です。わかちゃんと呼ぶ方もいらっしゃいます。前にお会いしましたっけ?そんなわけないですよね。こんなにお綺麗な方一度見たら私だって忘れませんわ」
(そうよね。和香ちゃんがここにいるわけないものね)
「 私 永遠と申します。虎と名前をいただきましたが、普段は永遠とお呼びください。 こういうお店で働くのは初めてで分からないことも多く、ご迷惑をおかけすることもあると思います。 色々教えてください。よろしくお願いします」
「そんな堅苦しい挨拶はしないで 。私たち仲良くしましょう。 これから永遠の友達になりそうですわ。永遠ちゃんだけに」
(あっ、そのフレーズ。やっぱり和香ちゃんだ。なんだかほっとする)
永遠は一人、部屋に入ると、石に語りかけた。
「虎と名前をもらいました。勇ましくて良い名前でしょう。中国の四神にもなぞらえているみたいです。あなたにも名前を付けましょうね。そうね、どうしましょう。私が虎なら、あなたは虎御石。これからは虎御石と呼ぶわ」
娘は顔だちが美しいばかりでなく、踊りもたいそう上手だったので、菊鶴は大変喜んだ。
建久元年(一一九〇年) 夏 大磯
十郎と五郎は、大磯の宿に来ていた。仇討ちをしようとしても、そう簡単に仇に会えるわけもない。まして、二人に狙われていることを知っている祐経がそうそう簡単に姿を現すわけもない。とりあえず人の多く集まる宿場町を巡って、情報を集めようとしていたのだ。
大磯まで行くと、平塚へ行く道がやけに混雑していた。何かあるのか、町の人へ尋ねると、頼朝が安産祈願で高麗山の 高來神社 へ安産祈願へ来るという。
「なに、頼朝様が。兄上、頼朝様が来ているということです」
「うむ。頼朝様が来るのなら、祐経がともに来ているかもしれない」
「すぐに参りましょう」
二人は高麗山へ急いだ。
高麗山に着くと、そこは大変な人だかりだった。
「さすが、頼朝様の人気はすごいな。皆、一目見ようと集まっている」
「お兄さんたち、何をのんきなことを言っているんだい。ここに来たおおかたの人は今を時めく、虎御前を見に来ているんだよ」
「虎御前とは」
「大磯の新しい踊りの名手だよ。さあ、始まるよ。俺は亀若御前が御贔屓だけれど」
「永遠ちゃん、今日は鎌倉様が、政子様の安産祈願を高麗寺でなさるそうで、私たちは。その踊りの奉納にいくそうですよ」
「え、鎌倉様って、源頼朝?」
「そうだよ。頼朝様、源の頼朝様以外に鎌倉様はいらっしゃらないよ。永遠ちゃんおもしろい」
(ということは、今は鎌倉時代か。八百年も昔に来てしまっていたのか。
ああ、あの神社のお札に、書いてあった頼朝様が御祈願なさったって。そこで自分が踊るなんて)
「頼朝様の御祈願だから、大勢の人が一目頼朝様を見ようと、集まっているのね」
「それだけじゃないかもしれないよ。永遠ちゃん目当ての見物人も、結構いると思うよ」
「えー、そんなことないよ。それなら、亀若ちゃん目当てじゃないの」
「まあ、それもあるね。私たち人気者―。あははは。あっ、くるみ割りの君だ」
「えっ、くるみ割りの君って?」
「うん、この前、高麗山に鬼くるみを拾いに行ったの。沢山落ちている所を見つけてね、夢中で拾っていたら、山肌のくるみの木が倒れてきて、下敷きになりそうだったの。そこへあの方が突然現れて、その大きな木をがっしり受け止めて、投げ飛ばしてくれて、おかげで命拾いしたの。あはは、くるみ拾いが、命拾いになったの。あはは」
「あはは、って、亀若ちゃん笑い話じゃないよ。危なかったね」
「あのね、ちゃんと詳しく話すね
夢中で拾っていたから下ばかり見ていたの。そしたら、変な音がして、見上げたら木が落ちてきたの。
【「きゃー」
「あ、危ない」
五郎は大木を難なく受け止め、「えいやっ」と横へ投げた。
「危なかったですね。お怪我はありませんか」
「はい、ありがとうございます。もう少しで下敷きになるところでした。まだ、ドキドキしております」
「しばし休まれたほうが良い。そこの崖に沢山洞穴があります。そこで少し休みましょう。歩けますか」
「はい」
「この穴は何だろう」
「これは大昔のお墓みたいですよ」
「すごい数だな。古の精霊たちよ、少しお邪魔します」五郎は古墳群に手を合わせて、傍らの石に亀若を座らせ、自分も腰を掛けた。
「くるみですか。ずいぶんたくさん拾いましたね」
「拾いすぎて、山の神様のばちが当たったのかしら」
「いやいや、老木が最後の力を振り絞って、できる限りの実を付けたのでしょう。木が倒れてきたのは寿命というもの。最後のくるみの実、ちゃんと食べてあげましょう。そして、いくつかこうして埋めてあげましょう。命は巡るものです」
「ここなら古の精霊たちが見守ってくれますね」
「それにしても、これだけのくるみを割るのは大変でしょう。どれ、手伝ってあげましょう」
五郎はいくつものくるみを両手で握り、まるで大きな握り飯でも作るかのように軽く力を入れると、バキバキとくるみの殻を割ってしまった。亀若が驚いて目を見張っている間に、あっという間にくるみが割れていた。
[あっ、粉々になってしまった」
「鬼クルミには割り方があるんです。一晩水に漬けてから軽く茹でて、それから炒るんです。すると口が少し開くので、そこをこじ開けて仁を取り出します」
「そうだったのか。すまん事をした」
「大丈夫です。私は細かい仕事が好きなので、仕分けします。まだ、こんなにありますし」
「では、私も責任を取ってご一緒に仕分けをしよう」】
というわけなの。
太い指で不器用に一生懸命仕分け手くれたの。楽しかったわ」
「まあ素敵。どの方かしら。私も見てみたい」
「ほら、あそこ、ひときわ大きいからすぐわかるよ」
「兄上、あちらに頼朝様のお家来衆が控えている様子、祐経もいるかもしれません。行ってみましょう」
「そうだな。しかし、この人混みでは祐経がいても、手がだせるか」
「関係ない者たちを巻き込むわけにはいきませんね」
「とにかく、様子を見に参ろう」
そういって二人は、見物客たちから離れた。
「あーあ、行っちゃった」
「えー、残念」
お囃子が流れて、踊りが始まった。
「今日は祐経はお供をしていないようすだったな」
「それにしても、これだけの行事があったのに、我々は何も知らず。たまたま来ただけというのは情けない。こんなことではいつまで経っても、祐経に巡り合えません」
「そうだな。どうしたものか」
奉納の踊りが終わる頃、二人は見物客の中に戻っていた。
「あ、いらした」
「え、亀若ちゃんの好きな人?」
「好きだなんて、そんな。ちょっと良いなあって」
はにかむ亀若の視線の先には、色が黒くがっしりとした殿方が立っていた。
そしてその隣に、端正な顔立ちの背の高い殿方がいた。
(あ、あの方は)永遠は言葉を失った。
(ああ、ああ、会えた。梅林の君だ)
懐に肌身離さず入れていた虎御石がほんのりと温かくなった。
十郎も気がついた。
(あ、あの娘は)十郎は息をするのも忘れるほどに驚いた。
(間違いない。藤の妖精だ。)
永遠は舞っている間に梅林の君が消えてしまうのではないかと、気が気ではなかった。いっそ、舞台から飛び降りてしまおうと思ったが、十郎が人混みをかき分けて、こちらに向かっているのがわかったので、そのまま舞を続けた。舞い終わった永遠は、大急ぎで舞台から十郎の元へ駆けた。十郎と永遠は、しばらく見つめあった。それが一瞬であったのか、長い時間であったのか、二人にはわからなかった。
「あなたは遠いあの日、梅の林でともに踊った少年ですか」
「ああ、やはり現であったか。藤の妖精よ。どれだけ、あなたを夢見たことか。夢に見すぎて、あの日のことは夢か現か分からなくなっていました」
互いに心が結び合うのを感じた。
「不思議なご縁ですが、これが運命というものでしょうか」
「わかりません。何か大きな力で引き合わされたような。運命という一言で片づけてしまうにはあまりにも大きな力。どんな困難も、時も、距離もすべてを乗り越えて、結ばれなくてはならない定め。体の内から、心の中から、愛が溢れてくる感覚です。私が私でなくなっていくような」
「私も同じです。何かに突き動かされています。あなたと私の人格が溶け合っていくような。巡り会えた喜びで、満たされていく」
十郎は曽我の家からしばしば大磯の永遠のもとへ馬で通い、二人で大磯の海岸をよく散歩した。
「危ない。永遠さん、馬の後ろに立ってはなりません。馬は臆病で、見えない後ろに誰かが来ると、怯えて攻撃をしてきます。思いっきり蹴飛ばされたら、胸がつぶれて息ができなくなりますよ。子供のころに教わりませんでしたか」
「はい。乗るのはもちろん、こんなに間近に馬を見たのも初めてで」
「では、覚えておいて、今後は気をつけてください。やっと巡り会えたのです。そんなことで、離れ離れになるのは、とても悲しい」
「はい、気を付けます。ありがとう。あっ、あおばとが飛んでいる」
「あおばと?」
「そう、あの鳥の名前です」
「あおばとというのですか。きれいな鳥ですね」
「はい。全体的に緑色のが雌で、羽が赤っぽいのが雄です。あぶり神社のある大山に住んでいて、夏になると、こちらの海まで飛んでくるのです」
「水鳥でもないのに海に。波が来たらひとたまりもありませんね。何故、海に来るのでしょうね」
「塩をなめにくるといわれています。海水を飲むときに、さらわれることもあります。また、その時に隼に襲われたりもします。本当に命がけで、海水を飲もうとしているのです」
「へえ、あんな小さな体で、大いなる決心を秘めているのですね」
「生きるためにどうしても塩を摂ることが必要なのでしょう」
「生きるために,死を覚悟する。なるほど、あおばとの生き方は、私の生き方と通じるものがあるような気がする」
「死を覚悟して生きる…。それは、武士の生き方ということですか。十郎様が死を覚悟していらっしゃるのではありませんよね」
「なんと言ったらよいのだろう。永遠さんに会うまでは、武士として常に死は覚悟していました。本望を成就するためには、この命と引き換えても構わないと思っていました。でも、永遠さんと巡り会った今となっては、思い悩む夜もあります」
「命に代えて成就したい本望がおありになるのですか」
「いやいや、永遠さんのおっしゃる通り、武士の生き方としてです。亡き父の教えです。永遠さん、何故、武士が腹を切るかご存知ですか。切腹はこれしか道がない、追い詰められて死を選ぶというのではないのです。自分が正しく生きた証として、命を持って主張するのです。そのことを、死を覚悟して生きると申しあげたのです。死を覚悟して懸命に生きるアオバトに私は感慨深いものを感じました」
「本当にそれだけですね。私は遠いところから参りました。何とかして、いずれ故郷に戻りたいと思っておりましたが、今は十郎様とここで共に生きていく覚悟をいたしました。十郎様も私と共に生きる覚悟をしてくださいませ。生きるための死ぬ覚悟ではなく、生きるための生きる覚悟をしてほしい」
「……。それにしても、ふしぎな人だ。馬の後ろに立たないという皆が知っているようなことを知らないで、皆が知らないようなことを沢山知っている。永遠さんといると、とても楽しい」
「私も楽しいです。十郎様といると、海の波を見ても幸せで、松ぼっくりさえ宝物に見えます」
「松ぼっくりが宝物ですか。それなら大磯から曽我まで拾って歩いたら、すごいことになりますね。ああ、では面白いものを作りましょう」
そういうと、十郎は懐の小刀を出して、落ちていた枝と松ぼっくりで何やら作り始めた。
「さあ、できました」
十郎が差し出したのは、松ぼっくりとで作ったやじろべえだった。松ぼっくりは、組み合わされて翼を広げ。尾の長い見事な鳳凰になっていて、左右にどんぐりが付いていた。
「すごい。器用なんですね」
「小さいころから、こういった細かい細工が好きでした。五郎によく作ってあげたものです」
「まあ、五郎さんは喜ばれたでしょうね。良いお兄さんだこと」
「五郎も真似をして作ろうとしましたが、五郎は力が余ってどんぐりも松ぼっくりもすぐに割ってしまう。そこで、やじろべえを置く台を作ると言って、岩を割っておりました。どうも細かい作業が苦手みたいで、それから五郎は『こういうことは兄上に任せる。俺は力持ちになる』といっそう鍛錬していました。今では五郎に叶う力持ちはおりますまい」
「兄弟でも、得意なことが違うのですね。そう言えば亀若ちゃんと五郎さんの出会いは、五郎さんがくるみを割ってくれたことらしいですよ」
「そうなんですか。五郎らしい出会いですね」
十郎はやじろべえに小刀で笑顔を書いて、永遠に手渡した。
「まあ、可愛い。ありがとうございます。笑ってる。大切にしますね」
「そうだ。手紙を書いてきたのです。毎日会いたいけれど、会えない日もある。そんなときもずっと永遠さんのことを考えてしまう。同じ思いがぐるぐるして、永遠さんが頭から離れない。そんな気持ちを手紙に書くと、頭がスッキリしてやるべきことが出来るようになります。永遠さんと離れているときの私の気持ちを全部したためてあります。」
「うれしいです。私も一人の時も十郎様のことを思っております。会えないときはとても寂しいです。このお手紙があれば、会えない寂しさも、故郷を離れた心細さも紛らわせることが出来ますね」
二人の心は幸せに満ちていた。
その日も十郎は虎女に会うために大磯に向かっていた。
二宮の小動浜に差し掛かった時、背後にヒューと音がした。振り返ると一本の矢が十郎めがけて飛んできた。
「しまった」
よもやこれまでと思った時にどこからともなく黒い米俵のような物が現れ、矢を受け止めた。
「なんだ。なんだ。確実に仕留めたと思ったのに。いったい何が起こったのだ」
一人の賊が驚いている間に、もう一人の賊が刀を抜いて、体勢を崩して落馬した十郎に斬りかかってきた。
ところがその切っ先は大きな火花を散らしながら、折れて飛んで行った。
またもや黒い米俵のようなものが、賊と十郎の間に割って入ったのだ。
「い、い、石が飛んできた。主は妖術を使うのか」
「引け。妖術にはかなわん」
「そうだな。ひとまず帰って、佑経様に報告しなくては」
賊はほうほうの体で逃げ帰っていった。
驚いたのは賊だけではない。十郎もまた、目の前に転がる矢の刺さった石を呆然と見つめていた。
十郎を襲ったのは佑経の家来であった。家来たちは佑経の屋敷へ戻った。
昨今、建長寺や八幡宮などをはじめ多くの建造物が鎌倉に建てられるにあたり、材木を扱う座(商工所)ができたことから、この辺りを材木座というようになった。佑経の屋敷はその材木座にあった。
「なに、しくじっただと。あの兄弟を野放しにするわけにはいかんのだ。あいつらは必ずわしを殺しに来る。仇討ちなど考えていないかのようなふりをして居るが、五郎が山を下りたのが何よりの証だ。この役立たずどもめ」
「しかし、十郎は妖術を使ったのです。一抱えもあるような大きな黒い石が突然現れ、我々を邪魔しました」
「矢を受け止め、刀の切っ先を跳ね返しました」
「あな、おそろしや」
「妖術だと。ならば、それは五郎の力であろう。あやつめ、箱根山での修行でとんだ力を手に入れおったな。これからはうかうかできぬな。常に警護怠らぬようにせねば」
「五郎の力でしたか」
「ああ、実はな正月に雉が屋敷に舞い込んできたことがあったろう。それの吉兆を占わせたのだ。すると、凶とでた。それも五郎の業に違いない。ええい、忌々しい。お払いだ。お払いの支度をいたせ」
一足先に大磯へ来ていた五郎と虎女が化粧井戸で話をしているところへ十郎がやってきた。
「兄上。おみ足をどうされたのですか」
馬から降りた十郎は左足を引きずるようにして歩いていた。
「いや、先ほど賊に襲われてな。こんな貧乏な身なりの武士を襲っても腹の足しにもならないだろうに」
「十郎様、よくぞご無事で」
「うむ。その時、不思議なことがあってな。まず矢を射られた。突然のことで防ぎようもなかったところへ、米俵ほどの黒い石が現れて矢を受け止めてくれたのだ。そして落馬した私に別の賊が斬りかかっていた。その時もその矢が刺さったままの石が間に入り、刀を跳ね返してくれた。賊は妖術だと恐れをなして、すごすごと逃げて行ったが、助けられた方としても何が何だか」
驚いた虎女は急いて部屋へ戻り、石を持ってきた。
「石とは、この石ですか」
「ううむ。色と形はそっくりだが、いかんせん大きさが全く違う。この石は?」
「はい。いつの頃からか私のそばにあり、事あるごとに私を助けてくれています。そして不思議なことに大きさは都度変わります」
「なんと」
「兄上、見てください。傷があります。ここに丸い穴。ここに切り傷のような」
「この石が私を助けてくれたのか。ありがたい」
そう言って十郎は石に手を合わせた。
大磯からの帰り道、十郎と五郎は襲ってきた賊について話していた。
「佑経といったのですか」
「ああ、去り際に『佑経様におしらせしなくては』と言っていた。虎女さんの前ではただの賊と言っておいたが、間違いない。あれは佑経の手のものだ」
「私が箱根の山を下りて元服したことを耳にしたのでしょうか」
「そうだな。我らが佑経の命を狙うと同様、向こうもこちらを狙っているということか」
「同様って。兄上まったく同様ではありません。我らは父の無念を晴らす仇討ちのため、佑経は己の保身のため」
「わかっておる。ただ、我らも油断してはならぬということだ。そして、これから奴はますますもって警戒することだろう。そうたやすく討たせてはくれんぞ」
ある時、永遠がお座敷から帰ってくると、亀若が布団を被って震えていた。
「何しているの?」
「今日ね、月蝕なんだって。丑の刻から。不吉でしょ。月の光に当たらないように、布団被ってるの。永遠ちゃんも、気を付けて」
「月食が怖いの?」
「永遠ちゃん、怖くないの。さっき頼朝様の御家人さんが話していたの。頼朝様が小山朝政様のお宅に行ったんだけど、月蝕が怖いからって、今日はお泊りになるんだって。あんなに偉い人でも怖いんだから、本当に怖いことなんだよ」
「丑の刻はまだまだだし。御家人さんは家に帰らせたんでしょ。頼朝様は小山朝政様のお宅に泊まりたかっただけなんじゃない?今頃、白拍子呼んで酒宴でもなさっているんじゃないかな。頼朝様が怖いのは、月蝕じゃなくて、政子様だよ」
「えー、そうかな。だって、月が蝕まれて消えていくんだよ。月を食べちゃう魔物が夜空にいるんだよ。怖いよー」
「あのね。月食は、怖くないよ。ただの自然現象。
この行灯がお日様だとするでしょ。この、手毬が私たちのいる所。この手鏡が月。
月はね、自分で光っているんじゃなくて、お日様の光を受けて光っているの。この手鏡と同じ。それでね、これらは常に動いているんだけど、それがたまたま三つとも一列に並んじゃう時があるの。そしたら、ほら、手毬の影になって手鏡が光らないでしょ。そしてこれらがずれていくと、ほら、また月が明るくなった。ね、分かった?」
「全然、分からないよ」
「まあ、とにかく、怖くないから、めったにない天体の見世物を楽しもうよ。満月が欠けていって、無くなって、また満月になるなんて、普段は一月かかることがほんの数時間で見られるなんて、凄くない」
「うーん、そう言われれば、そんな気も」
「じゃあ、一緒に見ようね」
「丑の刻だよ。起きていられるかな。寝てしまいそう」
「まあ、そう言わないで」
「不思議だね」
「うん。天文って、不思議」
「違うよ。永遠ちゃんが不思議なの。永遠ちゃんが何言っているか分からなかったけど、さっきまであんなに怖かった月蝕が楽しみになった。永遠ちゃんって、何者?もしかしたら月から来たの?かぐや姫?」
「うふふ、内緒」
その晩、永遠は亀若の隣で月を眺めながら、母を思い出していた。
(お母さん、どうしているかしら。心配しているだろうな。会いたい。今を一生懸命生きていれば、いつか必ず会えると思う。お母さん、待っていてね。永遠はがんばっているよ)
永遠はそっと虎御石を胸に抱いた。
和田義盛が湯本から三浦へ帰ろうとしていた時、大磯の辺りでお昼になった。子供たちもいたので、どこかで昼餉を食べようということになった。連れの朝比奈義秀と、「せっかく大磯に来たのだから、最近話題の虎という踊り子を座敷に呼んでみたい」
「曽我十郎殿と、良い仲だそうですが、ちょうど、十郎殿も大磯にいらっしゃるとききました」
「それは、ちょうど良い。十郎殿とも久しぶりにお会いしたい」
というながれで、二人を呼んで、酒宴が開かれた。
「本当に美しい方ですな。十郎殿が羨ましい」
「ところで、五郎殿はご一緒ではないのですか」
「五郎もおりますよ。お声がかからなかったので、遠慮して、控えております」
「何を、遠慮することがあるものか。五郎殿にもお会いしたい。ぜひ、お呼び下さい」直に五郎も座に並び、酒宴は続けられた。
「ああ、楽しかった。そろそろ夕方ですね。三浦まで今日のうちに帰らなければなりません。お暇致します」
義盛一行が帰った後へ亀若が来た。
「亀若ちゃん遅かったわね。他にお客さん?」
「ええ、今まで工藤祐経様のお座敷に居りました。たった今お帰りになったばっかりで」
「なに、工藤祐経と。兄上」
兄弟は目を合わせうなずきあった。
「急用ができましたので、ここで失礼させていただきます。永遠さん、また」
二人は、大急ぎで工藤祐経経を追った。
すぐに追いついたが、大勢のお供がいて手が出せなかった。
「これでは、どうしようもありませんね」
「そうだな。今日のところは戻るとするか」
「すぐに大磯に戻っては、工藤祐経を追って出たと思われてしまいすので、三浦まで馬を走らせてから、大磯へ戻りましょう」
生来、勘の鋭い亀若は先日、兄弟が座敷から急に帰ってしまった様子を見て、もしかしたら工藤様を追っていったのではないかと気が付いたのだ。(あの兄弟は仇討ちをしようとしている。どうしよう。少し前なら仇討ちは武士の誉れ。成就のあかつきには、士官も叶い、領地も元に戻されたでしょう。でも、今は頼朝様の世。世を乱す仇討ちは禁じられている。まして、工藤様は頼朝様の側近。御自分の部下を殺されて、頼朝様が黙っていらっしゃるわけはない。どうしよう。どうしよう。
大磯へ戻った五郎に亀若が声をかけてきた。「五郎様、つかぬことを伺います。全くの検討違いでしたら申し訳ございません。
もしや、先日は工藤祐経様を追っていらしたのではないですか。お二人の仇が工藤祐経様であることは、昔、噂になりました。それでも時が過ぎ、時代も変わり、もう仇討ちはなさらないものと思っておりましたが」
「いやいや、何をおっしゃいますか。仰せの通り時が過ぎ、時代が変わり、それでも仇を討とうなどと、気骨のある者ではありません。どうかそのような推察はなさいますな」
「いいえ、五郎様は気骨のある方。いつも五郎様を気にかけておりましたこの亀若にはわかります。他言は致しません。どうか本心をおうちあけください」
「・・・」
「以前、大磯で永遠さんと十郎様が初めて会った時、あれは頼朝様が安産祈願に高麗神社にいらしたときでした。世間ではその話でもちきりで、皆が頼朝様を一目見ようと大磯へ集まっていました。それなのにお二人は、その日に頼朝様がいらっしゃることをご存知ありませんでした。
そんなことでは、いつまで経っても仇討ちなどできますまい。
私は茶屋で働いておりますので、様々なお噂が耳に入ってまいります。工藤祐経様がいつ、どちらへお出かけなさるかを、五郎様にお伝えすることも出来ます。どうか、私に本当のことを教えていただけませんか」
「いや、仇討ちなど微塵も考えておらん。気骨者であるなど、亀若殿の買い被りですよ。あっはっはっ」
「わかりました。では、私は勝手に工藤祐経様のお噂を、五郎様に伝えさせていただきます。それなら、よろしいですよね」
「そこまで、おっしゃっていただけるなら、そうしてください。私も兄上に付いて大磯まで中四日と空けずに参っております。亀若さんとお話できるのであれば、それも楽しみというものです」
亀若は決意した。(五郎様が仇討ちを望んでおられるのであれば、私はお手伝いをしよう。たとえ世間が二人を、世間を騒がすの不届き者と罵っても、私だけは五郎様の味方でいよう)
愛する五郎のために情報集めをしようと決めた亀若はもう、月蝕を恐れるような軟な娘ではなくなっていた。その後、亀若はことあるごとに工藤祐経の動きを五郎に伝えた。
「五郎様、頼朝様は森戸に、自分が信仰する三島神社の分霊を勧請し、たびたび訪れています。別荘を建てて、そこへ遊覧しているようです。森戸の海は特に夕日が美しいことで有名で、流鏑馬や相撲で遊んでいるようです」
「そうですか。亀若さんの情報網はすごいですね。でも、仇討ちは考えておりませんよ」
家に帰った五郎が、十郎にその話をすると
「それならば、祐経が同行する可能性は高いな。よし、次に頼朝が森戸へ行くときに様子を見てみよう」
二人は次の頼朝の遊行の時に、ひそかに後を付けた。果たして祐経の姿はあった、しかし祐経の周囲には常に人が多くいて、なかなか好機は得られそうもなかった。そして一行は夕日を眺め、夜になると月明りの中を船で鎌倉へ帰ってしまった。この様子では森戸で祐経を討つことは難しそうであった。
また、ある時、亀若が掴んできた情報は頼朝の娘の病であった。
「長女の大姫様が病にかかりました。頼朝様は足しげく大山へ通い、日向薬師へ平癒祈願の巡礼をされています。頼朝様は日ごろは大勢の家来を引き連れておいでですが、この時ばかりは途中で馬を降り、日向薬師まで歩いて向かわれるらしいです」
「ありがとう。その、徒歩の途中ならば、祐経を討つことが出来るかもしれないですね。
これだけ、いろいろな情報を得るためには大変な苦労もあり、危ないこともあるでしょう。これ以上白を切るのは罪悪感を覚えます。亀若さんを信じて本当のことをお話いたします。亀若さんのお考えの通り、私たち兄弟は父の仇を討とうとしております。このことは母にも誰にも言っておりません。ご理解いただいているとは思いますが、決して他言は無用です。今まで誰も味方がいないと思っておりましたが、ここにきて百万の見方を得たような心持です。しかし、くれぐれも危ないことはなさいますな」
兄弟は次に巡礼の時に、大山へ先回りした。祐経の姿は確認できたが、ここでも祐経は人々に囲まれるように歩いており、今日も手を出すことは難しかった。
「兄上、やはり祐経は我らに狙われていることをわかっていて、たいへん警戒しているようです。常に自分の周りを警備の者に囲ませでいます。これでは、なかなかことがすすみません」
「何か、祐経を油断させる良い手はないものか」
「それならば、兄上と永遠さんが、目立つように二人で逢瀬を重ねるのはいかがでしょうか。今はひっそりと永遠さんと二人で大磯と曽我の間で会っているだけですが、これからは鎌倉や葉山、三浦、大山など、色々な場所へ行くのです。美しい永遠さんを連れて歩けば、巷で噂にもなりましょう。『曽我の兄弟は仇討ちのために祐経を付け回していると思っていたが、美しい虎御前にすっかり上せて、もう仇討ちはやめたのだろう』と世間は思うでしょう。さすれば、祐経も油断をするのではないでしょうか」
「永遠さんを、利用するようで心苦しいが」
「大願成就のためです。なにも永遠さんを悲しませるようなことをするわけではありません。二人で出かけるだけです」
十郎は永遠を連れて、まず森戸海岸へ行った。
海岸の南側森戸川にかかるみそぎ橋を渡ると森戸神社に着く。
「永遠殿、ここは森戸神社です。平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝は、三嶋明神を深く信仰し源氏の再興を祈願しました。そのご加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝様は、鎌倉に拠るとすぐさま信仰する三嶋明神の御分霊を、鎌倉に近いこの葉山の聖地に勧請したのです。将軍自らこの地を訪れ、流鏑馬、笠懸、相撲などの武事を行っています。七瀬祓の霊所としても重要な地です」
「七瀬祓いとは」
「七箇所の神聖な河海である 由比ヶ濱・金洗澤池・固瀬川・六浦・柚川・森戸・江の島龍穴でお祓いをすることです」
「そうなんですね。あら、あそこに岩の中から生えたような松があります」
「ああ、これが千貫松か。和田義盛殿が言っていた。頼朝様が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と関心を持たれたそうです。そこで、出迎えの和田義盛殿が『我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼んでおります』とお答えしたところ、頼朝様も、『素晴らしい。岩を貫き根を張り、天を目指して伸びゆかん。無理難題とも思えることを乗り越え、武士の頂点に立った、己のようだ。まさしく千貫の価値あり』とお気に召したようです」
「なるほど岩から生えているような松ですね。根はどうなっているのでしょうか。岩の中に土があるのでしょうか。昔から執念は岩をも通すと言いますね」
「私も岩をも通す強い信念を持つようにいたしましょう。
ああ、そうそう、この辺りには面白いいわれの木もあるのですよ。飛柏槇の木といって、源頼朝様が参拝の折、三島明神から飛来し根付いたものと言われています」
「三島からここまで、頼朝様を追って木が飛んできたとおっしゃるの」
「まあ、それは頼朝様は木にも慕われるお人柄と、周りの豪族の誰かが、噂を流したんでしょう」
「この木ですね。海を飛んできた槇の赤ちゃんが、石垣にぶつかって、海に落ちまいと、急いで根を張ってしがみついているようにも見えます。案外本当のことかもしれないですよ。ちゃんと大きく育つと良いですね。楽しみです」
森戸海岸から眺める夕景は、まるで溶かした黄金を空から海に流し込んだようであった。
二人は三浦半島にもしばしば足を運んだ。三浦には頼朝の御所が三か所あった。花の御所と言われ、それぞれが桃、桜、椿の名所で、頼朝は花の季節にこれらの御所へよく出かけた。
その御所の近くには走水神社があった。
走水神社からは、桜越しの海の眺めが見事であった。
「私、走水神社の神話を知っておりますよ」
「ほお、どんな神話があるのですか」
「 景行天皇の御代の話です。東の地方を鎮めようとしていたヤマトタケルの尊が焼津の帰りにこの地から上総まで船で渡ろうとしました。でも、その時、海が荒れ、このままでは、ヤマトタケルノミコトが、無事に海を渡れないと思った妻のオトタチバナヒメが自ら入水して、海神のお怒りを鎮めになり、ヤマトタケルのミコトは、無事航海を終えられたということです」
「おかげで東の平定という天皇からの任務を果たすことができたのですね。壮大な話だ」
「この話を亀若ちゃんとしたことがあります。亀若ちゃんは素敵な話だと言いました。『自分も愛する人が危ない時には、海にでも火の中でも飛び込んでお助けしたい』と言っていました。でも私は、嫌だと思いました。愛する人のために犠牲になることは嫌ではありません。ただ、二人でずっと生きていたいと思ったのです。危なかったら、無理に海を渡らないで、陸を回って行けば良いではないですか。一緒に歩けばどんな遠回りでも幸せです。楽しいです。命を懸けるようなことはやめて欲しいと思います」
「永遠さん、共にずっと一緒に生きていきたい気持ちはわかります。ただ、そうできないこともあるのです。宿命というものが立ちはだかる」
「やはり、何かお悩みがあるのですね。思い切ってお聞きしとうございます。時々お見せになる、思いつめたお顔は何なのですか。ずっと、気になっておりました。
宿命とは何なのですか。十郎様が抱えていらっしゃるすべてを永遠に教えてください」
時々十郎の笑顔の陰に暗いものがあることを永遠は気づいていた。
「一緒に居ても、遠くにいるように感じるときがあります」
十郎は自分は自分の背負った宿命を永遠に告げた。
「実は私は仇持ちの身の上なのです。今住んでいる曽我は義父の家で、本当の父は河津に居りました。父は私が五歳の時に父のいとこにあたる工藤祐経に殺されました。梅林で永遠さんに初めて会った直後です。その後 母が曽我殿と再婚しました。私は幼いながらも武士として、父の仇を討つと心に決めたのです。
「仇を討たなくてはならないのですか。お父様のことはご無念に思います。でも、お父様の菩提を弔いながら、ご自身の幸せのために生きていくことはできないのですか」
「弟の五郎は、父の御霊を鎮めるために一度仏道に入りかけました。しかし どんなに経をあげても、心の平静を得ることはできませんでした。いよいよ出家というときに、やはり仇を討つと決めて寺を出て、元服いたしました。
私たち兄弟は、工藤祐経を討つ以外に生きる道がないのです」
「生きる道とおっしゃっても、それは死への道ですよね」
「そうです。私はずるい人間です。永遠さんと共に巡ったのは頼朝様のゆかりの地ばかり。工藤祐経の動向が探れるのではないかと、そんな場所ばかり選びました。また、永遠さんと共にいる姿が世間で評判になれば、仇討ちは諦めたのだと、祐経を欺けるとも考えたのです。本当に申し訳ない。ですから私は永遠さんを愛する資格がないのです。永遠さんを幸せにすることが出来ない。永遠さんとの時間が楽しければ楽しいほど、ともに居たいと思えば思うほど、、幸せな分つらくなくのです。
あまりの優しさについつい甘えてしまいました。もう、会うのはやめましょう。あなたを仇討ちに巻き込むわけにはいかない」
「なんて、ご無体な」
永遠は泣き崩れるように、茶屋へ帰って行った。
亀若がつらそうな永遠の様子を見ていて、心配して声をかけた。
「永遠ちゃん、どうしたの。何かあったの」
「ありがとう。でも何も聞かないで。人には絶対に言ってはいけないことなの。
こんなに悲しんでいる姿も誰にも見せてはいけないんだと思う。でも、でも・・・」
布団をかぶって人に見られないように泣きじゃくる永遠を亀若は見守るしかなかった。
落ち着いたころに、亀若が声をかけた。
「もしかしたら、永遠ちゃんは十郎様と五郎様の秘密を聞いてしまったの」
「えっ、若ちゃん、知っているの?」
「うん。あの、兄弟の不遇は多くの人が知っている。でもそれは幼いころに起きた悲しい事件で。世の中も変わり、再婚するお母様と一緒に伊豆から曽我へいらして、まさか、もう仇討ちをしようとは思っていないだろうと、みんな思っているの。
でも、この前、義盛様がお座敷にいらしたときに、血相を変えて祐経様を追って行かれた兄弟を見て、私は気が付いたの。それから私は五郎様に協力して、祐経様の立ち寄り先を調べてお伝えしているの」
「どうして、そんなことを。酷い。仇討ちをしたら、そのあとはどうなるの。咎はうけないの。もしも、仇を討とうとして逆に打たれてしまうということはないの。私は嫌だわ。十郎様が死んでしまうなんて」
「わたしだって、ご兄弟には死なないでほしいと思う」
「なら、なんで、仇討ちに協力を。
私なら、仇が打てなくて良いと思ってしまう。危ないことはしないで欲しい。祐経様と十郎様が出会えないように、願ってしまう」
「そうだね。私も同じように願うわ」
「なら、なんで」
「死なないでほしい。ずっとおそばに居たいと思うけど、それは私の願いなの。
兄弟の願いではない」
「兄弟は死にたいの。違うでしょ」
「お二人だって、死にたいわけではないけれど、お父様のご無念を晴らすことが兄弟の本願なの。幼い時からずっとそのために鍛錬されて、士官もあきらめ、ただひたすら修練されてきたの。お父様への孝行、武士としての矜持なの」
「仇討ちは、頼朝様はお許しになるのかしら。」
「平家の時代から、源氏の時代になって、やっと、平穏になったこの頃、その平穏を破ることを頼朝様はお許しにならないと思う。兄弟はそれを分かっていて、それでも仇を討とうとしているのよ」
「お父様への孝行。武士の矜持。私にはわからない」
「そうね。私たち町民には分からないと思う。すべてを理解はできない。でも、兄弟の気持ちを想像して、寄り添いたい。私はそう思ったの」
「ほかのことなら、私だってそうしたい。でも、でも、命がかかっているのよ。
仇を討ってももう、お父様は生き返らないわ。それより、これから、兄弟が幸せに生きるほうが幸せなんじゃないの」
「何が幸せかは、その人しかわからない。その人自身もわからないかもしれない。兄弟の決意は固いわ。私はできる限りのお手伝いをしたい」
二人の言い合いはどこまで行っても平行線であった。しかし、その根幹にあるのはどちらも兄弟を思ってのやるせなさ。お互いの気持ちがわかりすぎるほどわかった。
永遠の叫びは亀若の気持ち、亀若の叫びは永遠の気持ちであった。
永遠と亀若は手を取り合って、泣き続けた。
茶屋の主の菊鶴にも、すべてが聞こえていたが、袖を涙で濡らしながら、(決して口外すまい。二人を見守ろう)と心を決めた。
その晩から三日三晩永遠は熱を出して寝込んだ。
夢の中の母は、永遠の手を握って「大丈夫。大丈夫。お母さんは信じて待っているからね。きっと戻っておいでね。永遠は強い子だよ」と言った。
「お母さん・・・」眠っている永遠の目から涙がこぼれた。
四日目の朝、熱から冷めた永遠は、何かがすとんと腑に落ちるのを感じた。
二人であおばとを見たあの日、十郎様が言っていた「生きるための死ぬ覚悟」とは、このことだんだわ。十郎様のお覚悟は固い。ならば私は全てを受け入れなくては。十郎様のお覚悟ごと全てを愛しているのだから。
床を上げるとすぐに永遠は曽我へ向かった。菊鶴が心配しながらも馬を貸してくれた。
「十郎様、十郎様のお志に水を差すようなことを申し上げてすみませんでした。私は十郎様が私の目の前からいなくなってしまうことは耐えられません。ずっと二人で生きていたい。きっと、十郎様も同じように思っていてくれるでしょう。永遠と共にずっと生きていたいと。
でも、その一方で幼いころからの本願を断念することも難しいのでしょう。辛いのはわたしだけではありません。十郎様も苦しんでいらっしゃることはわかります」
「永遠、すまない」
「すまないと言わないでください。実は私も十郎様に秘密にしていたことがあります。私は八百年先の時代から、今の時代にやって参りました。」
「なんと、八百年も先から」
「以前、不思議な石の話をしましたよね。どうやらその石に連れてこられたように思います。でも、どうやったら戻れるのか分かりません。何のために神様がそんな試練を私に与えられたのかも、分かりません。私は幼い時に一目お会いしてから後梅林の少年が脳裏から離れませんでした。そしてこの時代に引っ張られるようにここへきて、十郎様と再会できました。私たちは定めというより、もっと強い縁で結ばれているのです」
「強い縁。私と巡り合うために・・・」
「はい。きっと意味があるのです。ですから、今を一生懸命、生きましょう。十郎様の本願が成就されるまで私はおそばに居ります。それが明日か、二年先か、五年先か、十年先か、もっと先かわかりません。その間の時間がとても幸せだったと十郎様が思えるように、そして私自身もそう思えるように、ともに時を過ごしたいと思います。ですからもう、別れは口になさらないで下さい。それが永遠の生きる覚悟でございます」
「永遠、ありがとう」
抱き合う二人を梅の花の優しい香りが包み込んだ
それからしばらく永遠と十郎は何事もなかったように平穏な日々を過ごした。
それは、永遠が言ったように幸せに満ちた日々だった。
その頃、永遠はもう虎御石を持っていなくても、言葉も習慣も分かるようになっていた。永遠は石用の小さな座布団を作り、その上に石を置いて、一日の終わりに話しかけるようになっていた。
「これで良いのよね。私は十郎様と残された時間を精一杯幸せに生きる。そのためにこの時代に来たのよね」
大磯の高麗山の西側に井戸があり、そこで顔を洗うのが永遠は好きだった。
「ああ、なんて気持ちの良い水なんだろう。誰もいないから、浴びちゃおうかな」
ザパーン「ああ、気持ちよい。生き返るー」
「あー、永遠ちゃん、水浴びしてる。気持ちよさそう」
「うん。気持ち良いよ。亀若ちゃんも浴びるー?」
「あっ、かけたな。負けないぞ」
永遠と亀若が水を掛け合ってはしゃいでいると、笑い声が聞こえた。
「あはははは。元気だな」
「あら、五郎様」
「十郎様も」
「ここは化粧井戸ですよ。殿方はご遠慮ください」
「ああ、そうなのか。女性専用なのか。それは失礼した」
「冗談ですよ。本当はどうなのか知りません。五郎様にもかけちゃおうっと」
「おいおい、よせよせ。あはははは」
真夏の太陽に熱せられた暑い海風に 濡れた着物を乾かしながら、菊鶴の切ってきてくれた瓜を食べた。談笑する若者たちには、何も憂いがないようだった。少なくともこの瞬間、彼らの胸の内は晴ればれとしていた。菊鶴は、こんな日々がいつまでも続くことを願わずにはいられなかった。
参考文献 小学館新編日本古典文学全集53曾我物語
我が家から程近い国道沿いに今どき珍しい茅葺き屋根の民家がひっそりと建っていた。
商業施設に利用されるでもなく、主のいないその家は、そこだけ時が止まったようだった。何のあざとさ もなくただ立っている その家が好きだった。
そこへある日突然、黄色いブルドーザーがやって来た。 その 茅葺き屋根の小さな家は一瞬で潰された。抗う術もなく。僅かな砂煙りは、せめてもの抵抗か。
取り壊されたいきさつは分からない。茅葺き屋根の家を維持することは大変だろう。でも、やっぱり寂しい。わたしの中で、そこにあるべきものが消えてしまったことが悲しかった。私には何の縁もゆかりもない家屋。抗う術が無いのは、その家も私も同じだ。
私は他にもこの町に好きな場所がある 。曽我物語に出てくる 曽我十郎の恋人 虎女さんの生家や 虎女さんが恋文を燃やしたといわれている 文塚がそれだ 。そこで いにしえの悲恋に思いをはせる。八百年もの昔、はかなく散った恋。
しかし、地元の人にも、この史跡のことはあまり知られておらず訪ねる人も少ない。
そこにもいつか、いきなり黄色いブルドーザーがやってくるのだろうか?その時も私に抗う術はないのだろうか?本当に?何か出来ることはないか?
何でもいい 。やってみよう。まずはその場所のことを人々に知ってもらおう。
「吾妻鏡」などによって伝えられる曽我物語と各地に散らばる曽我兄弟の伝説を読みやすく、分かりやすい小説に著してみるのはどうだろうか。私の話を読んでくれた人が、私と同じように、この場所で昔の恋に思いを寄せてくるかもしれない。
虎女さんの史跡が、今に、そして未来に伝えようとしていることは何だろう。そんな思いを誰かと共有したくて、「いかなる花の咲くやらん」という題名の小説を書き始めた。いつかそこに多くの人々が訪れることを夢みて。