書籍発売記念ss①女神、果実を食む
書籍発売記念ssです!
「坊や〜? そろそろ起きたかしらぁ?」
静謐な空気に似合わぬ伸びやかな声が、神域に響き渡る。
一柱の女神はずかずかと、旧知の神の神域に侵入していた。しかし彼女が“坊や“と呼ぶ彼の男神は、数百年前に眠りについたきり、今も目覚めぬままだった。
「ほぉんと、いつまで不貞寝するつもりなのかしらぁ」
女神はいまだ起きぬ年少の友に思いを馳せながら、ごつごつとした巨大な岩の上に座り込む。
『起こさないでください』とだけ言い残し、眠ってしまった友の様子を確認するのは、およそ数十年ごとの習慣になっていた。
彼は神にしては珍しく、非常に行儀の良い性質を有していた。
信仰を集めることにも、人間で遊ぶことにも、争いに首をつっこむことにも、他の神と交流を持つことにも。さほど興味がないらしいのだ。
彼が唯一自らの懐に入れていたのは、女神から見てもたった一柱だけ。
(あの子の消滅で、坊やがここまで参っちゃうなんてねぇ)
頭に浮かぶのは、“坊や“がいっとう親しくしていた戦神のことだった。
女神の長い睫毛が、物憂げに伏せられる。
(あの子はあの子で……難儀な神だったわぁ)
その神はひときわ豪快なだけでなく、悪食の趣味まで持っていた。神々の中においても、良くも悪くも目立つ存在だったことは間違いなかった。
かたや無気力で生に退屈した神、かたや戦と宴と女を好む好戦的な神。二柱は明らかに、正反対の性格をしていた。だからこそ仲良くなったのかもしれないと、女神はぼんやり思う。
その戦神はというと、娶った元人間を喰らってしまったことから気を病み、結局は自ら消滅を選んでしまったのだという。
消滅を見届けたらしい”坊や”もまた『退屈だ』とだけ言い残し、自らも眠りについてしまったのだった。
『退屈』。
享楽を浴びて生きるこの女神には、縁遠い言葉だった。
(ねぇ坊や。この世界は貴方が思うほど……退屈なんかじゃあ、ないのよぉ)
女神はふと頭上に視線を遣る。目に入ったのは、近くの木にぶら下がった薄紅色の果実。そのうちの一つに手を伸ばし、ぷちりともぎ取った。
(坊やは眠っていることだし……一つ貰ったって、怒られるわけもないものねぇ)
手の中の薄紅色のその果実を眺め、女神はひとくちふたくちと、齧ってみることにした。
しゃく、と小君気味良い音が神域に響く。
「やだぁ、とんでもなく美味しいじゃないのぉ……!?」
女神は思わず溢れんばかりに目を見開き、驚愕の声を漏らした。
咀嚼のたびに果汁が溢れ、瑞々しい甘味が口内いっぱいに広がる。美食家を自称する女神が唸るほどに、それは美味だった。心なしか神力の巡りがよくなり、肌が潤ってきた気すらしてくる。
(とっても美味しいわぁ。だけれど……)
何かが物足りなかった。何が物足りないのだろう。
しゃく、しゃく。
考えながら齧っていれば、あっという間にその果実は、跡形もなく体内に消えてしまう。
もう一つ貰って帰ろうかと思案した女神は、果実のなる樹へと白い手を伸ばし――止めた。
(持って帰っても……わたくししか、食べられないものねぇ)
神力が含まれる果実を、自らの社で待つ人間たちに分け与えるわけにはいかない。
命を歪められた人間たちを保護することはあれど、自分まで歪みに加担するつもりはないのだから。
腕を下ろす。手持ち無沙汰になって、女神はただぼんやりと空を見上げてみた。
夜明けの神の神域らしく、空は茜色のまま時を止めているようだった。
(……わたくしはね、この世が退屈だなんて思わないわぁ。だけれど……寂しくなることは、あるのよ)
昨夜のこと。
女神は保護していた人間の一人を――その手で消していた。
人間として生かし、人間として死なせる。
それは、お節介とも言うべき勝手な信条だ。
この信条を貫くことに後悔したことはなかったが、失うその度、どうしようもない喪失感が女神の胸中を占める。何度経験しても、決して慣れるものではなかった。
人の生が短すぎるのか。
それとも、神の生が長すぎるのか。
(......なぁんて、坊やに話したって、『そうですか』ってすげなくされるだけなんでしょうねぇ)
この神域で育つ薄紅の果実がどれほど美味しかろうと、それを共有できる相手は今どこにも存在しない。
社の愛しい人間たちは、己と同じ神ではないのだから。
とはいえ同じ神たる”坊や”が起きていたとて、一緒に果実を食べてくれるとも、思えなかったが。
(いつか、この味を誰かと共有できたなら……)
──それはどんなに、幸せなことでしょうね。
女神は瞼を閉じ、ふうっと息を吐いた。
社で待つ人間たちの顔を順に思い浮かべてみる。一人居なくなったことは、とても悲しい。しかしこの悲しみは、一刻も早く飲み干してしまわなければ。
それが、人を拾った神としての責任だ。
(人と神が、本当の意味で交わることはない。それでも、わたくしは……)
女神はゆっくりと瞼を開く。
蜂蜜色の瞳は既に、星のような煌めきを取り戻していた。
彼女は蝶のように、岩からひらりと飛び降りる。桃色の髪がふわりと揺れた。
「ご馳走さま。また遊びに来るわねぇ」
女神は友の眠る本殿に背を向けると、土産代わりの酒を地面に置き、闇に消えたのだった。
***
それから数十年、数百年が経過した。
女神は――"蜜"と言う名を手にした彼女は、にこにことしながら四阿に腰掛けていた。
「お待たせ、蜜」
盆を持って歩いてきたのは、小夜――蜜の友である少女だった。彼女は少し前まで眠っていた友に拾われ、先日婚姻をあげてその眷属になった娘だった。
「ありがとうねぇ、小夜ちゃぁん」
盆の上の器には、一口大に切り揃えられた薄紅色の果実が、綺麗に盛られていた。四阿に置かれている簡易的な卓では、小夜によって茶が注がれている真っ最中だった。
「暁ちゃんはぁ?」
「誘ったんだけど、来ないって」
小夜は苦笑いをする。とはいえ想定通りではあった。彼は女神が遊びに来ると大抵、苦虫を噛み潰したような顔をして姿を消すのだ。
「あらぁ、それじゃあわたくしたち、ふたりきりでお茶しましょうねぇ」
「うん!」
そして女神と少女は、いつものようにとりとめのない会話を始める。時折、果実をつまみながら。
(『いつか、この味を誰かと共有できたなら』って......わたくしはあの日、そう願った)
三千歳近く若い女の子の友達を、蜜は親愛をこめて見つめる。じっと眼差しを向けられていることに気づいた小夜は、不思議そうに首を傾げた。
「蜜? どうしたの?」
はにかみ混じりのその表情があまりにも可愛らしくて、女神の口元が綻ぶ。
「うふふ。わたくしねぇ、小夜ちゃんとお友達になれて……幸せだわぁって」
ぱちぱちと瞬きをしたあと、小夜もまた花が咲くように笑顔を浮かべた。
「私もだよ、蜜」
「うふふ、嬉しいわぁ」
穏やかに笑いながら、女神はかつての自らの思考を内心で訂正する。
(人と神が、本当の意味で交わることがないなんて……ふふ。そんなこと、無かったのねぇ)
人と神のちょうど中間に位置する少女に、女神は慈愛の微笑みを向けたのだった。
【お知らせ】
2025年11月14日、ビーズログ文庫より書籍が発売される運びとなりました......!
書影と特典情報を活動報告に載せましたので、ぜひ見ていただけると嬉しいです。
(小夜が本当に可愛くて、暁がもうあまりにかっこよすぎるので......!!!サブキャラも!泣)
発売前日にもう一本記念番外編を載せる予定です。
じっとりもだもだ胸キュン、全てがパワーアップした書籍版もお手に取っていただけると最高に嬉しいです!




