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3章15話:林間学校2日目②

夏葉視点です。

 瞼が重かった。体も重くて動かない。何か別のものに私が乗っ取られていそうで、体を動かすのが怖い。

 けれど誰かの声がして、誰かに連れ出されて、誰かにおぶられて。私はようやく自分を取り戻すことができたみたいだった。

 恐る恐る目を開ける。

 視界はさっきよりクリアだ。先ほどまで歩いていた林道が見える。

 けれど決定的に違うのは、私の目の前に誰かの頭があること。艶々で、綺麗な黒い髪。女の子が私を背負ってくれている。……いいや、この感じ、前にもどこかで。

 ああ、そうか。この子は。


「ほの……か?」

「起きたか? 思ったより早かったな」


 私を気遣うように少女ーーいいや、少年は声をかけた。ぶっきらぼうな声だけど、少し優しい声。

 思えばこの子は昔からこうだった。私のことをいつも気遣って、ついてきて、慕ってきてくれて、好きでいてくれて。

 つい1ヶ月前までそんな彼に庇護欲と罪悪感を感じるような接し方をしていた気がする。今は……どうだろう。


「夏葉?」

「あ、え、ええ! 起きた、起きたわ! えっと、どういう状況なの……?」

「前後の記憶ないか? どこまで覚えてる?」

「え、と……」


 頭に靄がかかる。覚えているのは勾配の上で誰かを見て、それから……それから。


「あんまり、覚えてない……」

「そうか。あの後すごい霧が出てきてみんなパニックになって、下山中に夏葉がはぐれたんだ。で、そこで気を失って座り込んでたのを発見して今に至る」

「え、と、私……気を失ってたの!? どれくらい!?」

「20分くらいか。大したことなさそうで安心したよ」


 冷静なほの囮を見て、私も次第に落ち着いてきた。しかしどうにも違和感が。下山中? 今はどこに向かっているのかしら?


「ここ、どこなの?」

「恐らく山の中腹くらいか。下はまだ霧が出ていたから上まで登る羽目になったんだよ。さて、休める場所は……」


 見晴らしのいい場所だ。ほの囮はこの場所から少し山を見渡し、そして「あった」と呟いた。

 歩く速さが全然遅くならない。迷いなく澱みない足取り。それはまるで今のほの囮を象徴しているかのようで、私はこんな小さなところから寂しさを感じてしまう。

 よく考えたら私という1人の人間を背負ってずっと歩き続けてるんだ。確か20分とか言ってたかしら? だとしたら相当な体力だ。運動が苦手なほの囮が、私をずっとおぶり続けるなんて信じられない。


「あ、あのさ」

「ん? もうすぐつくから」


 そんなことを言われた。小さいほの囮と、今の頼もしいほの囮が結びつかない。いつだってほの囮は私にとって妹で、可愛い女の子だったから。

 だから、こんな……こんなかっこいいほの囮は……知らない。


「ついた」


 考え事をしていたら歩みが止まった。ボロボロの山小屋だ。今にも崩れそうだけど、大丈夫なのかしら。


「火種はある。枝も充分。夏葉、そこにいてくれ。少し出てくる」

「え、ちょ、なにを!?」

「最悪、救助が来るまでここに居なきゃだからな。準備くらいはしておくべきだろ」


 そう言ってほの囮は小屋から出ていった。不安になりながらも暫く待っていると、15分後くらいに山小屋の扉が開く音がした。


「とりあえず火起こしするか」


 石畳のような床に木をばら撒き、松ぼっくりなどの木の実にライターで着火する。それをそのまま組み木に放り込むと、ゆっくりと火が広がっていった。

 あまりにも手慣れている。ほの囮にキャンプの経験なんてなかった筈。だとしたら、目の前の少年は本当にほの囮なのか。


「はい、チョコレート。林間学校のお菓子を昨日食べなくてよかった」

「え、あ、ありがとう……。いや、林間学校にお菓子の持ち込みは禁止よ!」

「そんなの守ってるやついないでしょ。貰い物だからあんま気にせず食べていいよ」


 ほの囮は板チョコをパキッと齧ると火に向かって手を翳し、暖をとるそぶりをみせた。この山小屋周辺はだいぶ気温が低い。今の装備では確かに寒い。私も正直寒かったから焚き火はとても助かる。

 ほの囮と並んで焚き火の前でお菓子を食べる。疲れていた脳がやっと活性化していくような感じがした。


「……ねぇ。ほの囮、私ずっと聞きたかったことがあるの」

「なに?」

「貴方、本当にほの囮?」


 時間が止まったような気がした。木々の揺れる音、焚き火の爆ぜる音、山小屋に吹き込む風の音。全てが鮮明に聞こえる。

 ほの囮は何も反応しなかった。怒るようでも訝しむようでも動揺するようでもなく、ただチョコレートを齧っていた。やがてチョコレートを口から離し、言った。


「夏葉にとっての犀潟ほの囮はどんな奴だった?」

「え」

「夏葉にとって僕は、いまでも妹?」


 胸にグサリと刃が突き刺さる。

 それは確かにあの時、ほの囮が私に告白してきた時に私が言い放った言葉だった。ほの囮は私の妹で、海知を取り合う恋のライバル。それでいいと思った。それがどんなに都合がいいことか。あの時の私は深く考えずにそう思った。

 ほの囮と離れたくない。離れていって欲しくない。いつまでの私にとっての妹でいて欲しい。そんな私の傲慢さを彼に見透かされたような気がして、私は二の句を紡ぐことができなかった。

 そして同時に彼はやはり他の誰でもなく、間違いなく犀潟ほの囮なのだと確信した。


「あ、手……」

「ん? ああ、少し切れてたか」


 ほの囮の手に擦り傷があった。どこかで切ってしまったのだろう。私はそれを見てリュックを漁り、絆創膏を取り出した。


「貼ってあげるわ」

「いいよ、自分で貼る」

「いいえ! そこにいて。私がしてあげるから」

「…………」


 彼の手を取り、絆創膏を貼る。綺麗な手だ。男の子の手だなんて信じられないくらい、白くて繊細な手をしている。

 ほの囮は無言のままだった。だから私は、言うべきことを今言おうと思った。


「ねぇ、ほの囮。私のこと、もう好きじゃないんでしょう?」


 ほの囮と目があった。その暗い暗い紫の瞳に、私は吸い込まれてしまいそうだった。久しぶりに目を見た気がする。久しぶりにちゃんと彼と向き合った気がする。

 だから言えた。ようやく言えた。ここ1ヶ月でずっと抱いてきた気持ち。ずっと目を背けてきたこと。

 彼は、もう私のことを好きではない。

 彼が持っていた私への執着はすっかりと消え失せ、私には彼がわからなくなってしまった。今の私にとってほの囮はよくわからない子なのだ。それがどうしても嫌だった。


「私ね、我儘だったの。最低だったの。ほの囮を傷つけて、私自身を守ろうとしていたの。だから私はちゃんと謝らなきゃいけないんだ」

「…………別に、僕は」

「ごめんなさい。ほの囮」


 頭を下げる。これで許してくれるなんて思わない。けれど私は謝らなきゃいけない。今まで謝ろうとしたら頭に靄がかかって何もできなくなっていた。今なら、何故か今なら謝れる気がした。今なら『私の言葉』で話せる気がした。


「いいよ。特に気にしてない。……本当だったらもっと可愛らしい話で済んでいたものだったんだろうな」

「………?」

「なんでもない。夏葉が悪くないのは分かってる。夏葉の気持ちに関係なく遅かれ早かれ僕はこの状況になってたよ」

「ニコラの、こと?」


 その名前を出すと、ほの囮の目が鋭くなった。殺気と憎悪、彼からそんな怨念じみた情念すら感じる。思わず身震いして腕を抑える。

 ほの囮は昔からニコラのことが苦手だった。私は4人で仲良くしていたかったから、ほの囮にも仲直りするようにずっと言っていたけれど。もう無理かもしれない。そう思えるくらいにはほの囮はニコラのことを憎んでいる。


「何が、あったの?」

「何もない。ただ、僕はやらなきゃいけない事をやるだけ」

「やらなきゃいけないことって」

「夏葉には関係ない」


 ぴしゃりと拒絶される。ほの囮はもう私のことを見ていない。きっと海知のことも見ていない。

 その先にある仄暗い何かを見つめているからこそ、彼が本当に生きている人間なのかわからなくなってしまう。

 彼はもう私のことを好きではない。だけどね、私は……ほの囮のことが好きだ。まだ友達として彼のことが好きなんだ。


「関係あるわよ。私は……ほの囮のことが心配だから……」

「……………」

「ほの囮、今全然違う世界にいる気がする。遠くを見てて、何考えてるかわからなくて、少しだけ怖い」

「……………」

「知りたいの。今のほの囮のこと。琵樹と何をしようとしてるの? どうして私には何も言ってくれないの? なんでニコラを憎んでるの?」


 止まらない。心の叫びが溢れ出していく。何も言ってくれないほの囮に対して私の感情がとめどなく放出され、自分でも抑えられないくらいにまで膨れ上がる。

 なんで私はこんなに必死なんだろう。なんで私はここまで彼のことを考えるのだろう。わからないけれど、わからないで済ませてはいけない気がした。


「なん、で……あ、れ」

「夏葉!?」


 急激に眠気が襲ってくる。抗いがたい眠気の前に私は体をふらつかせ、そのまま山の小屋の床に倒れかかる。

 ほの囮が何かを言ってるが、もう何も聞こえない。だめだ。私はこの先を見なきゃいけない筈なのに。


「待ちくたびれましたよ」


 誰? そこにいるのは誰なの?

 扉の前に立つ人物がほの囮に話しかける。ほの囮もそれを予期していたように何か話しかけていた。

 ああ、これがきっと、ほの囮が変わってしまった何かの一部。なら、私は……彼に……関わって……。


 意思に反して私は微睡に落ちていく。

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