番外編:弓彦と惣一郎(「青年、告白する」直後)
弓彦が社務所で仕事をしていると、戸が叩かれる。外から若々しい声が聞こえてきた。
「弓彦さん、御免ください」
「あぁ、惣一郎さん」
戸を開けてみれば、現れたのは染伊屋の後継、惣一郎だった。
精悍な顔つきをした彼だが、今日はどうしてか少し寂しげな雰囲気を纏っていた。
「しばらく他領で行商の修行に出かけることになりましたので、挨拶をと」
最初に浮かんだのは(小夜さんが寂しがるだろうな)という感想。その次に浮かんだのは(土地神さまは喜ぶだろうな)という感想だった。
まさか土地神さまの手引きじゃないかという疑いすら一瞬脳内を過ぎったが、それならもっと早くやっていただろうと考え直す。
「そうなんですね、ご丁寧にどうもありがとうございます。どのくらいの期間、修行に行かれるおつもりなんですか?」
「厳密には決まっていないのですが……恐らく数年は此方に来られないかと」
「なんと。それは寂しくなりますね」
寂しいと言ったのは世辞では無い。
決して驕らず、家業をより大きくしようとする実直な青年のことを、弓彦は人間として好ましく思っていた。
家の力を自らのものと過信して傲慢な振る舞いをする人間もよくいるというのに、彼は跡取りとして地に足ついた商いをしている。野心的な貪欲さも持つものの、それが嫌味に感じられないのは、商売人として一種の才覚ではないかとすら思っていた。
「今後東雲神社には別の担当者を派遣する予定ではあるのですが……如何でしょう、この機に販路を拡大するというのは」
「販路、ですか」
弓彦は顎に手を当て、難色を示す。正直言って、あまり乗り気にはなれなかった。
東雲神社は国内でも有数の名声と規模を誇る神社である。今更商売っ気を出すほど経済的に困ったことも無い。
販路を拡大するいうことは、彼が修行へ行く他領にも東雲の手を伸ばすという話だろう。そもそも東雲は他領も含めて各地に新宮のある、規模の大きな神社だ。
むやみやたらと信仰の手を広げる理由もなければ、各地の土着の信仰を押しのけようとする理由もない。
「せっかくのお誘いですが、此方としては現状で充分だと思っています」
丁寧に遠慮の言葉を紡ぐ。しかし柔和な笑みを浮かべている惣一郎は目を細めた。
「――以前、破魔の矢や方除札を卸すことには、あんなに乗り気だったのに?」
「あぁ、ははは……」
そんなこともあったな、なんて弓彦は苦笑するしかなかった。
惣一郎が言っているのは、二年前に彼が小夜を祭りに誘っていたところを邪魔した際の話だろう。
「あれ、本当は俺が小夜を誘う邪魔をするための、口実だったんでしょう?」
鋭い。
流石は商売人と言ったところか。当時の事情を看破され、弓彦は苦笑いを浮かべるしかない。そんな彼を見て惣一郎はもまた、小さく笑った。
「あぁ、大丈夫ですよ。俺ももう、小夜への気持ちにはけりをつけたので」
「小夜さんに、想いを伝えたのですか」
思わずそんな問いが弓彦の口をつく。目の前の青年はゆっくりと頷いた。
「やっぱり、弓彦さんも気づいてたのですね。お恥ずかしい」
「あぁ、すみません。差し出がましいことを……」
けりをつけた、と。先ほどの言葉と寂しげな様子から、彼が振られたのだと聞かずともに分かった。踏み込みすぎたな、と弓彦は少し反省する。
「良いんですよ。はは……底冷えするような神の眼光は、二度と思い出したくも無いですがね……」
「土地神様? 土地神様の御姿を、ご覧になったのですか……?!」
反省もそこそこに、弓彦は大声をあげてしまった。
神の客人であり、いずれ伴侶にさえなるかもしれない小夜はともかく、惣一郎は一介の商売人でしかない。だというのに彼は、その姿を拝謁したというのか。
身体の奥底から、じめじめとした羨望と嫉妬心が湧き上がる。しかし弓彦は大きく息を吐くことで、己の抱いてしまったそれらの念を一瞬で殺した。
「……失礼。どうか忘れてください」
「えっと、恐ろしすぎて死ぬかと思いましたし、そんなに羨ましがられるようなものでは……いえ、すみません。弓彦さんは敬虔な信徒ですものね」
「良いのですよ。もとよりそれは、私の一族に許される領域ではありませんから」
弓彦は何度も何度も読み込んだ、己の家系に代々伝わる歴史書を思い出す。
先祖が東雲の神に取り立てられた経緯が記された古い歴史書。
一族に生まれた一人の女が、悪食を好むとある神に見初められ、その伴侶となった。しかしその悪食の神は愛した女をのちに喰い殺し、自らも消滅を選んでしまう。
そして悪食の神と親しくしていた東雲の土地神が一族を不憫に思い、此方の宮司に取り立ててくださった。そんな話だ。
──神の伴侶、か。
神に見初められた先祖は、悲惨な末路を辿った。
今この社で暮らす小夜は、これから一体どうなるのだろう。
恐らく……というかほぼ確実に、小夜は此処の神に恋情を抱いている。弓彦からすれば罰当たりなまでに大それた感情だとは思うが、一方の神自身も彼女に執心しているのは明らかだ。
ただし、土地神からのその執心が愛情なのか、あるいは別の何かなのか。弓彦には判断がつかないのだった。
「――東雲の神が」
神と少女の今後に思いを馳せてしまっていたところ、青年の声で現実に引き戻される。
惣一郎の声色には、深慮が滲んでいた。
「あれほど嫉妬深……いえ、あの神が、小夜への接触を許しているという時点でですね。弓彦さんは土地神様に、相当信頼されているんだと思いますよ」
深く信仰する神からの信頼。
もしそれが事実だとしたら、どんなに幸せなことだろう。
惣一郎が「俺は死ぬほど嫌われてるけど」と小さく付け加えたのも、弓彦の耳にはもう入ってきていなかった。
「そうであれば……喜ばしい限りですね」
そう、御姿など見られなくともいっこうに構わない。そこは己の信仰の本質にはない。神に尽くすことが出来るというだけで、至上の喜びなのだ。
改めて信仰心を強くした弓彦は、目頭が熱くなってきたのを感じる。
(若者に気遣われてしまったな)と思う一方で、惣一郎が本気でそう言っていることもよく伝わっている。善性からなる言葉は、あたたかい陽射しのように感じられた。
――願わくば、神に拾われた少女が幸せな道を辿りますように。その少女を愛したこの篤実な青年にも、いつか幸せが訪れますようにと。
社を去る青年を見送りながら、東雲神社の宮司は内心そう祈ってしまったのだった。
この裏で小夜と暁が過去イチのすれ違いを起こしていることを、弓彦はまだ知らないのだった......
スケジュール的にホワイトデー番外編間に合わなかったので、今回は人間の男二人の話でした!思いついたらまた書きます!




