ベランダ、彼女に背中を押してもらう。
風を感じる。春の気持ちの良い風。引越ししたての、まだ段ボールが積みあがっている、さっぱりとした部屋に吹き抜ける。これから大学生になるらしい。カーテンの音が風鈴代わり。
少しざらついたベランダの手すりに腕を置き、顎を載せる。
そこには新しい日常風景が広がっている。
つい、思い出す。
太陽が雲に入り込む。影と光の境界線が曖昧になる。
気配が近づいてくる。
『そんなとこ立ってたら、背中、押しちゃうよ?』
『本当に?』
『私、真澄くんに嘘ついたことないんだー』
『彼女に殺してもらえるなんて、俺は幸せ者だなあ』
『彼氏を殺しちゃうなんて、私は不幸せものかもしれません』
『まず死亡保険掛けてからにしとく?』
『んー、それはいいかな。何だかそれだと私が金に目の眩んだ性悪女じゃん?』
『性悪女の陽菜乃も魅力的だよ』
『……な、なんか複雑な感じ……』
そのとき、陽菜乃の手はきっと、俺の背中に触れるか触れないか、ギリギリのところにあった。
少しの間があった。
『……ヤバい。儚いね』
『ヤバさと儚さって両立するものなのか?』
『うん。なんていうか、ヤバい。儚い』
陽菜乃が俺の背中を押して、体がふんわりと浮いたら?
全くの物理法則に従って、俺が地球に落ちていく。
ありふれたコンクリートに叩きつけられる。
そんな最後に、俺は幸せなのだと確信している。
『真澄くん』
『どうした?』
『本当に、私が真澄くんを殺していいの?』
『生殺与奪の権は陽菜乃だけに握らせるよ』
『真面目に』
『……うん。陽菜乃に殺される最後はきっと幸せだ』
『約束だよ?』
『こっちからお願いしたいくらいだ』
なら、
待っててね______
ぽん、と、背中を押された。それに俺を落とす力なんてない。
振り向いても、そこには数箱の段ボール、舞うカーテン、無機質な部屋、俺の心だけ。
「陽菜乃は、嘘つきだよ」
つい、学校の屋上で交わしたあの会話、あの時の陽菜乃に恨み言を呟いてしまう。
太陽は再び顔を出す。薄まった影が再び色濃くなる。雲は真っすぐ進んでいく。
陽菜乃を失っても世界は止まらない。俺は止まれない。
俺は段ボールを開ける。服をクローゼットにつっこみ、本を棚に並べる。
太陽は眩しいのだと、その時に初めて気がついた。
初投稿です。