5月2日
目を開ける。
そうして見えた景色は、なんだか懐かしいような、でも初めて見るような、そんな気がした。いつもと同じ通学路のはずなのに。
通りでは、制服を着た学生たちがぞろぞろと同じ方向に向かって歩いている。かくいう自分も同じように制服に身を包み、ちょっと大きめに買ったズボンの裾を引きずりながら、その流れに連なっていく。すると、少し進んだところで、なにやら人だかりができていた。
人の肩と肩の隙間からかろうじてのぞいてみると、そこには最近テレビでよく見るくしゃっと笑う俳優と、なんと向かいに住む幼馴染のお母さんが楽しそうに話していた。内容まではうまく聞こえてこないが、幼馴染のお母さんが何か喋ると、隣にいる俳優の顔がくしゃっとなり、野次馬たちがざわざわと笑う。何かの撮影なのだろうか、と考えつつも身近な人が有名人と親しく話している姿を見て、なぜだか自分まで知り合いになったように思え、誇らしげな気持ちになった。しかし、今はそれどころではない。学校に行かなければ。
遅れた分を取り戻すため、少し歩幅を広げ手も少し大きく振りなが歩く。進んでいくにつれて、今日の授業はなんだったか、それにしても早くさっきの出来事を誰かに話したいと、いろいろ考えてたが、次の瞬間、思い切り蹴飛ばされたように心臓が高鳴った。
「彼女だ」
見えたのは後ろ姿だけ。しかし、本能的な何かで気配を感じた。間違いなく彼女だ。今までの頭の中が一瞬で塗り変わり、すべての意識が集中する。ああ、僕はどうなってしまったのだろう。気づけば四六時中、彼女のことを考えているいる。文字通り、四六時中。学校でも、家でも。週末、部活で遠征に行った時でも。寝ても、覚めても。次第に、体が熱を帯びて、息が浅くなり、耳元で急かすように鼓動が聞こえる。それと同時に、胸の奥が、内臓が、キューっと締め付けられ、思い出す。—「彼女に伝えたいことがある」
体は動き出していた。
無我夢中に走った。とにかく、追いつかなければ。そして、いま、伝えなければ。そうしなければ、この先ずっと何年も何年も後悔してしまうような、確信が自分のなかにはあった。一つ先の角を曲がっていくのが見える。その後ろ姿を見失わぬよう、足に力を込める。周りの景色が溶けだしていき、今までにないスピードで走っていることに気づく。伝えたいという思いが、はやる気持ちがそうさせているのだろう。瞬く間に一つ先の角にたどり着き、その先を見てみると、彼女は思っていたよりも遠くにいた。「まずい」、急がなければ。また、走りだす。けれども、なかなかその距離は縮まらない。走っても、走っても、追いつけない。今伝えられないと、こんな気持ちが生涯続くように思え、さらにもがく体を焦らせた。
そうしている間に、学校が見えてくる。彼女は、下駄箱で靴を履き替えていた。それを追いかけ、校門をくぐりぬける。あともう少し、最後の気力をふりしぼる。
気づけば、教室の自分の席に座っていた。クラスメイトたちは、何人かでかたまり、教壇や教室の端のほうで談笑したり、カバンから教科書を取り出したりなど、各々の時間を過ごしている。そして、壁には先生手作りの掲示物や、生徒たちの習字が、所狭しと貼られていた。教室は左側から入ってくる明るい日差しに照らされ、とても暖かく感じた。そこに、彼女もいた。
目の前にいる彼女は、姿勢良く座り、黒板の方を向いている。幾度とのなく見つめた後ろ姿。今では懐かしささえ感じるくらいだ。一生忘れることはないだろう。
今がチャンスだ。そう思い、声を出そうとするが、肝心の言葉が出てこない。
伝えたいことはある。しかし、それをどう伝えるかは決まっていないことに気づく。着飾る必要はないことはわかっているが、ありきたりもなんだかつまらない。というよりも、本当に今でいいのか。もっと、雰囲気が必要じゃないか。まてよ、もしものときはどうすればいい。そうなってしまったら、明日からは、どう生きていけばいい、などど今更なことが頭をめぐる。
そんな折、不意に彼女の体が動き出す。こちらを向こうとしている。
まってくれ、まだ心の準備ができていない。
あれ、何て伝えようとしていたんだっけ、
なんて考えているうちに、
彼女がふりかえる。
思わず、飛び起きた。
そこには誰もいない。
あたりは薄暗く電気も消えたまま、カーテンの隙間から陽の光が細く差し込んでいる程度で、8畳のワンルームは静まり返っている。次第に激しかった心臓の鼓動も落ち着き、少し肉付きがよくなった体と、いつまでたっても抜けない疲れが戻ってきた。
「夢でも言えなかったか」
伸びた髭を触りながら、つぶやいてみた。
枕元で充電していたスマホを開く。
『5月2日 7時48分』の表示が目に入る。
世間はゴールデンウィーク。せっかく初日から休みを取れたので、この連休を思う存分楽しみたいとは思っているが、今年も外に出てはいけないらしい。そんなこともあって、予定らしい予定は一つもない。
「それならば、次こそは」
なんてことを考えながら布団を手繰り寄せ、頭の中で、さっきまでいた教室の机や掲示物、クラスメイトの顔や配置、そして彼女ことをなるべくできるだけ鮮明に思い描き、
目を閉じる。