7. 少女、教わる
小夜は困っていた。
「何か、私に出来ることある?」
「特にないかな」
息巻いて聞いたはいいものの、暁はそうとしか答えないからだ。
神の空間には部屋には埃ひとつ落ちやしない。身の回りのことだって、神力を使えば一瞬なのだという。
毎回供え物を分けてもらうのも忍びないし、何よりも役立たずとして放り出されたら困る。せめてご飯でも作ろうかと考えたが、生憎と小夜は料理の仕方も知らなかった。
村長邸に来てすぐのころも、炊事場の仕事を手伝おうとしたこともあった。しかし食べ物を盗もうとしていると疑いをかけられて理不尽な折檻を受けたため、以来下手に触らないようにしていた。
そもそも今までの小夜の身体はほぼ、乙羽たちの食事の残り物で形成されていたのだ。まともな食事もろくに知らないのに、人への食事が作れるはずもなかった。
薪を見やるが、火の起こし方すら見当もつかない。炊事場の前で唸っていると、背後から暁の柔らかな声が聞こえた。
「炊事がしたいのかな」
「うん……じゃなくてっ、はい」
「ふ、今まで通り喋りなよ」
口調も、ここに置いて欲しいと頼んだ時のように改めようとしたが、必要ないと言われてしまった。確かに改めたところで今更だとは思う。
「わ、分かった。料理くらい手伝えたらって思ったんだけど……よく考えたら今まで作ったことなんて、なかったから」
しゅんとした小夜を見た暁は、自らの頬に指を当てる。
「うーん、そんなこと気にしなくて良いんだけどね。でも、それなら……習ってみる?」
「え?」
暁が戸の方を指さすと、しゃらりしゃらりと嫋やかな鈴の音が耳に入ってきた。少しすると、その指先にある障子の奥から落ち着いた男の声が聞こえた。
「お呼びでしょうか」
「あぁ、入って良いよ」
するすると静かに障子を引きながら、一人の男が入って来る。歳の頃は三十前後だろうか。
人智を越えた美しさを持つ暁に比べれば凡庸な顔立ちではあるが、立ち姿一つにも気品があった。
「当代宮司、弓彦と申します」
そう名乗った彼は障子を背に美しい礼をするが、いまいちその身体の方向は、暁からずれている。不思議に思って、小夜は首を傾げた。
「我が社を管理する宮司だよ。彼らは一族代々この社を支えてくれていて……当代の名は、弓彦というんだね」
「はい。我が代で御声を聞かせていただけるとは、至極光栄にございます」
彼は暁の声を聞いて、先程はずれていた身体の向きを調節していた。
暁の口ぶりからすると二人も初対面らしい。しばらく寝ていたというし、その間に代替わりがあったのだろう。
それよりも小夜は、先ほどから感じる違和感が気になっていた。
「ねぇ……もしかして、視えていないの?」
思わず口を挟んでから、邪魔してしまったかと心配になる。しかし暁は気にした様子もなく頷いた。
「あぁ。彼らは私の声だけしか聞くことが出来ない。ごく稀に、私を視ることのできる神力を持つものもいたが……まぁ、十数代に一人程度だったかな」
「じゃあ何で、私には暁が視えるの?」
小夜の言葉に弓彦は一瞬目を見開いたが、すぐに何事も無かったかのような表情に戻った。
「見せているからね。小夜は私の……うーん、客人だから」
「そっか」
客人。小夜としてはあまりしっくり来なかったが、一応はそういう扱いにしてくれたらしい。
暁は弓彦に再び目を遣る。
「ときに弓彦、料理の心得は?」
「嗜む程度にはございます」
弓彦という男には隙が無い。何でも出来そうに見えた。暁はその答えに満足そうに頷く。
「それならちょうど良い。この娘に、炊事を教えてやってくれ」
「は。畏まりました」
こうして小夜に炊事の指南役が付いたのだった。弓彦は一度下がり、夕日が落ちた頃また現れた。
「小夜さま、と仰いましたね。よろしければ、早速始めましょうか」
「は、はい! 弓彦さん、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げ名前を呼んだ小夜に、弓彦は困ったように笑った。笑うと目尻に皺ができるんだな、と思った。
「私のことはただ、弓彦とお呼びください。小夜さまは御客人ですから。それに、土地神さまよりも私に対して畏まった口調をされては、私の立場がのうなってしまいます」
(確かに)
暁には使っていないのに、その僕である宮司に敬意表現を使うというのも変な話である。
それに、小夜には素の口調にさせた暁が、弓彦にはそうさせていない。それどころか姿さえ見せていない。もしかしたらこれが、暁の決めた宮司の一族との距離なのかもしれないと思った。
「分かった。弓彦は人間、だよね?」
「はい。我々は代々この社に仕える人間の一族でございます。我々はあの方に呼ばれた時だけ、この神域に入ることが許されるのです」
「神域……ここって、神社の中なんだよね?」
「ええ。此方は、東雲神社の本宮にございます」
東雲神社。
領内全域で最も大きい神社だ。小夜のいた村にも、この本宮が分けられた新宮があった。
新年の日だけは、乙羽の付き人の服装をしてではあるが、お詣りが許されていたことを思い出す。乙羽たちは本宮にも参拝しにいっていたようだが、そちらには決して連れて行ってもらえなかった。
ここはその、本宮だというのか。
外に出られる機会は小夜にとって本当に稀だった。その頃より神など信じていなかったにせよ、新年を待ち遠しく思ったものだった。
「東雲神社は知ってる。弓彦以外の人間を見なかったのは今、神域ってやつにいるから?」
「はい。私も神域については正確なことは分かりかねますが……外をご覧ください。ほら、あそこにいる鳥」
弓彦が指す先、暗くて朧げだったが、近くの木に一羽の白っぽい鳥が止まっているのが見えた。
「あれは人間の世界の鳥です。この本殿の外は現世──人間の世界に繋がっているのです。しかし、あの鳥は今我々を視認することは出来ません」
(つまり、本殿の中は神域だけど、一歩出れば現世ってこと? こっちからは現世を見られるけど、逆は不可能ってことなのかな)
「社の中の本殿は神域に繋がっており、招かれた者しか入れません」
弓彦は懐から地図を取り出したかと思うと、境内の絵から少し離れた何も無い部分を指した。
「我々のいる本殿は、石階段を登った上の山に建てられております」
すす、と、弓彦の指が絵の描かれた場所に戻る。
「ここ……山の下に『本殿』と書いてある場所がありますが、真の本殿は今、我々の居るこちらです。迷い込んでもこない限り、人が此処まで登ってくることなど滅多にありませんが……ご留意くださいね」
地図に描かれた本殿は、便宜上そう扱っている偽物なのだと、彼はそう言った。
確かに、本物の神と繋がる場所を誰でも入れるような開けた場所に置けはしないだろう。
そして弓彦の爪先が今度は地図上の、鳥居の絵の近くを指す。
「ここが私の日中いる社務所です。他にも数人巫女などが居ますが、彼女らは一族のものではないため、あの方の声を聞くことは出来ません。小夜さまがここに居ることを知るのは私だけだと思ってください」
(他にも人がいる?)
急に小夜の背筋が冷えた。
(そうだ、私は逃げてきた身)
東雲神社は領の真ん中にあったはず。
他の巫女たちが逃げた村娘の話を知っていたとしても、なんらおかしくはない。少なくともしばらくは姿を見られないよう、神域の中に隠れているのが安全だろう。
急に顔を青ざめさせた小夜を見て何か察したのだろう、弓彦は口を開いた。
「炊事を教えるということは、私はそれなりの頻度でここに呼ばれるのでしょう。食材は全て私が手配いたします。他にも何かあれば、何なりとお申し付けください」
こくりと頷いた。弓彦は強張った顔をしている小夜の背をぽん、と叩くと優しく笑った。
「さて、当面の疑問も解消されたようですし。お勉強を始めましょうか」
そう微笑んだ弓彦はまだ、ここから数刻の間に彼を待ち受けている困難を知らなかった。
あわや指先を切り落としかけたり、熱湯を盛大にひっくり返したり、服に火をつけそうになったりと、問題を起こし続ける小夜を見て、その度に弓彦は頭を抱えることになったのだった。
「神主」を「宮司」に変更しました。調べてみると神主とは通称のようなもので、役職名ではないそうです。