8 諦められた望みを加えて発酵したワイン
「――そうか。その結果、遂に、やり遂げたんだね。童貞卒業を」
「やり遂げて堪るか馬鹿野郎! お前、水本さんジョークのセンスが移ってないか……?」
「そうかな。じゃあ、詳しく僕に話しすぎた君の責任ということになるけど……うん、そうだね。違うとは言わせないとも」
「ぐ……これ以上は、知らん。何も話さん」
――映画館でその後起こった嬉し恥ずかしな出来事について私は子細を述べるつもりはないし、澄ました顔でワイングラスを傾けている赤崎に語ってやるつもりも毛頭ない。おおよそ貴方のご想像通りの顛末であったということだけはこの場で証言させて頂くが、赤崎には何一つ教えてやるものか。言ったところでどうせ右に左に縦に横に引き摺られ引っ掻き回され引っ張り倒された挙げ句ケラケラと気味の悪い微笑でからかわれるだけである。
赤崎に対し、うっかり水本さんとの映画デートの件について口を滑らせてしまったことがとにかく悔やまれた――貴方にご紹介したものほど詳細な情報こそ引き抜かれなかったものの、大枠はなぞられてしまったのだから驚異の大失態である。こんな事になるのならば、例え暇であったとしても赤崎をミーティングに誘うべきではなかった。
「そう言えば、木村くんは不憫だよね。結局僕はその場にはいなかったのだから、彼の働きは殆ど無意味に終わった……雨の中ご苦労だと伝えておいてくれよ」
「上から目線な……そもそもお前が発端なんだろうが! アイツにはマクドを奢ってやる約束をしていてな。お前のせいで俺の懐は一気に寒くなった。ロシア並みにな。どうしてくれる」
「なんて華麗なる責任転嫁だろう。君も初めて会った頃と比べて随分口が上手くなったよね。僕のお陰かな?」
「お前のせいでな! ああ、自覚があるようで結構!」
私はいつもの癖でジョッキ麦酒を飲み干そうとして、右手をテーブルの上に乗せた――しかしその右手に触れたのは、向かいの席に腰掛ける赤崎が傾けているものと同じワイングラスであった。グラスは見た目以上にひんやりとしていて、それに気付いた私はバツが悪くなる。咄嗟に離した右手でフォークを持ち、そのままの勢いで高そうなステーキを口に放り込んだ。目を閉じたまま、味覚に全神経を集中させた――まだ焼き上げられて時間の経たない、肉厚で柔らかいステーキである。
当然、旨かった。旨味でバツの悪さを完全に押し流してしまいたかった。
目を閉じているから、赤崎の表情は分からない。しかし、推測は簡単にも程があるというものである。
「麦酒飲めない店で悪いね」
「麦酒!? は、何のことだろうな。そんなもん知らん」
――私は毎度の如く赤崎を居酒屋に召集しようとした。これまで一度たりとも逆らわなかった赤崎だから、暇が潰れるなら別に彼でも話せれば良いくらいの気持ちで、慣れた調子で彼のラインにコール。簡潔に場所と時間だけを伝えようとした時――赤崎は、私に初めて予定の決め直しを求めた。面食らってしまった私はしどろもどろになりつつも、携帯電話に耳を傾けた。音質の悪い「すまない」が鼓膜を刺激した。赤崎はこれまでに話したことのないような申し訳なさ(私が激怒した時でもこれほどのものはないというくらい)を滲ませた声で、時と場、両方の指定を一任してくれないかと申し出てきたのである。
それを戸惑いつつも承諾した結果、テーブル一つ一つにクロスがかかっている様なこの高級フレンチに招待されたというわけだ。何せデート以上に高級店に来るのは久しぶりだったので、そういう店のマナーやらルールやらを思い出すことにかなり苦労した。ここまで私にさせるのだから、何か目的があるはずなのだが――その真意はまだ聞けていない。
「……とうとう、君はこんなところにまでやって来たのか。他人事だとはわかってるけど、感慨深いものだね」
こんなところ、が、今いる高級店を指しているわけでないことは察するまでもなかった。
赤崎は既に食べ終わった皿に残ったソースを眺めるように下を見ている。
「初めて僕らが言葉を交わした時を覚えているかな……入学したばかりだったから、もう二年も前の事か」
「俺のクラスに来たお前が『人間失格』をえらく薦めてきた――それが初めての会話だ。覚えてるさ。あれが波乱の大学生活の幕開けだったよ」
「今だから言えるんだけど、別に薦める本は『人間失格』でなくても良かった。漫画でも良かった。或いは哲学書でも良かった。君はどんな本を渡したところで、きっと読んでくれるだろうと思ってね」
赤崎の物言いに、私は眉を潜めた。
再三申し上げていることではあるが、私にとって赤崎が無理やり押し付けてきた『人間失格』は大学生活を縛り上げる呪縛の象徴である。それを読み終えた瞬間から友人数のインフレが始まり、数日経ってそろそろラッシュも落ち着くかと思えばそれもなく、三回生の初夏、つまり現在に至るまでその呪いはずっと継続していた。もしかしたら水本さんですらその呪いの一部に過ぎないのかもしれない。赤崎が私と初めて喋った時に貸し出された『人間失格』が、私のここ数年を滅茶苦茶にした。
それが今になって『人間失格』でなくても良かったと、他ならぬ赤崎本人に吐露されたのだ。
私は、内心動揺を隠せない。
「結局のところ、僕は地獄の様な大学生活に友達が一人欲しかっただけなんだ。だからそもそも、本を貸し出すなんて迂遠なやり方でなくても良かった。普通に声をかけても、きっと君は僕と友人になってくれただろう」
「……何故今更そんなことを。らしくないぞ」
「君にはめでたく恋人が出来た。これから、僕をミーティングに呼び出してくれる機会も減るだろうと思ってね。……今の内に、色々話しておこうと思っただけ」
「――――」
「うん、丁度高級フレンチに来ているんだ。君の新しい門出を祝うという意味で、そうだな、ワインのコルクを抜くような感覚で聞いて欲しいね」
赤崎は近くを通りかかった上品なウェイトレスにワインをもう一本頼み、私の方に微笑を向けた。
いつものような事を言わない赤崎がいつものように吊り上げた口角に、一抹の安堵を与えられたことが悔しかった。大学に入って二年と少し、散々その微笑を鬱陶しがったというのに――『人間失格』と同じか、それよりも嫌悪していたはずだというのに――私はその表情に、安心した。
私は一体何を恐れているのだろうか。
「眉唾だと思うけれど――実は、脚本家になることは諦めた」
「……何だと? お前、本気か?」
「うん。僕には到底、荷が重い。今僕の頭の中で鮮明なストーリーは、外に出力された途端に陳腐でどうでも良いモノに変わり果ててしまう。それを悟った。リアルなモノを必死に考えたところで、リアルなモノを見て記憶に残したところで、頭の中で考えた時点で、リアルでも何でもなかったということだ」
「……良いのかよ、それで」
私は無意識の内に、赤崎を説得するような口調で言葉を発していた。自分でもどうしてそうなったのかは解らない。心のどこかで、赤崎の夢を応援していたというのか。この私が。
「良いんだ。脚本は、まあ、気が向いたらいつか趣味で作るかもね。それも何十年後になるかと思うけど。僕は適当にどこかに就職するさ」
「……あの海辺で」
あの海辺で、赤崎が叫んだことが真実ではないのか。
本当に追い求めたかったことではないのか。
「ふうん、覚えてたのか……今更答えよう。熱中症ではないから、心配しなくとも大丈夫――僕の今後を、君が心配してくれるのは友人として嬉しい限りだ。でも、その必要はない。君が僕に割く時間は、今後の君の人生に必要ない」
「…………友人では、ない」
「ああそう。まあ、言うと思ったけど。……君は、僕とは違う。僕みたいな馬鹿よりもよっぽど出来た人間なんだ。君はどれほど追い込まれようと、今まで生きることを諦めなかった。だから末長く幸せになってくれ。夢を諦めてしまった、人間失格の僕の分までね」
「…………赤崎」
私も料理は全て食べ終えてしまい、テーブルに残されているのは途切れ途切れの会話と、赤崎が注文したワインくらいのものだった。